残酷な描写あり
5 「スノータウン」
ルーシーの願いを聞き入れたトナカイがソリを引いて歩き出す。
山奥と聞いていたが、ニコラの家はひとつの大きな山の中腹にあった。そして隣にもうひとつ大きな山がある。その山間に村が作られたそうだ。
こんな年中雪だらけで、しかも山間に村を作って暮らすということは雪崩の危険性が高まるだけだが、ルーシーは雪国に関する知識が全くと言っていいほどなかった。
雪山の間に村を作ることがどういうことなのか、ルーシーは何も知らない。そんな危険な山間に村が作られた理由はもちろんちゃんとある。
どんなに過酷な場所であろうと、そこに人が住んでいる理由はひとつ。そこに貴重な物資があるからだ。得られる物が何もなければ住む意味はない。つまりこの山間に住むだけの価値あるものがこの辺りには存在しているということだった。
「そういえば幽魂の魔女さんが言っていた迷いの魔法というものは大丈夫なんですか?」
「あれは私以外の人間、主に敵意や悪意がある人間にしか作用しないように細工してあるから、このまま突き進んでも大丈夫だ。迷ったりはしないさ」
「お師様に対して敵意を向ける人間が、本当にいるんですか」
「そりゃあ魔女である以上はね。人間にとって魔女が恐ろしい存在だって警戒する輩だっているさ。魔女に対してもそうだよ。無駄な争いごとは避けるに越したことはない」
魔女を狙う魔女がいる。恐ろしいことを聞いた気がした。しかしルーシーには魔女同士で争う光景が思い浮かばない。これまでに会った魔女はニコラと幽魂の魔女ヴァイオレットだけだ。
2人はルーシーに対して悪意を持って接することがなかったので、むしろ魔女でもなんでもない普通の人間の方がよっぽど悪意を持った存在として想像しやすかった。
森を抜けて山道を進んでいくと、その先にぽつぽつと建物が見え始めた。
村の出入り口には簡易的な門がある。木で枠組みをしただけの門、この先が村だと示す為だけの門だ。その門の手前でトナカイを止まらせる。夕刻前に帰るから、その頃合いにまたここへ来るようトナカイに伝えてくれとニコラが頼んだ。
ニコラに頼まれることが嬉しくなったルーシーは、それをそのままトナカイに伝える。
「お願いね。それはそうと、本当にお師様とは会話が出来ないの? 今まで会話もなく、一体どうしてたの」
『なんとなくだよ。お互い大体のノリでやり取りしてた。こんな風に具体的に打ち合わせるのは初めてだな』
「そうなんだ。でもこれからは私が間に入ってやり取り出来るから、打ち合わせがスムーズに出来るね」
最初に会った頃に比べるとトナカイの態度が随分と柔らかくなった気がしたルーシーは、親しげにそう約束を交わすと去っていくトナカイに手を振って見送った。
前世の時からそうだったが、動物相手ならば臆することなく話が出来た。人間相手でも同じように話せたらいいのにと思うが、心の奥底に刻み込まれた傷はそう簡単に癒えそうにない。
別人に生まれ変わっても、中身はルーシーのままだ。
ルーシーの隣でやり取りを見届けたニコラが、交渉はどうだったか訊ねる。ちゃんと約束通り来てくれることになったと伝えると、ニコラが少し満足そうに微笑んだように見えた。
嬉しくなったルーシーが綻ぶ顔をしながらリュックを背負う。するといつの間にか目の前に何人かの村人が集まっていてルーシーは硬直した。
先程まで動物相手にスラスラと会話出来ていたのが嘘のように、ルーシーはニコラへ視線を向けてどうしたらいいのか指示を仰ぐ。
「やぁニコラ、ご機嫌はいかがかな」
「まずまずだよ」
「今日も色々と持って来てくれたんだろ? 頭痛に効く薬はあるかい」
「医者に診てもらうのをお勧めするね。何かの病気だったらどうするんだ」
「ニコラだー! また勉強教えてよ!」
「はいはい、ちょっと待ってな」
ルーシーは目を丸くした。ニコラが村人達に歓迎されていることが驚きといえばそうなのだが、何より魔女の存在をこうも温かく受け止める人間がいることに衝撃だった。
地域によってこんなに違うものなのかと、ルーシーは落胆する。もし自分が魔女による偏見のない地域で生まれ育ったのなら、あんな悲惨な人生を歩むことなどなかったのかもしれない。そう思うとやるせなかった。
数々の非道を思い出したら胸が痛んでくる。この痛みは過去の記憶を思い出しているからなのか、それとも自分とは全く異なる対応を受けているニコラに対してのものなのか、――わからない。
「お嬢ちゃん、名前は何て言うんだい」
声をかけられ慌てて顔を上げると、目の前に優しそうな表情で話しかける女性がルーシーの目線に合わせるように膝をついていた。言い淀んでいると女性はなおも穏やかな口調で話しかけてくる。
「ニコラの娘さんにしては随分幼いね。親戚か何かかしら」
「その子は私の弟子だよ。……最近拾ったんだ」
目の前で賑やかに、楽しそうに、魔女と人間との隔たりなど一切ないように語り合う不思議な光景。
人々はみんな笑顔だ。にこやかに、我よ我よと誰もがニコラと話がしたい様子だった。
そのニコラはいつもと変わらない鉄面皮で1人1人に挨拶を交わしていく。
――なんだろう、この光景は。
人から向けられる笑顔がこんな風だったなんて知らない、覚えてない。
『誰に向かってそんな顔をしてるんだ! 生意気な小娘め!』
――今まで見たことがない、自分が夢見た光景。
分け隔てなく交わせる言葉があることを、私は知らない。
『私の可愛いソフィアに気安く話しかけないでちょうだい、穢らわしい!』
――して欲しかったこと、望んでも願っても……。
手に入ることなんて、とうとう叶わなかったのに……。
『お姉様が誰かに好かれるとでも思ったの? 惨めで孤独な人生がお似合いなのにね、うふふ』
――私は今、何を見せられているんだろう?
人々から愛されている魔女がいるなんて……。
『君だけを一生愛そうと思っていたのに、残念だよ……ルーシー』
――私は孤独なまま、死んだんだ。
「どうしたの、お嬢ちゃん! どこか痛いの? ニコラ、あんたのお弟子さんが泣き出しちゃったよ!」
「ルーシー?」
涙が止まらなかった。
ニコラに迷惑をかけまいと、早く泣き止まないとと思えば思うほどに涙が溢れ出してくる。慌てて駆け寄ってくるニコラと村人達。
みんながルーシーを心配してくれている。
みんながどうしたのかと一緒になって何とかしようとしてくれている。
そう思えば思うほどにルーシーは声を上げて泣きじゃくった。
村長の家で休憩させてもらったルーシーは、ひとしきり泣いたせいかすっかり気分が落ち着いてきた様子だった。ニコラは村長の奥さんが淹れてくれたホットコーヒーを飲みながら、黙ってルーシーを見守る。
村長の孫である少年カミナはルーシーの隣に座って時折背中をさすってくれていた。たくさんの人に心配をかけてしまったこと、ニコラの物々交換の場を邪魔してしまったこと。謝らなければいけないことがたくさんあって、何からどう切り出したらいいのかわからなくなる。
「あの、本当にごめんなさい。いきなり泣いてしまって。その、なんでもないので……、どうか忘れてください」
村の代表である村長に向かって謝罪すると、村長は笑顔で話しかけてきた。
「本当にもう大丈夫なんだね?」
「……はい、ご迷惑おかけしました」
「まだ小さいのにとてもしっかりとしたお嬢ちゃんだね。ニコラ、いい子を弟子にしたじゃないか」
「魔女の修行はまだ始めてもいないよ。そんな内からいい弟子だと言われてもね」
そう言われて縮こまるルーシー。早く魔女の修行を始めてもらう為に良い子でいようと決意した矢先に思わぬ失態で、このまま弟子として受け入れてもらえなくなったらどうしようという思いが頭をもたげる。
不安そうに見つめるルーシーに、ニコラはバツの悪い顔になった。感情を表に出すことをあまりしないニコラにしてはとても珍しいことだ。
「別にこんなことで破門しないから安心おし」
「ニコラの顔が怖いから仕方ないよねー」
「うるさいよカミナ、お前が夜に私の顔を見てお漏らしした話でもしてやろうか」
「や、やめろ! あれはニコラが悪いんじゃんか! あんな真っ暗な場所でランタンの灯りを顔の下で照らすから! あんなもん誰だって化け物だって思うだろ!」
「誰が化け物だ、このクソガキ」
悪口の応酬なのに、皆が笑顔で2人の会話を楽しんでいる。
わかっている。悪口とは言ってもこれは罵倒ではない。親しい者同士が憎まれ口を叩いてじゃれ合っているのだ。
そう頭で理解していても、感情がそれを複雑に捉えようとする。
ルーシーはただ普通に声をかけただけで睨まれたから、他人との会話が怖かった為にこういったじゃれ合う行為をする勇気がなかった。友達である動物たち相手ですら、こんな風に会話をしたことがない。
先程たくさん泣いたおかげなのか、今度は冷静にこの光景を見ていられた。むしろ今では彼らのやり取りを微笑ましくさえ思える。
自分がその輪の中に入れなかったとしても、そのやり取りをただ側で眺めることを許してくれるこの距離感がかえって心地よかったのだ。他人と接すること、会話をすることがまだ苦手なルーシーには会話の中心に立とうなんて到底考えられなかったから。
くすくすと片手で口元を隠しながらひっそりと笑うルーシーを見て、カミナが指で鼻を擦りながらニカッと笑って話しかける。
「まぁ元気になってよかったじゃん。お前、名前は何て言うんだっけ?」
「ルーシーです。よろしくお願いします」
「そ、そんな丁寧に挨拶しなくてもいいよ! 俺とお前、そんなに年齢離れてないだろ。つーかお前いくつなんだよ」
「えと……」
そういえばこの肉体の正確な年齢を聞いていなかったと思って、ニコラに視線で助け舟を出した。ニコラはやれやれといった感じで肩を竦めると、ぶっきらぼうに答える。
「5歳だよ。カミナ、お前の方が5つも年上なんだからしっかり面倒見てやんな」
「へぇそうなんだ。年齢の割に綺麗な顔してるから、もうちょい行ってるもんかと……」
そこまで言って顔を真っ赤にしたカミナは慌てて取り繕った。『今のは違う』『別にそういうんじゃない』を交互に繰り返すだけで、他の言語は一瞬にしてどこかに失くしてきたようである。
そんなカミナの挙動にルーシー以外の全員が大笑いしていた。ニコラでさえもくつくつと笑っている。どうしてみんなが笑っているのかわかっていないのはルーシーだけだった。
昔の自分ならこの状況で『仲間はずれ』だと感じていただろう。周りの者がひとつの話題に盛り上がっている中、自分だけが何のことかわからず置いていかれている今の状況。
状況だけで言えばあの頃と変わらないはずだが、今この場合に限っては嫌な気分にならなかった。不思議と仲間はずれにされているという感覚はなく、ただ単純に自分だけが何のことかわかっていないだけと思えた。
あの頃はただひたすらに、その場の状況から一刻も早く逃げ出したい気分になっていたのに。本当に不思議だった。
***
ルーシーの気分が落ち着き、カミナの一件も片付いたところでニコラは当初の目的である物々交換へと向かった。
まずは薬を必要としている村人から順に手渡していく。
薬を欲している村人が一列に並び、順番に薬を受け取る。そして薬のお代としてそれぞれが出せる物資を持参していた。各家庭が出せる物資は、食料や日用品などといったものがほとんどであった。
実際それらがニコラの必要としている物資なので、交換する時に選別して必要な分だけを受け取っていく。
そういったやり取りをルーシーはニコラの隣で黙って眺めていた。思えばイーズデイルの屋敷での買い出しは、定期的に執事が注文書を作成しそれを特定の使用人が馬車で行くか、業者が屋敷を訪れて訪問販売しているか、そういった場面を見かけたことがあるだけだ。
基本的にルーシーは屋敷の者から信頼されていなかったので、雑用のみをただひたすらこなすのみだった。買い物どころかイーズデイルの敷地から出ることすら許されていなかったので、当然といえば当然だ。
こうして物々交換とはいえ、お互いに欲しい物を買い取る場面を見ていたルーシーはなんだか心がウキウキしていた。欲しい物を買うという行為をこれまでの人生でする機会が与えられなかった為、欲しい物を手に入れる時の高揚感というものを間接的に味わっているような気分だったのだ。
すると不意にニコラから意外なことを問われて、ルーシーは動揺する。
「ルーシー、お前は何か欲しい物はないのかい。今ならひとつだけ買ってやろう。うちに来たお礼みたいなもんだから遠慮することはないよ」
そんな心優しい気遣いをされて、ルーシーは頭の中が真っ白になる。『欲しい物?』『買ってくれる?』『私なんかにお礼を?』『むしろお礼をしなければいけないのは自分の方なのに?』、そういった心の声が雪崩のように押し寄せて、どの言葉を口にしたら良いのかわからなくなってくる。
しかしそのどれもがネガティブなものばかりだったので、せっかくの心遣いに水を差すようで申し訳なかったこともあり、浮かんだ言葉は全て黙殺するしかなかった。
たじたじしているとニコラは1人の少女に『こっちへおいで』と手招きし、少女が物々交換しようとしていた物を手に取って静かに頷いた。
「シエル、何が欲しいんだい。これと交換しよう」
「えっとね、ニコラが作った大きなリボンがいい! この赤いの!」
「はいよ」
「ありがとう、ニコラ!」
ニコラは薬品だけでなく手作りの装飾品もいくつか持って来ていたようだ。髪飾り、バッグ、マフラーなど。
シエルと呼ばれた黒髪の少女は嬉しそうに赤い大きなリボンを受け取ると、そのまま母親であろう女性の元へ走って行き、ポニーテールにしていたゴム部分にリボンを付けてもらっていた。
それをただぼんやり眺めていたルーシーに、ニコラは膝を突いて目線を合わせるように向かい合う。するとウェーブのかかった銀髪に櫛を通して整えると、長い前髪を7対3の割合で横に流し、先ほどシエルが持っていたヘアピンを留めた。
それを見たシエルは嬉しそうな顔をして駆け寄って説明してくれる。
「それママに教えてもらって作ったヘアピンなの。私、赤い色が好きだから赤にしたんだけど。お姉ちゃんの銀色の髪によく似合ってるよ!」
「え……、そう……なのかな?」
赤い瞳が不気味だと言われた。
銀色の髪が不吉だと言われた。
そんなルーシーに初めてかけてくれた嬉しい言葉。
赤い瞳を、銀髪を、こうして褒めてくれた人なんて初めてだった。また胸が熱くなってくる。でももう泣かないようにしないとと思って、ルーシーは涙を必死で堪えた。泣いたら迷惑をかけてしまうから。心配かけてしまうから。
そうやって懸命に涙を押し殺していたら、ニコラが呆れたような表情で一瞬笑うと、またすぐ鉄面皮に戻ってルーシーを諭す。
「バカだね。嬉しい涙なら別に流したっていいんだよ」
「嬉しい……、涙……?」
涙は悲しい時に流すものだと思っていた。悲しい涙しか知らないから。ニコラからそう言われ、涙には色々な感情で流すものがあるのだと教えられた。
それからルーシーは忘れずにちゃんと伝えようと思った。シエルに向かって、精一杯心を込めて、きちんと今の自分の気持ちを伝えたかったから。
「あの……、ありがとう……! とても大切にするから、ありがとう」
「うん、私もこのリボン大切にするね!」
そう言って走り去っていく少女の後ろ姿を見て、ルーシーは初めて心が満たされる思いをした。前世の頃には経験することがなかったことを、今になってたくさん経験していく。
これが人との繋がり……。
物々交換をし終えたニコラは立ち上がって荷物をまとめ出した。それを手伝おうとしたルーシーだが、手伝うよりまず村長を呼んできてくれと頼まれる。
ニコラの話によると物々交換が終わった後、村の集会所に代表となる何人かを集めて何か大切な話をするそうだ。
スノータウンで物々交換をすることしか聞いてなかったルーシーは、一体何が始まるんだろうと疑問に思いつつ、言われた通りに村長の家へと走って行った。
走りながらルーシーはきょろきょろと周囲を観察する。道端で会話をする主婦たち、友達同士で雪遊びをしている子供たち、昼間から酒をあおる男たち。
それぞれ自由に過ごしている。好きなことを、したいことを。それを見てふと思った。これが噂に聞く休日なのだと。毎日ボロ雑巾のようにこき使われてきたルーシーに休日などなかった。あるのは食事休憩と就寝する時だけ。
年頃の子供がどんな遊びをするのか、何を趣味とするのか、娯楽なんて考える余裕などなかった。
この村ではきっと今日は休日なんだとルーシーは思って、幸せそうに楽しそうに過ごす人たちを見るのが興味深かった。自分もいつかこうして自由な時間を過ごしたりするのだろうか、と。
そんなことを考えている内に村長の家に到着した。ルーシーは呼吸を整えてからドアをノックする。すると中から『はーい』と声がしてドアが開いた。村長の奥さんだ。にこやかにルーシーを見ると『あぁ、あの件だね』と口にしたので、どうやら説明するまでもない様子だった。
頷くことしか出来なかったルーシーは、このまま戻った方がいいのか村長と一緒に行った方がいいのか迷う。村長の家とニコラがいる方角を交互に見ては悩んでいると、家の中から村長と孫のカミナが出て来た。
「お使いご苦労じゃったな。それじゃあ集会所に行こうかの。カミナ、みんなに声をかけて来てくれ」
「えぇ〜俺が?」
「ルーシーと一緒だったら喜んで行くのかの?」
「バッ……バッカじゃねぇの!? いつまで言ってんだよクソジジイ! 行きゃあいいんだろ、行きゃあ!」
顔を真っ赤にして悪態をつくと、ルーシーのことをチラリと見て、それからすぐさま視線を逸らすと走って行ってしまった。何がなんだかわからないルーシーはただただその場に佇む他なかった。ホッホッホッと満足そうに笑う村長。
「それではワシらも行こうかの。どうせニコラはもう集会所に向かっておるじゃろう」
「え」
それでは戻っても誰も残ってないということなのか、とルーシーは虚をつかれた。集会所の場所がわからないルーシーはとにかく村長について行くしかない。ルーシーはペコリと頭を下げ、そしてうんうんと頷く村長と並んで歩いて行く。集会所へ向かう間、村長はぽつりぽつりとルーシーに声をかけた。
「ニコラは表情と態度のせいで冷たく感じるかもしれないが、根はとても優しい善人なんじゃよ。一緒に住んでいるお前さんならとっくにわかっていると思うがな。どんなに厳しく感じても、どんなに冷たくあしらわれていると感じても、それはお前さんの為を思って言っていることだから悪く思わないでおくれ」
「あの……、えっと……。はい、わかってます。お師様は、その……私にとても優しくしてくださいます。それに厳しいとも冷たくあしらわれているとも思っていません。むしろとても良くしてくださっています。感謝し足りない位です……」
この村の人間はとても温かい人たちばかりだと思っていたので、ルーシーは本音を口にした。まだ自分の本音を口にするのは怖かったが、悪口ではなく褒め言葉なら悪い気はしないだろうと判断した。
村長はルーシーを見てにっこり笑う。
「ルーシー、お前さんがニコラの弟子になってくれてワシも嬉しいよ」
それから少し間が空き、口にすることを少し躊躇ったのか。重い口を開けるように、青空を見上げながら独り言のように語り出した。
「ニコラがこの村に辿り着いてもう何年経つか。ニコラも魔女じゃからな、他所の国でよっぽど酷い目にでも遭ったんじゃろう。今の表情からは想像もつかない位、それこそ氷のように冷たい女性じゃった。何者も寄せ付けず、誰のことも信用しない。それが今ではこんなに村人たちと打ち解けてくれて、すっかりこの村にとって欠かせない大切な魔女になってくれたよ。お前さんもそんなニコラみたいな魔女になれるよう、頑張りなさい」
はい、とだけ頷くルーシー。まさか村長からニコラに関することを聞けるとは思わなかった。
そしてほんの少しだけニコラのことを知った気がした。あくまで村長の目線なのだからその言葉全てが真実とは限らないのかもしれないが、きっと本当のことだろうと思う。
村人たちと仲良く接するニコラにもそんな時期があったのは驚きだった。自分とは違って、普通の人間たちと何の問題もなく過ごしてきたものだとばかり思っていたから。
ニコラでも、辛く苦しい時期があったのだと思うと心がとても苦しくなる。まるで自分のことのように。ルーシーは自分がこんなにも共感しやすい人間だったのかと、我ながら少し意外だった。
そんな風に思っていると話を中断するように村長が大きな声を上げる。
「おーい、待たせたの。他の連中はカミナが呼びに行っとるから、しばらくしたら全員集まるじゃろうて!」
村長が声をかけた人物はニコラだった。小屋ではないが一軒家でもない木造の平屋の前で、両腕を組んで仁王立ちしている。村長の言葉を聞いてニコラは片手で了解の合図を送ると、親指で集会所のドアを指して中へ入るように促していた。それを見て村長はまたホッホッホッと笑って、こちらも片手で合図を送る。
するとニコラが集会所に入っていくのを確認してから村長は口元に指を当てながらウィンクをした。
「今の話、ワシから聞いたのは内緒にしておくんじゃよ? ニコラは怖いからの」
『はい』とも『いいえ』とも言い難い秘め事の約束とニコラが怖いという発言に関して、ルーシーは返答に困った末に判断のつかない表情で言葉を濁した。自分から話すつもりは毛頭ないが、ニコラに詰問されたら黙っていられる自信がなかった。……今はまだ。
村長の後ろを歩くようについて行きながら集会所の中へと入る。
雪の降り積もった外とは違って、中はとても暖かい。どうやらすでに暖炉の火を起こしていたようだ。
集会所と言うだけあって中はだだっ広いワンフロアになっており、椅子が何脚か並べられている。ニコラの他にもルーシーたちより先に来ていた女性陣、男性陣が椅子を用意していたようだ。
暖炉の前には女性陣の子供たちだろうか、男女数人でブロック崩しをして遊んでいる。
村長とルーシーが中へ入って行くなり、まるで打ち合わせでもしていたかのように子供たちは奥の部屋へと村の女性に連れて行かれる。
他の村人たちも各々自由に並べられた椅子に腰掛けていった。そしてルーシーの背後からカミナの声が聞こえてきる。どうやら村長に言われた通り残りの村人たちに声をかけ、集会所まで連れて来たようだ。
村人全員ではないようだが、ぞろぞろと集会所に入ってきてはそれぞれ椅子に座っていく。何かの演説でも始まりそうな雰囲気だった。
なんだか物々しく感じてきたルーシーは急に緊張が増してくる。てっきりニコラと何人かの村人だけで和気あいあいと雑談するものだとばかり思っていたから。
村長以外、ここに集まった村人たちがこの村でどういった位置付けをされた人物なのか、初めてこの村にやって来たルーシーには見当もつかない。そして案の定、そんなルーシーの心の中でも読んでいるかのように、彼らがどういった人選で呼ばれたのかニコラによってすぐ知ることとなった。
椅子が向かっている方向には低い壇上があり、ニコラはそこに立っていた。ルーシーはなぜか壇上の横に並べられた椅子に村長夫婦に挟まれて座っている。斜め前とはいえ村人たちの視線の先に自分がいるなんて、余計に緊張してくると思いながら座っていると、村長の奥さんが『大丈夫だよ』と囁いて肩を叩いてくれた。
村人全員の視線はニコラに注がれている。自分が緊張することはない、と心の中で呟きながらこれから一体何が始まるのか、ルーシーも真剣に耳を傾けた。
「みんな集まったようだね。休日に時間を取らせて悪かったよ。すぐ終わらせるから勘弁しておくれ」
まずは挨拶がてらにそう切り出す。それからニコラがルーシーの方へ視線を送り、紹介するように手を差し伸べた。突然壇上へ来るように促され、顔が引きつる。するとルーシーが立ち上がる前にニコラが続きを話し出した。ルーシーの緊張を見て、壇上に上がらずに紹介を始めるようだった。
「村長の隣に座っているのはルーシー、知っている人はもういると思うが私の弟子となった子だ。私はこの子に魔女としての技術を教え育てる為、ここを離れて各地を巡る長い旅に出ようと思っている」
ニコラの言葉にルーシーを始め、その場にいた全員が驚愕していた。
山奥と聞いていたが、ニコラの家はひとつの大きな山の中腹にあった。そして隣にもうひとつ大きな山がある。その山間に村が作られたそうだ。
こんな年中雪だらけで、しかも山間に村を作って暮らすということは雪崩の危険性が高まるだけだが、ルーシーは雪国に関する知識が全くと言っていいほどなかった。
雪山の間に村を作ることがどういうことなのか、ルーシーは何も知らない。そんな危険な山間に村が作られた理由はもちろんちゃんとある。
どんなに過酷な場所であろうと、そこに人が住んでいる理由はひとつ。そこに貴重な物資があるからだ。得られる物が何もなければ住む意味はない。つまりこの山間に住むだけの価値あるものがこの辺りには存在しているということだった。
「そういえば幽魂の魔女さんが言っていた迷いの魔法というものは大丈夫なんですか?」
「あれは私以外の人間、主に敵意や悪意がある人間にしか作用しないように細工してあるから、このまま突き進んでも大丈夫だ。迷ったりはしないさ」
「お師様に対して敵意を向ける人間が、本当にいるんですか」
「そりゃあ魔女である以上はね。人間にとって魔女が恐ろしい存在だって警戒する輩だっているさ。魔女に対してもそうだよ。無駄な争いごとは避けるに越したことはない」
魔女を狙う魔女がいる。恐ろしいことを聞いた気がした。しかしルーシーには魔女同士で争う光景が思い浮かばない。これまでに会った魔女はニコラと幽魂の魔女ヴァイオレットだけだ。
2人はルーシーに対して悪意を持って接することがなかったので、むしろ魔女でもなんでもない普通の人間の方がよっぽど悪意を持った存在として想像しやすかった。
森を抜けて山道を進んでいくと、その先にぽつぽつと建物が見え始めた。
村の出入り口には簡易的な門がある。木で枠組みをしただけの門、この先が村だと示す為だけの門だ。その門の手前でトナカイを止まらせる。夕刻前に帰るから、その頃合いにまたここへ来るようトナカイに伝えてくれとニコラが頼んだ。
ニコラに頼まれることが嬉しくなったルーシーは、それをそのままトナカイに伝える。
「お願いね。それはそうと、本当にお師様とは会話が出来ないの? 今まで会話もなく、一体どうしてたの」
『なんとなくだよ。お互い大体のノリでやり取りしてた。こんな風に具体的に打ち合わせるのは初めてだな』
「そうなんだ。でもこれからは私が間に入ってやり取り出来るから、打ち合わせがスムーズに出来るね」
最初に会った頃に比べるとトナカイの態度が随分と柔らかくなった気がしたルーシーは、親しげにそう約束を交わすと去っていくトナカイに手を振って見送った。
前世の時からそうだったが、動物相手ならば臆することなく話が出来た。人間相手でも同じように話せたらいいのにと思うが、心の奥底に刻み込まれた傷はそう簡単に癒えそうにない。
別人に生まれ変わっても、中身はルーシーのままだ。
ルーシーの隣でやり取りを見届けたニコラが、交渉はどうだったか訊ねる。ちゃんと約束通り来てくれることになったと伝えると、ニコラが少し満足そうに微笑んだように見えた。
嬉しくなったルーシーが綻ぶ顔をしながらリュックを背負う。するといつの間にか目の前に何人かの村人が集まっていてルーシーは硬直した。
先程まで動物相手にスラスラと会話出来ていたのが嘘のように、ルーシーはニコラへ視線を向けてどうしたらいいのか指示を仰ぐ。
「やぁニコラ、ご機嫌はいかがかな」
「まずまずだよ」
「今日も色々と持って来てくれたんだろ? 頭痛に効く薬はあるかい」
「医者に診てもらうのをお勧めするね。何かの病気だったらどうするんだ」
「ニコラだー! また勉強教えてよ!」
「はいはい、ちょっと待ってな」
ルーシーは目を丸くした。ニコラが村人達に歓迎されていることが驚きといえばそうなのだが、何より魔女の存在をこうも温かく受け止める人間がいることに衝撃だった。
地域によってこんなに違うものなのかと、ルーシーは落胆する。もし自分が魔女による偏見のない地域で生まれ育ったのなら、あんな悲惨な人生を歩むことなどなかったのかもしれない。そう思うとやるせなかった。
数々の非道を思い出したら胸が痛んでくる。この痛みは過去の記憶を思い出しているからなのか、それとも自分とは全く異なる対応を受けているニコラに対してのものなのか、――わからない。
「お嬢ちゃん、名前は何て言うんだい」
声をかけられ慌てて顔を上げると、目の前に優しそうな表情で話しかける女性がルーシーの目線に合わせるように膝をついていた。言い淀んでいると女性はなおも穏やかな口調で話しかけてくる。
「ニコラの娘さんにしては随分幼いね。親戚か何かかしら」
「その子は私の弟子だよ。……最近拾ったんだ」
目の前で賑やかに、楽しそうに、魔女と人間との隔たりなど一切ないように語り合う不思議な光景。
人々はみんな笑顔だ。にこやかに、我よ我よと誰もがニコラと話がしたい様子だった。
そのニコラはいつもと変わらない鉄面皮で1人1人に挨拶を交わしていく。
――なんだろう、この光景は。
人から向けられる笑顔がこんな風だったなんて知らない、覚えてない。
『誰に向かってそんな顔をしてるんだ! 生意気な小娘め!』
――今まで見たことがない、自分が夢見た光景。
分け隔てなく交わせる言葉があることを、私は知らない。
『私の可愛いソフィアに気安く話しかけないでちょうだい、穢らわしい!』
――して欲しかったこと、望んでも願っても……。
手に入ることなんて、とうとう叶わなかったのに……。
『お姉様が誰かに好かれるとでも思ったの? 惨めで孤独な人生がお似合いなのにね、うふふ』
――私は今、何を見せられているんだろう?
人々から愛されている魔女がいるなんて……。
『君だけを一生愛そうと思っていたのに、残念だよ……ルーシー』
――私は孤独なまま、死んだんだ。
「どうしたの、お嬢ちゃん! どこか痛いの? ニコラ、あんたのお弟子さんが泣き出しちゃったよ!」
「ルーシー?」
涙が止まらなかった。
ニコラに迷惑をかけまいと、早く泣き止まないとと思えば思うほどに涙が溢れ出してくる。慌てて駆け寄ってくるニコラと村人達。
みんながルーシーを心配してくれている。
みんながどうしたのかと一緒になって何とかしようとしてくれている。
そう思えば思うほどにルーシーは声を上げて泣きじゃくった。
村長の家で休憩させてもらったルーシーは、ひとしきり泣いたせいかすっかり気分が落ち着いてきた様子だった。ニコラは村長の奥さんが淹れてくれたホットコーヒーを飲みながら、黙ってルーシーを見守る。
村長の孫である少年カミナはルーシーの隣に座って時折背中をさすってくれていた。たくさんの人に心配をかけてしまったこと、ニコラの物々交換の場を邪魔してしまったこと。謝らなければいけないことがたくさんあって、何からどう切り出したらいいのかわからなくなる。
「あの、本当にごめんなさい。いきなり泣いてしまって。その、なんでもないので……、どうか忘れてください」
村の代表である村長に向かって謝罪すると、村長は笑顔で話しかけてきた。
「本当にもう大丈夫なんだね?」
「……はい、ご迷惑おかけしました」
「まだ小さいのにとてもしっかりとしたお嬢ちゃんだね。ニコラ、いい子を弟子にしたじゃないか」
「魔女の修行はまだ始めてもいないよ。そんな内からいい弟子だと言われてもね」
そう言われて縮こまるルーシー。早く魔女の修行を始めてもらう為に良い子でいようと決意した矢先に思わぬ失態で、このまま弟子として受け入れてもらえなくなったらどうしようという思いが頭をもたげる。
不安そうに見つめるルーシーに、ニコラはバツの悪い顔になった。感情を表に出すことをあまりしないニコラにしてはとても珍しいことだ。
「別にこんなことで破門しないから安心おし」
「ニコラの顔が怖いから仕方ないよねー」
「うるさいよカミナ、お前が夜に私の顔を見てお漏らしした話でもしてやろうか」
「や、やめろ! あれはニコラが悪いんじゃんか! あんな真っ暗な場所でランタンの灯りを顔の下で照らすから! あんなもん誰だって化け物だって思うだろ!」
「誰が化け物だ、このクソガキ」
悪口の応酬なのに、皆が笑顔で2人の会話を楽しんでいる。
わかっている。悪口とは言ってもこれは罵倒ではない。親しい者同士が憎まれ口を叩いてじゃれ合っているのだ。
そう頭で理解していても、感情がそれを複雑に捉えようとする。
ルーシーはただ普通に声をかけただけで睨まれたから、他人との会話が怖かった為にこういったじゃれ合う行為をする勇気がなかった。友達である動物たち相手ですら、こんな風に会話をしたことがない。
先程たくさん泣いたおかげなのか、今度は冷静にこの光景を見ていられた。むしろ今では彼らのやり取りを微笑ましくさえ思える。
自分がその輪の中に入れなかったとしても、そのやり取りをただ側で眺めることを許してくれるこの距離感がかえって心地よかったのだ。他人と接すること、会話をすることがまだ苦手なルーシーには会話の中心に立とうなんて到底考えられなかったから。
くすくすと片手で口元を隠しながらひっそりと笑うルーシーを見て、カミナが指で鼻を擦りながらニカッと笑って話しかける。
「まぁ元気になってよかったじゃん。お前、名前は何て言うんだっけ?」
「ルーシーです。よろしくお願いします」
「そ、そんな丁寧に挨拶しなくてもいいよ! 俺とお前、そんなに年齢離れてないだろ。つーかお前いくつなんだよ」
「えと……」
そういえばこの肉体の正確な年齢を聞いていなかったと思って、ニコラに視線で助け舟を出した。ニコラはやれやれといった感じで肩を竦めると、ぶっきらぼうに答える。
「5歳だよ。カミナ、お前の方が5つも年上なんだからしっかり面倒見てやんな」
「へぇそうなんだ。年齢の割に綺麗な顔してるから、もうちょい行ってるもんかと……」
そこまで言って顔を真っ赤にしたカミナは慌てて取り繕った。『今のは違う』『別にそういうんじゃない』を交互に繰り返すだけで、他の言語は一瞬にしてどこかに失くしてきたようである。
そんなカミナの挙動にルーシー以外の全員が大笑いしていた。ニコラでさえもくつくつと笑っている。どうしてみんなが笑っているのかわかっていないのはルーシーだけだった。
昔の自分ならこの状況で『仲間はずれ』だと感じていただろう。周りの者がひとつの話題に盛り上がっている中、自分だけが何のことかわからず置いていかれている今の状況。
状況だけで言えばあの頃と変わらないはずだが、今この場合に限っては嫌な気分にならなかった。不思議と仲間はずれにされているという感覚はなく、ただ単純に自分だけが何のことかわかっていないだけと思えた。
あの頃はただひたすらに、その場の状況から一刻も早く逃げ出したい気分になっていたのに。本当に不思議だった。
***
ルーシーの気分が落ち着き、カミナの一件も片付いたところでニコラは当初の目的である物々交換へと向かった。
まずは薬を必要としている村人から順に手渡していく。
薬を欲している村人が一列に並び、順番に薬を受け取る。そして薬のお代としてそれぞれが出せる物資を持参していた。各家庭が出せる物資は、食料や日用品などといったものがほとんどであった。
実際それらがニコラの必要としている物資なので、交換する時に選別して必要な分だけを受け取っていく。
そういったやり取りをルーシーはニコラの隣で黙って眺めていた。思えばイーズデイルの屋敷での買い出しは、定期的に執事が注文書を作成しそれを特定の使用人が馬車で行くか、業者が屋敷を訪れて訪問販売しているか、そういった場面を見かけたことがあるだけだ。
基本的にルーシーは屋敷の者から信頼されていなかったので、雑用のみをただひたすらこなすのみだった。買い物どころかイーズデイルの敷地から出ることすら許されていなかったので、当然といえば当然だ。
こうして物々交換とはいえ、お互いに欲しい物を買い取る場面を見ていたルーシーはなんだか心がウキウキしていた。欲しい物を買うという行為をこれまでの人生でする機会が与えられなかった為、欲しい物を手に入れる時の高揚感というものを間接的に味わっているような気分だったのだ。
すると不意にニコラから意外なことを問われて、ルーシーは動揺する。
「ルーシー、お前は何か欲しい物はないのかい。今ならひとつだけ買ってやろう。うちに来たお礼みたいなもんだから遠慮することはないよ」
そんな心優しい気遣いをされて、ルーシーは頭の中が真っ白になる。『欲しい物?』『買ってくれる?』『私なんかにお礼を?』『むしろお礼をしなければいけないのは自分の方なのに?』、そういった心の声が雪崩のように押し寄せて、どの言葉を口にしたら良いのかわからなくなってくる。
しかしそのどれもがネガティブなものばかりだったので、せっかくの心遣いに水を差すようで申し訳なかったこともあり、浮かんだ言葉は全て黙殺するしかなかった。
たじたじしているとニコラは1人の少女に『こっちへおいで』と手招きし、少女が物々交換しようとしていた物を手に取って静かに頷いた。
「シエル、何が欲しいんだい。これと交換しよう」
「えっとね、ニコラが作った大きなリボンがいい! この赤いの!」
「はいよ」
「ありがとう、ニコラ!」
ニコラは薬品だけでなく手作りの装飾品もいくつか持って来ていたようだ。髪飾り、バッグ、マフラーなど。
シエルと呼ばれた黒髪の少女は嬉しそうに赤い大きなリボンを受け取ると、そのまま母親であろう女性の元へ走って行き、ポニーテールにしていたゴム部分にリボンを付けてもらっていた。
それをただぼんやり眺めていたルーシーに、ニコラは膝を突いて目線を合わせるように向かい合う。するとウェーブのかかった銀髪に櫛を通して整えると、長い前髪を7対3の割合で横に流し、先ほどシエルが持っていたヘアピンを留めた。
それを見たシエルは嬉しそうな顔をして駆け寄って説明してくれる。
「それママに教えてもらって作ったヘアピンなの。私、赤い色が好きだから赤にしたんだけど。お姉ちゃんの銀色の髪によく似合ってるよ!」
「え……、そう……なのかな?」
赤い瞳が不気味だと言われた。
銀色の髪が不吉だと言われた。
そんなルーシーに初めてかけてくれた嬉しい言葉。
赤い瞳を、銀髪を、こうして褒めてくれた人なんて初めてだった。また胸が熱くなってくる。でももう泣かないようにしないとと思って、ルーシーは涙を必死で堪えた。泣いたら迷惑をかけてしまうから。心配かけてしまうから。
そうやって懸命に涙を押し殺していたら、ニコラが呆れたような表情で一瞬笑うと、またすぐ鉄面皮に戻ってルーシーを諭す。
「バカだね。嬉しい涙なら別に流したっていいんだよ」
「嬉しい……、涙……?」
涙は悲しい時に流すものだと思っていた。悲しい涙しか知らないから。ニコラからそう言われ、涙には色々な感情で流すものがあるのだと教えられた。
それからルーシーは忘れずにちゃんと伝えようと思った。シエルに向かって、精一杯心を込めて、きちんと今の自分の気持ちを伝えたかったから。
「あの……、ありがとう……! とても大切にするから、ありがとう」
「うん、私もこのリボン大切にするね!」
そう言って走り去っていく少女の後ろ姿を見て、ルーシーは初めて心が満たされる思いをした。前世の頃には経験することがなかったことを、今になってたくさん経験していく。
これが人との繋がり……。
物々交換をし終えたニコラは立ち上がって荷物をまとめ出した。それを手伝おうとしたルーシーだが、手伝うよりまず村長を呼んできてくれと頼まれる。
ニコラの話によると物々交換が終わった後、村の集会所に代表となる何人かを集めて何か大切な話をするそうだ。
スノータウンで物々交換をすることしか聞いてなかったルーシーは、一体何が始まるんだろうと疑問に思いつつ、言われた通りに村長の家へと走って行った。
走りながらルーシーはきょろきょろと周囲を観察する。道端で会話をする主婦たち、友達同士で雪遊びをしている子供たち、昼間から酒をあおる男たち。
それぞれ自由に過ごしている。好きなことを、したいことを。それを見てふと思った。これが噂に聞く休日なのだと。毎日ボロ雑巾のようにこき使われてきたルーシーに休日などなかった。あるのは食事休憩と就寝する時だけ。
年頃の子供がどんな遊びをするのか、何を趣味とするのか、娯楽なんて考える余裕などなかった。
この村ではきっと今日は休日なんだとルーシーは思って、幸せそうに楽しそうに過ごす人たちを見るのが興味深かった。自分もいつかこうして自由な時間を過ごしたりするのだろうか、と。
そんなことを考えている内に村長の家に到着した。ルーシーは呼吸を整えてからドアをノックする。すると中から『はーい』と声がしてドアが開いた。村長の奥さんだ。にこやかにルーシーを見ると『あぁ、あの件だね』と口にしたので、どうやら説明するまでもない様子だった。
頷くことしか出来なかったルーシーは、このまま戻った方がいいのか村長と一緒に行った方がいいのか迷う。村長の家とニコラがいる方角を交互に見ては悩んでいると、家の中から村長と孫のカミナが出て来た。
「お使いご苦労じゃったな。それじゃあ集会所に行こうかの。カミナ、みんなに声をかけて来てくれ」
「えぇ〜俺が?」
「ルーシーと一緒だったら喜んで行くのかの?」
「バッ……バッカじゃねぇの!? いつまで言ってんだよクソジジイ! 行きゃあいいんだろ、行きゃあ!」
顔を真っ赤にして悪態をつくと、ルーシーのことをチラリと見て、それからすぐさま視線を逸らすと走って行ってしまった。何がなんだかわからないルーシーはただただその場に佇む他なかった。ホッホッホッと満足そうに笑う村長。
「それではワシらも行こうかの。どうせニコラはもう集会所に向かっておるじゃろう」
「え」
それでは戻っても誰も残ってないということなのか、とルーシーは虚をつかれた。集会所の場所がわからないルーシーはとにかく村長について行くしかない。ルーシーはペコリと頭を下げ、そしてうんうんと頷く村長と並んで歩いて行く。集会所へ向かう間、村長はぽつりぽつりとルーシーに声をかけた。
「ニコラは表情と態度のせいで冷たく感じるかもしれないが、根はとても優しい善人なんじゃよ。一緒に住んでいるお前さんならとっくにわかっていると思うがな。どんなに厳しく感じても、どんなに冷たくあしらわれていると感じても、それはお前さんの為を思って言っていることだから悪く思わないでおくれ」
「あの……、えっと……。はい、わかってます。お師様は、その……私にとても優しくしてくださいます。それに厳しいとも冷たくあしらわれているとも思っていません。むしろとても良くしてくださっています。感謝し足りない位です……」
この村の人間はとても温かい人たちばかりだと思っていたので、ルーシーは本音を口にした。まだ自分の本音を口にするのは怖かったが、悪口ではなく褒め言葉なら悪い気はしないだろうと判断した。
村長はルーシーを見てにっこり笑う。
「ルーシー、お前さんがニコラの弟子になってくれてワシも嬉しいよ」
それから少し間が空き、口にすることを少し躊躇ったのか。重い口を開けるように、青空を見上げながら独り言のように語り出した。
「ニコラがこの村に辿り着いてもう何年経つか。ニコラも魔女じゃからな、他所の国でよっぽど酷い目にでも遭ったんじゃろう。今の表情からは想像もつかない位、それこそ氷のように冷たい女性じゃった。何者も寄せ付けず、誰のことも信用しない。それが今ではこんなに村人たちと打ち解けてくれて、すっかりこの村にとって欠かせない大切な魔女になってくれたよ。お前さんもそんなニコラみたいな魔女になれるよう、頑張りなさい」
はい、とだけ頷くルーシー。まさか村長からニコラに関することを聞けるとは思わなかった。
そしてほんの少しだけニコラのことを知った気がした。あくまで村長の目線なのだからその言葉全てが真実とは限らないのかもしれないが、きっと本当のことだろうと思う。
村人たちと仲良く接するニコラにもそんな時期があったのは驚きだった。自分とは違って、普通の人間たちと何の問題もなく過ごしてきたものだとばかり思っていたから。
ニコラでも、辛く苦しい時期があったのだと思うと心がとても苦しくなる。まるで自分のことのように。ルーシーは自分がこんなにも共感しやすい人間だったのかと、我ながら少し意外だった。
そんな風に思っていると話を中断するように村長が大きな声を上げる。
「おーい、待たせたの。他の連中はカミナが呼びに行っとるから、しばらくしたら全員集まるじゃろうて!」
村長が声をかけた人物はニコラだった。小屋ではないが一軒家でもない木造の平屋の前で、両腕を組んで仁王立ちしている。村長の言葉を聞いてニコラは片手で了解の合図を送ると、親指で集会所のドアを指して中へ入るように促していた。それを見て村長はまたホッホッホッと笑って、こちらも片手で合図を送る。
するとニコラが集会所に入っていくのを確認してから村長は口元に指を当てながらウィンクをした。
「今の話、ワシから聞いたのは内緒にしておくんじゃよ? ニコラは怖いからの」
『はい』とも『いいえ』とも言い難い秘め事の約束とニコラが怖いという発言に関して、ルーシーは返答に困った末に判断のつかない表情で言葉を濁した。自分から話すつもりは毛頭ないが、ニコラに詰問されたら黙っていられる自信がなかった。……今はまだ。
村長の後ろを歩くようについて行きながら集会所の中へと入る。
雪の降り積もった外とは違って、中はとても暖かい。どうやらすでに暖炉の火を起こしていたようだ。
集会所と言うだけあって中はだだっ広いワンフロアになっており、椅子が何脚か並べられている。ニコラの他にもルーシーたちより先に来ていた女性陣、男性陣が椅子を用意していたようだ。
暖炉の前には女性陣の子供たちだろうか、男女数人でブロック崩しをして遊んでいる。
村長とルーシーが中へ入って行くなり、まるで打ち合わせでもしていたかのように子供たちは奥の部屋へと村の女性に連れて行かれる。
他の村人たちも各々自由に並べられた椅子に腰掛けていった。そしてルーシーの背後からカミナの声が聞こえてきる。どうやら村長に言われた通り残りの村人たちに声をかけ、集会所まで連れて来たようだ。
村人全員ではないようだが、ぞろぞろと集会所に入ってきてはそれぞれ椅子に座っていく。何かの演説でも始まりそうな雰囲気だった。
なんだか物々しく感じてきたルーシーは急に緊張が増してくる。てっきりニコラと何人かの村人だけで和気あいあいと雑談するものだとばかり思っていたから。
村長以外、ここに集まった村人たちがこの村でどういった位置付けをされた人物なのか、初めてこの村にやって来たルーシーには見当もつかない。そして案の定、そんなルーシーの心の中でも読んでいるかのように、彼らがどういった人選で呼ばれたのかニコラによってすぐ知ることとなった。
椅子が向かっている方向には低い壇上があり、ニコラはそこに立っていた。ルーシーはなぜか壇上の横に並べられた椅子に村長夫婦に挟まれて座っている。斜め前とはいえ村人たちの視線の先に自分がいるなんて、余計に緊張してくると思いながら座っていると、村長の奥さんが『大丈夫だよ』と囁いて肩を叩いてくれた。
村人全員の視線はニコラに注がれている。自分が緊張することはない、と心の中で呟きながらこれから一体何が始まるのか、ルーシーも真剣に耳を傾けた。
「みんな集まったようだね。休日に時間を取らせて悪かったよ。すぐ終わらせるから勘弁しておくれ」
まずは挨拶がてらにそう切り出す。それからニコラがルーシーの方へ視線を送り、紹介するように手を差し伸べた。突然壇上へ来るように促され、顔が引きつる。するとルーシーが立ち上がる前にニコラが続きを話し出した。ルーシーの緊張を見て、壇上に上がらずに紹介を始めるようだった。
「村長の隣に座っているのはルーシー、知っている人はもういると思うが私の弟子となった子だ。私はこの子に魔女としての技術を教え育てる為、ここを離れて各地を巡る長い旅に出ようと思っている」
ニコラの言葉にルーシーを始め、その場にいた全員が驚愕していた。