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作者: こむらまこと
第11話 シルフィードの娘〈前編〉
 2月に入って最初の土曜日。朝霧まりかは、ビルの屋上で朝焼け空を眺めながら、風の乙女シルフィードである母に電話をかけようとしていた。
 母とは、子供の頃からずっと仲が良い。生まれ育った本牧ほんもくの家からこのビルに移り住んだ後も、月に数回は連絡を取り合い、2、3ヶ月に1回は家に帰っている。
 だからこそ、カナのことを話さないでおくにも限度があった。あまりにも長期間連絡を寄越さないでいると無用な心配をさせてしまうし、カナの事を隠しながら通話するなど、想像しただけで後ろめたくなってしまう。
(うーん、何をどう話すのが一番良いのかしら)
 まりかは、スマホを持つのとは逆の手を眉間に当てて考え込む。母の性格上、娘に同居人ができたと知ろうものなら、一も二もなく文字通りすっ飛んでくるに違いない。ここは母の反応を確認しながら慎重に、少しずつ情報を開示し、あくまで冷静沈着な行動をとるように電話口で何度も諭す必要があるだろう。
(そうだ、お菓子を持ってきてもらうように頼んでみよう)
 人間の甘い食べ物が大好きなあやかしたちの例に漏れず、カナも毎日のようにプリンやゼリー、チョコレートといったデザートやお菓子を好んで食べている。そのことを伝えれば、お菓子作りが大好きな母はまず間違いなく、カナのために何時間もかけてお菓子を作る。そうすれば、階下で爆睡中のカナに、母が突撃訪問するような事態は防げるだろう。
(よし)
 まりかは腹を決めると、スマホの通話履歴を表示して、「お母さん」の欄内にある通話ボタンをタップした。



「それで、これから母親が来るというわけか」
 午前10時頃。まりかは母を迎えるため、今度はカナと共に屋上に立って晴れ渡った空を眺めていた。
「手作りの軽食と焼菓子を持ってきてくれるそうよ」
「ふん」
 カナが鼻を鳴らした。今日は裸に腰布1枚の姿ではなく、黄色地に黒色の縞模様が入ったワンピース型のパーカーを身につけている。先日、まりかがカナのために購入したアニマルデザインのパーカーのうち、虎をイメージしたものである。虎の耳が付いたフードは、まりかがカナの髪を高い位置でツインテールに結ってあげたため、首の後ろで揺れているのがバッチリと確認できる。
「何よ、私のお母さんに会いたくないの?」
 ぶすっとした様子のカナに、まりかは少しムッとして訊ねた。
「そうではない。むしろ、大いに興味はある。じゃがな」
 じとりと、横目でまりかを睨みつける。
「何故に、わしが寝ておる間にコソコソと連絡を取り合うのじゃ」
「ああ、そういうことね」
 まりかは納得すると同時に、言われてみれば確かに何故なのだろうかと、自身の行動に疑問を抱いて焦りを感じる。 
「だって、いつもお母さんと電話する時は部屋に1人だったから、今回も同じ環境を求めたというか。長電話になりそうだったし。あと、1人の方が集中できるし」
「よもや、わしについての悪口あっこうを述べていたのではあるまいな」
 言い訳がましく話すまりかに、カナがずばりと切り込んだ。
「つまり、私が陰口を叩いてたんじゃないかってこと? 人聞きの悪いこと言わないでよ!」
 カナの指摘に、まりかはすかさず反論した。
「やたらと偉そうな喋り方をする服を着るのが大嫌いな人魚の女の子が居候してるって話をしただけよ」
「十分に陰口ではないか!」
「ありのままの事実を話しただけよ!」
「隠れて話しとる時点で陰口じゃ!」
「た、確かにそれは一理あるけど」
 やたらとムキになって追求するカナに、まりかは少々違和感を覚える。そこで、頬を膨らませてこちらを睨みつけるカナに、そっと訊ねてみた。
「もしかして、除け者にされて怒ってる?」
「……」
 カナが、スッと斜め下に視線を逸らす。
「わ、悪いか」
 むくれながら、ボソリと呟く。
 いかにも母性本能をくすぐられる光景だが、残念ながら、まりかにはあまり効果がない。
 とはいえ、確かにカナの言い分も理解できる。もし自分が同じことをされたら、何か隠し事があるのではという疑念を抱くくらいはするかもしれない。
「分かったわよ。次からは、ちゃんとカナが起きてる時に電話をかけるから」
 そういうわけで、今回はまりかの側から折れることにしたのだが。
「でも、電話の途中で話しかけたり、話に割り込んだりしないでよね。というか、それが心配でカナが寝てる時間を選んだっていうのもあるんだから」
「ほれ! やはりやましいところがあったではないか!」
「だから、ごめんってば!」
 やいのやいの屋上で言い合うふたりの間に、そよ風が優しく割り込んだのはその時だった。
「お母さんが来るわ」
「むむっ」
 ふたりは言い合いを中止すると、澄み渡った2月の青空に顔を向けた。



 柔らかな光の粒を帯びた一陣の風が、ビルの屋上で渦を巻く。渦の内部で、シュルシュルと小さな風たちが枝分かれをして、あっという間に人の形を作り上げる。
 髪、肌、そして服が浮かび上がるにつれて、渦巻きの速度は緩慢になる。やがて、風の像が完全に人の姿となったところで、光の粒は弾け飛び、渦巻いていた風たちは周囲の大気に溶け込んでいった。
 まりかとカナが見守る中、1人の女性がビルの屋上に降り立つと、閉じていた瞼をゆっくりと開く。
 若葉色の瞳が、カナの姿を捉えた。
「まあ」
 嬉しそうに微笑むと、ほっそりとした形の良い手を胸に当てる。
「私の名前は、朝霧エリカ。まりかの母親よ」
 そう言って、もう一度ふわりと微笑んだ。
 朝霧エリカの容貌を一言で表現するなら、ビスクドールという言葉がふさわしい。長いまつ毛に、陶器のように滑らかで透明感のある肌。キャラメルブロンドの豊かな髪が、陽光を浴びながら白いワンピースの上でフワフワと揺れている。足元は裸足で、爪には緑色のペディキュアを塗り、金色のアンクレットが左足首をさりげなく飾っている。
 エリカが、左手に持っていたピクニックバスケットを掲げて提案した。
「積もる話もあるけれど、ひとまずブランチにしましょう」



 まりかが事務所の扉を開けると、水槽から金魚たちが一斉に飛び出してきた。
「エリカ様!」
 赤毛のツインテールを揺らしながら、元気いっぱいの琉金のキヌが、真っ先にエリカの前にたどり着く。
「お久しぶりです」
 キヌに続いて、キャリコ琉金のタマがおっとりと挨拶をした。肩までの長さの明るい金髪が、ぷっくりとした頬をそよそよと撫でている。
「お元気そうで、何よりです」
 最後に、青文魚のトネが静かにお辞儀をした。一見、感情の起伏が少ないように見える彼女だが、青みがかった黒髪をモジモジとかきあげる仕草から、嬉しさと照れくささを感じていることがしっかりと伝わってくる。
「みんなも元気そうで安心したわ。そうだ、今日はこれを持ってきたの」
 ニコニコと金魚たちを見渡していたエリカは、はたと思い出したようにピクニックバスケットの中を探ると、蓋付きの丸い缶ケースを取り出した。
「ほら、金平糖よ。この前、利雄さんと京都に行った時に買ってきたの」
 金平糖という言葉に、金魚たちが色めき立つ。
「せっかくだから、私たちと一緒に食べましょう」
 エリカはそう言うと、応接用のローテーブルにピクニックバスケットの中身を並べ始めた。
「お湯ならもう沸いてるわよ」
「さすがは、まりかね。気が利くわ」
「このくらい当然よ」
 まりかは、エリカからガラス製のティーポットを受け取りながら、再会を喜ぶ母と金魚たちの姿に胸をホッコリとさせる。
 金魚たちは元々、本牧の家に住んでいた。それも、まりかが朝霧夫妻に引き取られるよりもずっと以前からあの家で過ごしているということなので、普通の金魚だった期間を含めると、あの3人の方がまりかよりもずっと年上ということになるのだ。
 エリカは、3人分のティーカップにハーブティーを注ぐと、手持ち無沙汰で突っ立っているカナを手招きした。
「さあ、準備ができたわ。座りましょう、カナちゃん」
「そうよ。遠慮しないで、好きなだけ食べて」
 先にソファに腰かけていたまりかが、自分の向かいに座るようにカナに促す。
「どれ、ご相伴に預からせてもらうとするかの」
 カナは、ふたりの声かけに応じてボスンとソファに座ると、ローテーブルの上を見渡して歓声を上げた。
「ほほう。これは」
 そこには、上品さと親しみやすさを兼ね備えた、素敵なティータイムの世界が広がっていた。
 軽食として、卵やハム、チーズ、キュウリ、トマトなどの定番かつシンプルなフィリングを白パンで挟んだサンドイッチ。アーモンドバターをたっぷりと使ったクッキーに、オレンジピールの香りが爽やかなパウンドケーキ。そして、カモミールとルイボスのブレンドティーが、ティーカップから穏やかな香りを漂わせている。
 大いに唾液腺を刺激する光景に、カナがゴクリと唾を飲み込んだ。
「このサンドイッチ、表面を少しだけトーストしてるのね」
「だって、さっくりした食感の方が好きでしょ?」
「さすがはお母さん。よく分かってる」
「当然よ」
 ティーカップを片手に、仲睦まじく談笑するエリカとまりか。ローテーブルの端では、金魚たちが缶ケースを囲んで、いかにも嬉しそうに小さな口へ金平糖を放り込んでいる。
 金魚たちは、喉の奥に咽頭歯という強力な歯を持っている。小さくて可愛らしい金魚の精霊たちが、全く口を動かすことなくバリバリと硬い金平糖を砕く光景には、なかなかシュールなものがあった。
「そいじゃ、わしも」
 カナは、オレンジピールのパウンドケーキに手を伸ばした。
 まずは、パウンドケーキの角を少しだけ齧ってみる。
「むう、うまいぞ!」
 あまりの美味しさに、カナは思わず叫んだ。
 程よい甘さとしっとりとした食感のパウンドケーキは、1口、2口と噛み締めるたびに、オレンジピールの爽やかな香りが鼻腔いっぱいにじんわりと広がる。
 カナは、あっという間にパウンドケーキを腹の中に収めてしまうと、次はアーモンドクッキーを手に取った。
「ね、美味しいでしょ?」
「気に入ってもらえて良かったわ」
 エリカとまりかは、そんなカナを対面から暖かく見守りつつ、和やかに談笑を続ける。
「そういえば、お父さんはどうしてるの?」
 ブレンドティーを飲みながら、まりかがエリカに訊ねる。
「それがね、大学時代の同期の方と銀座で会うとかで、夕方まで帰ってこないの」
 ここで、エリカがフフっと笑ってカナを見て、すぐに視線を外した。カナは何故か、嫌な予感を覚える。
 エリカはアーモンドクッキーをつまみながら、事務所の中を感慨深そうに見渡した。
「ここに来るのは久しぶりだけど、開業した時からちっとも変わってないわね」
「いくら何でもそれは大袈裟よ。私が引き継いでからだって、新しい書棚を買ったり、パソコンの買い替えだってしたし、所々変わってるのよ」
 まりかは手を振って否定したが、そんなまりかを、エリカは愛おしげに見つめている。
「でもね、雰囲気とかは本当にそのままよ。やっぱり、まりかと利雄さんって、似てるんだなって思うわ」
「に、似てるだなんて、そんな」
 思いがけないエリカの言葉に、まりかの頬がほんのりと朱に染まった。あまりの照れくささに、アーモンドクッキー数枚を一気に口に放り込むと、目のやり場を求めてエリカと同じく事務所の中を見渡してみた。
 朝霧海事法務事務所の内装は、他の行政書士や司法書士、そして海事代理士の事務所と基本的なところは変わらない。数百冊の蔵書が収まった書棚に、重要書類を保管するための鍵付き書棚、金庫、などなど。しかし、それらの装備品類とは別に、まりかの父親である朝霧利雄の趣味を反映した物が、ここにはいくつか存在した。
 まず、窓と窓の間の壁には、船の操舵輪や結索けっさく標本が飾ってある。結索標本、別名ノットボードとは、船やヨット、帆船の上で使われるロープの結び方を標本にしたものだ。もやい結びや真結び、巻結び、いかり結び、などなどなど。どれも、船上作業では欠かせない結び方である。
 また、海側の壁際には、自動車運搬船の模型がガラスケース入りで飾られている。普通なら帆船や艦船の模型を飾りそうなところを、あえて商船の模型を選んでいるところに、利雄のこだわりが表れていた。
「確かに、お父さんが好きで飾ってたものは、全部そのままにしてあるから」
 まりかは、玄関そばのホールクロックを眺めながら、2杯目のブレンドティーをチビチビと啜る。
「そうだ、思い出したわ」
 エリカが、背後の壁を振り向いた。
 そこには、1枚の絵画が掛けられている。
「私ね、開業の準備を手伝ってる時に、利雄さんに訊いたのよ。『どうして、こんなに暗い絵を飾るの? どうせなら、お客さんが楽しい気持ちになるような絵を飾ればいいのに』ってね」
 当時の様子を思い出しているのだろう、エリカが懐かしげに目を細めてその絵を見つめる。
 それは、爆撃を受ける商船を描いたものだった。
 灰色の空の下、身を守る術もなく、火を吹き上げながら、無惨にも沈みゆく船。
「そしたらね、利雄さんがこう言うのよ。『これは戦時徴用船せんじちょうようせんといって、戦地へ物資を輸送するために、軍によって動員された民間船なんだ。我々は、この悲惨で忌まわしい出来事を、決して忘れてはならないのだよ』ってね」
「本当に、お父さんらしいわね」
 まりかがクスリと、そして寂しげに笑った。変わり者の父らしいと思う一方で、戦時徴用船の悲劇的で怒りすら覚える歴史を知るまりかとしては、父の信念は十分に理解できる。
 正面に向き直ったまりかは、カナの顔を見て眉をひそめた。
「どうしたの、カナ?」
 カナは、斜め前方を凝視してポカンと口を開けていた。その視線の先は、例の戦時徴用船の絵画である。
「カナちゃん、大丈夫?」 
「ぬ?」
 2人の声かけに、カナはハッと我に返る。
「な、なんでもないわい!」
 そう言うと、慌ててティーカップに手に取って、熱々のブレンドティーを口の中に流し込んだ。
「あちいっ!! なんじゃい、これは!」
 カナがソファから飛び上がった。その勢いで、危うくティーカップを落としそうになる。
「しまった! カナが猫舌だってこと、すっかり言い忘れてた!」
「ごめんなさい、カナちゃん!」
「うう、熱いのは嫌いじゃあ」
 涙目になって舌を外気に晒すカナに、エリカがオロオロと謝り、まりかが冷蔵庫から持ってきた氷を差し出す。
 そんなトラブルが起こりつつも、横浜港を臨むビル内の事務所で開かれた優雅なお茶会は、盛況のうちに過ぎていったのだった。



 エリカは、今度はミントティーをティーカップの中に注いだ。金魚たちは既に、水槽の中に戻って悠々と泳いでいる。
「今度はぬるめに淹れたから、安心して」
 警戒心を露わにティーカップを睨むカナに、エリカは微笑みながら、ひと口飲んでみるように勧める。
 カナはゆっくりとティーカップを持ち上げると、おそるおそるミントティーに唇をつけた。
「ふむ」
 カナの表情が緩み、順調にティーカップの中身が減っていく。
(あら、ミントは大丈夫なのね)
 カナの食の好みについて現時点で判明しているのは、甘い物が大好きで、熱い物や辛い物が苦手ということくらいだ。人間の食べ物についての知識があまり無いらしく、実際に食べさせてみないことには好き嫌いが分からないという状態である。
(チョコミントのアイスクリームでも、買ってみようかしら)
 好き嫌いがハッキリと分かれるチョコミントだが、まりかは平気で食べられるタイプだ。
 どうせ一緒に暮らすのなら、ひとつでも多くの食べ物を共に楽しみたいと、まりかは思う。
「それにしても、こんなに可愛らしい人魚さんが、まりかと一緒に暮らすことになるなんて」
 ソファで足をブラブラさせて座るカナを、エリカがニコニコと眺めている。
「伊豆大島で出会ったんですって? まりかから聞いたけど、なんだかものすごく運命的なものを感じるわ」
「だから、大袈裟だってば」
「そうよ! 出会いといえば!」
 頬に手を当ててうっとりと夢想していたと思いきや、突然両手をパチンと合わせて叫び出す。忙しい奴だなと、カナはミントティーを舌先で舐めながら生暖かい目で眺めている。
「せっかくだから、利雄さんと出会った時のことをお話ししてあげるわ」
 エリカが、若葉色の瞳をキラキラと輝かせてカナの目を覗き込んだ。カナは、身体を横にずらして、エリカから距離をとる。
「わ、わしは別に」
「あら、遠慮しなくていいのよ、カナちゃん。きっとあなたも利雄さんを好きになるわ」
「いや、だからのう」
 精霊の惚気ノロケ話など興味が無いと言おうとしたが、エリカは既に自分の世界に入っていた。
 胸の前で両手を組み合わせ、遠い記憶の彼方に思いを馳せている。
「利雄さんと出会った時、私はまだ、どこにでもいるような単なる風の精霊に過ぎなかったの」
 こうしてエリカの口から語られたのは、人間と風の乙女シルフィードとの、世にも珍しい恋物語ラブロマンスだった。
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