1.いぇひー・おーる
真新しいスケッチブックを開けば、真っ白なページがある。そのにおいを吸い込んで、鉛筆を手に取った。2Bの柔らかい鉛筆の芯が真っ白いページの上を左上から斜めに往復し、やがて真っ黒に塗り潰された。
ふと、手のひらを見る。小指の横から手首にかけて、噛み付いたら手の中で一番やわらかそうなその部分が、真っ黒く汚れていた。
つい、笑ってしまう。別に気にするものでもなくて、次は消しゴムを手に取った。真っ黒に塗りつぶしたページの真ん中から、上へ上へと黒い部分を消していく。
「できた」
小さくつぶやいた声を拾う人など、誰もいない。
真四角な教室の中に、真四角の机がいくつも並んだ。誰もいない放課後の教室は居心地が良くて、スケッチブックを閉じて机の真ん中に置く。机の端とスケッチブックの端が平行にならなくて、少し歪みを直した。
背もたれに背中を預ければ、椅子がかたんと小さく悲鳴を上げる。目を閉じて、開いて、窓の外を見た。視界の端で薄汚れた白いぺらっぺらのカーテンが揺れている。
青い空に白い雲、秋晴れの空に吐き気がした。
もう一度、目を閉じる。それから前を見て、緑色の黒板を――。
「わっ」
目の前に、詰襟があった。金色のボタンを一つずつ上にのぼっていけば、校章の上に頭が乗っている。
一度、二度と、瞬きをした。それでも目の前にいる彼は幻のように消えてはいかない。
「相変わらず驚かないな。どうしたら腹抱えて笑ったり椅子が倒れるくらいに驚いたりするんだ?」
「さあ」
机の上のスケッチブックを手に取って、横にかけてあったリュックサックの中に滑り込ませる。ぽっかりと口を開けたリュックサックの奥底は暗くて何も見えはしない。
「俺だって笑うことくらいあるけど」
「それはそうだけどさぁ、爆笑、って感じじゃないし」
そんなものを求められたところで、出てこないものは出てこないのだ。
ふと、手のひらを見る。噛んだらやわらかそうな部分は相変わらず黒く汚れていて、そのせいか白いカッターシャツの袖のところも少しだけ黒くなっていた。
白いものは、すぐに汚れる。黒くなったり、茶色くなったり、黄色くなったり。
「うわ、きったな! 洗ってこいよ」
「洗って帰るよ」
当たり前じゃないかと席を立つ。かたんとまた椅子が悲鳴を上げていたが、聞こえないふりをした。
リュックサックを手に取って、右肩にかける。汚れた方の手で触ってしまったなと思ったけれど、黒いリュックサックは少しくらい汚れたところで分からない。
黒いものは、汚れない。最初から黒く塗りつぶされてしまっているから。
「あ、そうだ! この前ありがとうな」
「何の話?」
「円周率のやつ! 他のやつはみんな『そんなん覚えてどうするんだ』って言ってたけど、お前は褒めてくれただろ」
さんてんいちよん。
その先は、いちとご。じゃあ、その先は?
円周率は無限に続く数字の羅列。決して規則正しく並ぶことのない、けれどうつくしい数字の並び。
「だって、すごいから」
当たり前のように、言葉を口にした。
自分にできないことができる人はすごいのだ。円周率なんて、俺はとても覚えられない。
「喜んでもらえたなら、良かった」
椅子は机の下にしまってやる。そうでないと、椅子はとても不安そうだから。正しい場所に正しい形でしまわれていないというのは、気になって気になって気持ちが悪いから。
規則正しく並んだ四角、真っ白な箱。
ぐちゃぐちゃと脳の中が混ざり始めて、廊下に出た瞬間に駆け出した。
円周率、無限の数字。規則正しくないうつくしい数字の羅列。
規則正しい四角の並び。正しい場所に帰してもらえなくて、いくつもの椅子が気持ち悪い。
上履きを脱いで二つ揃えて下駄箱の真ん中に置いた。きちんと真ん中、問題ない。同じように下駄箱の真ん中に置いてあった靴と同じ場所。
靴を取り出してすのこの先に投げる。片方はきちんと立って、片方はひっくり返った。きちんと立った方には足を突っ込んで、ひっくり返った方は足で上を向けてから足を突っ込む。
かかとのところがつぶれて中に入り込んで気持ちが悪い。
ひもを通すところの下、何のためにあるのか分からない靴の舌みたいなところも中に入り込んで気持ちが悪い。
そのまま歩けもしなくて、引っ張り出した。
「イェヒー・オール。違うそれは描いた。もう描いた」
はじめに神は天と地とを創造された。
地はかたちなく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
真っ黒に塗りつぶして、手は汚れた。真っ黒を消しゴムで消して、一筋の線が出来た。
「描かなきゃ」
さんてんいちよんいちごお。
ぐるぐると並んだ円周率の数字。頭の中で渦を巻いて消えていかない。吐き出さなきゃ、外に出さなきゃ、そうしないと頭の中がパンクする。ぐちゃぐちゃになって、分からなくなる。
「描かなきゃ」
そうしないと、気持ちが悪い。
そうしないと、生きていけない。
いぇひー・おーる。
そんなものは、どこにもない。
どうしようもなくて駆けだした。背中でリュックサックはばたばたと暴れていて、急かすように腰を打った。
ふと、手のひらを見る。小指の横から手首にかけて、噛み付いたら手の中で一番やわらかそうなその部分が、真っ黒く汚れていた。
つい、笑ってしまう。別に気にするものでもなくて、次は消しゴムを手に取った。真っ黒に塗りつぶしたページの真ん中から、上へ上へと黒い部分を消していく。
「できた」
小さくつぶやいた声を拾う人など、誰もいない。
真四角な教室の中に、真四角の机がいくつも並んだ。誰もいない放課後の教室は居心地が良くて、スケッチブックを閉じて机の真ん中に置く。机の端とスケッチブックの端が平行にならなくて、少し歪みを直した。
背もたれに背中を預ければ、椅子がかたんと小さく悲鳴を上げる。目を閉じて、開いて、窓の外を見た。視界の端で薄汚れた白いぺらっぺらのカーテンが揺れている。
青い空に白い雲、秋晴れの空に吐き気がした。
もう一度、目を閉じる。それから前を見て、緑色の黒板を――。
「わっ」
目の前に、詰襟があった。金色のボタンを一つずつ上にのぼっていけば、校章の上に頭が乗っている。
一度、二度と、瞬きをした。それでも目の前にいる彼は幻のように消えてはいかない。
「相変わらず驚かないな。どうしたら腹抱えて笑ったり椅子が倒れるくらいに驚いたりするんだ?」
「さあ」
机の上のスケッチブックを手に取って、横にかけてあったリュックサックの中に滑り込ませる。ぽっかりと口を開けたリュックサックの奥底は暗くて何も見えはしない。
「俺だって笑うことくらいあるけど」
「それはそうだけどさぁ、爆笑、って感じじゃないし」
そんなものを求められたところで、出てこないものは出てこないのだ。
ふと、手のひらを見る。噛んだらやわらかそうな部分は相変わらず黒く汚れていて、そのせいか白いカッターシャツの袖のところも少しだけ黒くなっていた。
白いものは、すぐに汚れる。黒くなったり、茶色くなったり、黄色くなったり。
「うわ、きったな! 洗ってこいよ」
「洗って帰るよ」
当たり前じゃないかと席を立つ。かたんとまた椅子が悲鳴を上げていたが、聞こえないふりをした。
リュックサックを手に取って、右肩にかける。汚れた方の手で触ってしまったなと思ったけれど、黒いリュックサックは少しくらい汚れたところで分からない。
黒いものは、汚れない。最初から黒く塗りつぶされてしまっているから。
「あ、そうだ! この前ありがとうな」
「何の話?」
「円周率のやつ! 他のやつはみんな『そんなん覚えてどうするんだ』って言ってたけど、お前は褒めてくれただろ」
さんてんいちよん。
その先は、いちとご。じゃあ、その先は?
円周率は無限に続く数字の羅列。決して規則正しく並ぶことのない、けれどうつくしい数字の並び。
「だって、すごいから」
当たり前のように、言葉を口にした。
自分にできないことができる人はすごいのだ。円周率なんて、俺はとても覚えられない。
「喜んでもらえたなら、良かった」
椅子は机の下にしまってやる。そうでないと、椅子はとても不安そうだから。正しい場所に正しい形でしまわれていないというのは、気になって気になって気持ちが悪いから。
規則正しく並んだ四角、真っ白な箱。
ぐちゃぐちゃと脳の中が混ざり始めて、廊下に出た瞬間に駆け出した。
円周率、無限の数字。規則正しくないうつくしい数字の羅列。
規則正しい四角の並び。正しい場所に帰してもらえなくて、いくつもの椅子が気持ち悪い。
上履きを脱いで二つ揃えて下駄箱の真ん中に置いた。きちんと真ん中、問題ない。同じように下駄箱の真ん中に置いてあった靴と同じ場所。
靴を取り出してすのこの先に投げる。片方はきちんと立って、片方はひっくり返った。きちんと立った方には足を突っ込んで、ひっくり返った方は足で上を向けてから足を突っ込む。
かかとのところがつぶれて中に入り込んで気持ちが悪い。
ひもを通すところの下、何のためにあるのか分からない靴の舌みたいなところも中に入り込んで気持ちが悪い。
そのまま歩けもしなくて、引っ張り出した。
「イェヒー・オール。違うそれは描いた。もう描いた」
はじめに神は天と地とを創造された。
地はかたちなく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
真っ黒に塗りつぶして、手は汚れた。真っ黒を消しゴムで消して、一筋の線が出来た。
「描かなきゃ」
さんてんいちよんいちごお。
ぐるぐると並んだ円周率の数字。頭の中で渦を巻いて消えていかない。吐き出さなきゃ、外に出さなきゃ、そうしないと頭の中がパンクする。ぐちゃぐちゃになって、分からなくなる。
「描かなきゃ」
そうしないと、気持ちが悪い。
そうしないと、生きていけない。
いぇひー・おーる。
そんなものは、どこにもない。
どうしようもなくて駆けだした。背中でリュックサックはばたばたと暴れていて、急かすように腰を打った。