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作者: 唯響-Ion
残酷な描写あり R-15
第百八四話 長平の戦い 九
 総帥として、密かに長平へ着任した白起は、軍議を開いて趙攻略に向けた策を練る。
 一方、丞相張禄は、趙軍を弱体化させるべく謀略を仕掛ける。
 同年 6月(開戦1年9ヶ月) 長平

 雨が降る中白起は、増援として送られる兵に紛れ、長平に入った。到着後、数名の側近と共に本陣に入り、王齮と会った。
「息災か」
「武安君殿……なに故ここに……!」
 白起は秦王の勅を渡し、秘密裏に総帥として着任した。
「王齮よ、司馬靳、張唐、胡傷、楊摎を招集せよ。勅を伝える。そして私に現況を報告せよ」
 白起は副将らが到着する前に、現況の、第三の戦線を打ち破る策を確認した。
 副将らの到着後、その策を修正する為、軍議を開いた。
「……では我が軍はこの様に攻撃し、趙軍を討伐する」
 王齮は、またしても不安そうな声で呟いた。
「上手くいくかは一か八かですが……これなら、上手く行けば我が軍は……兵の損害を減らせましょう」
「王齮よ、もっと堂々とするのだ。男らしい姿にも関わらず、どうしてそう女々しくなるのだ」
「申し訳ございませぬ……!」
「いや、却ってその不気味さが、敵を恐れさせるやも知れんな」
 白起の言葉に、諸将は笑い、和んだ。
 すると楊摎が、口を開いた。
「いつ攻撃を開始するのですか?」
「それはまだ分からない。だが今、丞相が謀略を仕掛けている」
 白起は詳細を伝えた。
 ふと、楊摎の方が、王齮よりも女々しい所があるような気がした。その女々しさは、弱々しさや情けなさではなく、もっと純粋な女性らしさのような気がした。
 余計なことを考えていると思った白起は、邪念を捨てる様に、謀略の説明に集中をした。


 同年 9月(開戦1年12ヶ月目) 邯鄲

 趙王は宮殿の中で、平原君と茶を啜っていた。
「叔父上、この頃宮廷内で、かような噂が囁かれています。廉頗が砦を出て戦わないのは、秦軍と通じているからである……と」
「かような噂があるのですか。私は、かような噂を耳にしました。秦の若き将軍王齮は、老いぼれの廉頗を恐れておらず、唯一恐れるのは今は亡き名将の息子である、趙括のみ」
「趙括は、趙奢の倅であったな。確かに、王齮と同年代だ。王齮も名家の生まれであると聞いているが、兵家の大家である趙奢には叶うまい」
「そうです趙王様。廉頗を罷免なさっては……いかがですか?」
「検討せねばならんな」

 趙王は趙括の屋敷を訪ね、本人と会った。名家の当主らしく、礼儀作法も素晴らしく、趙括が語る兵法は、勉学を極めた者の知見を備えていた。
 趙王は、世代交代の時を感じた。
 しかしある日のこと、趙王が趙括を登用しようとしていることを聞きつけた趙奢夫人が、趙王を尋ねてきた。
 慌てて給仕に茶の用意をさせ、趙王は趙奢夫人をもてなした。
「趙王様、どうか息子の括を登用なさらないでください。あれは……人の命を左右する責任を担えません」
「なに故、母親が息子の出世を拒む様なことを仰るのですか。彼は白起の腹心である胡傷を閼与にて破った、趙奢将軍の息子です。兵法を論じた際、趙奢将軍を言い負かしたこともあると、聞き及んでいます」
「趙王様、それは世間に広がった美談に過ぎません。その後、夫が私に対し、括は大言壮語するだけで実現不可能なことをしているだけだと、そういっていたことを世間は知らないのです」
「御母堂、我らには趙括殿の力が必要なのです」
「どうしてもと仰るならば……お約束ください。括によって軍が被害を被っても、我が趙家に一切の類が及ばないということを……!」
「分かりました。お約束致しましょう」

 趙王の許には、藺相如からの肉筆で認められた、諫言の上奏文まで届けられた。病床に伏した藺相如の筆は、力強い墨とは裏腹に、細く、そして震えていた。そこに書かれた趙括を批判する文は、老臣の心の叫びが、そのまま写されていると感じ、目眩がした。
 しかし趙王は考えを変えることはなかった。祖父の武霊王は、批判をものともせず意見を貫き通し、胡服騎射という革命を成し遂げた。彼はそれを真似しようとしていたのであった。
趙括(生年不詳〜没:紀元前260年)……戦国時代の趙の武将。馬服君趙奢の子。
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