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作者: ディエ
R-15
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『〇〇市の郊外に広がる当植物園は、国内最大級の温室ドームを中心に、四季折々の自然を楽しめる憩いの空間です。温室を取り囲むように配置されたテーマ別展示室では、月ごとに多彩なイベントや企画展を開催し、毎回多くのお客様でにぎわっています。

建物の前に広がる庭園は、これまでも数々の映画やドラマのロケ地としても利用され、訪れる人々の目を楽しませてくれます。さらに背後に続く丘陵公園には、桜やもみじが数万本規模で植栽されており、春には桜の海、秋には紅葉の錦に包まれる壮大な景観をお楽しみいただけます。

自然と調和した空間で、学びと癒やしのひとときをぜひお過ごしください』

事前に調べた植物園の、ホームページでの紹介文だ。
正式名称は『県立総合植物丘陵公園』だけど、愛称の『グリーンドーム』の方が通りがいいらしい。
私もそちらの方の名前だったら聞いたことはある。
バスで来た時には、駐車場にも何台か車があったけど、ほとんどの人の目的は温室ドームや施設内のイベント、道すがらの庭園であり、初夏に丘陵公園の上まで登ろうという人は滅多にいない。
桜の季節やもみじの季節であれば、下草もきれいに払われて整備されているのだろうけど、今は丁度、その中間の時期だ。周囲の木々は緑一色で、この間の雨でより勢いを増した草たちが歩道へと溢れ出している。
先程までかすかに聞こえていた人々の声はすでに聞こえなくなり、その代わりに鳥の声が絶え間なく聞こえてくる。木々の間を吹き抜ける風は草の匂いを運び、火照った体を冷ましてくれる。
その緩やかな歩道の先には高床式の小さな東屋がある。
「とうちゃく~」
先輩は涼し気な水色のワンピースを翻しながら、一足早く階段を登り切り、東屋の前で振り返る。
私はゆっくりと階段を上がり、先輩の横で伸びをする。
「はぁ・・・ 結構歩くんですね」
ここ最近は長時間歩くことが増えたから、平気かと思っていたけど、上り坂というのは結構堪える。
「おかげで誰もいないでしょ?」
先輩は元運動部だけあって、まだまだ平気そうだ。
「そうですね。でも・・・」
私も階段を登り切った丘の上から、辺りを見回した。
「この辺りって、こんなに綺麗な場所だったんですね・・・」
少し高い位置から見ると、下の緑豊かな景色がよく見えて、その奥には街が広がっている。そして、そのさらに奥には海がかすかに見える。
私は元々インドア派で、人混みが嫌いだ。先輩はそんな私を、『あそこなら誰もいないから』と連れ出してくれたのだ。
「いい眺めでしょ? 最初はいつだったか、桜の時期に来たんだよね。もう、人込みで大変だったよ」
「でしょうね」
私は実際に来たことはなかったけど、ここが桜ともみじの名所であることくらいは知っている。先輩が辟易するほどの人混みになることも納得だ。
「あーちゃんが気に入ってくれたんだったら、今度は紅葉の時に来てみる? 平日の昼間だったら、そこまでの人混みではないと思うんだよね」
それは一緒に学校サボろうってことか?
「あーあ、真面目な先輩がそんなこと言うようになっちゃいましたか・・・」
私がわざとらしく、がっかりした口調で言う。
「えぇ、そりゃもう、お嫁ちゃんには無断外泊や学校抜け出し、夜歩きとか、色々仕込まれましたから」
そう言う先輩の左手の薬指には、落ち着いた色の指輪が光っている。
「ちょっと、先輩が私のお嫁さんなんですよ!」
そう反論する私の左薬指にも同じ指輪が光る。

ここに来る前に、二人でジュエリーショップに寄って買ったペアリングだ。流石にそこまで本格的なものは買えないので、今回の予算は一人1万5千円。先輩は家に連絡してからお金を下ろしていたので、ペアリングを付けるような関係というのも、親公認なんだろう。
今日は二人だけで指輪を付け合ったけど、いつか他の人の前で祝福されながら付ける日が来るのだろうか。

私がそんなことを考えていると、先輩が不意打ち気味にキスをしてくる。
「じゃあ、今日はあーちゃんが旦那様でいいよ」
唇が頬に触れるだけの軽いものだったが、そのさりげない仕草に私は赤面してしまう。先輩も照れ隠しなのか、さっさと東屋のベンチに行ってしまう。
「ちょっと早いけど、お弁当にしようか」
「そうですね」
私は平然を装って、先輩の横に座ってお弁当を取り出す。いつものブロック栄養食と乳酸菌飲料ではなく、朝から二人で作ったお弁当だ。
学校の屋上で二人並んでお昼を食べることはよくあったけど、こんな景色のいい所で、しかも同じお弁当を食べるとなると、その味も格別だ。
「先輩の卵焼き美味しいですね」
「でしょ?」
先輩の得意料理である卵焼きは、甘くてふわっとしていて、本当に絶品だ。私が作っても、こうはならない。
「今度どうやって作るか教えてくださいよ」
「ん~・・・ 教えない」
「え、どうしてですか?」
そんなところで断られるとは思ってもいなかった。
「あーちゃんの食べる卵焼きはずっと私が作りたいから」
先輩は澄ました顔をしてそんなことを言ってくる。
私も何か言い返そうとしたけど、何も思い浮かばない。
「・・・じゃあ、お願いします」
「うんうん、素直なあーちゃんはかわいいなぁ」
先輩はにこにこと笑って、頭を撫でてきそうな勢いだ。
そんな顔を直視していたらにやけてしまいそうなので、視線を逸らせて箸を動かす。
鳥の声を聞きながら、きれいな景色を見て、おいしいお弁当を、大好きな人と一緒に食べる。
少し前、ほんの二、三か月前ではありえなかったこと。
ずっと一人がいいと思っていたけど、今では先輩と離れて一人になるなど考えられない。
私は少しずつ変わっている。先輩に変えてもらったのだ。

「先輩」
「なぁに?」
私は食べ終えたお弁当箱を片付けながら、話しかける。
「先輩は海が好きなんですよね?」
「ん~、まぁ、好きかな・・・」
先輩は歯切れ悪く言う。多分、前に私が海は苦手だって言ったせいだ。
「あの、今年はもう無理だと思いますけど、来年、もしかしたら再来年かもしれませんけど」
「うん?」
「その、私も先輩と海、行けるようになれたらって、思います・・・」
「あーちゃん・・・?」
先輩は、『どういうこと?』と言いたげな顔だ。
「えっと、私のせいで、先輩が海行くの我慢しなきゃいけないなんてのは、嫌なので・・・」
「そんなことないよ! 私は海に行きたかったんじゃなくて、あーちゃんと楽しいことがしたかったんだから」
「先輩・・・」
「だから、あーちゃんが行きたくないなら、行かなくても全然いいんだよ? 」
「いえ、私も先輩といろんなところで楽しいことしたいですから。だからそのために、人混みにも慣れていかないと」
「・・・あーちゃん、ありがと」
先輩はそう言って、ベンチに座る私に体を寄せると、横から抱きしめてくる。
「ちょ、先輩!?」
「私が何の気なしに言ったことを覚えていて、気に掛けてくれてたんだね。ありがとう」
「先輩だって、いつも私のこと気に掛けてくれてるじゃないですか」
私も先輩の背中にそっと腕を回す。
「先輩・・・」
「あーちゃん・・・」
ここは真昼間の屋外で、人が来る可能性もゼロではない。
でもそんなことは、私を熱く見詰める先輩の瞳を見れば、消し飛んでしまう。
私は目を閉じて、ゆっくりと顔を近づけた。

その後、私たちは肩を並べて、桜の木々の間を散策する。一面、濃い緑で覆われ、木漏れ日がウッドチップを敷き詰めた遊歩道で揺れていた。
その先には大きな池があり、白や黄色、ピンクの淡い色どりのスイレンが咲き乱れていた。欄干にもたれて見ていると、水面にいくつもの絵の具を垂らしたようだった。そしてその池から流れ出る水路には小さな黄色い花がいくつも顔を出していた。パンフレットを見ると、コウホネというらしい。
そして野外散策の後、人波が途切れた頃に建物に戻って来て、メインのグリーンドームに入ってみる。
一歩踏み入れるだけで、湿った空気と緑の匂いに包まれる。背の高い奇妙な形の植物が天井近くまで伸び、手の平の何倍もあるような大きな葉が視界を遮る。そして轟々という水音が聞こえてくると、巨大な滝を中心に配した熱帯雨林コーナーに出る。
水煙の中に近づいて行くと、前髪に細かい水滴が付き、白くなっていく。その様子を二人で笑い合い、お互いに髪形を整え合う。
グリーンドームを一通り回った後は、売店に立ち寄って、ソフトクリームを買った。先輩はオレンジソース、私はチョコソースを買ったけど、結局二人で食べさせ合いっこをしたので、両方食べたことになる。

そして時間を見て、遅くなる前に市内に戻ることにする。
ここは市のはずれに位置してるだけあって、バスの本数は少ない。時期になれば臨時運行便がひっきりなしに出るらしいけど、今は一本逃しただけで二時間は待たなくてはならない。
まぁ、先輩と一緒にいれば二時間だろうと、あっという間だろうけど。
そんなことを考えていると、先輩が不意に手を繋いでくる。
『え?』と思うけど、先輩はただ楽しそうにしている。
私も黙ったまま、その柔らかい手を優しく握り返す。
私たちは互いに指を絡めながら、バス停までの道を歩いた。

そしてその道すがら、私のスマホに着信があった。
その普通には聞こえない着信音が聞こえたようで、先輩が覗き込んでくる。
「それってびーちゃんから?」
座標と『情報更新あり』とだけのメッセージを見て、先輩は不思議そうに言う。
私Bは先輩の中の福をいじって禍福や私Bを見えるようにしたのだけど、そのメッセージも見えるようになったようだ。
「そうです。情報更新ありってことは、また出てくるかも・・・」
そう言いながら、地図アプリで検索すると、その座標は、今いる場所と同じだった。
「ん?」
「あーちゃん、あれ・・・」
先輩は私の手を引いて、歩道の先を指差す。
ほんの五、六メートル先に、迷路の入り口である、ゆらゆらとした空間があった。
私Bからのメッセージのタイミングといい、たった今できたような感じだ。
カバンの中にはいつものように水や食料も入っている。
「入りますか?」
「うん」
私は先輩の手を握り、迷路の中に踏み出す。
中は石畳の歩道がコンクリートの塀と低い生け垣で囲まれている。見た感じは今までの迷路と変わりはない。
でもそこに入るなり、先輩が苦し気に身を屈めた。
「んっ・・・」
「先輩!?」
「だ、大丈夫・・・ ちょっとびっくりしちゃっただけだから・・・」
私が慌てて肩を抱くと、先輩は深呼吸をしながら、ゆっくりと体を起こす。
「ここは今までと比べ物にならないくらい、禍の濃度が濃いから、先輩さんにはきついかもね」
先輩の横に、私Bが現れて、心配そうにする。
「どういうこと? 先輩、本当に大丈夫なの?」
私は、私Bと先輩を見比べて言う。私自身は何も感じないため、どうすればいいのか分からない。
「私は大丈夫。ちょっと息苦しさはあるけど、慣れれば大丈夫」
先輩の呼吸は多少荒くなってはいるけど、無理をしているようではない。
「先輩・・・」
私はそんな先輩の手を握ることぐらいしかできない。
「とりあえず、早く攻略しなきゃいけないから、歩きながらでいい?」
私Bが先輩の様子を見ながら言う。私は先輩の手を握ったまま、引かれるような感覚を頼りに歩き出す。
「まずこの迷路はこれまでのものとは出来方が違ってるんだよね。これまでのは禍が自然に集まってできていたけど、これはあなたの周りに禍が集まってできたんだ」
「・・・私が作ったってこと?」
「直接じゃないけどね。禍は、より強い禍に引き寄せられていくんだ。目玉の中に禍が入っていくのを見たことがあるでしょ?」
そう言われれば、迷路の中で禍を追いかけた時に、その禍が目玉の中に吸い込まれていったのを見たことがある。
「それと同じで、たまたまこの辺で禍が高濃度になっていたところに、強力な禍を持つあなたがやって来たから、周りの禍が全部集められて、迷路になったんだよ」
「・・・もしかして、秋波に行った時の迷路も?」
「その可能性はあるね。あなたが近付いたことで、禍の流れが変わって、迷路になったのかもしれないね」
それは、私の行く先々でこんな危険な迷路が出来るかもしれないってこと・・・?
「別にあなたが原因というわけじゃないんだから、気にすることはないよ」
私の気持ちを察したように、私Bが言う。
「元から禍の濃度が高まってたんだから、遅かれ早かれ迷路は発生するんだよ。むしろ、すぐに対処できるところに出てくれて助かるくらいでしょ」
まぁ、発生した迷路をすぐに壊せると考えればそうかもしれないけど・・・
「壊し方は今までと同じ?」
「そうだね。場所は分かるでしょ?」
「今までとは感覚が違うけど、分かる」
これまでは集中するとかすかに引かれるような感覚があったけど、今はそんなことをしなくても、その感覚が伝わってくる。
それに従って少し歩くと、おなじみの黒い壁が左右の生け垣の間を塞いでいた。
私はそれを叩き壊そうと、ハンマーを出すけど、それは何もしないうちにすっと消えてしまう。
「え?」
「エネルギー切れだね」
「・・・何もしてないのに?」
「ここに居るだけで、福は消費されていくんだ。でも、もうあの壁には福を使う必要はないよ。あなたの禍をコントロールする力も格段に上昇しているから」
私Bがそのまま壁に近付いていくので、私もその後を追う。
すると目の前の黒い壁がぼやけて、それがコンクリートの塀と生け垣に変わる。
「景色が変わった?」
私は手をかざしてみるけど、黒い壁特有の反発感はない。見えないだけではなく、本当に消えたようだ。
「あなたが強引に迷路の内部構造を組み替えたんだよ。もうどんな迷路が出来ても、あなたは最短距離で進むことができる」
「どういうこと?」
「今までは引かれる感覚を頼りに、分かれ道で『どっちが近いかな』って選んで、道なりに歩いてたでしょ? 今は直接、ゴールの目玉を感知できるから、それに向かって真っすぐ進めるってこと」
私Bはそう説明してくれるけど、私が聞きたかったのはそういうことじゃない。
「いや、どうしてそんなことができるようになったのかってこと。私何もしてないよね?」
「情報不足」
でた・・・
「あ、先輩が色々見えるようになったことが関係してるとか?」
「え、私・・・?」
「う~ん・・・ それはないかな。先輩さんのそれは単なる微調整で、外界に影響を及ぼすようなことではないし・・・」
私Bとそんな話をしていると、生け垣の向こうから目玉がやって来る。前よりもずっとスピードが速い。
「あーちゃん!」
咄嗟に先輩が手を握ってくる。

『危ない!』
『先輩のためにも早くこんな所を出ないと』
『息苦しいけど、がんばらないと』
『いろいろ考えるのは後だ』
『私があーちゃんを守るんだ』
『まずは目玉を何とかしないと!』

先輩が力を使ってくれたのだろう、完全同調によって思考が交錯して、右手から光輝くハンマーが現れる。でもそのハンマーもゆっくりと色褪せていく。
弧を描くようにして飛んできた目玉に焦ってしまうけど、それは私に近付くと、急激にスピードを落とした。
投げつけられたボールが目の前で急に止まったようなものだ。
私は息を整え、ハンマーを振りかぶって、それを叩き落とす。
その一回でハンマーは消えてしまう。これはかなりエネルギー効率が悪くなっているようだ。
「ちなみに、そうやって手を握っているだけでもいいけど、より深い接触があった方が、福の効率的な補充ができるから」
私Bは自分の唇に指を当てて言う。
「は? こんなとこで?」
私は恥ずかしさから声を荒げてしまうけど、私Bは全く気にしていないようだ。
「私は一番効率的な方法を提示しただけだよ。それを採用するかどうかはあなたと先輩さん次第ってことで」
そう言い残して、私Bは消える。
「えっと・・・」
私が先輩の方を振り向くと、すでに先輩は頬を染めていた。
「・・・先輩、いいですか?」
「あ、うん、もちろんだよ」
微妙な雰囲気の中、先輩の唇にそっと触れると、瞬間的に思考が交錯する。

『先輩、好き』
『あーちゃん、緊張してる』
『先輩、かわいい』
『私、役に立ってるかな』
『こんな場所じゃなかったら』
『あーちゃんにもっとして欲しい』

それと同時に全身にゾクゾクする快感が走る。
ただのキスだったら今まで何回もしてるけど、完全同調状態で、というのはしたことがなかった。
「えっと、先輩、これヤバいですね・・・」
「そ、そうだね・・・ でもこっちの方が効率がいいんでしょ?」
「みたいですね・・・」
私たちは何となく、目を逸らしながら言う。
確かに、今度はハンマーを出現させても自然に消えることはなかった。効率的な福の補充が、ハンマーの持続時間に関係しているのだろう。
先輩の体に負担がある以上、少しでも早く迷路から出なければならない。そんな状況で、効率がいいと言われれば、是非もない。
そうしている間にも、目玉は次から次へとやって来る。
でも、今の私は特に苦戦することも無く、簡単に叩き落とせる。
むしろ問題は、目玉が来る度に、痺れるようなドキドキを伴うキスをしなければならないことだった。
最後の大きな目玉も難なく破壊して、迷路を攻略すると、大きな気流にそって脱出する。
でもそれまでの数十分の間、私たちはずっとドキドキしっぱなしだった。

ただ気になったのは、最後の大きな目玉を壊した時の、その破片の消え方だった。
いつもなら砕け散った破片は落ちてきて、地面に着く前に溶けるように消えていたのだけど、今回は落ちることなく、どこかに吸い込まれるように一方向に飛んでいったのだ。
あの方向にあるものは・・・
私は地図アプリを開いて、確認しようとするけど、そこでようやく、先輩がまだ苦しそうにしていることに気付く。
「先輩!?」
迷路の中では時折苦しそうに深呼吸していたけど、迷路から出ればもう大丈夫だと、勝手に思い込んでいた。
「あーちゃん・・・」
先輩が身を屈めたまま、弱々しく私の手を握る。
「先輩、まだどこか具合が・・・」
「あーちゃん、もう一回・・・」
「え・・・?」
「もう一回、キスして・・・」
先輩は顔を上げると、うるんだ瞳で囁く。迷路の中で何度もキスをした余韻からまだ抜け出せていないようだ。
「こ、こんなところで? もうすぐバスも来ますから・・・」
「ダメ・・・?」
上目づかいでこちらを見る先輩は、凶悪なまでの可愛さだった。
「じゃ、じゃあ、一回だけ・・・」
私は辺りに人がいないのを確認してから、そっとキスをした。
迷路の余韻でドキドキしてるのは先輩だけじゃなかったんだ・・・
そう思うと、先輩と同じ感覚を共有しているようで、うれしくなる。
結局、そんな時間がどのくらい続いたのだろうか。
遠くからやって来るバスの音で、私たちは慌てて体を離した。

「ふふっ・・・」
バスの中で不意に先輩が笑う。
「何ですか?」
「最後の方は、あーちゃんの方がノリノリだったよね」
「・・・そんなことありませんよ」
「そうかなぁ・・・ ねぇ、お腹空かない? 駅前で寄り道してもいい?」
先輩がそう話題を変えてくれる。
「えぇ、いいですけど」
「この前のイベントで、和菓子屋さんのお屋敷に行ったでしょ?」
「あぁ、先輩が私のパンツ覗き見してたとこですね」
「あれはあーちゃんが見せてたんだってば」
私が小さく言うと、先輩は顔を赤くする。
「でね、そこの和菓子がおいしくて、あの後、また行ったんだよね。そうしたら、抹茶点ててくれたおばあさん、十和田さんって言うんだけど、十和田さんがまた二人でおいでって、サービス券くれたんだよ」
そう言って先輩はカバンの中から折り畳まれた紙を出した。
広げると文庫本より少し大きいくらいで、そこに朱の毛筆で『サービス』と大書してあった。
・・・これはサービス『券』ではなく、サービス『札』なのでは?
それは素人目にも分かるくらいの達筆で、大真面目にそんなものを作っているあたり、おばあさんのユニークな人柄が伺えた。
そして駅前でバスを降りて少し歩くと、その和菓子屋さん『十和田あん』に着く。
古いガラスの引き戸と、その上に掲げられたくすんだ大きな看板。
イベントの時は通用口から入ったので、店舗側を見るのは初めてだ。
「こんにちはー」
先輩がカラカラと引き戸を開けて入ると、私もそれに続く。
外見はいかにも老舗という風だったけど、内装はきれいなもので、古臭い感じは全くしない。
店内には季節の花が飾られ、正面のショーケースには色とりどりのかわいらしい和菓子が並んでいて、壁にはメニュー表を兼ねた和菓子のイラストが貼られている。全体的に華やかな印象だ。
「あら、いらっしゃい。来てくれたのね」
そう言って、奥から和服を着込んだ十和田さんが出てくる。
「はい。こちら、後輩の奥只見さんです」
先輩がそう紹介してくれるけど、私は先輩の陰で小さく会釈するくらいしかできない。でも十和田さんは気にしていないようだ。
「まぁまぁ、後輩というだけじゃないでしょ? そちらへどうぞ」
十和田さんは『全部分かってますよ』というようにニコニコしながら、ショーケース横の小上がりを勧めてくれる。
「あ、これ、サービス券です」
先輩がサービス券を出すと、十和田さんは首を振る。
「あぁ、それは持っててちょうだい。他の人が店番してるときに見せればいいから。奥只見さんにもサービス券、渡しておくわね。今日は何になさる? 『季節のお勧め』は半額にしておきますよ?」
「じゃあ、それを二つ、お願いします」
「はい。お茶も点てましょうね」
そうして十和田さんは一旦奥へ戻っていく。
「お洒落なお店ですね」
二人きりになって、私は先輩に話しかける。
「少し前からリフォームしたり、いろんなとこに広告出したりもしてるんだって。元がいいんだから、売れるのも時間も問題じゃない?」
「そうですね」
以前の私の認識だと、和菓子というものはどてーっと甘いだけというものだったけど、ここの和菓子のお陰でその認識は完全に覆っている。
さっぱりとした甘さで、十和田さんの点てる抹茶との相性は抜群。そして見た目もかわいらしくて食べるのがもったいないくらいだ。
「はい、お待たせしました」
少しして十和田さんが和菓子と抹茶のセットを運んでくれる。そのお盆の上には、白磁の平皿の上にヒマワリとスイカを象ったお菓子が配され、それだけで一つの絵画のようだった。
「これはおじいさんの新作でね、忌憚のないご意見ちょうだいね」
十和田さんはさらっと言うけど、おじいさんと言われるような年になって新作を作るというのは、なかなかできる事ではないんじゃないだろうか。
「じゃあ、いただきます」
私はヒマワリを模した黄色い方に、先輩はスイカを模した緑の方に楊枝を入れて、一口食べる。
私と先輩は思わず目を見合わせて、声を揃える。
「「おいしい」」
それはイベントの時に食べたお菓子とはまた違うおいしさがあった。
ヒマワリの方はしっとりとした練切と香ばしいゴマあんがあり、スイカの方は赤い練切が緑色の羊羹でコーティングされている。
視覚だけではなく、さっぱりとした味覚でも夏を感じさせるものだった。
「よかった。そう伝えておきますね」
十和田さんは嬉しそうに笑う。
「本当は、いつ店をたたむかって話もしてたんですよ。でも、有望な後継者候補が出来たって、おじいさん、張り切っちゃってねぇ」
「あ、それでリフォームとかも?」
「えぇえぇ。できるだけいい形で引き継ぎたいですからね。まだまだこれからですよ」
その年にして、と言っては失礼だろうけど、すごいバイタリティだ。面倒なことがあるとすぐに引き下がってしまう自分とは大違いだ。
それから十和田さんは、茶道の関係でいろいろな学校に行っていたことや、どの学校にも特別に仲の良い二人がいたということを話してくれた。
「人は自分の気持ちに素直になってる時が一番輝いて見えるものですからね。お二人のことも応援してますよ」
そう言われて、私は少し照れ臭かった。
そうして十和田さんは少し離れたカウンターの所に控え、私たちは帰りのバスの時間まで店内でおしゃべりをしていた。

私が家に着いたのは五時過ぎだった。
夜食用にと買ってきた十和田あんの和菓子を冷蔵庫に入れる。
おいしいからというのが一番だけど、十和田さんの人柄のせいか、少しでも貢献できればと思ってしまう。
そしてちょっと早いけど、お風呂に入ることにする。
今日は朝から街中を歩いたし、迷路にも入った。気分的には最高のイベントのあった日だったけど、体は疲れているだろう。
そう思い、お風呂の中で体を伸ばす。
でも、一人で静かにしていると、どうしても今日の迷路の中の先輩の姿を思い出してしまう。
「はぁ・・・」
私が溜息を吐くと、隣に私Bが現れる。
それは予期していたこと、というか、出てきて欲しいと思っていたので、驚きはしない。
「お邪魔しまーす」
そう言いながら、全裸の私Bが湯船につかるように、私の隣でしゃがみ込む。もちろん私Bに実体はないので、お湯は全く動かない。
「・・・あんた、そんな恰好もできたんだ」
「見た目はあなたのイメージでしかないからね。恥ずかしいなら水着着ようか?」
そう言うと私Bは紺色のスクール水着姿になる。
「いや、そっちの方が恥ずかしいから」
「そう?」
私Bはまた全裸になる。自分の裸を見て、何が恥ずかしいんだよ。
「それで、何か相談?」
私Bがそう尋ねてくる。やはり私のことはお見通しらしい。
「うん。やっぱり自分一人の都合で先輩を危ない目に遭わせるわけにはいかないかなって・・・」
「で?」
「私が迷路の攻略をしなかったら、どうなる?」
それは迷路のことを知った最初にも尋ねたことだった。
「結局、行くことになるよ」
「それでも、我慢して行かなかったら?」
「・・・酷いことになるよ」
最初の時とは質問の重みが違うと感じたのか、私Bも真面目に答える。
「世界は人間のためにあるわけじゃないってのは分かるよね。だから、修復機構も人間のためにあるわけじゃない。修復機構は人間の守護者じゃなくて、あくまで世界の中の歯車。世界は何が何でも修復機構を作動させようとする。人間社会が取り返しのつかないくらいボロボロになってもね。そうなってから、じゃあ行きますって言っても、元に戻る保証はないよ」
私Bは冷たく言う。
「・・・私ってば、脅されてる?」
「世界は人間の都合なんかには全く関心はないってこと。それに先輩さんに聞けば、あなたと一緒に迷路の攻略をしたいって言うんじゃない?」
「多分ね。だからあんたと一緒に説得して・・・」
「二人掛かりで押し切ろうっての? じゃあ、悪いけど、私は先輩さんの側に着くよ」
「・・・なんでよ」
「あなたは先輩さんのことを好きになったよね。そして先輩さんの気持ちにも応えたよね」
「うん」
「その時点で、自分一人の都合なんてないんだよ。もう一蓮托生。状況が変わったから先輩さんに再度確認を取るっていうんだったらいいと思うけど、あなたの自分勝手な思い込みで先輩さんを置いていくことなんて、できませーん」
「でも・・・」
「もし先輩さんが『あなたを守ってあげる』って言って、勝手に自己犠牲に走ったりしたらどう思う?」
「それは・・・」
「先輩さんは修復機構の一部じゃない、ただの人間だよ。でもちゃんとあなたと一緒にいることの覚悟はできてる。普通考えられないことだよ。先輩さんはそうやってあなたを全面的に信頼してる。あなたも先輩さんを信頼していいと思うよ」
そこまで言われれば、もう私は何も言い返せない。自分がいかに愚かなことを考えていたのかと、恥ずかしくなってくる。
私は大きく溜息を吐く。
「・・・ありがと。相談して良かった」
「どういたしまして。 ・・・あんまり長風呂してると、中で寝ちゃうよ」
「はいはい。すぐ上がりますよ」
姿を消した私Bに、そう答える。
まったく、おせっかいなんだから・・・
私は私Bに感謝しながら、お風呂から上がった。
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