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作者: 唯響-Ion
残酷な描写あり R-15
第百八十話 長平の戦い 五
 秦軍を撃破した趙軍。廉頗は損害が多かったことに心を痛める。副将の楽乗は廉頗の解任を期待するが、趙王は廉頗に継続して指揮をさせることにし、増援を送る。
 長平 廉頗

 秦軍との大規模な戦闘を繰り広げ、撃退した廉頗。しかし損害は大きく、痛み分けのような結果であった。
「楽乗将軍、邯鄲からの援軍は、なん人残りましたか」
「動ける怪我人を含めて、四千程だ。馬は全滅だ」
「申し訳ござらん……! 閼与で趙奢将軍と共に秦軍を打ち破った精鋭を……こんな結果に!」
「男泣きなんぞ、醜い顔を晒すな。廉頗、総帥として長平の死守という目的は達した。損害も元より見込まれていたものだ」
「感謝申し上げる……!」
「勘違いするな。趙将として、そなたを補佐するだけだ。そなたが更迭されたのならば、戦いの後にそなたを処断するよう進言する……!」

 廉頗は戦況を趙王へ報告した。辛くも勝利したことで、将兵はまとまっていた。秦の本軍を破った事実は趙王を喜ばせ、趙王は北方の国境守備軍を除く部隊から二十万の大軍を編成し、武具兵糧と共に長平へ送った。
 廉頗は趙王からの信頼に応えるべく、すぐさま砦の修復を行った。
 しかしそんな対応に、楽乗だけが、異を唱えた。
「なに故かように損害を出していながら、更迭はおろか降格もないのか。よもや趙王は、肩書きが最も優れている廉頗が、誰よりもどの戦いに於いても優れていると考えているのか」
 その怒りを諌めたのは、共に轡を並べて戦ってきた将軍の、司馬浅(しばせん)であった。
「王への言葉はよく考えた方が良い。廉頗の副官が、王へ讒言する口実となり得る」
「それもそうだな。そなたの冷静さにはいつも助けられる」
「かつてはそなたも、冷静であった。暴れ馬の廉頗を抑えて、年上の余裕を見せていたものだ。だが今となっては、廉頗の方が冷静だ」
「藺相如というのはつくづく恐ろしい男だ。病になっても鋭い眼力で、胸に刃を突き立てるような、理知的な冷た言葉を吐き捨てよる。あの刃を真っ向から受け止める廉頗は、今やもう猪のような若武者ではなくなってしまった」
 司馬浅と話し合い、冷静に廉頗を分析した。廉頗の実直さが、藺相如の実直さと共鳴し、彼を成長させたのだと感じた。
 楽乗は、廉頗に対して、長年、出世競争をしてきた政敵として、憎悪にも近い敵意があった。しかしその意識を取り除いて見てみれば、廉頗の並々ならぬ努力が見えた。尊敬すべき存在であると、気づいた。
 廉頗がその力を最大限に活かせば、趙軍の頂点に立つに相応しい、英雄豪傑であることは間違いなかった。だが、だからといってすぐに廉頗を認めて、支えることに徹することはできなかった。
 不貞腐れる楽乗を見た司馬浅は、二人が蟠りを捨てて一丸となることは、難しいと感じた。嫉妬が加わり、より底が深い敵意に変わってしまうのが、人の性であると感じたのであった。

 翌日、楽乗は廉頗がいる本陣を訪ねた。
「廉頗よ、そなたに提言したいことがある」
「なんでしょうか将軍」
「なに故、砦の修復を行うのだ。我らは援軍を得て、地の利と兵力の優位がある。秦の糧道を断つのだ。さすれば遠征軍の秦軍は、兵糧が尽きて撤退する筈だ」
「将軍は、視野が狭いと思います。秦軍を、他の軍や異民族と同類だと勘違いしておられる。秦を、見くびっている」
 楽乗は血相を変え、廉頗の許へ詰め寄った。
「そなたは、秦を恐れすぎなのだ!」
「恐れる慎重さこそ、総大将の資質です。既に我ら三晋は、秦に多くの領土を奪われています。糧道を潰すとなれば、十数年かけて、数百の城を陥さねばなりません。不可能です! 我らはここで、秦の兵力が尽きるのを待つしかないのです!」
「抜かすな! 貴様は……」
 廉頗は、楽乗が感情的になっていると悟った。罵倒しようとする楽乗を睨み倒して静止し、言葉を続けた。
「ここまで秦を放置したのは、政の失敗。北方の異民族や隣国の斉や燕の動向を見守る必要があった、天の時による不利です。我らは今ある力で、最前の力を尽くす必要があります」
「最前の力を尽くした結果が、悪戯に武具兵糧を消費し、敵の攻撃を待つことだけなのか!」
「左様! 秦は無敵なのです。我らが勝利をするならば、数年かけてこの長平で粘り、秦が疲弊した所を、回復した六国が揃って反撃するしかないのです!」
 楽乗は、唖然とした。廉頗の意見は、優れた戦略眼を持つ司馬浅がいっていた、天下の大計と同じだったからである。
「こんな大将では……趙は勝てないな」
 楽乗は小声でそう吐き捨て、本陣を逃げるように去っていくしか、できなかった。
司馬浅(生没年不詳)……戦国時代、趙の将軍。
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