第59話 佐渡島サメ騒動! 〈一〉
ようやく暑さも和らいできた9月中旬のこと。開港波止場と象の鼻桟橋を臨む朝霧海事法務事務所にて、松前聡は真面目くさった顔をしてこう告げたのだった。
「夜になると、鮫が宙を泳ぐのです」
「鮫が宙を……ですか」
松前からひと通りの説明を受けた朝霧まりかは、ふむと顎に手を当てて頷いた。
今回の依頼人である松前聡は、「犬吠埼沖糧食盗難事件」の解決をまりかに依頼してきた大手海運会社代表取締役・今井竹虎氏の秘書を務めている。理由あって「優秀な」呪術師を探していたところ、今井氏からこの事務所を紹介され、多忙の合間を縫って訪問したとのことだった。
まりかは顎から手を離すと、まずは今回の依頼そのものについて感じた疑問を松前にぶつけてみることにする。
「これは純粋な疑問なのですが。確かに当事務所は、遠方の依頼も随時受け付けているとWebサイトに記載しています。ただ、島外の……それも人間である自分の出る幕が本当にあるのかと、松前さんのお話を伺うに心配になってしまうのですが……」
「朝霧さんの疑問はもっともです」
質問の真意をすぐに察した松前は、金縁眼鏡の精悍な細面を小さく縦に揺らした。
「わざわざ島外に協力を求める理由については、実のところ私も把握していないのです。もちろん、本家の人間には何度も確認したのですが、自分たちも聞いていないとの一点張りでして」
細いながらもくっきりとした眉をひそめて、その涼しげな目元に不服さを滲ませる。
「助力を求める身でありながら、依頼内容に不審を抱かせてしまったこと……まことに面目ありません」
「いいえ、お気になさらず。このような依頼には慣れていますから」
七三分けの頭を下げて謝る松前に、まりかは朗らかな笑顔を返した。それから場の空気を緩めるため、今度は話を少々脇道に逸らしてみることにする。
「お父様の代からこちらで暮らされているとのことですが、島の方々とは今でも頻繁に交流を持たれているのですか」
「そうですね……」
コーヒーに砂糖とフレッシュを入れてかき混ぜながら、松前は何故か眉間の皺を深くした。
「本家に顔を出す度に、もっと頻繁に帰ってこいと毎度毎度……と、失礼。危うく愚痴をお聞かせするところでした」
「いえそんな」
まりかは笑って流すと、同じくコーヒーカップに口をつけた。
(そういえば、明も似たようなこと話してたわね)
親戚についての松前の話を興味深く聞きながら、まりかは同じ龍神の宝具を持つ友人の顔を思い浮かべる。
(親戚付き合いは為になる事もあったけど、面倒なことの方がずっと多かったって)
親戚というものを持たない彼女にとっては、完全に未知の世界の話である。
まりかはコーヒーカップをソーサーに置くと、松前との打ち合わせを再開した。まずは、具体的な日時について相談する。
「――そんなにすぐに、来ていただけるのですか」
「もちろんです。早ければ早い方が良いでしょう」
さっさと日時を決めてしまうと、同様にして依頼料や支払い方法など、その他細々とした契約事項についても次から次へと詰めていく。
「宿泊施設は、こちらをお勧めします。本家筋の人間が経営していますから、私から根回ししておくことも可能です」
「そうですね……それでは、お言葉に甘えて」
こうして、松前聡から朝霧まりかへの〈海異〉事案解決にかかる依頼事項は正式に受理された。
松前は最後に、ビジネスバッグからホチキス止めの資料を取り出すと、応接用ローテーブルに乗せてまりかに差し出した。
「こちらが、彼らについてまとめた資料です。差し出がましいようですが、島を訪問するまでに、こちらの資料を熟読されることをお勧めします」
松前が事務所を去ると同時に、時計の針が正午を指した。まりかは応接用ソファに座ったまま、松前から提供された資料をパラリとめくってみる。
「『――佐渡島では、狸のことを狢と呼びます。くれぐれも狸の呼称を使わないように』…………これは、よくよくカナに言って聞かせなきゃね」
まりかは資料を閉じてソファから立ち上がると、独りで遊んで過ごしているはずのカナを昼食に誘うべく、事務所の玄関を出て上の階へと向かった。
日本海は新潟県の沖合に浮かぶ佐渡島。それが、今回の〈海異〉事案の舞台であり、依頼を持ち込んできた松前の親戚縁者たちが住まう地でもある。
〈海異〉の具体的な内容としては、佐渡島と本土に挟まれた海上に「宙を泳ぐ鮫」が出没するという単純かつ奇妙なものだった。時間帯は日没後から夜明け前までで出現頻度はまばら、主に漁師たちによって目撃されているものの、それらの「鮫」たちは宙を泳ぐ以外には特に何をするでもなく、現在までのところ実害は発生していないとのことらしい。
とはいえ、佐渡島においてこのような鮫の怪異が出現するのは初めてのことであり、事態が悪化する可能性も考慮し、早急に対処することが彼らによって決定されたというのが松前の説明だった。
『本家によると、原因については彼らが心当たりを話してくれるだろうとのことでした。島外に協力を求めた理由についても、その際に訊ねてみるとよろしいかと』
まりかは階段を上りながら、松前から提供された資料の一文を思い返してみる。
「タヌ……じゃなくて、狢が支配する島かあ」
豊かな自然環境と古い歴史や文化、伝統芸能などによって観光名所としても名高い佐渡島。他方、本土ではほとんど知られていないものの、この島には怪異化した狸――佐渡流の呼び方をすれば狢――が数多く生息しているという。
しかも、それらの狢たちは島全域に独自の情報網を構築しており、島の幽世は狢たちによって支配、管理されているとのことだった。
『かつては幽世のみならず、現世の人間社会にも狢たちが深く関わっていたと聞いています。それこそ、商人に扮して人間に金を貸していたという豪胆な大狢の逸話が残っているくらいですから――』
更に松前は、島の狢たちの頂点に立つという5匹の大狢についてもまりかに説明した。そして、そのうちの1匹が松前の曽祖父であるということも。
『――彼らについては、後ほどお渡しする資料をご覧いただければと。どの大狢も強大な妖力を持ち、しかも抜け目なく強かです。ですが、我が曽祖父がいる限り、朝霧さんに危害が加えられることは絶対に無いと保証します』
まりかは階段を上りきって自宅玄関のドアノブに手をかけながら、佐渡島の案件については松前の資料を熟読した後でカナに伝えようと決めた。
(カナの性格を考えたら、絶対に狢たちの前で余計な発言をするに決まってるわ)
今回の依頼解決の肝は、〈海異〉そのものよりも佐渡島の大狢たちといかに渡り合うかというところにあるとまりかは考えている。宙を泳ぐだけで何の危険もない鮫よりも、人間を出し抜くことに長けた大狢たちの方が遥かに油断のならない存在なのは火を見るよりも明らかだろう。
まりかは、仕事モードから休憩モードに気持ちを切り替えると、玄関扉を開けてカナに呼びかけようとした。
「カナー、お昼ご」
「ギャーッハハハハッ!!」
「きゃっ!?」
扉を開けた途端、まりかの目に液晶画面いっぱいの血飛沫が飛び込んできた。直後、今度は鮫の頭部が宙を舞い、盛大な波飛沫を上げて海面に墜落する場面が映し出される。
「ギャハハハ……おう、ちょうどよい所に来おったな! 昼休憩じゃろ? たまには一緒に観ていかぬか?」
「…………また観てたの、サメ映画」
まりかは一気にげんなりした気分になって、涙目になって大笑いする素っ裸のカナにじとりとした視線を向けた。
この数週間というもの、カナはB級映画の鑑賞に夢中になっている。カナの要望に応える形でテレビを買い替え、動画配信サービスに加入していつでも好きな時に好きな映像作品を楽しめるような環境を整えたのだが、これは少々軽率な行いだったのではないかとまりかは後悔している。
何故なら最近、カナはよりにもよってサメ映画にドハマリしてしまったからだ。
そして、まりかはサメ映画が苦手である。
「生き物が何の意味もなく斬られたり倒されたりする話の、何が面白いのよ……」
「むう?」
不快感を露わにした発言に、カナはやっとのことで笑うのを止めてまりかを見た。
軽いウェーブのかかった白髪に、褐色の肌。緩やかな曲線を描いた青色の入れ墨が首から下の全身を覆い、顔には青い横線のシンプルな入れ墨だけが左右の頬に入っている。耳にはチェーンのピアスに、首には金色の細めのチョーカー。ピアスとチョーカーには、それぞれ違う種類の宝石が嵌められている。ちなみに今は人間の姿になっているが、その正体は下半身がクジラの形をした人魚である。
まりかの非難がましい視線を受けて、カナは不満そうに小さな唇を尖らせた。
「なんじゃい、そんな湿気た面をしおって……所詮は作り物じゃろうがい」
「そういう問題じゃないんだってば」
カナから返ってきた正論に、まりかは額に手を当ててため息をついた。カナは、見た目だけは華奢な子供の姿をしているものの、その言動は老獪そのもの。日を追うごとに人間社会への見識を深めており、所詮は世事に疎い妖と決めてかかって対応すると、手酷い反撃を受けること必須だった。
現に、どう反論したものかと考え込んでいるうちに、カナが早くも二の句を継いでくる。
「どれほど精巧であろうと、偽物は偽物じゃ。本物に成り代わることなぞできん。つまりじゃな、虚構を虚構として正しく捉えて娯楽として楽しむ心のゆとりを」
「もういいわよっ!」
まりかはくるりとカナに背中を向けて玄関を出ると、怒りに頬を膨らませながら事務所への階段をドスドスと下った。
(なによ、せっかく中華街で一緒にランチしようと思ったのに)
サメ映画のおかげで完全に食欲が失せたまりかは、事務所の奥の部屋で保管している賞味期限切れ直前のブロック型栄養補助食品を昼食とすることにした。
「――――んん?」
とある閃きに、ゴソゴソと箱を探っていたまりかの腕が止まる。
「サメが空を……宙を泳ぐ鮫…………いやいや、まさかね」
まりかはすぐにその思いつきを否定すると、質素な昼食を片手に事務所のデスクへと戻っていったのだった。
松前の依頼を受けた数日後。電車と新幹線とバスを乗り継ぐこと約3時間、まりかとカナは新潟港の佐渡汽船ターミナルに到着していた。
待合室にて改札が開くのを待つ間、まりかは佐渡汽船のパンフレットを片手に、いよいよ目前に控えた船旅について熱心にカナに解説する。
「これから乗るのはジェットフォイルと呼ばれる超高速型の船だから、たったの70分くらいで佐渡の両津港に到着するわ」
「ふうん」
ジェットフォイル、即ち「jetfoil」は、日本語に訳すと「噴射推進式水中翼船」となる。名前が表す通り、高圧の水流を発生させるウォータージェット推進によって前進し、水中翼に発生した揚力で船体を海面上に浮き上がらせて航走する。浮力によって水に浮かんで走る普通の船とは異なり、飛行機と同じ原理で「海の上を飛ぶ」画期的なタイプの船なのである。
「――でもジェットフォイルって船ならではの揺れが全然無いし、船というより車とか飛行機に乗ってるみたいな感覚だから、これから航海に出るぞっていうワクワク感があんまり無いのよね。もしこれが観光だったら、ジェットフォイルじゃなくてカーフェリーに乗ってのんびりと航海を楽しんでたところなんだけど」
「――おい、まりかよ」
まりかの熱烈な船語りに気のない相槌を打っていたカナだったが、とある可能性に気がついたため試しに問い質してみることにする。
「もしやとは思うが……遠方の依頼を受け付けておるのは、各地の船に乗りたいがためではなかろうな?」
「…………」
カナの問いに、まりかがふっと視線を逸らした。
完全に図星だったらしい。
「まりかさん?」
「……」
「もしもし?」
「…………さっ、行きましょう!」
まりかはサッと立ち上がると、アナウンスに従って改札口へと歩き出した。紙パックのジュースをだらだらと飲んでいたカナは慌ててジュースを飲み切ると、紙パックをゴミ箱に捨てて改札口へと駆け寄る。
「まったく、上手いことやりよるわい」
桟橋を渡って船内に入り、見晴らしの良い2階の窓際席を陣取ったカナは、聞こえるか聞こえないかくらいの絶妙な声量でそう呟いた。
いざ。空飛ぶサメと、古の狢たちが待ち受ける佐渡島へ。
「夜になると、鮫が宙を泳ぐのです」
「鮫が宙を……ですか」
松前からひと通りの説明を受けた朝霧まりかは、ふむと顎に手を当てて頷いた。
今回の依頼人である松前聡は、「犬吠埼沖糧食盗難事件」の解決をまりかに依頼してきた大手海運会社代表取締役・今井竹虎氏の秘書を務めている。理由あって「優秀な」呪術師を探していたところ、今井氏からこの事務所を紹介され、多忙の合間を縫って訪問したとのことだった。
まりかは顎から手を離すと、まずは今回の依頼そのものについて感じた疑問を松前にぶつけてみることにする。
「これは純粋な疑問なのですが。確かに当事務所は、遠方の依頼も随時受け付けているとWebサイトに記載しています。ただ、島外の……それも人間である自分の出る幕が本当にあるのかと、松前さんのお話を伺うに心配になってしまうのですが……」
「朝霧さんの疑問はもっともです」
質問の真意をすぐに察した松前は、金縁眼鏡の精悍な細面を小さく縦に揺らした。
「わざわざ島外に協力を求める理由については、実のところ私も把握していないのです。もちろん、本家の人間には何度も確認したのですが、自分たちも聞いていないとの一点張りでして」
細いながらもくっきりとした眉をひそめて、その涼しげな目元に不服さを滲ませる。
「助力を求める身でありながら、依頼内容に不審を抱かせてしまったこと……まことに面目ありません」
「いいえ、お気になさらず。このような依頼には慣れていますから」
七三分けの頭を下げて謝る松前に、まりかは朗らかな笑顔を返した。それから場の空気を緩めるため、今度は話を少々脇道に逸らしてみることにする。
「お父様の代からこちらで暮らされているとのことですが、島の方々とは今でも頻繁に交流を持たれているのですか」
「そうですね……」
コーヒーに砂糖とフレッシュを入れてかき混ぜながら、松前は何故か眉間の皺を深くした。
「本家に顔を出す度に、もっと頻繁に帰ってこいと毎度毎度……と、失礼。危うく愚痴をお聞かせするところでした」
「いえそんな」
まりかは笑って流すと、同じくコーヒーカップに口をつけた。
(そういえば、明も似たようなこと話してたわね)
親戚についての松前の話を興味深く聞きながら、まりかは同じ龍神の宝具を持つ友人の顔を思い浮かべる。
(親戚付き合いは為になる事もあったけど、面倒なことの方がずっと多かったって)
親戚というものを持たない彼女にとっては、完全に未知の世界の話である。
まりかはコーヒーカップをソーサーに置くと、松前との打ち合わせを再開した。まずは、具体的な日時について相談する。
「――そんなにすぐに、来ていただけるのですか」
「もちろんです。早ければ早い方が良いでしょう」
さっさと日時を決めてしまうと、同様にして依頼料や支払い方法など、その他細々とした契約事項についても次から次へと詰めていく。
「宿泊施設は、こちらをお勧めします。本家筋の人間が経営していますから、私から根回ししておくことも可能です」
「そうですね……それでは、お言葉に甘えて」
こうして、松前聡から朝霧まりかへの〈海異〉事案解決にかかる依頼事項は正式に受理された。
松前は最後に、ビジネスバッグからホチキス止めの資料を取り出すと、応接用ローテーブルに乗せてまりかに差し出した。
「こちらが、彼らについてまとめた資料です。差し出がましいようですが、島を訪問するまでに、こちらの資料を熟読されることをお勧めします」
松前が事務所を去ると同時に、時計の針が正午を指した。まりかは応接用ソファに座ったまま、松前から提供された資料をパラリとめくってみる。
「『――佐渡島では、狸のことを狢と呼びます。くれぐれも狸の呼称を使わないように』…………これは、よくよくカナに言って聞かせなきゃね」
まりかは資料を閉じてソファから立ち上がると、独りで遊んで過ごしているはずのカナを昼食に誘うべく、事務所の玄関を出て上の階へと向かった。
日本海は新潟県の沖合に浮かぶ佐渡島。それが、今回の〈海異〉事案の舞台であり、依頼を持ち込んできた松前の親戚縁者たちが住まう地でもある。
〈海異〉の具体的な内容としては、佐渡島と本土に挟まれた海上に「宙を泳ぐ鮫」が出没するという単純かつ奇妙なものだった。時間帯は日没後から夜明け前までで出現頻度はまばら、主に漁師たちによって目撃されているものの、それらの「鮫」たちは宙を泳ぐ以外には特に何をするでもなく、現在までのところ実害は発生していないとのことらしい。
とはいえ、佐渡島においてこのような鮫の怪異が出現するのは初めてのことであり、事態が悪化する可能性も考慮し、早急に対処することが彼らによって決定されたというのが松前の説明だった。
『本家によると、原因については彼らが心当たりを話してくれるだろうとのことでした。島外に協力を求めた理由についても、その際に訊ねてみるとよろしいかと』
まりかは階段を上りながら、松前から提供された資料の一文を思い返してみる。
「タヌ……じゃなくて、狢が支配する島かあ」
豊かな自然環境と古い歴史や文化、伝統芸能などによって観光名所としても名高い佐渡島。他方、本土ではほとんど知られていないものの、この島には怪異化した狸――佐渡流の呼び方をすれば狢――が数多く生息しているという。
しかも、それらの狢たちは島全域に独自の情報網を構築しており、島の幽世は狢たちによって支配、管理されているとのことだった。
『かつては幽世のみならず、現世の人間社会にも狢たちが深く関わっていたと聞いています。それこそ、商人に扮して人間に金を貸していたという豪胆な大狢の逸話が残っているくらいですから――』
更に松前は、島の狢たちの頂点に立つという5匹の大狢についてもまりかに説明した。そして、そのうちの1匹が松前の曽祖父であるということも。
『――彼らについては、後ほどお渡しする資料をご覧いただければと。どの大狢も強大な妖力を持ち、しかも抜け目なく強かです。ですが、我が曽祖父がいる限り、朝霧さんに危害が加えられることは絶対に無いと保証します』
まりかは階段を上りきって自宅玄関のドアノブに手をかけながら、佐渡島の案件については松前の資料を熟読した後でカナに伝えようと決めた。
(カナの性格を考えたら、絶対に狢たちの前で余計な発言をするに決まってるわ)
今回の依頼解決の肝は、〈海異〉そのものよりも佐渡島の大狢たちといかに渡り合うかというところにあるとまりかは考えている。宙を泳ぐだけで何の危険もない鮫よりも、人間を出し抜くことに長けた大狢たちの方が遥かに油断のならない存在なのは火を見るよりも明らかだろう。
まりかは、仕事モードから休憩モードに気持ちを切り替えると、玄関扉を開けてカナに呼びかけようとした。
「カナー、お昼ご」
「ギャーッハハハハッ!!」
「きゃっ!?」
扉を開けた途端、まりかの目に液晶画面いっぱいの血飛沫が飛び込んできた。直後、今度は鮫の頭部が宙を舞い、盛大な波飛沫を上げて海面に墜落する場面が映し出される。
「ギャハハハ……おう、ちょうどよい所に来おったな! 昼休憩じゃろ? たまには一緒に観ていかぬか?」
「…………また観てたの、サメ映画」
まりかは一気にげんなりした気分になって、涙目になって大笑いする素っ裸のカナにじとりとした視線を向けた。
この数週間というもの、カナはB級映画の鑑賞に夢中になっている。カナの要望に応える形でテレビを買い替え、動画配信サービスに加入していつでも好きな時に好きな映像作品を楽しめるような環境を整えたのだが、これは少々軽率な行いだったのではないかとまりかは後悔している。
何故なら最近、カナはよりにもよってサメ映画にドハマリしてしまったからだ。
そして、まりかはサメ映画が苦手である。
「生き物が何の意味もなく斬られたり倒されたりする話の、何が面白いのよ……」
「むう?」
不快感を露わにした発言に、カナはやっとのことで笑うのを止めてまりかを見た。
軽いウェーブのかかった白髪に、褐色の肌。緩やかな曲線を描いた青色の入れ墨が首から下の全身を覆い、顔には青い横線のシンプルな入れ墨だけが左右の頬に入っている。耳にはチェーンのピアスに、首には金色の細めのチョーカー。ピアスとチョーカーには、それぞれ違う種類の宝石が嵌められている。ちなみに今は人間の姿になっているが、その正体は下半身がクジラの形をした人魚である。
まりかの非難がましい視線を受けて、カナは不満そうに小さな唇を尖らせた。
「なんじゃい、そんな湿気た面をしおって……所詮は作り物じゃろうがい」
「そういう問題じゃないんだってば」
カナから返ってきた正論に、まりかは額に手を当ててため息をついた。カナは、見た目だけは華奢な子供の姿をしているものの、その言動は老獪そのもの。日を追うごとに人間社会への見識を深めており、所詮は世事に疎い妖と決めてかかって対応すると、手酷い反撃を受けること必須だった。
現に、どう反論したものかと考え込んでいるうちに、カナが早くも二の句を継いでくる。
「どれほど精巧であろうと、偽物は偽物じゃ。本物に成り代わることなぞできん。つまりじゃな、虚構を虚構として正しく捉えて娯楽として楽しむ心のゆとりを」
「もういいわよっ!」
まりかはくるりとカナに背中を向けて玄関を出ると、怒りに頬を膨らませながら事務所への階段をドスドスと下った。
(なによ、せっかく中華街で一緒にランチしようと思ったのに)
サメ映画のおかげで完全に食欲が失せたまりかは、事務所の奥の部屋で保管している賞味期限切れ直前のブロック型栄養補助食品を昼食とすることにした。
「――――んん?」
とある閃きに、ゴソゴソと箱を探っていたまりかの腕が止まる。
「サメが空を……宙を泳ぐ鮫…………いやいや、まさかね」
まりかはすぐにその思いつきを否定すると、質素な昼食を片手に事務所のデスクへと戻っていったのだった。
松前の依頼を受けた数日後。電車と新幹線とバスを乗り継ぐこと約3時間、まりかとカナは新潟港の佐渡汽船ターミナルに到着していた。
待合室にて改札が開くのを待つ間、まりかは佐渡汽船のパンフレットを片手に、いよいよ目前に控えた船旅について熱心にカナに解説する。
「これから乗るのはジェットフォイルと呼ばれる超高速型の船だから、たったの70分くらいで佐渡の両津港に到着するわ」
「ふうん」
ジェットフォイル、即ち「jetfoil」は、日本語に訳すと「噴射推進式水中翼船」となる。名前が表す通り、高圧の水流を発生させるウォータージェット推進によって前進し、水中翼に発生した揚力で船体を海面上に浮き上がらせて航走する。浮力によって水に浮かんで走る普通の船とは異なり、飛行機と同じ原理で「海の上を飛ぶ」画期的なタイプの船なのである。
「――でもジェットフォイルって船ならではの揺れが全然無いし、船というより車とか飛行機に乗ってるみたいな感覚だから、これから航海に出るぞっていうワクワク感があんまり無いのよね。もしこれが観光だったら、ジェットフォイルじゃなくてカーフェリーに乗ってのんびりと航海を楽しんでたところなんだけど」
「――おい、まりかよ」
まりかの熱烈な船語りに気のない相槌を打っていたカナだったが、とある可能性に気がついたため試しに問い質してみることにする。
「もしやとは思うが……遠方の依頼を受け付けておるのは、各地の船に乗りたいがためではなかろうな?」
「…………」
カナの問いに、まりかがふっと視線を逸らした。
完全に図星だったらしい。
「まりかさん?」
「……」
「もしもし?」
「…………さっ、行きましょう!」
まりかはサッと立ち上がると、アナウンスに従って改札口へと歩き出した。紙パックのジュースをだらだらと飲んでいたカナは慌ててジュースを飲み切ると、紙パックをゴミ箱に捨てて改札口へと駆け寄る。
「まったく、上手いことやりよるわい」
桟橋を渡って船内に入り、見晴らしの良い2階の窓際席を陣取ったカナは、聞こえるか聞こえないかくらいの絶妙な声量でそう呟いた。
いざ。空飛ぶサメと、古の狢たちが待ち受ける佐渡島へ。