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作者: こむらまこと
第2話 海難法師とワガママ人魚〈ニ〉
(郵便かしら)
 それにしては普段より少し早いなと思いながら、扉のすぐ横にあるモニターを確認する。
 モニターに写っていたのは、白髪の老人だった。赤い作務衣のような服を着て、風呂敷で何かを背負っている。
(これは、もしかして)
「はい、朝霧海事法務事務所です」
 まりかはすぐに応答した。なんの事前連絡も無しに免許の更新手続きの依頼に訪れたという可能性も考えられなくは無かったが、その老人の佇まいから、おそらくは「もうひとつの仕事」の案件だろうとまりかは直感した。
「こちらで、海の怪異についての相談を受けていただけると伺ったのですが」
 ゆったりした穏やかな声が、スピーカーを通してまりかの耳に届く。
(やっぱり、そうだ)
 まりかは一瞬だけ口元をほころばせた。
「今開けますので、少々お待ちください」
 モニターを切って扉を開け、老人を事務所に迎え入れる。
「では、お邪魔しまする」
 老人はまりかに一礼すると、ゆっくりと事務所に上がり込んだ。キン、キン、と下駄の音が高く響く。下駄にしては珍しい音だとチラリと思う。
「どうぞ、こちらへおかけください」
 まりかはローテーブル前のソファへ老人を導くと、急いで茶の準備を始めた。戸棚から来客用の急須と湯呑みを取り出す。
「今、お茶をお出ししますね。コーヒーや紅茶の用意もありますので、そちらがよろしければどうぞご遠慮なく」
「では、コーヒーをいただけますかな」
「コーヒーですね。かしこまりました」
 まりかは特に気を悪くするでもなく、素早く急須と湯呑みを戸棚に戻して来客用のコーヒーセットを準備する。コーヒーカップにコーヒーを注いでソーサーに乗せ、スティックシュガーとフレッシュ、ティースプーンを添えて老人の前に静かに置く。
「どうぞ」
 ソファに腰かけた老人が小さく頭を下げる。まりかはトレーをコーヒーメーカーのそばに立てかけると、老人に向かい合う形で腰を下ろした。
「それでは、お話を伺わせていただいてもよろしいでしようか」
 まりかは早速、本題に入った。幸いにも今日は来客の予定は無かったが、電話は普段からそこそこ多いし、今度こそ郵便が来るかもしれない。話の腰を折られる前に、さっさと大切な依頼内容を聞いておかなければならない。
 老人は、うむと小さく頷きながらも、まずは一服とコーヒーを啜った。
「む」
 コーヒーカップを口から離して眉をひそめる。
「コーヒーとは、かように苦いものであったか」
「別のものを、お出ししましょうか」
 口の中で小さく呟く老人に、そっとまりかが声をかける。彼の言葉から想像するに、シュガースティックやフレッシュの使い方を知らない可能性も十分にある。それならば、最初から別の飲み物と交換することを提案した方が早いと考えたのだ。
 老人はしかし、小さく笑って手を振った。
「せっかくお出ししていただきましたゆえ、このままありがたく頂戴いたしますぞ」
 そう言って、スッと自然な動作で再びコーヒーカップに口をつけた。さっきまでとは打って変わって、今度は心底美味しそうにコーヒーを味わっている。
 老人が一息つくまでの短い間に、まりかは改めて老人の見た目を観察した。くたびれた様子の赤い作務衣に耳の上までの短い白髪、顎先には白い髭があり、その相貌は好々爺然としている。足元は今時珍しい下駄履きで、ソファの横には風呂敷で背負ってきた柳行李が置いてある。まるで昭和の映画にでも出てきそうな古びた出で立ちだったが、不潔感は全く無い。むしろ、老人からは清廉とした雰囲気と品の良さが感じられ、誰が対面しても好感を持つだろうと思われた。
「では、お話しさせていただきたく思います」
 コーヒーカップをソーサーに置き、両手指を軽く膝の上で組んでまりかを見つめる。
「それがしは、伊豆大島からやって参りました。件の怪異は、数百年の昔より、大島はもちろんのこと、他の島々をも悩ませているものです」
 老人はそこで一旦言葉を切った。伊豆大島から遠路はるばるやってきたのかと内心まりかは驚いていたが、口には出さずに、とにかく今は聞き役に徹することにする。
 老人がぐっと身を乗り出した。
海難法師かいなんぼうしを、祓っていただきたいのです」



 老人は、伊豆大島のさる旧家の当主を名乗ると、海難法師という怪異について詳細に解説したうえで、今回の依頼のきっかけとなった「事件」について説明した。
「海難法師が現れるのは、年に1回、1月24日の日没から25日の明け方にかけてです」
 その言葉に、まりかは思わず眉をひそめた。
「今日が1月20日だから、もう4日後ですね」
 最近になって発生した怪異ならともかく、出現日時が毎年決まっていて、しかも「事件」の発生から間もなく1年になるという段階で、初めて祓いの依頼をするというのは不自然である。海事代理士の仕事との兼ね合いもあるのだし、せめて1ヶ月前までには依頼しておくべきなのではないかと考えてしまう。
 まりかの気分を害したと考えたのか、すかさず老人が頭を下げた。
「これについては、申し開きようもございません。訳あって、今日この日にならなければ動く事が叶いませんでした。しかし、どのような理由であれ、ご迷惑をおかけすることに変わりはありませぬ」
 老人はおもむろに柳行李を開けると、中身をローテーブルの上に並べ始めた。
「それがしからの、詫びの印です。これでも不十分かとは存じますが、これらの品々を集めるために、それがしの持てる力を十二分に奮わせていただきました」
「こ、これは」
 ローテーブルの上に次々と並べられる多種多様な品々に、まりかは目を奪われた。伊豆大島の特産品である椿油をふんだんに使ったシャンプーやスキンケア用品に、明日葉の菓子やお酒。他の島々の特産品らしい柘植の櫛や加工食品もある。そして最後に並べられたのは、伊豆大島とも他の島々とも全く関係の無い、インドネシア産のコーヒー豆だった。
「うそ、マンデリン」
 マンデリンは、まりかが特に好きな銘柄のひとつだ。酸味が少なく、強い苦味としっかりとしたコクが特長のマンデリンは、たったひと口啜るだけで心に癒しをもたらす逸品である。
「もちろんこれらは、路銀や宿賃、お食事代などとは別となっております」
 老人はそう言って、今度は懐から茶封筒を2封取り出した。
「宿については、既に手配させていただきました。伊豆大島までの渡りについては、朝霧様のご都合もあるかと愚考し、行程をいくつか示すまでに留めております。その他諸々を含めました手間賃は、この通りでござりますれば」
 まりかは茶封筒の中身をあらためた。片方には、老人が手配したという宿のパンフレットと、予約日やチェックイン時刻などを記載した一筆箋。それと、横浜から伊豆大島へのアクセス方法を経由地別にまとめた一覧表が入っている。もう片方には、手間賃、つまりはまりかへの依頼料が入っていた。
「……」
(多すぎ、じゃない?)
 封筒の中をざっと見ただけで、福沢諭吉が何十人も入っているのが分かる。まりかは言葉に詰まった。
(もしかして、これが旧家の当主の金銭感覚というものなのかしら)
 多額の金にものを言わせて無理難題を引き受けさせようとしているという解釈も一瞬だけ頭に浮かんだが、この人の良さそうな老人からは、そうした策略めいたものは感じられなかった。
(ひとまず受け取っておいて、後から精算処理して余剰分を返そう)
 直前の依頼になってしまったことに対する謝意が込められているにせよ、この金額をそっくりそのまま受け取るわけにはいかない。仮にも法律を扱う人間として、常に公明正大ではなければならないのだ。
 まりかは封筒をローテーブルの上に置き、背筋を伸ばして老人を見た。
「お気持ちはよく分かりました。ご依頼の件、引き受けさせていただきましょう」
「ははっ」
 老人が深く頭を下げた。
「朝霧様のご厚意、心より感謝いたします」
「おまかせください」
 老人は安心したように表情を緩めると、コーヒーの残りを飲み干し、ゆっくりと席を立った。慣れた手付きで柳行李を風呂敷で背負い込む。
「では、それがしはこれにて」
「あ、お帰りになる前にお伺いしたいことが」
 まりかが老人を引き留めようとしたその時、事務所の電話が鳴った。
「失礼します」
 老人に断りを入れ、すぐに電話に出る。
「はい……はい。では、そのように」
 数分ほどで電話を切って顔を上げると、既に老人の姿は消えていた。
「あれ、扉が開く音なんてしたっけ」
 怪訝に思いながらも、手早くローテーブルの上を片付け始める。最後に連絡先を聞くつもりだったのだが、旧家ということなら島の誰かが住所を知っているだろうし、依頼をこなした後に報告を兼ねて訪問すれば会えるだろう。
 現金の入った茶封筒を金庫に入れて、デスクに戻り、すっかり冷めたコーヒーを啜りながら、窓の外に広がる景色に視線を移す。
(海難法師、か)
 まりかは、海難法師についての老人との会話を思い返した。



 「海難法師は、年に1度だけ、伊豆大島や他の島々に出現する怪異であります」
 その昔、とある代官が島に暴政を強いていたという。ある日、それに反発した島の若者25人が、代官を陥れて海で溺死させてしまった。そしてその若者たちも、その犯した罪ゆえに島々の住民から匿うことを拒絶され、最後は代官と同じく波に呑まれてしまったらしい。
 それ以来、毎年その日になると、代官や若者たちが「海難法師」として、船やたらいに乗って島々にやってくるようになったという。
「島によって細かい違いはあるようですがな、伊豆大島ではその日の夕方になると、トベラという葉を戸に挿して固く戸締まりをし、外出はもちろんのこと、一晩中音も立てずに静かに過ごします。家の中では、餅を25個作っておいて、それを備えるなどしておりますな」
 言い伝えを守らずに外出して海難法師と出会ってしまうと、凶事が起こるとか死んでしまうなどと言われており、実際に外に出たことにより死んでしまった人がいるという言い伝えも残っているらしい。
「とはいえ、言い伝えさえ守っておれば、何の難もなくやり過ごせる怪異ですからな。それも年に1度のことでありますれば。一昨年までは、それで十分でありました」
 老人が言葉を切った。しばし沈黙が降りる。
「一体、何があったのですか」
 まりかが真剣な表情で話の続きを促した。
 老人が軽く息を吐いて、話を再開する。
「家の中に入ってきたのです」
「中に!?」
「厳密には、ある民家の戸を蹴破っただけで、玄関から先には入ってこなかったとのことであります」
 なんでも、その民家の住人が奥の部屋にいたところ凄まじい音がしたため、家主が独りで様子を見に行ったそうだ。そこで家主が見たのは、破壊された扉と、玄関の向こうの夜の闇。家主は悲鳴を上げて家の奥に逃げ込んだ。
「そのまま家族全員で、奥の部屋から一歩も出ずに夜を明かしたと聞いております」
「その家主やご家族の皆さんには、何か障りは出ていないのですか」
 まりかが心配そうに訊ねた。
「幸いにも、凶事と呼べるほどの出来事は起きていないようです。家主も、海難法師らしき姿はどこにも見当たらなかったと言っておりましたからな」
「ということは、家の中に侵入した海難法師に家主が気が付かなかったというわけではなく、本当に戸を蹴破ることしかできなかったと考えても良さそうですね」
 怪異への親和性がない、俗に霊力が無いというような言い方もするが、そういった体質の人間には怪異の存在を認識することができない。それでも怪異の及ぼす影響は多少なりとも受けるため、家主や家族に何の異常も出ていないのなら、海難法師は本当に戸を壊しただけで帰っていったのだろう。
 まりかが自身の考えを老人に話すと、老人はふむふむと何度か頷いて同意を示した。
「それがしも、同じように考えております。固い戸締まりやトベラの葉によって形成された結界を突破するというのは、それなりの妖力が必要となるはずです。昨年は、それだけで力尽きたのでしょう」
「でも、今年もそれだけで済むとは限らないし、他の民家や他の島々でも同様のことが起こるかもしれない。だから、なんとか祓ってしまえないかということですね」
「その通りであります」
 老人が力強く首肯した。
 まりかは頭の中で情報を整理した。そして、足りない情報を補うため、老人にいくつか質問をする。
「昨年になって急に海難法師の力が増したことについて、何か心当たりはありますか」
「それがしも色々と探ってはみましたが、全くもって心当たりがありませぬ」
「そうですか」
「お役に立てず、申し訳ありませぬ」
「いえ、お気になさらず」
 まりかは安心させるように笑いかけた。実際のところ、怪異の力が増した原因が分からなくとも、やり様は十分にある。
 それよりも、スケジュールの調整上、最も重要な情報を確認しなければならない。
「そういえば、海難法師の出現する日を、まだ伺ってないのですが」
 すると老人は、何故だか申し訳無さそうな顔をしてその日付を告げたのだった。



(そういえば、どこで私のことを聞いたのかも気になるわね)
 新しいコーヒーをマグに注ぎながら、まりかは思案する。
(まあ、それも全部終わってから直接聞こう)
 まりかは思考をさっさと海事代理士モードに切り替えると、午前の続きに取りかかった。
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