残酷な描写あり
R-15
第二六話 反乱鎮圧
反乱鎮圧のため、司馬錯は成都への突撃を命令する。猛攻の中で李雲や馮勝が倒れるも、公孫起は突撃を続ける。
大将軍司馬錯は幾度も投降を進める使者を送るも、蜀煇は拒否していた。
「永く時間がかかれば、兵糧も減り、兵の士気も落ちます。攻撃しましょう」
副官に急かされ、司馬錯は決断した。
「全軍攻撃だ。成都城を陥せ!」
四方から攻撃を開始した秦王軍は、意気揚々と敵軍を攻撃した。
「行くぞ馮勝!」
馮勝は鉤鎌槍(こうれんそう)を使い、反乱軍の馬の足を斬り、地面に叩きつけられた敵を斬っていく。遠くに目をやれば、驁は武器や盾で敵を押し倒し、その怪力で突撃していった。
馬を奪った公孫起は、曲の李雲とともに城門めがけ突撃する。歩兵が多い李雲の部隊は敵の弓騎兵に為す術なく、被害が増え、李雲も馬を射抜かれ倒れた。
「李雲様!」
「止まるな公孫起! 城を陥とせ!」
直後、李雲は敵兵の矢を受け倒れた。階級に関わらず命の弱さは同じであり、一度(ひとたび)戦場に出れば、弱兵より先に指揮官が落命することもあるのだ。
公孫起は怒りを力に変え、突撃をつづけた。
肩に矢を受けた馮勝が落馬しても省みらず、ついてこられるものたちのみで突撃し、ついに城壁に到達した。
「道を作れ! 作成した破城槌(はじょうつい)を運べ!」
破城槌で城門に衝撃を加える。盾を使い城壁の上からの矢を防ぎながら、懸命に戦った。
城攻めは三倍の兵力を有するというが、援軍も兵糧もない反乱軍は士気が低く、突破まであともう少しだった。
成都城内
蜀煇は酒を飲み、笑っていた。胸の内に広がる虚無感に、彼は笑うしかなかった。寵っていた妾や妻らには玉を絹、金を持たせ、既に城から出していた。
「良かったのですか、蜀候様。元は肉に毒を入れ秦王を亡き者にしようとしたのは奥方様であり、あなた様は感知していなかった。反乱を起こしたのも、私どもが秦王へ腹いせをしたかったからです。流刑地である巴蜀は治安が回復しなかったため、秦王様に罪人を流さないでくれと頼んだにも関わらず、無視された。なにはともあれ、あなたは反乱などではなく、もっと違う手法でこの地を改善しようとしていた……」
「すべて終わったことだ左吉よ。楊奐は戦死し、もう再起は不能。周囲の人々に願われ人事を尽くした果ての敗戦なら、私は満足だ。司馬錯が書簡のやり取りにて教えてくれた。この地の統治に、今後も司馬錯が関わることを、秦王様がお認めになったとのことだ。私が司馬錯のように人徳のある男なら、流刑地であろうとも、この地をよく治められていたのだ。私は、蜀候の器ではなかった」
「蜀候様……!」
城は陥落寸前であり、彼は自刃することを希望した。要害の地に築かれた名城が、戦火に晒されることは忍びなかった。
材料も上手く集められない中、人民とともに苦労して築きあげた城は、彼にとっては自分が生きた証であり、唯一の功績のように感じていた。
「険しき大地の奥に広がる、平野。そこに街と城壁を築き、奠都(てんと)したのだ。城を築いて都と成す。この成都の名が、永久(とこしえ)に残ることを願って……」
蜀煇は成都内の宮殿にて自刃し、果てた。開城された成都では、司馬錯によって略奪が禁止され、略奪した者は重罰に処された。
前300年(昭襄王7年)
戦の翌年、反乱のキッカケとなった贈答品の毒物混入の一件に蜀煇が関与していなかったことが調査によって明らかとなり、国賊から一転、彼の名誉が回復された。
「永く時間がかかれば、兵糧も減り、兵の士気も落ちます。攻撃しましょう」
副官に急かされ、司馬錯は決断した。
「全軍攻撃だ。成都城を陥せ!」
四方から攻撃を開始した秦王軍は、意気揚々と敵軍を攻撃した。
「行くぞ馮勝!」
馮勝は鉤鎌槍(こうれんそう)を使い、反乱軍の馬の足を斬り、地面に叩きつけられた敵を斬っていく。遠くに目をやれば、驁は武器や盾で敵を押し倒し、その怪力で突撃していった。
馬を奪った公孫起は、曲の李雲とともに城門めがけ突撃する。歩兵が多い李雲の部隊は敵の弓騎兵に為す術なく、被害が増え、李雲も馬を射抜かれ倒れた。
「李雲様!」
「止まるな公孫起! 城を陥とせ!」
直後、李雲は敵兵の矢を受け倒れた。階級に関わらず命の弱さは同じであり、一度(ひとたび)戦場に出れば、弱兵より先に指揮官が落命することもあるのだ。
公孫起は怒りを力に変え、突撃をつづけた。
肩に矢を受けた馮勝が落馬しても省みらず、ついてこられるものたちのみで突撃し、ついに城壁に到達した。
「道を作れ! 作成した破城槌(はじょうつい)を運べ!」
破城槌で城門に衝撃を加える。盾を使い城壁の上からの矢を防ぎながら、懸命に戦った。
城攻めは三倍の兵力を有するというが、援軍も兵糧もない反乱軍は士気が低く、突破まであともう少しだった。
成都城内
蜀煇は酒を飲み、笑っていた。胸の内に広がる虚無感に、彼は笑うしかなかった。寵っていた妾や妻らには玉を絹、金を持たせ、既に城から出していた。
「良かったのですか、蜀候様。元は肉に毒を入れ秦王を亡き者にしようとしたのは奥方様であり、あなた様は感知していなかった。反乱を起こしたのも、私どもが秦王へ腹いせをしたかったからです。流刑地である巴蜀は治安が回復しなかったため、秦王様に罪人を流さないでくれと頼んだにも関わらず、無視された。なにはともあれ、あなたは反乱などではなく、もっと違う手法でこの地を改善しようとしていた……」
「すべて終わったことだ左吉よ。楊奐は戦死し、もう再起は不能。周囲の人々に願われ人事を尽くした果ての敗戦なら、私は満足だ。司馬錯が書簡のやり取りにて教えてくれた。この地の統治に、今後も司馬錯が関わることを、秦王様がお認めになったとのことだ。私が司馬錯のように人徳のある男なら、流刑地であろうとも、この地をよく治められていたのだ。私は、蜀候の器ではなかった」
「蜀候様……!」
城は陥落寸前であり、彼は自刃することを希望した。要害の地に築かれた名城が、戦火に晒されることは忍びなかった。
材料も上手く集められない中、人民とともに苦労して築きあげた城は、彼にとっては自分が生きた証であり、唯一の功績のように感じていた。
「険しき大地の奥に広がる、平野。そこに街と城壁を築き、奠都(てんと)したのだ。城を築いて都と成す。この成都の名が、永久(とこしえ)に残ることを願って……」
蜀煇は成都内の宮殿にて自刃し、果てた。開城された成都では、司馬錯によって略奪が禁止され、略奪した者は重罰に処された。
前300年(昭襄王7年)
戦の翌年、反乱のキッカケとなった贈答品の毒物混入の一件に蜀煇が関与していなかったことが調査によって明らかとなり、国賊から一転、彼の名誉が回復された。