第69話 中ノ瀬航路あやかしロックフェス!〈一〉
10月上旬のある朝。菊池明と水晶は、赤レンガ倉庫すぐ横の横浜海上防災基地ではなく、みなとみらい線・馬車道駅の近くにある合同庁舎に向かっていた。
「今から行く東京マーチスは、数年前にこっちに移転してきたばかりなんだ。移転前は横須賀の観音崎という所に設置されてたんだけど、眺めはそっちの方が良かったかもしれないな」
「横須賀ですか……」
明の説明に、水晶が複雑そうな面持ちを浮かべる。明もまた、この夏に目の当たりにした牛鬼と濡女の顛末を回想し、そっと顔を曇らせた。
(あの一件以来、伊良部さんは室長とほとんど口を利かなくなったからなあ。村上さんも何故か、室長に対して刺々しい感じだし。元気なのは渡辺くらいだよ)
海洋怪異対策室の庶務担当、渡辺隼人。室内に漂う気まずい雰囲気などなんのその、仕事を溜め込んでは締め切り直前に騒ぎ立てて明に泣きつくというサイクルを相も変わらず繰り返している。その機微の疎さに救われているような気もしないでも無かったが、明としては、それを本人に伝えて妙な自信をつけさせるつもりは毛頭無かった。
(今回の案件、俺の独力で解決できるような内容だと気持ち的に楽なんだけど)
そんな事を考えながら合同庁舎に入館し、エレベーターに乗って目的階のボタンを押す。到着すると案内図を確認して廊下を進み、「東京湾海上交通センター」と書かれた部屋の前で立ち止まった。
「あっ、そうだ」
明は、はたと水晶を振り向いた。
「さっき話した例の同期だけど、多分水晶の姿が視えると思う。でも、水晶はいつも通り俺のそばにいてくれて良いから」
「分かりました」
水晶が安心したように頷くのを確認すると、明はゆっくりと扉を開けて室内に足を踏み入れた。
「ッ!」
訪いを告げようとした明は、眼前に広がる圧巻の光景につい息を呑んでしまう。
「〈こちら東京マーチス chヒトサン 13chへ変波願います どうぞ〉」
「〈浦賀水道航路北上中の陽光丸 前方の船舶に接近しています 直ちに安全な間隔を〉」
「〈コールサイン ジュリエット マイク〉」
「〈黒潮丸 貴船の位置を確認しました〉」
絶え間なく飛び交う管制官たちの声に、東京湾内のライブ映像やレーダー画像などが表示された何十枚ものディスプレイ。そして、スピーカーからひっきりなしに発せられる船舶からの通信。
東京湾海上交通センター、通称・東京マーチス。24時間体制で東京湾内の船舶の動向を監視し、情報提供や航行管制業務を行うことで海の安全を守る、れっきとした海上保安庁の組織である。
(同じ組織にいるはずなのに、ちょっと部署が変わるだけで全然別世界なんだよな)
熱量と緊張感に溢れた広い管制室を見渡しながら、普段の自分の仕事と比べて軽く引け目を感じてしまう明。しかし、すぐに気を取り直して、用件を伝えるために手すきの職員を探そうとする。
そこへ、数年ぶりに聞く懐かしい声が明の耳に届いた。
「久し振りやなあ、菊池君」
「西野! 久し振り……って、あれ?」
明の視線が、西野の顔からお腹に移る。
西野は照れ臭そうに笑って大きくなったお腹を擦ると、ついてくるようにと明を手招きした。
「積もる話もあるとこやけど、まずは仕事の話ばしよか」
東京マーチスの管制官であり、明の海上保安学校時代の同期でもある西野希実果。それぞれ履修コースは異なったものの、部活動が同じヨット部だったことなどもあり、彼女とはそれなりに話す仲だったのだ。
西野はとある区画に明を案内すると、困ったような顔で通信機器を示して、今回の〈海異〉案件について説明し始めた。
「ここ2、3日くらいのことなんやけど、無線交信に妖の声が割り込んでくるようになったんや。今まで、こげん事無かったとに」
「その妖の声が聴こえるのは、西野だけか?」
明は思案顔で通信機器を睨みながら、西野に次々と質問をしていく。
「他にも数人聴いとるけど、今日はみんな非番か休日やし、うちが一番はっきりと聴き取れるみたいやから」
「体調に変わりは?」
「それは心配せんでよかばい」
西野は得意気に笑うと、懐から「安産祈願」と書かれた御守りを取り出した。明はひとまず肩の力を抜くと、再び質問をしながら対処方法を探ろうとする。
「時間帯は決まってるのか?」
「不定期やけど、このくらいの時間が多かばい。入港ラッシュの忙しい時間帯なんやから、本当に止めて欲しいんやけど」
西野の説明によると、その妖は男性の声には興味を示さず、女性管制官や女性の船員が交信しているところに割り込もうとするとのことである。西野や他の管制官が何度か叱責したところ、多少は大人しくなったものの、それでも交信と交信の間隙を縫ってしつこく話そうとしてくるという。
ちなみに、霊力の少ない人間にはただの雑音としか認識できないらしい。それでも、無線交信の邪魔になることには変わらず、東京マーチスとしては海異対に対し可及的速やかな解決を望むとのことだった。
「なるほど、それは確かに滅茶苦茶困るな」
西野の話に、明は改めて事の重大さを認識する。
船とマーチスとの通信には、国際VHFと呼ばれる周波数150MHz帯の無線通信システムが使用される。国際と名が付くように世界共通のシステムであり、海で遭難した時のための遭難通信や緊急通信にも使用される非常に重要な存在なのだ。
「後は、実際に聴いてみて判断したいところだけど……」
「今日はまだ来とらんけん、そろそろやて思う」
西野がそう言った時、近くの女性管制官から声がかかった。
「西野さん、また雑音が……!」
「ッ!」
西野は早足で駆け寄ると、マイクを受け取って素早く明に目配せをした。
(まずは、普段通りにやって見せるってことか)
明は西野に頷きかけると、感覚を研ぎ澄ませてスピーカーから流れる音声に耳を澄ます。
「〈こちら東京マーチス 関係者以外の国際VHFの使用は 即刻お止めください〉」
標準語に切り替えた西野の冷ややかな声が、電波に乗って東京湾中に流れる。
すると、スピーカーから下卑た笑いを含んだ嗄れ声が発せられた。
「〈ヒヒッ、声の可愛い姉ちゃんやないか! 今日はツイとるわあ!〉」
「ああ、もう。完全に舐めてるわ……」
西野が諦めたように首を振って、明を見る。
(これは酷いな。さて、こんな質の悪い悪戯をする海の妖というと――)
この声の主の正体について検討をつけた明は、水晶と顔を見合わせると、いつでも命令が出せることを確認しておく。
「西野、代わろうか?」
明は小声で訊ねたが、西野は小さく首を振った。いくら〈海異〉案件とはいえ、管制業務の未経験者にいきなり喋らせるわけにはいかないと考えたのだろう。
西野はそのまま、妖との無線交信を続行しようとする。
「〈管制官の指示に従わない場合 相応の措置を講ずることを〉」
「〈そんなことより姉ちゃん、やや子は元気か?〉」
「!?」
完全に予想もしなかった問いかけに、西野が声を詰まらせた。血色の良い顔が青ざめ、空いた片手が無意識のうちにお腹を庇おうとする。
スピーカーからは、図に乗った妖の声が流れ続ける。
「〈それだけデカいと、産まれるのはもうすぐやんな。はてさて、顔はどっちに似とるんか――〉」
「貸せ」
明は西野からマイクをひったくると、低い声で妖に話しかけた。
「お前さ、海河童だろ」
「〈ヒィッ!?〉」
妖が、引き攣った声を上げた。
明はもう一段声を低くすると、顔の見えない相手に向かって思いっ切り凄んでみせる。
「あんまり調子に乗ってると…………祓うぞ」
「〈…………〉」
ブツリと交信が途切れた。
明は、目を丸くしてこちらを見つめる西野にマイクを返すと、管制官でもない自分が勝手に喋ったことについて謝った。
「勝手なことをしてすまない」
「そんな、謝らなくて良かばい」
西野は、やり取りを聴いていただろう関係者たちに向けて謝罪してから交信を終えると、明に尊敬の眼差しを向けてきた。
「やっぱり、怪異退治を仕事にできるくらい霊力の強い人は全然違うなあ」
「これくらい大したこと無いって」
明は、西野や他の職員から少し距離を置くと、無線交信をしてきた妖――海河童を探し出すように水晶に命じた。
「声を聴いただけで妊娠を見抜くなんて、そんな芸当が海河童なんかにできるはずがない。多分、そう遠くない場所に潜んでいるはずだ」
「かしこまりました、我が主よ」
水晶は命令を受けるなり、オオミズナギドリの力強い翼を広げて窓の外に飛び出していった。
(そういえば、水晶の飛び出し癖をどうにかしろって室長から言われてたな)
明は深々と息を吐くと、不安そうにこちらを見守っている西野の元に戻ったのだった。
管制室の隅にある応接用のソファに腰掛けた明は、向かいに座った西野を相手に、先程の「退治」について色々と端折りながら解説した。
「それじゃあ、海河童やと分かっとったわけやなかと?」
「ああ、見当をつけて言ってみただけだ」
意外そうな顔をする西野に対し、明は何でもないような顔で話を続ける。
「それでも、十中八九そうだろうという確信はあったし、外れたら外れたで他にもやりようはあるからさ――」
海河童に限らず、力の弱い怪異や妖は、その正体を言い当てただけであっさりと退散してしまうことが多い。何故なら、人間が行使する呪いへの対抗手段を持たない彼らにとって、正体を知られるということは生殺与奪の権を握られるに等しいからである。
「そういやあ、じいちゃんから聞いたことある気がするわ」
西野の興味深そうな反応を見て、明は少し語気を強めて補足する。
「もちろん、力の強い妖には全然効かないし、名前のついていない怪異には逆に力を与えてしまう事すらある。西野は絶対に真似するなよ」
必要な事をひと通り話し終えると、今度は小休止も兼ねて互いの近況について報告し合った。
西野は今週いっぱいで産休に入り、復帰後は地元に近い関門マーチスで勤務する予定らしい。明もまた、海鳥と魚の姿をした式神の少女と共に暮らしていることなどを話す。
「――あの部屋狭いから、引っ越そうかどうか迷っててさ。でも、家の周りにも水晶の友達が沢山いるし、絶対に気を遣わせるから、なかなか話す気になれないんだよな」
「あの子は今の暮らしを楽しんどんやろ。無理に引っ越さんでも良いんじゃないと」
「それもそうなのかな……」
ふたりは程々のところで雑談を切り上げると、東京マーチスの所長の元へ報告に向かおうとした。
「二度とあんな悪戯をする気が起きないように、あの妖にはキッチリお灸をすえておくよ。詳しい事は、後で報告書にまとめて送るから」
「菊池君に任せておけば、もう安心やなあ」
安堵の表情でお腹を撫でる西野を見ながら、最後まで抜かりなくやり切ろうと、明は気持ちを新たにする。
しかし、これはほんの始まりに過ぎなかった。
「西野さん! それに、菊池さんも!」
さっきの女性管制官が、焦った様子で駆け寄ってきた。
「急に歌声が聴こえてきて……」
「歌声?」
怪訝に思いながらも急いで通信機器に駆け寄ると、スピーカーから流れる音声に耳を澄ませる。
(……確かに、歌声だな。それも、海河童のものじゃない、女性か子供のそれだ)
雑音の彼方から響く、小さな鈴をそよ風に転がしたような静かな声に、明は更に感覚を研ぎ澄ませようとする。
しかし、歌声はそのまま遠ざかってしまった。
「何だったんだ、今のは……」
明たちが戸惑いながら通信機器を眺めていると、今度は少し離れた席についていた男性管制官から声がかかった。
「あの、こっちのチャンネルからも……」
「!?」
急いで男性管制官の元に駆け寄って、さっきと同じ声が歌っている事を確認する。
(歌を歌う海の妖は多い。本人に直接質問するのが手っ取り早いな)
明は、様子を伺うなどという悠長なことはせずに、兎にも角にもまずはその正体を突き止めることにした。
「マイクをお借りしても?」
「ああ、頼む」
男性管制官からマイクを受け取ると、恥も外聞もかなぐり捨ててマイクに向かって叫ぶ。
「お前は誰だ!? 返事をしろ!!」
返事は、すぐには来なかった。
(もしかして、しくったか……?)
今の発信を大勢の船舶関係者に聴かれただろうことを想像し、羞恥に顔が火照りそうになる明。
そして、ふいに歌声が大きくなったかと思うと、確かな「言葉」がスピーカーから流れてきたのだ。
駄目よ 駄目よ
それでは 駄目
韻文でないと 分からない
旋律でないと 伝わらない
あたしと お話したいなら
うたいなさい あなたの調べを
うたいなさい あなたの心を……
「…………これって」
マイクをそろそろと下ろしながら、信じられない思いで喉の奥から声を絞り出す。
「メルルファ…………『夢幻の国』の…………」
「なにそれ……って、菊池君!?」
明は踵を返して内線電話の受話器を引っ掴むと、海洋怪異対策室長の番号を躊躇いなくタップした。
「今から行く東京マーチスは、数年前にこっちに移転してきたばかりなんだ。移転前は横須賀の観音崎という所に設置されてたんだけど、眺めはそっちの方が良かったかもしれないな」
「横須賀ですか……」
明の説明に、水晶が複雑そうな面持ちを浮かべる。明もまた、この夏に目の当たりにした牛鬼と濡女の顛末を回想し、そっと顔を曇らせた。
(あの一件以来、伊良部さんは室長とほとんど口を利かなくなったからなあ。村上さんも何故か、室長に対して刺々しい感じだし。元気なのは渡辺くらいだよ)
海洋怪異対策室の庶務担当、渡辺隼人。室内に漂う気まずい雰囲気などなんのその、仕事を溜め込んでは締め切り直前に騒ぎ立てて明に泣きつくというサイクルを相も変わらず繰り返している。その機微の疎さに救われているような気もしないでも無かったが、明としては、それを本人に伝えて妙な自信をつけさせるつもりは毛頭無かった。
(今回の案件、俺の独力で解決できるような内容だと気持ち的に楽なんだけど)
そんな事を考えながら合同庁舎に入館し、エレベーターに乗って目的階のボタンを押す。到着すると案内図を確認して廊下を進み、「東京湾海上交通センター」と書かれた部屋の前で立ち止まった。
「あっ、そうだ」
明は、はたと水晶を振り向いた。
「さっき話した例の同期だけど、多分水晶の姿が視えると思う。でも、水晶はいつも通り俺のそばにいてくれて良いから」
「分かりました」
水晶が安心したように頷くのを確認すると、明はゆっくりと扉を開けて室内に足を踏み入れた。
「ッ!」
訪いを告げようとした明は、眼前に広がる圧巻の光景につい息を呑んでしまう。
「〈こちら東京マーチス chヒトサン 13chへ変波願います どうぞ〉」
「〈浦賀水道航路北上中の陽光丸 前方の船舶に接近しています 直ちに安全な間隔を〉」
「〈コールサイン ジュリエット マイク〉」
「〈黒潮丸 貴船の位置を確認しました〉」
絶え間なく飛び交う管制官たちの声に、東京湾内のライブ映像やレーダー画像などが表示された何十枚ものディスプレイ。そして、スピーカーからひっきりなしに発せられる船舶からの通信。
東京湾海上交通センター、通称・東京マーチス。24時間体制で東京湾内の船舶の動向を監視し、情報提供や航行管制業務を行うことで海の安全を守る、れっきとした海上保安庁の組織である。
(同じ組織にいるはずなのに、ちょっと部署が変わるだけで全然別世界なんだよな)
熱量と緊張感に溢れた広い管制室を見渡しながら、普段の自分の仕事と比べて軽く引け目を感じてしまう明。しかし、すぐに気を取り直して、用件を伝えるために手すきの職員を探そうとする。
そこへ、数年ぶりに聞く懐かしい声が明の耳に届いた。
「久し振りやなあ、菊池君」
「西野! 久し振り……って、あれ?」
明の視線が、西野の顔からお腹に移る。
西野は照れ臭そうに笑って大きくなったお腹を擦ると、ついてくるようにと明を手招きした。
「積もる話もあるとこやけど、まずは仕事の話ばしよか」
東京マーチスの管制官であり、明の海上保安学校時代の同期でもある西野希実果。それぞれ履修コースは異なったものの、部活動が同じヨット部だったことなどもあり、彼女とはそれなりに話す仲だったのだ。
西野はとある区画に明を案内すると、困ったような顔で通信機器を示して、今回の〈海異〉案件について説明し始めた。
「ここ2、3日くらいのことなんやけど、無線交信に妖の声が割り込んでくるようになったんや。今まで、こげん事無かったとに」
「その妖の声が聴こえるのは、西野だけか?」
明は思案顔で通信機器を睨みながら、西野に次々と質問をしていく。
「他にも数人聴いとるけど、今日はみんな非番か休日やし、うちが一番はっきりと聴き取れるみたいやから」
「体調に変わりは?」
「それは心配せんでよかばい」
西野は得意気に笑うと、懐から「安産祈願」と書かれた御守りを取り出した。明はひとまず肩の力を抜くと、再び質問をしながら対処方法を探ろうとする。
「時間帯は決まってるのか?」
「不定期やけど、このくらいの時間が多かばい。入港ラッシュの忙しい時間帯なんやから、本当に止めて欲しいんやけど」
西野の説明によると、その妖は男性の声には興味を示さず、女性管制官や女性の船員が交信しているところに割り込もうとするとのことである。西野や他の管制官が何度か叱責したところ、多少は大人しくなったものの、それでも交信と交信の間隙を縫ってしつこく話そうとしてくるという。
ちなみに、霊力の少ない人間にはただの雑音としか認識できないらしい。それでも、無線交信の邪魔になることには変わらず、東京マーチスとしては海異対に対し可及的速やかな解決を望むとのことだった。
「なるほど、それは確かに滅茶苦茶困るな」
西野の話に、明は改めて事の重大さを認識する。
船とマーチスとの通信には、国際VHFと呼ばれる周波数150MHz帯の無線通信システムが使用される。国際と名が付くように世界共通のシステムであり、海で遭難した時のための遭難通信や緊急通信にも使用される非常に重要な存在なのだ。
「後は、実際に聴いてみて判断したいところだけど……」
「今日はまだ来とらんけん、そろそろやて思う」
西野がそう言った時、近くの女性管制官から声がかかった。
「西野さん、また雑音が……!」
「ッ!」
西野は早足で駆け寄ると、マイクを受け取って素早く明に目配せをした。
(まずは、普段通りにやって見せるってことか)
明は西野に頷きかけると、感覚を研ぎ澄ませてスピーカーから流れる音声に耳を澄ます。
「〈こちら東京マーチス 関係者以外の国際VHFの使用は 即刻お止めください〉」
標準語に切り替えた西野の冷ややかな声が、電波に乗って東京湾中に流れる。
すると、スピーカーから下卑た笑いを含んだ嗄れ声が発せられた。
「〈ヒヒッ、声の可愛い姉ちゃんやないか! 今日はツイとるわあ!〉」
「ああ、もう。完全に舐めてるわ……」
西野が諦めたように首を振って、明を見る。
(これは酷いな。さて、こんな質の悪い悪戯をする海の妖というと――)
この声の主の正体について検討をつけた明は、水晶と顔を見合わせると、いつでも命令が出せることを確認しておく。
「西野、代わろうか?」
明は小声で訊ねたが、西野は小さく首を振った。いくら〈海異〉案件とはいえ、管制業務の未経験者にいきなり喋らせるわけにはいかないと考えたのだろう。
西野はそのまま、妖との無線交信を続行しようとする。
「〈管制官の指示に従わない場合 相応の措置を講ずることを〉」
「〈そんなことより姉ちゃん、やや子は元気か?〉」
「!?」
完全に予想もしなかった問いかけに、西野が声を詰まらせた。血色の良い顔が青ざめ、空いた片手が無意識のうちにお腹を庇おうとする。
スピーカーからは、図に乗った妖の声が流れ続ける。
「〈それだけデカいと、産まれるのはもうすぐやんな。はてさて、顔はどっちに似とるんか――〉」
「貸せ」
明は西野からマイクをひったくると、低い声で妖に話しかけた。
「お前さ、海河童だろ」
「〈ヒィッ!?〉」
妖が、引き攣った声を上げた。
明はもう一段声を低くすると、顔の見えない相手に向かって思いっ切り凄んでみせる。
「あんまり調子に乗ってると…………祓うぞ」
「〈…………〉」
ブツリと交信が途切れた。
明は、目を丸くしてこちらを見つめる西野にマイクを返すと、管制官でもない自分が勝手に喋ったことについて謝った。
「勝手なことをしてすまない」
「そんな、謝らなくて良かばい」
西野は、やり取りを聴いていただろう関係者たちに向けて謝罪してから交信を終えると、明に尊敬の眼差しを向けてきた。
「やっぱり、怪異退治を仕事にできるくらい霊力の強い人は全然違うなあ」
「これくらい大したこと無いって」
明は、西野や他の職員から少し距離を置くと、無線交信をしてきた妖――海河童を探し出すように水晶に命じた。
「声を聴いただけで妊娠を見抜くなんて、そんな芸当が海河童なんかにできるはずがない。多分、そう遠くない場所に潜んでいるはずだ」
「かしこまりました、我が主よ」
水晶は命令を受けるなり、オオミズナギドリの力強い翼を広げて窓の外に飛び出していった。
(そういえば、水晶の飛び出し癖をどうにかしろって室長から言われてたな)
明は深々と息を吐くと、不安そうにこちらを見守っている西野の元に戻ったのだった。
管制室の隅にある応接用のソファに腰掛けた明は、向かいに座った西野を相手に、先程の「退治」について色々と端折りながら解説した。
「それじゃあ、海河童やと分かっとったわけやなかと?」
「ああ、見当をつけて言ってみただけだ」
意外そうな顔をする西野に対し、明は何でもないような顔で話を続ける。
「それでも、十中八九そうだろうという確信はあったし、外れたら外れたで他にもやりようはあるからさ――」
海河童に限らず、力の弱い怪異や妖は、その正体を言い当てただけであっさりと退散してしまうことが多い。何故なら、人間が行使する呪いへの対抗手段を持たない彼らにとって、正体を知られるということは生殺与奪の権を握られるに等しいからである。
「そういやあ、じいちゃんから聞いたことある気がするわ」
西野の興味深そうな反応を見て、明は少し語気を強めて補足する。
「もちろん、力の強い妖には全然効かないし、名前のついていない怪異には逆に力を与えてしまう事すらある。西野は絶対に真似するなよ」
必要な事をひと通り話し終えると、今度は小休止も兼ねて互いの近況について報告し合った。
西野は今週いっぱいで産休に入り、復帰後は地元に近い関門マーチスで勤務する予定らしい。明もまた、海鳥と魚の姿をした式神の少女と共に暮らしていることなどを話す。
「――あの部屋狭いから、引っ越そうかどうか迷っててさ。でも、家の周りにも水晶の友達が沢山いるし、絶対に気を遣わせるから、なかなか話す気になれないんだよな」
「あの子は今の暮らしを楽しんどんやろ。無理に引っ越さんでも良いんじゃないと」
「それもそうなのかな……」
ふたりは程々のところで雑談を切り上げると、東京マーチスの所長の元へ報告に向かおうとした。
「二度とあんな悪戯をする気が起きないように、あの妖にはキッチリお灸をすえておくよ。詳しい事は、後で報告書にまとめて送るから」
「菊池君に任せておけば、もう安心やなあ」
安堵の表情でお腹を撫でる西野を見ながら、最後まで抜かりなくやり切ろうと、明は気持ちを新たにする。
しかし、これはほんの始まりに過ぎなかった。
「西野さん! それに、菊池さんも!」
さっきの女性管制官が、焦った様子で駆け寄ってきた。
「急に歌声が聴こえてきて……」
「歌声?」
怪訝に思いながらも急いで通信機器に駆け寄ると、スピーカーから流れる音声に耳を澄ませる。
(……確かに、歌声だな。それも、海河童のものじゃない、女性か子供のそれだ)
雑音の彼方から響く、小さな鈴をそよ風に転がしたような静かな声に、明は更に感覚を研ぎ澄ませようとする。
しかし、歌声はそのまま遠ざかってしまった。
「何だったんだ、今のは……」
明たちが戸惑いながら通信機器を眺めていると、今度は少し離れた席についていた男性管制官から声がかかった。
「あの、こっちのチャンネルからも……」
「!?」
急いで男性管制官の元に駆け寄って、さっきと同じ声が歌っている事を確認する。
(歌を歌う海の妖は多い。本人に直接質問するのが手っ取り早いな)
明は、様子を伺うなどという悠長なことはせずに、兎にも角にもまずはその正体を突き止めることにした。
「マイクをお借りしても?」
「ああ、頼む」
男性管制官からマイクを受け取ると、恥も外聞もかなぐり捨ててマイクに向かって叫ぶ。
「お前は誰だ!? 返事をしろ!!」
返事は、すぐには来なかった。
(もしかして、しくったか……?)
今の発信を大勢の船舶関係者に聴かれただろうことを想像し、羞恥に顔が火照りそうになる明。
そして、ふいに歌声が大きくなったかと思うと、確かな「言葉」がスピーカーから流れてきたのだ。
駄目よ 駄目よ
それでは 駄目
韻文でないと 分からない
旋律でないと 伝わらない
あたしと お話したいなら
うたいなさい あなたの調べを
うたいなさい あなたの心を……
「…………これって」
マイクをそろそろと下ろしながら、信じられない思いで喉の奥から声を絞り出す。
「メルルファ…………『夢幻の国』の…………」
「なにそれ……って、菊池君!?」
明は踵を返して内線電話の受話器を引っ掴むと、海洋怪異対策室長の番号を躊躇いなくタップした。