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作者: こむらまこと
第79話 中ノ瀬航路あやかしロックフェス!〈エピローグ〉
 東京湾の中央に浮かぶ第二海堡の西端に、西の広場と呼ばれる遺構がある。地下に弾薬庫跡を有するこの小さな広場は、分厚いレンガ構造をコンクリートやアスファルトで固めた頑丈な造りになっており、過酷な自然環境の中、今日もこの歴史的遺構を支え続けている。
 その西の広場に、ひとりの男が佇んでいた。コンバットシャツとカーゴパンツ、タクティカルブーツといった軍放出品で全身を固め、複数のホルスターが付いたベルトを装着したこの男は、身体の横で拳を握り締めながら、中ノ瀬航路を覆い尽くす乳白色をじっと睨み付けている。
 幽世特有の濃厚な匂いが充満する中、無音状態だった西の広場に何者かの足音が響いた。男は前を向いたまま、感覚を研ぎ澄まして足音を含めた周囲の気配を注意深く探る。
 足音の主は、間合いよりも少し遠いくらいの位置で静止すると、馴れ馴れしい口調で男に話しかけてきた。
「やあ。待ち合わせには、来てくれたみたいだね」
「…………」
 ひと呼吸分置いて、男はゆっくりと背後を振り返る。
(魔術師の村上という男か)
 村上に対する男の第一印象は、捉え所が無いというものだった。マントとマリンキャップが特徴的な海異対の制服に身を包み、楕円型の眼鏡をかけて漆黒の長髪を首の後ろで結ぶという胡乱うろんな風貌と、物静かで控え目な印象の佇まい。それらの相反する特徴がひとりの人物の中に同居している事により、まるで霧の中に迷い込むような、そんな不思議な印象を相対する者に与えている。
「ひとつ、聞いてもいいかな」
 男が言葉を発さない事には構わず、村上は世間話でもするような気軽さで話を続ける。
「例のメルルファなんだけどさ、色々と違和感があってね。三浦の件と比べると、いささか、というか、かなり手ぬるいんじゃないかって気がするんだよ」
「……」
「本気で海上交通の混乱を目論むなら、メルルファの性質に手を加えて霊障被害を発生させるとか、いくらでもやり様はあったんじゃないの? というか、そもそもメルルファを選んだ事からして、俺的には謎なんだけどね。〈夢幻の国〉には、他にも怪異として相応しい登場人物たちが大勢いるというのに」
「何が言いたい」
 男は、苛立ちの声を上げた。
 村上は眉ひとつ動かさず、光の消えた瞳で男の眼を覗き込む。
「……つまり、本当の狙いは別にあるんじゃないかって事だよ。途中で飽きて放置したのかとも考えたけど、君がこうして来てくれた事からすると、その線はあんまり無さそうだね」
「そんなに知りたいか?」
 男が、声を低くした。
 肩幅に広げていた足を前後に開くと、片腕を前に伸ばして手のひらを上に向ける。
「一緒に来れば、教えてやる」
 そう告げると、手の中に小さな物体を出現させた。
 それを見た村上の眼が、すうっと細められる。
「テーザー銃、の呪具か。そんな物まで呪具にしてしまえるなんてね」
 テーザー銃は、ワイヤー付きの針を発射して電気ショックを与える事で対象を制圧する、銃の形をしたスタンガンである。致命傷を与えず対象を「安全に」確保出来るという触れ込みのもと世界中で販売されているが、国内では銃刀法違反の対象として厳しく規制されている。
「確かに、呪具なら法には触れないけどさ。それでも、誘拐は不味いんじゃないの?」
「連れて行くのは幽体だけだ」
 村上による至極真っ当な指摘に対し、男は冷然と言い返す。
「数日、実験に付き合ってもらったら記憶を消して帰すから安心しろ」
「怖い事言うなあ」
 村上が、ひらひらと両手を上げた。
 呪具とはいえ、至近距離から銃を突き付けられるという危機的状況にも関わらず、村上の言動からは緊張感の欠片も感じられない。自身の生命や安全に対するその無頓着っぷりに、男は沸々と怒りが湧き上がるのを感じる。
(……おかしい。余りにも無警戒過ぎる)
 男は腹の中で怒りを感じつつも、頭では冷静に周囲の気配を探り続ける。
 第二海堡を訪れる直前、男は《神》と呼ぶ存在から神霊力の一端を借り受けていた。身体の負担にならない程度の微々たる量とはいえ、普通の隠形法なら簡単に見破れるくらいの力はある。
(視程外か、或いは現世うつしよ側で張っているのか……)
 男は、目の前の村上という男を改めて観察する。
 十字を切るでも、何かの魔術道具を取り出すでも、ましてやその場から逃げようとする素振りすら見せず、感情の伺えない顔でその場に突っ立っているだけ。何かを企んでいると考えるには充分過ぎるほど不自然だったが、かと言って、それで男の取るべき行動が変わるわけではなかった。
(何か魂胆があるのだとすれば、尚更、今ここでやるしかない)
 男はテーザー銃の引き金に指を添えると、で村上の胸部に狙いを定めた。
「そのスカしたツラ、すぐに崩してやる」
 吐き捨てると同時に、ひと思いに引き金を引く。
 バシュンッ。
 カートリッジから発射された2本の針が、幽世の大気を鋭く切り裂いた。
 2本の針から伸びる銅製のワイヤーが、昏い幽世の中で鈍く光る。
 針が制服を突き抜け、胸に刺さり、数万Vの電気ショックを村上の肉体に与える。
 はずだった。


 シャララララン……


 流星の音色が、テーザー銃の針を華麗に弾き飛ばした。
「なにっ!?」
 男は驚愕を露わに、テーザー銃を構えたまま数歩後退あとずさる。そして、喉から押し出すようにしてその名を口にした。
「大天使!?」 
 光輪と、左右一対の巨大な翼。古代ギリシャの戦闘服と現代の水兵服を合わせたような奇妙な衣装に、意匠を凝らした剣と盾。武具を含めた全てが銀と白銀で構成される中、ふたつの眼窩に嵌まるのは、美しく透き通ったアクアマリン。外見年齢はおよそ13歳で、あどけなさが残る端正な顔立ちは、少女のようにも、少年のようにも見える。
 これこそが、魔術師・村上翔の召喚に応じて地上世界に顕現した、霊的次元に住まう高貴な存在だった。
「クソッ!」
 男は我に返ると、手の中からテーザー銃を消して、今度はホルスターからスタンバトン――バトン式スタンガンを取り出した。
「それも、スタンガンの一種かな? さっきのテーザー銃と違ってに見えるけど、そんなの俺に使っちゃって大丈夫なの?」
「黙れ!」
 男は大声を出して村上を威圧すると、スタンバトンを振り上げて村上に襲いかかろうとした。
「止めておけ」
「ッ!?」
 唐突に発生した新たな気配に、男は瞬時に体勢を変えて、声の主にスタンバトンを突き付ける。
「……九鬼龍蔵か」
 男は、村上と大天使にも注意を配りつつ、最大限の警戒を込めて九鬼を観察する。
 九鬼の出で立ちは、村上と比較すると相当に物々しいものだった。頭部を除いた全身を防弾チョッキやプロテクターで固め、腰にはホルスターやポーチが付いたベルトを装着している。加えて、背中には黒い布で覆われた正体不明の細長い物体を担いでおり、岩のような巨体を抜きにしても相当に威圧的な格好であると言えた。
 九鬼は、名前を呼ばれた事には特に驚きを見せず、腕組みをしたまま静かな声で男を諭す。 
「確かに、大天使では純粋な物理攻撃は防げない。だが、お前の動きを止める事は可能なはずだ。村上に手を出すのは、止めておいた方が無難だろう」
「……」
 男は、大天使を一瞥した。
 女とも男ともつかない、不思議な微笑を湛えた、造り物マネキンような相貌。不気味で、けれども美しい人間離れした容姿と、人間など比べるべくもない圧倒的な霊力差。男はやむなく、大天使とその庇護対象である村上に対する戦意を完全に喪失したのだった。
「チッ」 
 男は構えを解くと、スタンバトンで無造作に肩を叩いた。
「どこから見ていた?」
「現世から透かして見ていただけだが」
「『狐の窓』か?」
「…………」
「ハッ」
 男は鼻を鳴らすと、足元の小石を軽く蹴り飛ばす。
「随分と大層な装備だな。俺たちをテロ集団か何かと勘違いしているのか?」
「第二海堡への不法侵入くらいなら、見逃してやらない事もない」
 九鬼は男の煽りを無視すると、剣呑な眼差しで男を見据えた。
「その代わり、お前たちの目的を教えろ。一体、何がしたいんだ」
「それを聞かれたところで、馬鹿正直に教えると思うか? 随分とおめでたいオツムをしているようだな」
 九鬼を嘲笑い、煽る言葉を口にしながらも、男は次に打つべき手について目まぐるしく思考を巡らす。
(あの魔術師に手が出せない以上、この男から幽体を引き摺り出すしか無い。いかに彼我の実力差があろうと、《神》が見ている以上、ありとあらゆる手を尽くさねば)
 男は数秒のうちに意を決すると、予備動作の無い自然な動きで間合いに踏み込もうとした。


 ピロロロロロ……


 無機質な着信音が、寸での所で男の足を止めた。
(何なんだ、こんな時に)
 この場ですぐに応答すべきか逡巡していると、九鬼が男に向かって顎をしゃくってくる。
「出たらどうだ? 通話が終わるまで待つ程度の良識は、我々も持ち合わせているつもりだ」
「……」
 男は、九鬼たちに視線を固定したままスマホを取り出すと、親指で画面をスライドしながら耳に当てた。
「どうした?」
〈ゴメン、予定変更〉
 聞き慣れた軽薄な声が、連絡事項を早口で男に伝えていく。
〈ドローンが壊されちゃってさ、そっちの様子が視えなくなっちゃった〉
「どういう事だ?」
 男は眉を顰めると、出来るだけ九鬼たちに聞こえないように声を落として訊ねた。
「そもそも、お前は向こうを視てたはずでは」
〈それは後で話すよ。とにかく、ドローンを破壊したを調べる。ただの隠形法なら僕にも見破れたはずだし、あのドローンだって遮蔽してたんだ。やられっ放しじゃあ気が済まない〉
「調べるって、どうするつもりだ」
 スマホに話しかけながら、じりじりと移動して九鬼や村上から少しずつ距離を取る。
〈例のふたりを寄越す〉
「お前がか?」
〈うん。僕って、これでも結構信頼されてるんだよ? あと、ついでだから片方を九鬼龍蔵にぶつけてみるよ。あの男がアレとどこまで渡り合えるか、しっかり見ておいてね。引き際は君の判断に任せるから…………ああ、そうだ〉
「なんだ」
 まだ続くのかとうんざりしながら、男はぶっきらぼうに聞き返した。
〈やっぱり、これは先に話しておくよ。メルルファなんだけどさ、魂を得てすぐに消えちゃったんだよね〉
「…………」
 男が黙りこくる中、ため息混じりの軽薄な声がスピーカーから流れ続ける。
〈あえて魂が発生するまで待ってから殺してあげて、特大の憎悪を誘発する手筈だったのに。それが、さっさとしちゃうんだもん。お陰様で、《神》は絶賛不貞寝中だよ〉 
「そうか」
 男は、平坦な声でそれだけを返した。
〈……とまあ、そんな感じ。それじゃあ、後はよろしく〉
 含み笑いが混じった声を最後に、通話が途切れた。
 男は耳からスマホを離すと、高圧的な態度で九鬼に告げた。
「朗報だ。貴様におあつらえ向きの対戦相手が来る事になった」
「勘違いしているようだから、はっきりと言っておく」
 男の言葉に、九鬼が語気をやや強くした。
「俺は、生まれてこの方、戦いが楽しいと思った事は一度も無い。今回は、不戦敗という事にしてくれると有り難いのだが」
「申し訳ないが、嫌でも戦ってもらうぞ」
 男は冷ややかに言い放つと、これ以上話す事は無いとばかりに口をつぐんだのだった。





 真っ先に異変を察知したのは、大天使だった。


 シャララン……


 微笑を湛えた顔を海側に向けると、村上を庇うように片翼を広げて盾を構える。
「どうやら、お出ましのようだね」
 西の広場の端、コンクリートで固められた地面に、毒々しい紫色の渦が生じた。一同が注目する中、ドロリとした底なし沼のような渦の中から、ふたつの影がゆっくりと上昇しながらその姿を現す。
(この重厚な存在感。人間でも〈異形〉でもない、れっきとしたあやかしだな)
 九鬼はまず、妖たちの得物に目を留めた。片方の妖は、三日月形の刃とスコップ型の刃がそれぞれ両端に付いた月牙鏟げつがさんという武器を、もう片方は、長い柄の先に9本の歯を持つ馬鍬まぐわと呼ばれる農耕具を手にしている。
(月牙鏟と馬鍬…………沙悟浄と猪八戒!?)
 しかし、肝心の妖たちの外見は、西遊記における沙悟浄と猪八戒の姿からは全くもってかけ離れたものだった。
(あの格好は何なんだ。まるで正体が掴めんぞ)
 両者に共通しているのは、全身を覆う黒革のスーツだった。手首や足首、腰などの至る所に鎖付きのベルトが巻かれ、首には金属製の首輪を嵌めている。なお、馬鍬を持つ妖には翼が、月牙鏟を持つ妖には大きな尻尾が生えているが、それらも黒革で覆われているため、模様などの特徴から正体を推測する事も不可能となっている。
 また、妖たちの頭部は、それぞれ異なる形のマスクですっぽりと覆われていた。馬鍬の妖はペストマスクを、月牙鏟の妖は三角形の耳とマズルが付いた全頭マスクを被り、正体も表情も何もかもを他者の目から完全に隠していた。
「ッ!」
 月牙鏟の妖が、九鬼を見た。
 殺気どころではない剥き出しの殺意が、九鬼の顔面を強烈に貫く。
(どうしても、やらねばならんようだな)
 九鬼は、背中に担いでいた黒布の包みに手を伸ばした。
「――――」
 それを見た月牙鏟の妖が、地面を蹴って一気に間合いを詰めてくる。
「チィ!」
 瞬きする程の間に、月牙鏟の妖が目と鼻の先まで迫っていた。
 月牙鏟の妖は滑らかに手首を返すと、九鬼の太い首を断つべく三日月型の刃を突き出す。
 ゴンッ。
 鈍い音と共に、三日月型の刃が受け止められた。
 その衝撃で、黒い布がはらりと地面に落ちる。
「……木剣か。だが、あれはまるで平たい棍棒だな」
 それは、九鬼の肩ほどの長さもある巨大な木剣だった。
 その名も、〈風来フウライ〉。朝霧まりかの〈夕霧〉から着想を得て、九鬼自らが高野山の霊木から削り出し、名前を付け、毎日1万回以上振るう事で自身の霊力を馴染ませた、九鬼にしか扱えない対怪異用の特別な武具である。
ッ!」
 九鬼は膂力を限界まで引き絞ると、〈風来〉を受け止めた月牙鏟ごと妖に叩き付けた。
 ブウンッ。
 〈風来〉は空を切り、間髪入れずにスコップ型の刃が九鬼の頭頂に振り下ろされる。九鬼は、筋骨隆々とした巨躯を柔軟に捻ると、剣先で月牙鏟を弾き飛ばそうとした。
「!!」
 スコップ型の刃が、視界から消えた。
 右のこめかみがピリつくのを感じて、九鬼はとっさに上体を反らして攻撃を回避する。   
 フォンッ。
 鼻先すれすれの所を、風圧が走り抜けていく。
フンッ!」
 九鬼は怯むことなく、月牙鏟を切り返す絶妙な隙を突いて、三角耳のマスクに木剣の持つ暴力的な質量を叩き込もうとした。
「つうっ……」
 右腕を、鈍痛が襲った。九鬼は眼球だけを動かして、右腕のプロテクターが割れているのを確認する。
「チッ」
 九鬼は月牙鏟の妖から一旦遠く離れると、急いで周囲を見渡した。
(……村上は心配無い、天使の加護は絶対だ。あの男も、傍観に徹するつもりらしいな) 
 九鬼は、馬鍬の妖に視線を移した。
 馬鍬の妖は、村上を襲うでも、月牙鏟の妖に加勢するでもなく、ペストマスクを上下左右に揺らしながら小さな広場を練り歩いている。
(やはり、榊原を探しに来たのか!)
 九鬼は村上に顔を向けると、腹の底から声を張り上げた。
「余計な事はするな!! 良いな!?」
「はいはい、分かってますって!」
 九鬼の意図を察した村上が、目線で頷きながらヒラヒラと片手を振って見せる。
(頼むぞ、榊原!)
 月牙鏟の妖が再び迫り来る中、九鬼は楓の無事を祈りながら、〈風来〉を強くしならせるのだった。





 九鬼と月牙鏟の妖が死闘を繰り広げる中、楓もまた、手に汗を握りながら馬鍬の妖を注視していた。
(目論見通り、うちを探しに来たみたいやな)
 ドローンの破壊は、楓が九鬼に提案した事だった。
『いつまでも受け身のままでいては、埒が明きません。敵の正体や目的を探るというのなら、多少の危険を犯してでも積極的に仕掛けるべきと思います』
 渋る九鬼をそう説き伏せた上で、三鈷剣の一撃をドローンにお見舞いしたというわけだった。
 楓は、汗ばんだ手を制服で拭いて三鈷剣を握り直すと、足音を立てないように細心の注意を払いながら、馬鍬の妖との適切な距離を測ろうとする。
(かなり強い妖みたいやけど、それでも察知できへんのやな。流石は、昔話に聞こえが良い天狗の蓑笠さりつや)
 天狗の蓑笠。楓が三鈷剣と共に大雄山で借り受けた、誰もが知る天狗の法具である。薄いながらも自我を宿し、そこそこ強い妖力を持つため、身に着けた者の気配を抑えるのみならず、攻撃から身を守るための鎧としても機能するという優れ物である。
(せやけど、天狗の蓑笠とて万能オールマイティやない。それこそ、反響定位エコーロケーションみたいな方法を使えば、見えない何かがあるという事くらいは分かるはず)
 楓は、今し方の九鬼の「命令」を思い返すと、口元に小さく微笑を浮かべた。
(すみません、室長。後輩たちが人生を賭けて作戦に臨んでいるというのに、うちだけ危険を理由に尻尾巻いて逃げるなんて、土台無理な話です。その「余計な事」をしてこそ、守るべきものを守れると思いますから)
 楓は、マリンキャップに変化した笠をしっかりと被り直すと、三鈷剣を保持したまま胸の前で根本印を結んだ。
(いつまでもうちに気が付かんようだったら、こっちから仕掛けたる)
 半眼になって不動明王の姿を観想すると、声を出さずに唇だけを動かして真言を唱え始めた。
「『ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク』」
 不動明王真言・火界咒かかいじゅ。通常の真言よりも絶大な威力を発揮する分、用法を誤った場合は術者自身にも危険が及ぶ、いわば劇物のような呪文である。
 ベテランの呪術師でも使用の際には細心の注意を要するこの真言を、楓は凪いだ海面のような心持ちで淀みなく紡いでいく。
「『サラバタ・タラタ・センダ・マカロシャダ・ケン』」
 胸の中に、小さな炎が宿った。それはあっという間に大きくなって、楓の骨も、はらわたも、その心も、一切合切を呑み込んでいく。
「『ギャキギャキ・サラバ・ビキンナン・ウンタラタ・カンマン』!」
 楓の全身が、浄化の炎に包まれた。軽く握った左手には羂索が浮かび上がり、右手に掲げる三鈷剣は手を焦がすような高熱を帯びる。
 不動金縛法。不動明王と自身が同一の存在であると想念し、不動明王の力を己のものとして行使する神憑りにも似た強力な呪法である。
(今回は、ここにもうひと工夫や)
 楓は、羂索を持った手を三鈷剣の上でパッと開いた。
 シュルルルル……
 光り輝く羂索が、まるで生き物のように剣身に巻き付いた。それはみるみるうちに小さな龍――倶利伽羅くりから龍に姿を変え、烏天狗の得物に過ぎない三鈷剣を、不動明王の持物たる倶利伽羅龍剣、又の名を〈不動の利剣〉へと鮮やかに昇華させてしまう。
(こないな芸当が、こうもあっさり出来てしまうとは。人権のじの字もない扱いを受けただけの事はあるわ)
 これが数ヶ月前だったら、倶利伽羅龍を出現させるためには何かしらの手順を踏む必要があっただろう。それが、大雄山での過酷な修行を経た事により、ゲーム用語で言うところの「詠唱破棄」のような熟練を要する呪法の行使が可能となったのである。
 この時の楓は間違いなく、過去最高の実力を発揮していた。
「ッ!」
 馬鍬の妖が、広場の端で足を止めた。
 大きく胸を反らすと、可聴領域限界の甲高い声を広場全体に放出する。
 キイイィィィン……
(これはまた、完璧なタイミングやな)
 馬鍬の妖が、楓の居る方向に顔を向けた。
 次の瞬間、逃亡を許すまじとばかりに異常な速さで距離を詰めてくる。
(そのけったいなマスク、引っぺがしたるで!)
 楓は〈不動の利剣〉を八相に構えると、殺意に満ち溢れた攻撃を真正面から迎え撃った。





「ギャアアアアアアアッ!」
 身の毛がよだつようなおぞましい悲鳴が、第二海堡中に響き渡った。
(まさか!?)
 九鬼は、月牙鏟を跳ね返した勢いで後方に跳躍すると、声が聞こえた方向に素早く目を走らせた。
「――――ッ!」
 危うく名前を呼びかけ、唇を噛み締めて声を呑み込む。
 最初に九鬼の目に飛び込んで来たのは、馬鍬の妖がキョロキョロと何かを探す姿だった。そして、少し離れた地面に、折れた剣先が転がっているのを見つけてしまう。
 何が起きたのかは、火を見るよりも明らかだった。
(榊原!)
 迷わず駆け寄ろうとした九鬼だったが、その動きを予測していたように、月牙鏟の妖が九鬼の前に立ち塞がる。
 九鬼は低く腰を落とすと、〈風来〉を握る手に力を込めた。
大威徳だいいとく明王真言」
 集中力を一瞬のうちに極限まで高めると、正中線に沿って存在する7つのチャクラを想念し、次々と高速回転させながらありったけの霊力を体内で練り上げていく。
 そして、渦巻く霊力を気合で〈風来〉に押し込むと、大威徳明王の姿を観想しながら声を轟かせた。
「『オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ』!」
 〈風来〉の剣先が、コンクリートの固い地面を穿った。
 稲妻の如き閃光が地面を走り、逃れようとした月牙鏟の妖を追尾し、直撃する。
「アガガガガガッ!!」
「退け!」
 身体を激しく痙攣させる月牙鏟の妖を乱雑に突き飛ばすと、九鬼は再び馬鍬の妖の姿を探した。
「ッ!」
 広場の反対側で、今まさに、馬鍬の妖が地面に得物を振り下ろそうとしている。
(間に合わない!)
 ゴッ。
 それでも九鬼が駆け出そうとした所で、コンクリートの破片が馬鍬の妖の肩を打った。
 馬鍬の妖が手を止めて、何事かと振り返る。
「こっちだ!!」
 破片を投げたのは、村上だった。青褪めた顔をしながらも、模造品のダガーナイフをチラつかせて馬鍬の妖の気を引こうとする。
 それでも馬鍬の妖が自分に向かって来ない事を見て取ると、村上は雄叫びを上げながら馬鍬の妖に突撃した。
「うおおおおっ!」
「村上!」
「…………」
 馬鍬の妖が、気怠げに村上の方を向いた。 
 相変わらずひと言も発することなく、ダガーナイフを突き出した村上の頭部目掛けて、無慈悲に馬鍬を振り下ろす。


 シャララララン……


 白と白銀で構成された大天使の美麗な手が、ふんわりと攻撃を受け止めた。
 炎を依代とする身体の一部は村上の肉体を透過し、左手は馬鍬の歯を、右手はペストマスクの鼻面をそれぞれ掴んでいる。
「…………ヴッ」
 ペストマスクの向こう側から、呻き声が漏れた。
 アクアマリンの双眸が、馬鍬の妖を静かに見つめる。 
「ヴ…………ア゛……」
 馬鍬が、手から滑り落ちた。
 まるで怯えてでもいるように、肩を、腕を、ガタガタと震わせる。
「ア゛…………」
 よろよろと数歩後退り、ドサリと膝を付くと、両手で頭を抱えながら絶叫し始めた。
「ヴアアアアッ! ア゛ア゛アアアアッ!」
「な、なんだ……?」
 九鬼や村上が呆気にとられる中、馬鍬の妖は絶叫しながら地面をのた打ち回り、コンクリートの地面にガンガンと頭を叩き付ける。
「ヒギイイイイッ! ギギギギッ、ガッ」
 月牙鏟の妖が、馬鍬の妖を強かに殴った。絶叫がピタリと止まり、馬鍬の妖はパタリと地面に倒れる。
「今回は痛み分けだな」
 状況を静観していた男が、月牙鏟の妖を手招きした。月牙鏟の妖は、少々ふらつきながらも馬鍬の妖を軽々と担ぎ上げて男の方に歩いていく。
 男は、どこからともなく円筒形の物体を取り出すと、薄暗い瞳で九鬼と村上を睨み付けた。
「……お前たちの神に伝えておけ。『お前の探している物は、ここには無い』とな」
 言い終えるや否や、物体からピンを抜いて宙に放り投げる。
「手榴弾!?」
「室長!!」
 村上が、大きく腕を振った。九鬼はなりふり構わずに、村上のすぐ横に転がり込む。
 直後、小さな広場が強烈な閃光と破裂音に呑み込まれた。


 シャラララン……


 閃光が収まると、第二海堡に耳が痛くなるような静けさが戻った。
「…………」
 九鬼がゆっくりと目を開くと、白銀に輝く障壁バリアーが役目を終えて拡散していく様子が目に入る。
「終わったようだな」
「ええ」
 敵が第二海堡から去った事を確認すると、九鬼と村上はすぐさま楓の容態確認に取り掛かった。
 地面を探り、〈天狗の蓑笠〉をこれまた手探りで引き剥がすと、顔面蒼白で瞼を伏せている楓の姿が現れる。
「…………良かった。生きてる」
 浅いながらも呼吸がある事を確認すると、村上は一旦その場を離れ、大天使の前に跪いた。
「流るる星の音の晴朗なる大天使よ、かの天上世界に帰還し給え」
 大天使が流星の音色と共に地上を去ると、霊的次元の気配も遠ざかり、後には幽世の昏い空と海だけが残った。
「村上、これを見ろ」
 九鬼が、楓の懐から何かを取り出した。村上は再び楓の横に膝を着くと、九鬼の手にした物を厳しい表情で見つめる。
 それは、木彫りの十一面観音像だった。九鬼が〈風来〉を削り出した際に出た端材を利用して造形し、それを万が一の備えとして楓に持たせていた物である。
 その表面には、見るも痛々しい9本の傷跡が走っていた。
「少々やり過ぎかとも思っていたが……」
「これが無かったらと思うと、ぞっとしますね」
 九鬼は次に、楓の右手から烏天狗の三鈷剣を取り上げた。
 真っ二つに折れた剣身の切断面を指でなぞりながら、九鬼はただでさえ険しい目付きを更に険しくする。
(烏天狗の物とはいえ、そうそう折れるような代物ではない筈だぞ)
 九鬼は三鈷剣を村上に預けると、折れた剣先と、敵が忘れていった「凶器」を回収した。
閃光手榴弾スタングレネードの模型か。これでは、罪には問えないな」
「この馬鍬も、紙で造られたハリボテですよ」
 手際良く現場検証を終えると、九鬼たちは幽世を抜け出した。
 九鬼は、楓の身体をしっかりと両腕に抱えると、村上と連れ立って西の広場を後にする。
「室長が真言を使うところ、初めて見ましたよ」
 桟橋に向かう道すがら、村上がボソリと呟いた。
 九鬼からは、重苦しい沈黙だけが返ってくる。
 村上はふと足を止めると、中ノ瀬航路を振り返った。
「…………」
 巡視船「あずま」の姿は既に無く、白波の立つ灰色の海だけが、不気味な静けさを保ったまま動き続けている。
「嵐……」
 村上は、胸の中に広がる不吉な予感を無理矢理振り払うと、足早に九鬼の後を追いかけたのだった。



(第2章 完)
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