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作者: 真名鶴
3 白、黄色、黒
 からりころりとドアベルが音を立て、いらっしゃいませと声がする。喫茶店の中は涼しくて、外の気温との落差にいっそぞくりとするほどであった。特に誰かに案内されることもないようで、僕は勝手に窓際の一つのテーブルを陣取ることにした。
 店内にはクラシックが小さな音で流れていて、僕以外に客は一組しかいない。年配の女性二人は畑仕事の帰りなのか、日除けのついた麦わら帽子がかたわらに置かれている。
 年配の男性店主が注文を聞きに来て、僕は慌ててメニュー表を開いた。それほどたくさん食べる気にもなれず、たまごサンドとアイスコーヒーだけを注文する。
 そういえば、何故彼は“A will”としたのだろう。“A farewell note”ではなくて。ただ遺書であるとしたいのならば、それを選ぶ必要はなかっただろうに。
「お待たせいたしました」
 目の前に運ばれてきた白と黄色と黒を見ても、僕は何も思えなかった。美味うまそうだという感想すらも浮かぶことはなく、ただその色のみでしか認識ができない。
 それでも腹は減っている。僕は鳴く腹の虫をなだめるためだけに、黄色と白を手に取った。
 きっとこれは美味いのだろう、そうに違いない。ただもくもくと口の中で噛んで呑み込んでを繰り返す作業の中で、僕はそう自分に言い聞かせる。
 彼は何故死を選ばなければならなかったのか。
 人に知らせて理解させるべきである、そんなことを他人が言ったとてそれは所詮自己満足だ。自分が良いことをしたのだと、そういうどうしようもない気分に浸りたいだけなのだ。そんなことを望んでいない人間を引っ張り出して人間は平等ですなどと声高に叫んだところで、当事者はきっと「そっとしておいてくれ」とそう思うのみだろう。
 人間とは勝手なものだ。鳴き騒ぐこともなくただぼとりと落ちるのを待っていた蝉を無理に捕まえて、さあ鳴けと押し付ける。ただ静かにひっそりと落ちる時を待っていた蝉が、果たしてそれを望んでいただろうか。
 そこにあったのは正義感か。正義感と不寛容との狭間で首を絞め上げられて、結果彼は自ら命を絶ったのか。
 自分と違うものをすべて理解することなど不可能で、他人の考えなど推し量れるはずもない。理解しようとする人はきっと、自分も理解されたいと叫んでいる人なのだ。
 でもそれは僕にとって、ひどく気持ち悪くて窮屈に思えてならないのだ。
 ごくりと黒い液体を飲み込んだ。これはアイスコーヒーである、それは分かっている。頭ではそう理解できているのに、いまいち味が分からなくなる。ぐるぐると考え事をしているせいだ。
 別にお前が彼を殺しただなどと、彼を責めるつもりはない。偶然知ってしまったその事実を人間は少数派にも寛容であるべきなどという自分の中の正義に従って吹聴し、結果彼が後ろ指を差されるようになっただけで。
 なぜ彼は、僕に封書を送ってきたのだろう。
 目を閉じて、ふと思い出したことがある。あれも蝉が鳴き騒ぐ夏のこと、彼が変なことを僕に聞いたのだ。確かあれはそう――もしも友人が自分にとって理解できない存在であると分かったら、付き合い方を変えるのか。そんな問いだった。
 思春期特有の問いであったのか、それとも彼が自分の『異質』を自覚していたからこその問いであったのか、あるいはその両方か。
 僕は確かそれにこう答えたのだ。別に何も、と。
 それを聞かされたところで今まで見て来たものが突然化け物に変わるわけでもない。友人は友人であって、何かしら付き合い方を変えるようなものでもない。それが殺人を犯したとかそういう罪に問われるものであったのならば罪を償えと言うべきものだろうが、そうでないのなら僕が言えることなど何もないだろう。
 もしかするとあの問いの答えが、僕にこの封書を届けたのかもしれない。そこに書かれたものを見たところで、僕は何も変わらないと信じた、いや、藁にもすがるように信じたかったのかもしれない。
 とはいえ僕と彼の間には生と死という大きな隔たりが生まれ、その答えを問うこともできない。
「ごちそうさまでした」
 会計を済ませて、店を出る。年配の女性二人が僕を見て何か言っていたけれど、どうせ僕はもうこれから電車に乗って埃っぽい空気の中へと帰るのだ。
 相変わらずアブラゼミが鳴いている。これがツクツクボウシの声に変わり、スズムシの音に変われば秋がやってくるのだ。彼らはオスだけが鳴き騒ぐ。ただただその種を存続させるためだけに。
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