残酷な描写あり
58 「毒疫の魔女メランコリン」
激しい頭痛、そして全身の痺れは無くなったようだが、まるで身体中が筋肉痛のような激しい痛みで、柔らかいベッドに寝転がっているだけでも辛かった。
(ベッド……?)
記憶が曖昧だったヴァルゴは、唐突に自身に起きた出来事を思い出す。ガバッと起き上がるが、周囲を確認する前に全身の痛みが走って短く呻く。
またすぐ仰向けに寝転がり、うっすらと両目を開けて天井を窺う。どこかの建物のようだった。
(俺は……確か、ミリオンクラウズ公国に向かってて……。それから……、魅力的な森を見つけて……、それで……)
ゆっくりと記憶を辿っていたら、目の前にぬっと人間の顔が覗き込んで来た。
「うわぁっ!」
「ひゃあっ!」
驚いたヴァルゴの悲鳴に驚いて、その女性ーーメランコリンもまた悲鳴を上げる。
しかし手に持った白湯の入ったマグカップはなんとか死守したようだ。すぐまた「あちち!」と叫ぶメランコリン。
両手で持った熱々のマグカップを、そばにあるサイドテーブルに慌てて置いた。
「目が覚めたのね、よかった」
「あんたは確か……メランコリン、だったか」
「どうぞ、メリィと呼んでください」
「あぁ……えっと、メリィ。その……俺はどれくらい気絶していた?」
「毒が完全に抜けるまで、大体二日……かしら?」
メリィは人差し指をアゴに当てて、考えるような仕草をしながら答えた。二日という回答にヴァルゴは再び呻く。
「なんてことだ。俺の貴重な二日が……」
片手で頭を抱えるように、がっくりとするヴァルゴ。ため息まじりにつぶやいた彼の言葉に、メリィはまるで励ますような口調でフォローした。
「でもたった二日です! 普通、私の毒に少しでも充てられた人間は一週間くらいは高熱と全身の筋肉痛と頭痛と嘔吐と、それから下痢と幻覚や幻聴が続いた後に命を落としてしまうんです。それに比べたらヴァルゴさんの回復力は凄まじいです! さすが強靭な肉体を持つ獣人の方ですね!」
力持ちを表すポーズをしながら明るく説明するメリィとは裏腹に、ヴァルゴは内心「そんなにか……」と驚きを隠せない。
それだけの症状、そこらの毒草や毒キノコ以上のものといえる。
「確かに獣人族は強い身体が自慢だが……」
それでも、だ。
ヴァルゴはにわかには信じられない、という眼差しでメリィを見つめる。
獣人族の身体能力は人間の十倍以上だ。体格差はもちろん、筋肉量、視力、聴力、腕力、脚力。どれを取っても人間など足元にも及ばない、まさに肉体の限界を追求した種族といったところだ。
それだけではない。獣人族は毒物などの抵抗力も並の人間以上に高いのが特徴だった。
野生味あふれる彼ら種族は、その進化の過程により毒を体内に含んでもそれを中和、消滅させる程に毒抵抗力が高い。
そんな種族であるヴァルゴが、だ。メリィの肉体から発せられた毒で、二日も意識不明の重体にまで陥ったのだ。
それにヴァルゴは特に種族の中でも、強靭な肉体の持ち主であることが自慢だった。幼少期に食用の猫草と勘違いして毒草を口にしてしまい、半日位は高熱と下痢を引き起こしたが、それが最初で最後の食当たりだ。
毒の抵抗力を鍛える為に、あえて弱い毒を食してきた。そうやって一族は多少の毒には強い抵抗力を身につけていったのである。
そんなヴァルゴが二日も……。
これは非常に信じ難い出来事だった。
ショックを隠せないヴァルゴであったが、どうぞと渡されたマグカップを見て思わず怯む。
「そういえば、あんたに近付いたら毒に充てられるんじゃなかったのか?」
あの時は一定の距離を保つほどに気を使っていたメリィであるが、今は何事もなかったかのように距離を詰めてくる。
あの苦しみをもう一度味わうのはごめんだったし、何よりまた二日もベッドの上に縛り付けられるのはうんざりだった。
せっかく手に入れた諸国漫遊の旅を、ベッドの上で過ごすわけにいかない。ヴァルゴに与えられた期間はおよそ半年。
たった半年で世界を見て回れるはずもないのはわかっている。それでもその半年の間に、少しでも多くの村を、町を、国を見ておきたい。多くの人々と話をしてみたい。魔女とやらにお目にかかってみたい。
「ヴァルゴさんの毒に対する抵抗力のおかげです。直接触れたりしなければ、大丈夫みたいですよ」
ーー魔女。
毒疫の魔女メランコリン。
そう、彼女はヴァルゴが会ってみたいと思っていた……魔女だ。
「それにまだ試作段階ではあるんですけど、とても聡明な魔女様のお智慧をお借りして、毒の抵抗力を高める薬をあなた専用に処方してみました」
腰ベルトに付いたポーチの中から、紙で小さく包まれたものを取り出す。それをゆっくり広げていくと、中には白い粉薬が入っていた。
「これを飲めば、あらゆる毒に対する抵抗力が上がります。私が至近距離にいても、一日位は効果が続きます」
そう言ってからメリィは急に頬を赤らめて、気まずそうに視線をヴァルゴから外すともじもじとしながら口籠る。
「あ、でも……すぐにここをお発ちになるのでしたら、こんな薬を飲む必要なんて、ない……ですけど」
つまりこの薬はメリィと長く一緒にいる為のものらしい。
銀髪の三つ編みの先をくるくるといじりながら、チラチラとヴァルゴの様子を窺う。どうやら返答を待っているようだ。
発する言葉も、表情も、態度も、実にわかりやすい娘だと思いながらヴァルゴは、くつくつと笑いながら手を差し出す。
「ほら、早く渡せ。温かい白湯で飲んだ方が、効果が早く現れそうだ」
その言葉にメリィはまたしてもわかりやすい笑顔で、元気よく「はい!」と紙包みを渡して、今か今かとヴァルゴが飲み込むのを待った。
その様子があまりに子供のようで、人間に対して「可愛らしい」という感情を抱いたのは初めてだ。
そんなことを考えていたせいだろう。
「あっつ!!」
彼は自身が熱い飲食物が苦手だったことを忘れていたらしい。
どうやら舌と上アゴを、少し火傷してしまったようだ。
「まぁ、うふふ。ヴァルゴさんって猫舌なんですね」
楽しそうに微笑む彼女を見て、ヴァルゴはなぜだか白湯を飲む前に胸の奥が温かくなっていくのを感じた。
そうして今度は少し冷ましてから、白湯を口に含みながら粉薬と一緒に喉の奥へと流し込んだ。
***
ヴァルゴはベッドの上で、自分が旅に出るに至った経緯を簡単に話して聞かせる。
未だにベッドから出られないのはメリィの指示だった。
ヴァルゴはまだ万全とはいかなくても、椅子に腰掛ける程度には回復していたのだが、メリィがそれを引き止めたのだ。
ただでさえ自分のいる空間で同じ空気を吸っては吐いてをしているのだから、薬の効果がしっかり現れて体調がすっかり元通りになるまでは安静にしておいた方がいいと言う。
大人しそうな外見からは想像出来ない頑固さだった。
彼女があまりに引き止めるものだから、ヴァルゴは思わず従う。
どうせ動き回れないのならと、彼は自分のことをまずメリィに話しておこうと思ったのだ。
「私はこんな特性を持った魔女なので、ずっとここに引きこもってましたから。外の世界のことは実は私もよくわかってないんです」
視線を逸らし、物憂げな表情でそう話すメリィ。
彼女の表情、そして彼女の持つ特殊な性質から察することが出来る。
「迫害されたのか? 人間に……」
返事も頷きもしなかったが、否定もしなかった。
それで十分だったので、ヴァルゴは大きく伸びをしながら愚痴をこぼす。
「早くこの森の中を探索してみたいものだ」
「森はどこも同じじゃないんですか?」
「全然違う。その森に自生している植物、木々、生物。環境の変化で全く異なるものだ」
メリィはいつも真剣にヴァルゴの話に耳を傾ける。
まるで一歩も村から出たことのない子供が、仕事などで遠出して帰ってきた親に「他の町は、国はどんなだった?」と質問攻めするみたいだった。
興味津々になって、獣人国のことを聞くメリィはとても楽しそうだった。気付けばあれからさらに一週間が経過していた。
処方された薬を飲み続けて、次第に体の不調が完全に無くなっていったヴァルゴは、まずメリィの生活について教えてもらっていた。
家の中、家の周辺、申し訳程度に作られた家庭菜園。
食事はどうしているのか問うと、ミリオンクラウズ公国から慈悲として食材を提供してもらっているという。
必ず三日に一度、森の出入り口……指定された場所に荷物が置かれている。メリィはこれを飼っているロバに家まで運ばせて、食材を検めて日々の献立を考えるのだ。
彼女の言葉でいくつか疑問に思うことはあったが、毒のコントロールがままならないというメリィは動物を飼っている。
荷物運び用のロバ、卵を産んでもらう為の鶏など。どれも生活に欠かせない動物として飼っているらしいが、共に生活をしているというのなら毒への対処はどうしているのかヴァルゴは気になった。
「ミリオンクラウズ公国で宮廷魔術士をされている、聡慧の魔女ライザ様がいらっしゃいます。ライザ様から色々と、毒疫を抑える方法などを調べていただいて。多少ではありますが、私の周囲にある動植物には影響を与えないまでに管理することが出来るようになったんです」
「それを教わる前はどうしていたんだ? いや、どうなってた?」
「……私が触れる全てのものが毒に侵されました。触れた植物が枯れ果ててしまったり、虫や動物も私の体から漏れ出る毒の影響で命を落としたり」
メリィは自嘲気味に微笑みながら、自身のことを話して聞かせる。
ヴァルゴは黙って聞いた。彼女のことが知りたいからだ。
「触れたら毒、触れなくても空気感染という形で毒が取り込まれて、相手を死に至らしめてしまう。私はこの世に生まれてはいけない人間なんだと、そう思いました。私の特性が現れて、周囲にいた人達が次々と死んで行って、その元凶が私なんだとわかった時には……村は滅んでいました」
***
何が起きたのか、なぜこんなことになったのか。
幼い頃から飼っていたペットの鳥が突然死した。メリィがいつものように餌をあげた直後のことだ。
全く理解が追いつかないまま、メリィの両親は彼女を宥めようと抱きしめた瞬間、血を吐いて悶え苦しみ、泡を吹いて亡くなった。
それを見た恐怖で家の外に飛び出したメリィは、隣近所の村人達に助けを求めるが、みんな両親と同じような症状で次々と死んでいく。
混乱し、泣き叫びながら駆け回るメリィ。やがて自分が助けを求めた相手が、自分のせいで死んでいくことに気が付いた。
絶望しかなかった。その考えに辿り着いた瞬間に、両親を殺したのが自分なのだという事実を突きつけられたからだ。
頭がおかしくなりそうだった。どうしたらいいのかもわからない。
しかし誰にも助けを求めることが出来ない。
わずか十歳の少女は、無人となった自分の村に、家に戻ってただ一人ベッドの上で震えるしか出来なかった。
隣のリビングには両親の死体がある。数時間後には空腹になってきた。喉も乾く。用を足したいのを我慢していたら、お腹が痛くなってきた。しかしベッドから一歩出たりしたら、また悲劇的なことが起きてしまうかもしれない。
何よりどんどん腐敗していく両親の死体を目にするのが怖かった。
だがこのまま死を待とうとしても、メリィは自分が死ぬのが怖かった。お腹の痛みに耐え切れなくなった時には夜になっており、暗闇の中……手探りでトイレに向かう。
お腹の痛みが治ったら、今度は空腹が耐えられなかった。
しかしリビングには両親の死体がある。対面型のキッチンなので、食べ物を探すにはリビングを横切らなければいけなかった。
疲労と心労と空腹がメリィの思考を鈍らせる。
ふらつく足取りで両親の死体を跨いでキッチンへ入ると、食べられそうなものを適当に見繕って、どんどん口の中に放り込む。
水道の蛇口を捻ってコップも使わず水を飲んだ。
食べては飲んでを繰り返し、満腹になると今度は眠気に襲われる。
何も考えられなくなったメリィは、キッチンで意識を失った。
次に目を覚ました時には、再び地獄が始まった。
両親の死体は腐敗し、虫が集まっていたので悲鳴を上げながら自分の家から駆け出して行く。
周辺には所構わず助けを求め殺してしまった村人達の死体が、あちらこちらに横たわっていた。両親のものよりもっと腐敗は進んでいた。中には死臭を嗅ぎつけた野犬が村人の死体を貪っている。
自分は悪くない。自分のせいじゃない。
そう言い聞かせながらメリィは村を出て行って、行くあてもないまま彷徨った。
感情が昂ったり不安定な状態に陥ると、自分から何か得体の知れないものが溢れ出ていることに気が付いた。
両親達を死に追いやったのは、この何かのせいなんだろうとわかるようになる。だけど抑え方がわからなかった。
突然溢れ出たものだから、コントロールのしようがない。
しかしこれをなんとか抑えなければ、また誰かとすれ違う度にこの何かによって相手を死に至らしめてしまうのかもしれなかった。
自分が怖くなった。やっぱりあの時に死を選んでいた方が良かったのかもしれないと後悔する。
だけどメリィはまだたったの十歳だ。魔女の性質を持って生まれてから、両親も村人達もまるで普通の子供のように接して育ててくれた。突然発現した魔女の力に、メリィは戸惑うだけで死を選ぶことはどうしても出来なかった。
両親を、村人達を殺しておいて自分はまだ生きていたいと思える自分が、とても醜い存在のように思えて仕方ない。
悲観的になりながら、それでもメリィは自殺することすら出来なかった。
歩き続けていると、少し大きな町に辿り着いた。
メリィが住んでいた村の隣にあった町だ。子供の足で約半日。ふらふらで、目的もないまま歩いて来たメリィは二日かかった。
メリィはその町を避けようとするが、ちょうど放牧に出かけようとしていた羊の群れと羊飼いに遭遇してしまう。
メリィとすれ違った途端、バタバタと苦しみ悶えて死んでいく羊の様子に、町は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図となる。
被害を増やすわけにはいかないと逃げ出すメリィに、町にいた教会の審問官……魔女狩りを統括する僧侶戦士が襲いかかってきた。
自分に近付けば死は免れない、そう思ったメリィは自分の命が惜しいわけではなく、被害者を増やすまいと逃げ出したのだ。
逃げて、隠れてを繰り返していく内にメリィを追いかけていた僧侶戦士の半数以上は毒にかかって死んでいった。
そんな時、たまたま通りがかった魔女の一団にメリィは遭遇したという。
「それがライザ様が率いる一団でした。とても聡い方でしたので、私のこともすぐに察してくれて。魔女の一団の誰一人として傷付けることなく、私は保護されて。今はここで一人ひっそりと暮らしています」
メリィは勢いのままに、自身の過去を語って聞かせた。
誰も訪れない寂しい家に、初めての客の来訪。話し相手は動物しかいなかった孤独な生活の中で、初めて会話が成立する相手と出会った。
メリィはこれまでの孤独を埋めるように。
魔女として覚醒してから、初めて出来た話し相手に饒舌になっていた。
一方その壮絶な過去を聞いたヴァルゴは、文字通り絶句している。
魔女に関することは人間が記した資料でしか読んだことがない。
獣人国には人間は住んでいないので、当然魔女もいない。
元素の力を操ったり、精霊と対話したり、空を飛んだり。
幻想的で超常的なことを魔力によって実現させるのが魔女だと、超越した力を扱う人間だと思っていた。
それ故に魔女は格上の存在で、人々から重宝される特別な存在だと……そう認識していた。
全くの間違いだ。
順当に力の使い方を教わらなければ、メリィのような悲劇はこうも容易く起きてしまう。それこそ人類を死滅させるほどに。
それだけ危険な存在であるにも関わらず、目の前にいる女性はとても儚く脆い存在として映った。
「とんでもない苦労を、して来たんだな……」
王子として恵まれた身分、恵まれた体格で生まれ育ったヴァルゴとは大違いだった。
確かに王族ということでうんざりすることも、泣いて逃げ出したりしたくなるほどの苦悩もたくさんある。
だがか弱いこの女性が経験した出来事とは、圧倒的にレベルが違いすぎた。これほどに壮絶な人生を生きる魔女もいるのかと、ヴァルゴは息を呑むことしか出来なかった。
「でも私、あの時保護されて、あのまま死ななくて……勝手な言い分ですが、本当に良かったと思います」
小さな声で、消え入るような程の声で、メリィは囁く。
罪悪感で塗りつぶされた顔には、ほんのわずかではあるが心から嬉しいという表情が見て取れた。
「だって、あのまま自暴自棄になって死んでいたら……こうしてヴァルゴさんに会うことなんてなかったもの。私、獣人の方に会うのは初めてなんです」
「まぁ、そうだろうな。そもそも獣人族は滅多に外の……人間の住む地域に出かけたりなんてしないから」
「正直に言うと、私の毒に充てられて死ななかった人は……ヴァルゴさんが初めてなんです。獣人族は毒耐性がとても高いと、本で読みましたから」
自分の毒で死なない。
これだけ聞いていれば、なんとも呑気で単純な理由だとは思ったが。彼女の話を聞いた後ではその捉え方が大きく変わる。
自分の毒で死なない。
これはメリィにとって、とても大きな救いなのだ。
触れるもの、そばにいる者全てを死に至らしめる毒疫の呪い。
彼女は誰も死なせまいと、自ら森の奥に引きこもったに違いない。
そう考えると、彼女の言葉はとてつもない重みを感じる。
薬の作用とはいえ、ここ数日の間にメリィの毒がヴァルゴの肉体に効果を発揮することはなかった。
もし……。
もし自分がメリィの毒を克服することが出来たなら?
獣人族は強靭な肉体を持つ種族だ。
今ではトリカブトやサソリ、タイパンの持つ毒すら日々の鍛錬で克服してきた。
そんなある意味特殊な性質を持つ自分なら、毒疫の魔女メランコリンの毒でさえ……。
もしかしたら……?
(ベッド……?)
記憶が曖昧だったヴァルゴは、唐突に自身に起きた出来事を思い出す。ガバッと起き上がるが、周囲を確認する前に全身の痛みが走って短く呻く。
またすぐ仰向けに寝転がり、うっすらと両目を開けて天井を窺う。どこかの建物のようだった。
(俺は……確か、ミリオンクラウズ公国に向かってて……。それから……、魅力的な森を見つけて……、それで……)
ゆっくりと記憶を辿っていたら、目の前にぬっと人間の顔が覗き込んで来た。
「うわぁっ!」
「ひゃあっ!」
驚いたヴァルゴの悲鳴に驚いて、その女性ーーメランコリンもまた悲鳴を上げる。
しかし手に持った白湯の入ったマグカップはなんとか死守したようだ。すぐまた「あちち!」と叫ぶメランコリン。
両手で持った熱々のマグカップを、そばにあるサイドテーブルに慌てて置いた。
「目が覚めたのね、よかった」
「あんたは確か……メランコリン、だったか」
「どうぞ、メリィと呼んでください」
「あぁ……えっと、メリィ。その……俺はどれくらい気絶していた?」
「毒が完全に抜けるまで、大体二日……かしら?」
メリィは人差し指をアゴに当てて、考えるような仕草をしながら答えた。二日という回答にヴァルゴは再び呻く。
「なんてことだ。俺の貴重な二日が……」
片手で頭を抱えるように、がっくりとするヴァルゴ。ため息まじりにつぶやいた彼の言葉に、メリィはまるで励ますような口調でフォローした。
「でもたった二日です! 普通、私の毒に少しでも充てられた人間は一週間くらいは高熱と全身の筋肉痛と頭痛と嘔吐と、それから下痢と幻覚や幻聴が続いた後に命を落としてしまうんです。それに比べたらヴァルゴさんの回復力は凄まじいです! さすが強靭な肉体を持つ獣人の方ですね!」
力持ちを表すポーズをしながら明るく説明するメリィとは裏腹に、ヴァルゴは内心「そんなにか……」と驚きを隠せない。
それだけの症状、そこらの毒草や毒キノコ以上のものといえる。
「確かに獣人族は強い身体が自慢だが……」
それでも、だ。
ヴァルゴはにわかには信じられない、という眼差しでメリィを見つめる。
獣人族の身体能力は人間の十倍以上だ。体格差はもちろん、筋肉量、視力、聴力、腕力、脚力。どれを取っても人間など足元にも及ばない、まさに肉体の限界を追求した種族といったところだ。
それだけではない。獣人族は毒物などの抵抗力も並の人間以上に高いのが特徴だった。
野生味あふれる彼ら種族は、その進化の過程により毒を体内に含んでもそれを中和、消滅させる程に毒抵抗力が高い。
そんな種族であるヴァルゴが、だ。メリィの肉体から発せられた毒で、二日も意識不明の重体にまで陥ったのだ。
それにヴァルゴは特に種族の中でも、強靭な肉体の持ち主であることが自慢だった。幼少期に食用の猫草と勘違いして毒草を口にしてしまい、半日位は高熱と下痢を引き起こしたが、それが最初で最後の食当たりだ。
毒の抵抗力を鍛える為に、あえて弱い毒を食してきた。そうやって一族は多少の毒には強い抵抗力を身につけていったのである。
そんなヴァルゴが二日も……。
これは非常に信じ難い出来事だった。
ショックを隠せないヴァルゴであったが、どうぞと渡されたマグカップを見て思わず怯む。
「そういえば、あんたに近付いたら毒に充てられるんじゃなかったのか?」
あの時は一定の距離を保つほどに気を使っていたメリィであるが、今は何事もなかったかのように距離を詰めてくる。
あの苦しみをもう一度味わうのはごめんだったし、何よりまた二日もベッドの上に縛り付けられるのはうんざりだった。
せっかく手に入れた諸国漫遊の旅を、ベッドの上で過ごすわけにいかない。ヴァルゴに与えられた期間はおよそ半年。
たった半年で世界を見て回れるはずもないのはわかっている。それでもその半年の間に、少しでも多くの村を、町を、国を見ておきたい。多くの人々と話をしてみたい。魔女とやらにお目にかかってみたい。
「ヴァルゴさんの毒に対する抵抗力のおかげです。直接触れたりしなければ、大丈夫みたいですよ」
ーー魔女。
毒疫の魔女メランコリン。
そう、彼女はヴァルゴが会ってみたいと思っていた……魔女だ。
「それにまだ試作段階ではあるんですけど、とても聡明な魔女様のお智慧をお借りして、毒の抵抗力を高める薬をあなた専用に処方してみました」
腰ベルトに付いたポーチの中から、紙で小さく包まれたものを取り出す。それをゆっくり広げていくと、中には白い粉薬が入っていた。
「これを飲めば、あらゆる毒に対する抵抗力が上がります。私が至近距離にいても、一日位は効果が続きます」
そう言ってからメリィは急に頬を赤らめて、気まずそうに視線をヴァルゴから外すともじもじとしながら口籠る。
「あ、でも……すぐにここをお発ちになるのでしたら、こんな薬を飲む必要なんて、ない……ですけど」
つまりこの薬はメリィと長く一緒にいる為のものらしい。
銀髪の三つ編みの先をくるくるといじりながら、チラチラとヴァルゴの様子を窺う。どうやら返答を待っているようだ。
発する言葉も、表情も、態度も、実にわかりやすい娘だと思いながらヴァルゴは、くつくつと笑いながら手を差し出す。
「ほら、早く渡せ。温かい白湯で飲んだ方が、効果が早く現れそうだ」
その言葉にメリィはまたしてもわかりやすい笑顔で、元気よく「はい!」と紙包みを渡して、今か今かとヴァルゴが飲み込むのを待った。
その様子があまりに子供のようで、人間に対して「可愛らしい」という感情を抱いたのは初めてだ。
そんなことを考えていたせいだろう。
「あっつ!!」
彼は自身が熱い飲食物が苦手だったことを忘れていたらしい。
どうやら舌と上アゴを、少し火傷してしまったようだ。
「まぁ、うふふ。ヴァルゴさんって猫舌なんですね」
楽しそうに微笑む彼女を見て、ヴァルゴはなぜだか白湯を飲む前に胸の奥が温かくなっていくのを感じた。
そうして今度は少し冷ましてから、白湯を口に含みながら粉薬と一緒に喉の奥へと流し込んだ。
***
ヴァルゴはベッドの上で、自分が旅に出るに至った経緯を簡単に話して聞かせる。
未だにベッドから出られないのはメリィの指示だった。
ヴァルゴはまだ万全とはいかなくても、椅子に腰掛ける程度には回復していたのだが、メリィがそれを引き止めたのだ。
ただでさえ自分のいる空間で同じ空気を吸っては吐いてをしているのだから、薬の効果がしっかり現れて体調がすっかり元通りになるまでは安静にしておいた方がいいと言う。
大人しそうな外見からは想像出来ない頑固さだった。
彼女があまりに引き止めるものだから、ヴァルゴは思わず従う。
どうせ動き回れないのならと、彼は自分のことをまずメリィに話しておこうと思ったのだ。
「私はこんな特性を持った魔女なので、ずっとここに引きこもってましたから。外の世界のことは実は私もよくわかってないんです」
視線を逸らし、物憂げな表情でそう話すメリィ。
彼女の表情、そして彼女の持つ特殊な性質から察することが出来る。
「迫害されたのか? 人間に……」
返事も頷きもしなかったが、否定もしなかった。
それで十分だったので、ヴァルゴは大きく伸びをしながら愚痴をこぼす。
「早くこの森の中を探索してみたいものだ」
「森はどこも同じじゃないんですか?」
「全然違う。その森に自生している植物、木々、生物。環境の変化で全く異なるものだ」
メリィはいつも真剣にヴァルゴの話に耳を傾ける。
まるで一歩も村から出たことのない子供が、仕事などで遠出して帰ってきた親に「他の町は、国はどんなだった?」と質問攻めするみたいだった。
興味津々になって、獣人国のことを聞くメリィはとても楽しそうだった。気付けばあれからさらに一週間が経過していた。
処方された薬を飲み続けて、次第に体の不調が完全に無くなっていったヴァルゴは、まずメリィの生活について教えてもらっていた。
家の中、家の周辺、申し訳程度に作られた家庭菜園。
食事はどうしているのか問うと、ミリオンクラウズ公国から慈悲として食材を提供してもらっているという。
必ず三日に一度、森の出入り口……指定された場所に荷物が置かれている。メリィはこれを飼っているロバに家まで運ばせて、食材を検めて日々の献立を考えるのだ。
彼女の言葉でいくつか疑問に思うことはあったが、毒のコントロールがままならないというメリィは動物を飼っている。
荷物運び用のロバ、卵を産んでもらう為の鶏など。どれも生活に欠かせない動物として飼っているらしいが、共に生活をしているというのなら毒への対処はどうしているのかヴァルゴは気になった。
「ミリオンクラウズ公国で宮廷魔術士をされている、聡慧の魔女ライザ様がいらっしゃいます。ライザ様から色々と、毒疫を抑える方法などを調べていただいて。多少ではありますが、私の周囲にある動植物には影響を与えないまでに管理することが出来るようになったんです」
「それを教わる前はどうしていたんだ? いや、どうなってた?」
「……私が触れる全てのものが毒に侵されました。触れた植物が枯れ果ててしまったり、虫や動物も私の体から漏れ出る毒の影響で命を落としたり」
メリィは自嘲気味に微笑みながら、自身のことを話して聞かせる。
ヴァルゴは黙って聞いた。彼女のことが知りたいからだ。
「触れたら毒、触れなくても空気感染という形で毒が取り込まれて、相手を死に至らしめてしまう。私はこの世に生まれてはいけない人間なんだと、そう思いました。私の特性が現れて、周囲にいた人達が次々と死んで行って、その元凶が私なんだとわかった時には……村は滅んでいました」
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何が起きたのか、なぜこんなことになったのか。
幼い頃から飼っていたペットの鳥が突然死した。メリィがいつものように餌をあげた直後のことだ。
全く理解が追いつかないまま、メリィの両親は彼女を宥めようと抱きしめた瞬間、血を吐いて悶え苦しみ、泡を吹いて亡くなった。
それを見た恐怖で家の外に飛び出したメリィは、隣近所の村人達に助けを求めるが、みんな両親と同じような症状で次々と死んでいく。
混乱し、泣き叫びながら駆け回るメリィ。やがて自分が助けを求めた相手が、自分のせいで死んでいくことに気が付いた。
絶望しかなかった。その考えに辿り着いた瞬間に、両親を殺したのが自分なのだという事実を突きつけられたからだ。
頭がおかしくなりそうだった。どうしたらいいのかもわからない。
しかし誰にも助けを求めることが出来ない。
わずか十歳の少女は、無人となった自分の村に、家に戻ってただ一人ベッドの上で震えるしか出来なかった。
隣のリビングには両親の死体がある。数時間後には空腹になってきた。喉も乾く。用を足したいのを我慢していたら、お腹が痛くなってきた。しかしベッドから一歩出たりしたら、また悲劇的なことが起きてしまうかもしれない。
何よりどんどん腐敗していく両親の死体を目にするのが怖かった。
だがこのまま死を待とうとしても、メリィは自分が死ぬのが怖かった。お腹の痛みに耐え切れなくなった時には夜になっており、暗闇の中……手探りでトイレに向かう。
お腹の痛みが治ったら、今度は空腹が耐えられなかった。
しかしリビングには両親の死体がある。対面型のキッチンなので、食べ物を探すにはリビングを横切らなければいけなかった。
疲労と心労と空腹がメリィの思考を鈍らせる。
ふらつく足取りで両親の死体を跨いでキッチンへ入ると、食べられそうなものを適当に見繕って、どんどん口の中に放り込む。
水道の蛇口を捻ってコップも使わず水を飲んだ。
食べては飲んでを繰り返し、満腹になると今度は眠気に襲われる。
何も考えられなくなったメリィは、キッチンで意識を失った。
次に目を覚ました時には、再び地獄が始まった。
両親の死体は腐敗し、虫が集まっていたので悲鳴を上げながら自分の家から駆け出して行く。
周辺には所構わず助けを求め殺してしまった村人達の死体が、あちらこちらに横たわっていた。両親のものよりもっと腐敗は進んでいた。中には死臭を嗅ぎつけた野犬が村人の死体を貪っている。
自分は悪くない。自分のせいじゃない。
そう言い聞かせながらメリィは村を出て行って、行くあてもないまま彷徨った。
感情が昂ったり不安定な状態に陥ると、自分から何か得体の知れないものが溢れ出ていることに気が付いた。
両親達を死に追いやったのは、この何かのせいなんだろうとわかるようになる。だけど抑え方がわからなかった。
突然溢れ出たものだから、コントロールのしようがない。
しかしこれをなんとか抑えなければ、また誰かとすれ違う度にこの何かによって相手を死に至らしめてしまうのかもしれなかった。
自分が怖くなった。やっぱりあの時に死を選んでいた方が良かったのかもしれないと後悔する。
だけどメリィはまだたったの十歳だ。魔女の性質を持って生まれてから、両親も村人達もまるで普通の子供のように接して育ててくれた。突然発現した魔女の力に、メリィは戸惑うだけで死を選ぶことはどうしても出来なかった。
両親を、村人達を殺しておいて自分はまだ生きていたいと思える自分が、とても醜い存在のように思えて仕方ない。
悲観的になりながら、それでもメリィは自殺することすら出来なかった。
歩き続けていると、少し大きな町に辿り着いた。
メリィが住んでいた村の隣にあった町だ。子供の足で約半日。ふらふらで、目的もないまま歩いて来たメリィは二日かかった。
メリィはその町を避けようとするが、ちょうど放牧に出かけようとしていた羊の群れと羊飼いに遭遇してしまう。
メリィとすれ違った途端、バタバタと苦しみ悶えて死んでいく羊の様子に、町は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図となる。
被害を増やすわけにはいかないと逃げ出すメリィに、町にいた教会の審問官……魔女狩りを統括する僧侶戦士が襲いかかってきた。
自分に近付けば死は免れない、そう思ったメリィは自分の命が惜しいわけではなく、被害者を増やすまいと逃げ出したのだ。
逃げて、隠れてを繰り返していく内にメリィを追いかけていた僧侶戦士の半数以上は毒にかかって死んでいった。
そんな時、たまたま通りがかった魔女の一団にメリィは遭遇したという。
「それがライザ様が率いる一団でした。とても聡い方でしたので、私のこともすぐに察してくれて。魔女の一団の誰一人として傷付けることなく、私は保護されて。今はここで一人ひっそりと暮らしています」
メリィは勢いのままに、自身の過去を語って聞かせた。
誰も訪れない寂しい家に、初めての客の来訪。話し相手は動物しかいなかった孤独な生活の中で、初めて会話が成立する相手と出会った。
メリィはこれまでの孤独を埋めるように。
魔女として覚醒してから、初めて出来た話し相手に饒舌になっていた。
一方その壮絶な過去を聞いたヴァルゴは、文字通り絶句している。
魔女に関することは人間が記した資料でしか読んだことがない。
獣人国には人間は住んでいないので、当然魔女もいない。
元素の力を操ったり、精霊と対話したり、空を飛んだり。
幻想的で超常的なことを魔力によって実現させるのが魔女だと、超越した力を扱う人間だと思っていた。
それ故に魔女は格上の存在で、人々から重宝される特別な存在だと……そう認識していた。
全くの間違いだ。
順当に力の使い方を教わらなければ、メリィのような悲劇はこうも容易く起きてしまう。それこそ人類を死滅させるほどに。
それだけ危険な存在であるにも関わらず、目の前にいる女性はとても儚く脆い存在として映った。
「とんでもない苦労を、して来たんだな……」
王子として恵まれた身分、恵まれた体格で生まれ育ったヴァルゴとは大違いだった。
確かに王族ということでうんざりすることも、泣いて逃げ出したりしたくなるほどの苦悩もたくさんある。
だがか弱いこの女性が経験した出来事とは、圧倒的にレベルが違いすぎた。これほどに壮絶な人生を生きる魔女もいるのかと、ヴァルゴは息を呑むことしか出来なかった。
「でも私、あの時保護されて、あのまま死ななくて……勝手な言い分ですが、本当に良かったと思います」
小さな声で、消え入るような程の声で、メリィは囁く。
罪悪感で塗りつぶされた顔には、ほんのわずかではあるが心から嬉しいという表情が見て取れた。
「だって、あのまま自暴自棄になって死んでいたら……こうしてヴァルゴさんに会うことなんてなかったもの。私、獣人の方に会うのは初めてなんです」
「まぁ、そうだろうな。そもそも獣人族は滅多に外の……人間の住む地域に出かけたりなんてしないから」
「正直に言うと、私の毒に充てられて死ななかった人は……ヴァルゴさんが初めてなんです。獣人族は毒耐性がとても高いと、本で読みましたから」
自分の毒で死なない。
これだけ聞いていれば、なんとも呑気で単純な理由だとは思ったが。彼女の話を聞いた後ではその捉え方が大きく変わる。
自分の毒で死なない。
これはメリィにとって、とても大きな救いなのだ。
触れるもの、そばにいる者全てを死に至らしめる毒疫の呪い。
彼女は誰も死なせまいと、自ら森の奥に引きこもったに違いない。
そう考えると、彼女の言葉はとてつもない重みを感じる。
薬の作用とはいえ、ここ数日の間にメリィの毒がヴァルゴの肉体に効果を発揮することはなかった。
もし……。
もし自分がメリィの毒を克服することが出来たなら?
獣人族は強靭な肉体を持つ種族だ。
今ではトリカブトやサソリ、タイパンの持つ毒すら日々の鍛錬で克服してきた。
そんなある意味特殊な性質を持つ自分なら、毒疫の魔女メランコリンの毒でさえ……。
もしかしたら……?