【新札】渋沢栄一・津田梅子・北里柴三郎ってだれ?【偉人伝】
5万円札とかでない?
10万円札でもいいよ?
二千円札「……」
10万円札でもいいよ?
二千円札「……」
人間は社会を形成する動物です
社会を形成すると、その集団のなかで『価値あるもの』が生まれます。たとえば食糧なんかはわかりやすいね。おこめには大きな価値があるのでちょっとくらいの対価で交換されず、より大きな対価を払うことで手に入れることができた"高級品"です
昔は物々交換がメインだったのですが、やがて「それぞれの人が"共通の価値観"をもつモノを生み出したほうがよくね?」と考えるようになり、その象徴として『紙幣』という概念が誕生しました
紀元前の中国では、すでに『貝』を紙幣として活用していた歴史があります。その名残りで、現在でもお金や経済に関連する漢字は『貝』がつくものが多いですね
・財政
・貯金
・売買
・購入
・資産 ect...
集団のなかで『貝の数』という共通の価値観をもつことによって、人々はある程度不公平感を覚えずに取り引きできるようになりました……が、国ごとに紙幣があるので、国ごとにその紙幣のパワーというか価値観が異なる事情がありますね。だからこそ、今の世の中は「円安が~」とか「1ドル150円台を突破しました~」とか言われてるのです。それがどういう意味をもつのかってのは別の話にしておくとして、本日はもうすぐやってきる『日本の紙幣の変化』について書いていきましょう
:日本紙幣の歴史:
日本では飛鳥時代、つまり西暦600年代からすでに"紙幣"が誕生しています。遣隋使だか遣唐使だかうろ覚えだけどとりあえず『中国に行って文化やらなにやらパクrお勉強しに行こう!』っていう活動を通して、日本に紙幣という文化が流れ着きました
当時は銅とか鉄とかの金属をまるくして、中央に四角い穴を開けたコインが紙幣として扱われていましたが、これは歴史の授業とかでやったよね? ――覚えてないって方はとりあえず歴史や社会の教科書を開いてみましょう
昔はもっぱら金属をあっためて溶かして、まるくして固めたやつを『紙幣』として使ってました。とくに"金"は見た目やらなにやらが人間を魅了したのか、世界的に貴重な金属として価値が一定だったので日本でも重宝されたようです。その影響から、日本では紙幣を『お金』と呼んでますね
江戸時代までは上記のような感じだったんだけど、明治時代から"紙"を紙幣にすんべって流れが始まったのです。世界じゃ紙製の紙幣がトレンドだったのかね? ――ただまあ、紙紙幣は偽札がたくさん出回るので、それを防ぐために特別な素材や印刷技術を導入したりして、世の中にどんどん紙の紙幣が広がっていったのです。当時の単位は以下のとおり
・厘
・銭 = 10厘
・円 = 100銭
はじめはただのデザイン紙幣だったのが、明治14年に『神功 皇后』が1、5、10円紙幣として採用されました。日本史上初の紙幣は女性だったんですね。彼女の経歴は各自でググっていただくとして、かんたんに書くと14代天皇『仲哀天皇』の后で、4世紀後半に存在して当時の日本をわりと牛耳ってた女傑とされています
なんで彼女が採用されたんかはナゾ。たぶん制作者に熱狂的なファンがいたんだよたぶんきっとおそらくめいびー
そっからいろんな偉人だちをお札にしていこうっつー文化が始まったのですが、2024年6月現在では『野口英世・樋口一葉・福沢諭吉』が採用されていますね。そして2024年7月3日より、日本では新たな紙幣が発行されることになります。選ばれた偉人は以下3人。それぞれどんな感じの偉人なんでしょうかね?
・ 千円札 = 北里柴三郎
・五千円札 = 津田梅子
・一万円札 = 渋沢栄一
日本印刷局
新しい日本銀行券特設サイト
ttps://www.npb.go.jp/ja/n_banknote/
お札の歴史
ttps://www.npb.go.jp/ja/n_banknote/
山梨中央銀行
お札の歴史、上記よりもっとシンプルVar
ttps://www.yamanashibank.co.jp/aboutus/museum/story/money_history.html
:北里柴三郎:
北里柴三郎は破傷風を予防&治療する方法を開発した『近代日本医学の父』と呼ばれる細菌学者です
1853年誕生。幼少期から両親からの熱心な教育を受けて育ち、23歳に東京医学こう、現在の東京大学医学部へ進学します。当時から物言わぬ態度で教授たちと口論するほどの信念をもっており、学ぶうちに予防の重要性を認識するようになったため予防医学方面に自身の道を定めていきます
彼はその後内務省へ就職し、さらにドイツのベルリン大学へ留学します。そこでロベルト・コッホという近代細菌学の開祖と呼ばれる偉人と出会い、彼に師事してさらに業績を上げていきます。コッホさんは炭疽菌や結核菌やコレラ菌などいろんな菌を発見したり、研究に使ういろんな道具を開発したりなどほんとにガチのマジでございます
そんな彼は1890年、破傷風の抗毒素を発見したり海外で大活躍しましたが、後に日本の医療レベルを上げてくべってことで日本へ帰国します。その後は一万円札の出資でできた伝染病研究所の初代所長になったり、慶應義塾大学医学科の初代学長になったり、大日本医師会の初代所長になったり、日本医師会の初代会長になったりと大車輪の活躍っていうか初代所長とか初代会長おおくない?
彼はアクティブに動き回り、終始日本医療の発展のため尽力し、1931年に麻生にあった自宅で死去しました。彼が遺した偉業は凄まじいの一言に尽き、上記研究所の数々は名前や姿を変えつつ、今でも各所に種を撒いているでしょう
北里研究所 北里柴三郎記念博物館、公式サイト
ttps://www.kitasato.ac.jp/jp/kinen-shitsu/shibasaburo/lifetime.html
:津田梅子:
津田梅子は女性の地位向上、女子教育に生涯尽力し『女子英学塾』の創始者である教育家です
1864年誕生。父は江戸幕府で通訳者として働いており、外国人と会ったり外国に訪問する父の背中を見るなかで育ち、父のはからいでアメリカへ11年間留学することになりました
6歳からアメリカ留学し、シカゴ、サンフランシスコ、ソルトレイクにワシントンなど各地を旅しながら交流を深めていくなかで英語をマスターし、逆に日本語が話せなくなったという驚きの逸話をお持ちです。まあ6歳時点だと日本語もおぼつかないよね
帰国後の彼女は就職先に苦労しつつとりあえず英語教師として働き出したり、再度留学して『蛙の発生』に関する研究論文が日本人女性として史上始めて欧米の学術雑誌に掲載されるなどなにげに偉人ムーブをかましていたりします。その後も教育者として研鑽を積み重ねたり交流を深めたりする中「いっそのこと日本女子のための学校を自分で作っちゃえばいいじゃない!」ということで『女子英学塾』を設立。これには旧五千円札も絡んでいます
初年度は10人だったらしい英学塾も、高レベルで今までの「女子は良妻賢母で~」的な常識をぶっこわす姿勢が好評を得て、8年後には学生数150人にもなったっつーから驚きだよね。なおあまりのレベルの高さに脱落者も多かった模様
こっからノリノリでいっちゃうぜ! ――と勢いづきたい矢先、52歳の津田梅子を病魔が襲います。それから塾長の位を退き、療養もむなしく10年後の1929年にこの世を去りました。しかし彼女の意志は受け継がれ、女子英学塾は移転や拡大を続け、現在では『津田塾大学』という名で知られています
津田塾大学、公式サイト
ttps://www.tsuda.ac.jp/
:渋沢栄一:
渋沢栄一は生涯500もの企業設立などに関わり『日本近代社会の創始者』と呼ばれる実業家です
1840年誕生。徳川15代将軍『徳川慶喜』の幕臣(家臣となる武士のこと)となり、明治政府では官僚(国のあれこれを決めるなかでも立場が高い人)も務めました
彼は染料や蚕糸、米に野菜などいろいろ手掛ける百姓の子として生まれました。これは幼少期から仕入れ、計算、製造販売などをやらなくてはならない生活だったことを示します。つまりずぅ~っとそろばん弾いたりなんだったりする毎日だったでしょう
幼少期は尊王攘夷の思想に傾倒したりやんちゃだったようですが、縁あって徳川慶喜の臣下としてパリの万国博覧会に首席します。そこで世界の広さに触れ衝撃を覚え、和装と刀的なスタイルを捨て"まげ"を切り帽子をかぶる洋装へクラスチェンジ。大政奉還などを機に帰国するも、この経験が彼の人生を大きく変えました
明治にはいると、彼は明治新政府から新しい時代に歩みだすための政策に関わるようになります。彼は『改正掛』と呼ばれる部門のトップになり、いわゆるシンクタンク的な立ち位置から明治政府に様々な改革案を提案していきます。それは単純な提案にとどまらず、国内で使う各種単位の統一、鉄道や電信網の形成、郵政制度、廃藩置県、工業化、戸籍法などまあありとあらゆる改革が提言されていきました
あまりの性急な改革に大久保利通さんが「やりすぎだろおめーら」ってくらいに反感を覚えるレベルだったのですが、まあそれはそれとして日本の制度を進めてきたのは事実でしょう。いや、もうちょっとゆっくりというか周囲との連携も考えときゃ少しは(ry
彼は国立印刷局という、まあ国の紙幣や切手や郵便貯金通帳やらなどの"公的な印刷"を担う組織の初代『紙幣頭』になったり、当時の大蔵省っていう財務省と金融庁を足したような組織で活躍したりと財政界で辣腕をふるいました
大蔵省を辞職した後は第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の総監役になったり、東京貯蓄銀行(現在のりそな銀行)の会長になったり、各都道府県の銀行設立に関わっていたり、支援してたり、銀行系に限らず抄紙会社(現在の日本製紙)を経営したり、瓦斯掛(現在の東京ガス)の委員になったりもうほんとに当時存在したありとあらゆるジャンルに手ぇツケた感じ。とくに財政系は凄まじいので「これは10000札にしたい理由はわかる」くらいには感じる
70で実業家を引退したものの、それでも各所からプッシュされていろんな役職になったり相談役になったり監事になったりほんと休む時間ある? ってくらい役職持ちまくり。そんなデラックスな方でも寿命にはかなわず、1931年にこの世を去ることになりました。彼の功績はご覧の通りですから、実は今までにも紙幣にしようぜ! って流れはありました。ただ偽装防止とかいろいろな事情があり今の今まで実現せず、2024年の時代になってようやく決定したという感じです
渋沢栄一記念財団、公式サイト
ttps://www.shibusawa.or.jp/
くぅ疲。ちょっとだけ調べるつもりがガッツリになっちゃったかもしんない。まあほかにもいろいろ情報あるので気になった方は各自でググってみてください。とりあえずわたしが個人的に参照した情報源を紹介しとくのでよろしく
新紙幣が7月3日から始まるの今知ったって方はコメントおねがいします。渋ちゃんたくさんほしーなと思った方は高評価をおねがいします
日本銀行
現在発行されている銀行券・紙幣
ttps://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/valid/issue.htm
国立印刷局
新紙幣の肖像画になった3人の偉人紹介
ttps://www.npb.go.jp/ja/n_banknote/shokai/
財務省
渋ちゃん、梅ちゃん、柴ちゃんが新紙幣になった理由
ttps://www.mof.go.jp/faq/currency/07ap.htm
社会を形成すると、その集団のなかで『価値あるもの』が生まれます。たとえば食糧なんかはわかりやすいね。おこめには大きな価値があるのでちょっとくらいの対価で交換されず、より大きな対価を払うことで手に入れることができた"高級品"です
昔は物々交換がメインだったのですが、やがて「それぞれの人が"共通の価値観"をもつモノを生み出したほうがよくね?」と考えるようになり、その象徴として『紙幣』という概念が誕生しました
紀元前の中国では、すでに『貝』を紙幣として活用していた歴史があります。その名残りで、現在でもお金や経済に関連する漢字は『貝』がつくものが多いですね
・財政
・貯金
・売買
・購入
・資産 ect...
集団のなかで『貝の数』という共通の価値観をもつことによって、人々はある程度不公平感を覚えずに取り引きできるようになりました……が、国ごとに紙幣があるので、国ごとにその紙幣のパワーというか価値観が異なる事情がありますね。だからこそ、今の世の中は「円安が~」とか「1ドル150円台を突破しました~」とか言われてるのです。それがどういう意味をもつのかってのは別の話にしておくとして、本日はもうすぐやってきる『日本の紙幣の変化』について書いていきましょう
:日本紙幣の歴史:
日本では飛鳥時代、つまり西暦600年代からすでに"紙幣"が誕生しています。遣隋使だか遣唐使だかうろ覚えだけどとりあえず『中国に行って文化やらなにやらパクrお勉強しに行こう!』っていう活動を通して、日本に紙幣という文化が流れ着きました
当時は銅とか鉄とかの金属をまるくして、中央に四角い穴を開けたコインが紙幣として扱われていましたが、これは歴史の授業とかでやったよね? ――覚えてないって方はとりあえず歴史や社会の教科書を開いてみましょう
昔はもっぱら金属をあっためて溶かして、まるくして固めたやつを『紙幣』として使ってました。とくに"金"は見た目やらなにやらが人間を魅了したのか、世界的に貴重な金属として価値が一定だったので日本でも重宝されたようです。その影響から、日本では紙幣を『お金』と呼んでますね
江戸時代までは上記のような感じだったんだけど、明治時代から"紙"を紙幣にすんべって流れが始まったのです。世界じゃ紙製の紙幣がトレンドだったのかね? ――ただまあ、紙紙幣は偽札がたくさん出回るので、それを防ぐために特別な素材や印刷技術を導入したりして、世の中にどんどん紙の紙幣が広がっていったのです。当時の単位は以下のとおり
・厘
・銭 = 10厘
・円 = 100銭
はじめはただのデザイン紙幣だったのが、明治14年に『神功 皇后』が1、5、10円紙幣として採用されました。日本史上初の紙幣は女性だったんですね。彼女の経歴は各自でググっていただくとして、かんたんに書くと14代天皇『仲哀天皇』の后で、4世紀後半に存在して当時の日本をわりと牛耳ってた女傑とされています
なんで彼女が採用されたんかはナゾ。たぶん制作者に熱狂的なファンがいたんだよたぶんきっとおそらくめいびー
そっからいろんな偉人だちをお札にしていこうっつー文化が始まったのですが、2024年6月現在では『野口英世・樋口一葉・福沢諭吉』が採用されていますね。そして2024年7月3日より、日本では新たな紙幣が発行されることになります。選ばれた偉人は以下3人。それぞれどんな感じの偉人なんでしょうかね?
・ 千円札 = 北里柴三郎
・五千円札 = 津田梅子
・一万円札 = 渋沢栄一
日本印刷局
新しい日本銀行券特設サイト
ttps://www.npb.go.jp/ja/n_banknote/
お札の歴史
ttps://www.npb.go.jp/ja/n_banknote/
山梨中央銀行
お札の歴史、上記よりもっとシンプルVar
ttps://www.yamanashibank.co.jp/aboutus/museum/story/money_history.html
:北里柴三郎:
北里柴三郎は破傷風を予防&治療する方法を開発した『近代日本医学の父』と呼ばれる細菌学者です
1853年誕生。幼少期から両親からの熱心な教育を受けて育ち、23歳に東京医学こう、現在の東京大学医学部へ進学します。当時から物言わぬ態度で教授たちと口論するほどの信念をもっており、学ぶうちに予防の重要性を認識するようになったため予防医学方面に自身の道を定めていきます
彼はその後内務省へ就職し、さらにドイツのベルリン大学へ留学します。そこでロベルト・コッホという近代細菌学の開祖と呼ばれる偉人と出会い、彼に師事してさらに業績を上げていきます。コッホさんは炭疽菌や結核菌やコレラ菌などいろんな菌を発見したり、研究に使ういろんな道具を開発したりなどほんとにガチのマジでございます
そんな彼は1890年、破傷風の抗毒素を発見したり海外で大活躍しましたが、後に日本の医療レベルを上げてくべってことで日本へ帰国します。その後は一万円札の出資でできた伝染病研究所の初代所長になったり、慶應義塾大学医学科の初代学長になったり、大日本医師会の初代所長になったり、日本医師会の初代会長になったりと大車輪の活躍っていうか初代所長とか初代会長おおくない?
彼はアクティブに動き回り、終始日本医療の発展のため尽力し、1931年に麻生にあった自宅で死去しました。彼が遺した偉業は凄まじいの一言に尽き、上記研究所の数々は名前や姿を変えつつ、今でも各所に種を撒いているでしょう
北里研究所 北里柴三郎記念博物館、公式サイト
ttps://www.kitasato.ac.jp/jp/kinen-shitsu/shibasaburo/lifetime.html
:津田梅子:
津田梅子は女性の地位向上、女子教育に生涯尽力し『女子英学塾』の創始者である教育家です
1864年誕生。父は江戸幕府で通訳者として働いており、外国人と会ったり外国に訪問する父の背中を見るなかで育ち、父のはからいでアメリカへ11年間留学することになりました
6歳からアメリカ留学し、シカゴ、サンフランシスコ、ソルトレイクにワシントンなど各地を旅しながら交流を深めていくなかで英語をマスターし、逆に日本語が話せなくなったという驚きの逸話をお持ちです。まあ6歳時点だと日本語もおぼつかないよね
帰国後の彼女は就職先に苦労しつつとりあえず英語教師として働き出したり、再度留学して『蛙の発生』に関する研究論文が日本人女性として史上始めて欧米の学術雑誌に掲載されるなどなにげに偉人ムーブをかましていたりします。その後も教育者として研鑽を積み重ねたり交流を深めたりする中「いっそのこと日本女子のための学校を自分で作っちゃえばいいじゃない!」ということで『女子英学塾』を設立。これには旧五千円札も絡んでいます
初年度は10人だったらしい英学塾も、高レベルで今までの「女子は良妻賢母で~」的な常識をぶっこわす姿勢が好評を得て、8年後には学生数150人にもなったっつーから驚きだよね。なおあまりのレベルの高さに脱落者も多かった模様
こっからノリノリでいっちゃうぜ! ――と勢いづきたい矢先、52歳の津田梅子を病魔が襲います。それから塾長の位を退き、療養もむなしく10年後の1929年にこの世を去りました。しかし彼女の意志は受け継がれ、女子英学塾は移転や拡大を続け、現在では『津田塾大学』という名で知られています
津田塾大学、公式サイト
ttps://www.tsuda.ac.jp/
:渋沢栄一:
渋沢栄一は生涯500もの企業設立などに関わり『日本近代社会の創始者』と呼ばれる実業家です
1840年誕生。徳川15代将軍『徳川慶喜』の幕臣(家臣となる武士のこと)となり、明治政府では官僚(国のあれこれを決めるなかでも立場が高い人)も務めました
彼は染料や蚕糸、米に野菜などいろいろ手掛ける百姓の子として生まれました。これは幼少期から仕入れ、計算、製造販売などをやらなくてはならない生活だったことを示します。つまりずぅ~っとそろばん弾いたりなんだったりする毎日だったでしょう
幼少期は尊王攘夷の思想に傾倒したりやんちゃだったようですが、縁あって徳川慶喜の臣下としてパリの万国博覧会に首席します。そこで世界の広さに触れ衝撃を覚え、和装と刀的なスタイルを捨て"まげ"を切り帽子をかぶる洋装へクラスチェンジ。大政奉還などを機に帰国するも、この経験が彼の人生を大きく変えました
明治にはいると、彼は明治新政府から新しい時代に歩みだすための政策に関わるようになります。彼は『改正掛』と呼ばれる部門のトップになり、いわゆるシンクタンク的な立ち位置から明治政府に様々な改革案を提案していきます。それは単純な提案にとどまらず、国内で使う各種単位の統一、鉄道や電信網の形成、郵政制度、廃藩置県、工業化、戸籍法などまあありとあらゆる改革が提言されていきました
あまりの性急な改革に大久保利通さんが「やりすぎだろおめーら」ってくらいに反感を覚えるレベルだったのですが、まあそれはそれとして日本の制度を進めてきたのは事実でしょう。いや、もうちょっとゆっくりというか周囲との連携も考えときゃ少しは(ry
彼は国立印刷局という、まあ国の紙幣や切手や郵便貯金通帳やらなどの"公的な印刷"を担う組織の初代『紙幣頭』になったり、当時の大蔵省っていう財務省と金融庁を足したような組織で活躍したりと財政界で辣腕をふるいました
大蔵省を辞職した後は第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の総監役になったり、東京貯蓄銀行(現在のりそな銀行)の会長になったり、各都道府県の銀行設立に関わっていたり、支援してたり、銀行系に限らず抄紙会社(現在の日本製紙)を経営したり、瓦斯掛(現在の東京ガス)の委員になったりもうほんとに当時存在したありとあらゆるジャンルに手ぇツケた感じ。とくに財政系は凄まじいので「これは10000札にしたい理由はわかる」くらいには感じる
70で実業家を引退したものの、それでも各所からプッシュされていろんな役職になったり相談役になったり監事になったりほんと休む時間ある? ってくらい役職持ちまくり。そんなデラックスな方でも寿命にはかなわず、1931年にこの世を去ることになりました。彼の功績はご覧の通りですから、実は今までにも紙幣にしようぜ! って流れはありました。ただ偽装防止とかいろいろな事情があり今の今まで実現せず、2024年の時代になってようやく決定したという感じです
渋沢栄一記念財団、公式サイト
ttps://www.shibusawa.or.jp/
くぅ疲。ちょっとだけ調べるつもりがガッツリになっちゃったかもしんない。まあほかにもいろいろ情報あるので気になった方は各自でググってみてください。とりあえずわたしが個人的に参照した情報源を紹介しとくのでよろしく
新紙幣が7月3日から始まるの今知ったって方はコメントおねがいします。渋ちゃんたくさんほしーなと思った方は高評価をおねがいします
日本銀行
現在発行されている銀行券・紙幣
ttps://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/valid/issue.htm
国立印刷局
新紙幣の肖像画になった3人の偉人紹介
ttps://www.npb.go.jp/ja/n_banknote/shokai/
財務省
渋ちゃん、梅ちゃん、柴ちゃんが新紙幣になった理由
ttps://www.mof.go.jp/faq/currency/07ap.htm