第18話 横浜港の龍神〈六〉
八頭ウツボは、想定よりもずっと早く見つかった。
(もうこんなに迫ってきてたのかよ)
冷や汗を流しつつも、念の為に多聞丸に御札を付けておいて良かったとホッと胸を撫で下ろす。
明は、八頭ウツボの至近距離に位置する小さな岩陰で片膝を着くと、軽く目を瞑り、両手で印を結んだ。
左手を虚ろに握り、それを右手のひらの上に置く。いわゆる「隠形印」と呼ばれる印である。
「『オン・マリシエイ・ソワカ』」
(摩利支天よ、我の姿をお隠し下さい)
摩利支天の真言を1回唱えるごとに、心臓、額、左肩、右肩、頭頂の順に隠形印を移動させていく。
それを終えると、一旦ブレザーのポケットに入れていた数珠を再び左手に持ち、ひらりと岩陰から躍り出た。
「フシュウウウ……」
八頭ウツボは、間合いよりも少し遠いくらいの所まで迫っていた。しかし、隠形法により身を隠した明の存在に気がつくことはなく、その大きな顎から呼気と気泡を盛んに吐き出しながら、岩場の多い海底を、ずるりずるりと移動している。
明は、八頭ウツボの身体に触れないように注意を払いながら、その巨体をくまなく観察し始めた。
黒褐色と黄色のまだら模様の体色に、円筒型の細長い身体。その顎は、眼球よりも更に後方まで開くほどに大きく、口内には鋭く尖った歯が何十本も立ち並んでいる。
(見た感じ、頭が8つあることと身体が大きいこと以外は、普通のウツボと変わらねえな)
つまり、あの聞くにも恐ろしい咽頭顎も、ほぼ確実に備わっているに違いない。
咽頭顎というのは、その名の通り喉に付いたもうひとつの顎である。こんな凶悪な器官を持つウツボに噛まれれば大怪我するのは当然として、目の前にいる八頭ウツボに1度でも噛みつかれようものなら、確実に生命を失うだろう。
(やっぱり、あれに噛まれて死ぬのはナシだな)
霊力の扱い方を学ぶために、子供の頃から頻繁に寺に出入りしていたからだろうか。明には、自身の生に対する執着心はあまり無い。今現在の生活にはそれなりに満足しているし、希死念慮を抱いているという訳ではないのだが、もし明日で寿命が尽きると知らされたとしても、さほど抵抗することなくそれを受け入れるだろうと、明は漠然と感じている。
とはいえ、わざわざ痛い思いをしながら死にたいという特殊な願望は、生憎と持ち合わせていなかった。
(それに、今回はちゃんと生還しなきゃならねえ事情があるからな)
明は2つの顔を思い浮かべる。ひとつは、もちろん多聞丸。もうひとつは、朝霧まりか。
明がウツボに喰われたと聞けば、明を龍神に引き合わせたことについて、多少なりとも自身を責めてしまうだろう。自分などのために、そのような無用な感情を彼女に抱かせるのは申し訳ないと、明は思う。
(狙うとすれば、胴体しか無いな)
八頭ウツボとは安全な距離を保ちながら、枝分かれした頭部がひとつにまとまった胴体部分がよく見える位置にゆっくりと移動する。
(それにしても、何がどうなって頭が8つになったんだよ)
元々は1匹だったウツボから頭が8つに枝分かれしたのか、或いは、8匹のウツボが合身して1匹の巨大な怪異と化したのか。
各々の頭が自律的に動きつつも、進行方向について互いに争うような動きは今のところ見られない。ある程度の意思統一、もしくは思考の共有はできていると考えるべきだろう。
(頭同士で喧嘩させたところで、却ってやっかいなことになりそうだしな)
あれこれ思案しながら、ゴチャゴチャと重なり合った枝分かれ部分に目を凝らしてみる。
キラリと、何かが光を反射した。
「ん?」
もう一度目を凝らしてみるが、特に何も見えない。
(いや、確かに何かが見えたぞ)
明は、腰のポーチから倍率3倍の折りたたみ式オペラグラスを取り出した。
今度はオペラグラス越しに、八頭ウツボの枝分かれしたところを観察する。
「――あれは!」
よくよく注意しなければ気が付かないほどの薄い光が、ウツボの皮膚の上でチラチラと反射しているのが見えた。
「そうか、そういうことか」
オペラグラスを顔から離し、八頭ウツボを見つめたまま、押し出すようにして呟く。
この瞬間、菊池明は、自分が何を為すべきなのかをはっきりと理解した。
(早く、助けてやらねえと)
明はくるりと踵を返すと、一刻も早く多聞丸に作戦を伝えるため、急いでその場を後にしたのだった。
8つある頭のうちの1つが、遠い岩陰で何かがゆらゆらと揺れているのを視認する。
その情報は瞬く間に他の7つの頭にも伝わり、8つの頭は一斉に、まるで自分を誘うかのように揺れるその物体に、憎悪を込めて狙いを定めた。
「キシャアアアアア!!」
雄叫びを上げると、不安定な岩場をものともせず、その巨体からは想像もできないような速度で一気に距離を詰め、躊躇なくその物体に喰らいつく。
「来たぞ!!」
摩利支天の御札を付けた多聞丸が、大声で明に合図をした。
多聞丸の手には、細長い流木が握られている。その先端には明のマリンキャップとマントが括り付けられていたのだが、それらはたった今、八頭ウツボの鋭利な牙の餌食となってしまった。
「シャアアアアッ!」
八頭ウツボは、単純な手口で誘導されたことに怒りながら、頭を振ってマリンキャップとマントを放り出すと、すぐ目の前で片膝を着く明に襲いかかった。
「『ナウボ・バギャバテイ・タレイロキャ・ハラチビシシュタヤ・ボダヤ・バギャバティ……』」
幽世の海に、朗々と詠唱する声が響いた。
「ギャアアッ」
明を喰らおうした頭の1つが、透明な壁にぶち当たったかのように強く弾かれる。
「『……アビシンシャトマン・ソギャタバラバシャナウ・アミリタ……』」
明は、目の前で怒り狂う八頭ウツボにはまるで頓着せず、左膝を砂地に着き、右足は立膝にして、長く複雑な陀羅尼を淀みなく唱え続けている。
「すげえ。あんな簡単な印で、結界を張ってやがる」
多聞丸は安全な岩陰で成り行きを見守りながら、明の霊力の高さと技術の巧みさに瞠目していた。
「『……アユサンダラニ・シュダヤ・シュダヤ……』」
明の左手の親指と人差し指の間には、紐房を下にした状態で数珠が引っ掛けられている。そして右手は、人差し指だけを突き出して地面に触れさせる印の形をとっていた。
その名も、降魔印。形だけなら誰にでも可能なこの退魔法は、怪異や妖が多少見える程度の人間が真似をしても、ほとんど効力を発揮しない。せいぜい、自我が希薄な生まれたての怪異が怯えて逃げる程度である。
「ギャオオオオオ!」
ますます怒り狂った八頭ウツボが複数の頭で突撃するも、明の目と鼻の先でことごとく弾かれてしまう。
明の詠唱は、まだ続く。
「『……ソウカ・タナウ・ビシュデイ・サラババラダ……』」
子供の頃から幾度となく唱え続け、すっかり骨の髄まで染み込んでいる、真言や陀羅尼の数々。今、明が唱えている陀羅尼は、それらのうちでも特に強い力を発揮する、明の十八番だった。
「『……サマジンバサエンド・サラバタターギャタ・サマジンバサ・ジシュチテイ……』」
尊勝陀羅尼。全ての悪業、魔障を浄化する力を持つそれは、詠唱と共に明の霊力と絡み合い、星月菩提樹の数珠に蓄積されていく。
「『……キリダヤ・ジシュタナウ・ジシュチタ・マカボダレイ・ソワカ』!」
明は詠唱を終えると同時に、身体の右側に突き立てておいた直刀を手に取りながら立ち上がった。
「シュウウウ……」
再度襲いかかろうとした八頭ウツボが、恨めしげな鳴き声を口々に漏らしながら、じりじりと後退する。
明の全身からは、神々しいまでの威光が放たれていた。もし、小さな怪異や妖が相手だったのならば、目の当たりにしただけで戦意を喪失し、ひれ伏さんと欲する心すら持ったかもしれない。
とはいえ、八頭ウツボほどの怪異となると、さすがにこれだけで屈服させることは不可能だった。それは明にとって想定内のことだったため、心を揺らすことなく即座に次の手順に移る。
明は、仄かに赤い光を反射する刀身に、溢れんばかりの霊力で満たされた数珠を翳した。
(ここからが、正念場だ)
鎌首だけでも自身の体長を遥かに上回る八頭ウツボの怒りと憎悪に満ちた視線を、凪いだ海のような平静な心で受け止める。
(お前を、苦しみから解放してやるよ)
決意と、そして祈りを胸に、明は腹の底から叫んだ。
「『孔雀明王ニ祈願ス!!』」
数珠を持つ左手が、優しい暖かさに包まれる。
その暖かさを刀身に向けて押し出すようなイメージを描きながら、孔雀明王真言をゆっくりと唱え始めた。
「『オン・マユラ・キランデイ・ソワカ』」
唱えながら、数珠を上から下へゆっくりと滑らせていく。
「おお!」
遠くで見守っていた多聞丸が声を上げた。
数珠の動きに合わせて、明が唱えた真言が力強く刀身に刻み込まれていく。
「なんだか、さっきよりも文字が濃い気がするぞ!」
明は真言を唱え終えると、すぐさま両手で直刀の柄を握って構えた。
(よし、成功した!)
さっき試した時とは違い、今度は刀身に浮かんだ真言が薄れることは無かった。それどころか、数珠から刀身に注ぎ込まれた莫大な量の霊力が真言の詠唱を受けて変質したことにより、威力が増しているとさえ感じられる。
明は右足を前にして、切っ先を八頭ウツボの分岐部分に向けた。
刹那、孔雀明王を観想する。
そして、明自身の純粋な想いを、祈りの言葉として昇華させた。
「一切諸毒を取り除き、彼の者を救済し給え!!」
言い終えるや否や、鋭く間合いに踏み込む。
黒褐色と黄色のまだら模様が眼前に迫る。
「ギィアアアッ!!」
僅かに遅れて反応した八頭ウツボが、その恐ろしい顎を大きく開けた。
ずぶり。
直刀の切っ先が、硬いはずのウツボの皮膚に難なく潜り込む。
ウツボの鋭い牙が、明の背後に迫る。
「うおおおおおっ!」
明は気合いを発しながら、直刀を更に深くウツボの体内に穿ち、勢いのままに全てを一気に断ち切った。
「……」
直刀を下段に構えた状態で、静止する。
1秒、2秒、3秒。
明にとって、永劫のような時間が流れる。
(もし失敗なら、俺は今ここで喰われる)
八頭ウツボの懐で、明は案外冷静に自身の最期を想像する。
そして、4秒。
「きゅ?」
上から可愛らしい鳴き声が響いた。
同時に、八頭ウツボの巨体が、みるみるうちに収縮していく。
「ぐるるるるる?」
普通のウツボよりひと回り大きい程度に縮んだ八頭ウツボが、喉を鳴らして8つの頭をこてんと傾けた。
(どうやら、大成功らしいな)
さっきまでの凶悪さなど欠片も残らないその様子を見て、明はホッと胸を撫で下ろした。
「おい! 一体、何がどうなってるんだよ!」
多聞丸が岩陰からすっ飛んできた。訳が分からないという顔で八頭ウツボと明を見比べ、触覚をブンブンと振り回す。
明は、多聞丸から摩利支天の御札をはがしてやると、八頭ウツボのすぐ横に落ちているものを指さした。
「あいつの体内から、あれを取り除いてやったんだ」
「ひえっ」
明が示した物を見た多聞丸が、そのおぞましさに触覚をブルブル震わせる。
「こんな物が身体の中にあったんじゃ、暴れるのも無理はねえよ」
明はそれを拾い上げると、嫌悪感を露わにしながらも、その詳細を観察し始めた。
八頭ウツボを凶暴化させていたものの正体。それは釣り糸だった。十数メートルもの長さがある上に、ご丁寧にも釣り針や釣り用オモリが付いたままとなっている。更に、何故かビニールの切れ端までもが所々に絡まっていた。
釣り用語でテグスとも呼ばれるそれは、マナーの悪い一部の釣り人により、海ゴミとして投棄されることがしばしばある。そして、多くの海鳥や海洋生物たちが、このテグスの犠牲となっている現実が存在する。
八頭ウツボの凶暴化の原因がこのテグスであることを看破した明は、災いや苦難を取り除くとされる孔雀明王真言の力を行使することを即座に決めた。
つまり、直刀にこの真言の効力を上乗せすることで、八頭ウツボの身体を傷付けることなく、この場合の「諸毒」であるテグスのみを断ち切り、取り除くことを可能としたのである。
明は、八頭ウツボから取り除いたテグスと穴の空いたマリンキャップを、ズタズタになったマントで包み込んだ。
ゴミはきちんと持ち帰る。海に限らず、これはレジャーを楽しむ際の基本中の基本である。
「俺たち人間のせいで苦しい思いをさせて、本当にごめんな」
明は、さっきから不思議そうな顔で自分を見つめている八頭ウツボに対し、謝罪の言葉を口にした。
「……」
八頭ウツボは無言のまま、16の瞳でじっと明を見つめている。
明は構わず、安心させるように小さく笑いかけながら言葉を続けた。
「実は、龍神からはお前を退治するように命令されてたんだ。でも、もうその必要は無さそうだ。命令違反ってことになるけど、何ら脅威にならない怪異を退治するなんてこと、俺は絶対にするつもりは無い。後は好きなようにしてくれ」
ここは、蘇芳の勢力圏内。蘇芳が聞き耳を立てている可能性を十分に考慮しながらも、明は敢えて、自分の意見を堂々と述べることにした。
「小僧、お前」
横で聞いていた多聞丸が、ピョコピョコと尻尾を振って明の顔を凝視する。
「なんだよ、文句あるか」
明が腕を組んで応戦する構えを見せる。
しかし、多聞丸の口から飛び出したのは、明にとっては想定外の言葉だった。
「すっごく優しいやつなんだな」
「……」
完全に不意打ちを喰らい、明はスッと視線を反対側に逸らす。
「そんなんじゃねえよ」
照れくささが表出しないように必死に胸の内に抑えながら、どうにか言い返す。
しかし、多聞丸にはお見通しだった。
「照れてやがんの!」
「別に照れてねえよ!」
その時、2人のすぐ横で、空間がグニャリと歪曲した。
「〈門〉が開くぞ」
明はこれ幸いとばかりに言い合いを打ち切ると、八頭ウツボに背を向ける形で〈門〉に向かい合う。
「小僧!」
多聞丸の悲鳴のような声が後ろで響く。
「っ!」
明が振り向いたのと、八頭ウツボが明に覆い被さったのは、ほぼ同時だった。
(もうこんなに迫ってきてたのかよ)
冷や汗を流しつつも、念の為に多聞丸に御札を付けておいて良かったとホッと胸を撫で下ろす。
明は、八頭ウツボの至近距離に位置する小さな岩陰で片膝を着くと、軽く目を瞑り、両手で印を結んだ。
左手を虚ろに握り、それを右手のひらの上に置く。いわゆる「隠形印」と呼ばれる印である。
「『オン・マリシエイ・ソワカ』」
(摩利支天よ、我の姿をお隠し下さい)
摩利支天の真言を1回唱えるごとに、心臓、額、左肩、右肩、頭頂の順に隠形印を移動させていく。
それを終えると、一旦ブレザーのポケットに入れていた数珠を再び左手に持ち、ひらりと岩陰から躍り出た。
「フシュウウウ……」
八頭ウツボは、間合いよりも少し遠いくらいの所まで迫っていた。しかし、隠形法により身を隠した明の存在に気がつくことはなく、その大きな顎から呼気と気泡を盛んに吐き出しながら、岩場の多い海底を、ずるりずるりと移動している。
明は、八頭ウツボの身体に触れないように注意を払いながら、その巨体をくまなく観察し始めた。
黒褐色と黄色のまだら模様の体色に、円筒型の細長い身体。その顎は、眼球よりも更に後方まで開くほどに大きく、口内には鋭く尖った歯が何十本も立ち並んでいる。
(見た感じ、頭が8つあることと身体が大きいこと以外は、普通のウツボと変わらねえな)
つまり、あの聞くにも恐ろしい咽頭顎も、ほぼ確実に備わっているに違いない。
咽頭顎というのは、その名の通り喉に付いたもうひとつの顎である。こんな凶悪な器官を持つウツボに噛まれれば大怪我するのは当然として、目の前にいる八頭ウツボに1度でも噛みつかれようものなら、確実に生命を失うだろう。
(やっぱり、あれに噛まれて死ぬのはナシだな)
霊力の扱い方を学ぶために、子供の頃から頻繁に寺に出入りしていたからだろうか。明には、自身の生に対する執着心はあまり無い。今現在の生活にはそれなりに満足しているし、希死念慮を抱いているという訳ではないのだが、もし明日で寿命が尽きると知らされたとしても、さほど抵抗することなくそれを受け入れるだろうと、明は漠然と感じている。
とはいえ、わざわざ痛い思いをしながら死にたいという特殊な願望は、生憎と持ち合わせていなかった。
(それに、今回はちゃんと生還しなきゃならねえ事情があるからな)
明は2つの顔を思い浮かべる。ひとつは、もちろん多聞丸。もうひとつは、朝霧まりか。
明がウツボに喰われたと聞けば、明を龍神に引き合わせたことについて、多少なりとも自身を責めてしまうだろう。自分などのために、そのような無用な感情を彼女に抱かせるのは申し訳ないと、明は思う。
(狙うとすれば、胴体しか無いな)
八頭ウツボとは安全な距離を保ちながら、枝分かれした頭部がひとつにまとまった胴体部分がよく見える位置にゆっくりと移動する。
(それにしても、何がどうなって頭が8つになったんだよ)
元々は1匹だったウツボから頭が8つに枝分かれしたのか、或いは、8匹のウツボが合身して1匹の巨大な怪異と化したのか。
各々の頭が自律的に動きつつも、進行方向について互いに争うような動きは今のところ見られない。ある程度の意思統一、もしくは思考の共有はできていると考えるべきだろう。
(頭同士で喧嘩させたところで、却ってやっかいなことになりそうだしな)
あれこれ思案しながら、ゴチャゴチャと重なり合った枝分かれ部分に目を凝らしてみる。
キラリと、何かが光を反射した。
「ん?」
もう一度目を凝らしてみるが、特に何も見えない。
(いや、確かに何かが見えたぞ)
明は、腰のポーチから倍率3倍の折りたたみ式オペラグラスを取り出した。
今度はオペラグラス越しに、八頭ウツボの枝分かれしたところを観察する。
「――あれは!」
よくよく注意しなければ気が付かないほどの薄い光が、ウツボの皮膚の上でチラチラと反射しているのが見えた。
「そうか、そういうことか」
オペラグラスを顔から離し、八頭ウツボを見つめたまま、押し出すようにして呟く。
この瞬間、菊池明は、自分が何を為すべきなのかをはっきりと理解した。
(早く、助けてやらねえと)
明はくるりと踵を返すと、一刻も早く多聞丸に作戦を伝えるため、急いでその場を後にしたのだった。
8つある頭のうちの1つが、遠い岩陰で何かがゆらゆらと揺れているのを視認する。
その情報は瞬く間に他の7つの頭にも伝わり、8つの頭は一斉に、まるで自分を誘うかのように揺れるその物体に、憎悪を込めて狙いを定めた。
「キシャアアアアア!!」
雄叫びを上げると、不安定な岩場をものともせず、その巨体からは想像もできないような速度で一気に距離を詰め、躊躇なくその物体に喰らいつく。
「来たぞ!!」
摩利支天の御札を付けた多聞丸が、大声で明に合図をした。
多聞丸の手には、細長い流木が握られている。その先端には明のマリンキャップとマントが括り付けられていたのだが、それらはたった今、八頭ウツボの鋭利な牙の餌食となってしまった。
「シャアアアアッ!」
八頭ウツボは、単純な手口で誘導されたことに怒りながら、頭を振ってマリンキャップとマントを放り出すと、すぐ目の前で片膝を着く明に襲いかかった。
「『ナウボ・バギャバテイ・タレイロキャ・ハラチビシシュタヤ・ボダヤ・バギャバティ……』」
幽世の海に、朗々と詠唱する声が響いた。
「ギャアアッ」
明を喰らおうした頭の1つが、透明な壁にぶち当たったかのように強く弾かれる。
「『……アビシンシャトマン・ソギャタバラバシャナウ・アミリタ……』」
明は、目の前で怒り狂う八頭ウツボにはまるで頓着せず、左膝を砂地に着き、右足は立膝にして、長く複雑な陀羅尼を淀みなく唱え続けている。
「すげえ。あんな簡単な印で、結界を張ってやがる」
多聞丸は安全な岩陰で成り行きを見守りながら、明の霊力の高さと技術の巧みさに瞠目していた。
「『……アユサンダラニ・シュダヤ・シュダヤ……』」
明の左手の親指と人差し指の間には、紐房を下にした状態で数珠が引っ掛けられている。そして右手は、人差し指だけを突き出して地面に触れさせる印の形をとっていた。
その名も、降魔印。形だけなら誰にでも可能なこの退魔法は、怪異や妖が多少見える程度の人間が真似をしても、ほとんど効力を発揮しない。せいぜい、自我が希薄な生まれたての怪異が怯えて逃げる程度である。
「ギャオオオオオ!」
ますます怒り狂った八頭ウツボが複数の頭で突撃するも、明の目と鼻の先でことごとく弾かれてしまう。
明の詠唱は、まだ続く。
「『……ソウカ・タナウ・ビシュデイ・サラババラダ……』」
子供の頃から幾度となく唱え続け、すっかり骨の髄まで染み込んでいる、真言や陀羅尼の数々。今、明が唱えている陀羅尼は、それらのうちでも特に強い力を発揮する、明の十八番だった。
「『……サマジンバサエンド・サラバタターギャタ・サマジンバサ・ジシュチテイ……』」
尊勝陀羅尼。全ての悪業、魔障を浄化する力を持つそれは、詠唱と共に明の霊力と絡み合い、星月菩提樹の数珠に蓄積されていく。
「『……キリダヤ・ジシュタナウ・ジシュチタ・マカボダレイ・ソワカ』!」
明は詠唱を終えると同時に、身体の右側に突き立てておいた直刀を手に取りながら立ち上がった。
「シュウウウ……」
再度襲いかかろうとした八頭ウツボが、恨めしげな鳴き声を口々に漏らしながら、じりじりと後退する。
明の全身からは、神々しいまでの威光が放たれていた。もし、小さな怪異や妖が相手だったのならば、目の当たりにしただけで戦意を喪失し、ひれ伏さんと欲する心すら持ったかもしれない。
とはいえ、八頭ウツボほどの怪異となると、さすがにこれだけで屈服させることは不可能だった。それは明にとって想定内のことだったため、心を揺らすことなく即座に次の手順に移る。
明は、仄かに赤い光を反射する刀身に、溢れんばかりの霊力で満たされた数珠を翳した。
(ここからが、正念場だ)
鎌首だけでも自身の体長を遥かに上回る八頭ウツボの怒りと憎悪に満ちた視線を、凪いだ海のような平静な心で受け止める。
(お前を、苦しみから解放してやるよ)
決意と、そして祈りを胸に、明は腹の底から叫んだ。
「『孔雀明王ニ祈願ス!!』」
数珠を持つ左手が、優しい暖かさに包まれる。
その暖かさを刀身に向けて押し出すようなイメージを描きながら、孔雀明王真言をゆっくりと唱え始めた。
「『オン・マユラ・キランデイ・ソワカ』」
唱えながら、数珠を上から下へゆっくりと滑らせていく。
「おお!」
遠くで見守っていた多聞丸が声を上げた。
数珠の動きに合わせて、明が唱えた真言が力強く刀身に刻み込まれていく。
「なんだか、さっきよりも文字が濃い気がするぞ!」
明は真言を唱え終えると、すぐさま両手で直刀の柄を握って構えた。
(よし、成功した!)
さっき試した時とは違い、今度は刀身に浮かんだ真言が薄れることは無かった。それどころか、数珠から刀身に注ぎ込まれた莫大な量の霊力が真言の詠唱を受けて変質したことにより、威力が増しているとさえ感じられる。
明は右足を前にして、切っ先を八頭ウツボの分岐部分に向けた。
刹那、孔雀明王を観想する。
そして、明自身の純粋な想いを、祈りの言葉として昇華させた。
「一切諸毒を取り除き、彼の者を救済し給え!!」
言い終えるや否や、鋭く間合いに踏み込む。
黒褐色と黄色のまだら模様が眼前に迫る。
「ギィアアアッ!!」
僅かに遅れて反応した八頭ウツボが、その恐ろしい顎を大きく開けた。
ずぶり。
直刀の切っ先が、硬いはずのウツボの皮膚に難なく潜り込む。
ウツボの鋭い牙が、明の背後に迫る。
「うおおおおおっ!」
明は気合いを発しながら、直刀を更に深くウツボの体内に穿ち、勢いのままに全てを一気に断ち切った。
「……」
直刀を下段に構えた状態で、静止する。
1秒、2秒、3秒。
明にとって、永劫のような時間が流れる。
(もし失敗なら、俺は今ここで喰われる)
八頭ウツボの懐で、明は案外冷静に自身の最期を想像する。
そして、4秒。
「きゅ?」
上から可愛らしい鳴き声が響いた。
同時に、八頭ウツボの巨体が、みるみるうちに収縮していく。
「ぐるるるるる?」
普通のウツボよりひと回り大きい程度に縮んだ八頭ウツボが、喉を鳴らして8つの頭をこてんと傾けた。
(どうやら、大成功らしいな)
さっきまでの凶悪さなど欠片も残らないその様子を見て、明はホッと胸を撫で下ろした。
「おい! 一体、何がどうなってるんだよ!」
多聞丸が岩陰からすっ飛んできた。訳が分からないという顔で八頭ウツボと明を見比べ、触覚をブンブンと振り回す。
明は、多聞丸から摩利支天の御札をはがしてやると、八頭ウツボのすぐ横に落ちているものを指さした。
「あいつの体内から、あれを取り除いてやったんだ」
「ひえっ」
明が示した物を見た多聞丸が、そのおぞましさに触覚をブルブル震わせる。
「こんな物が身体の中にあったんじゃ、暴れるのも無理はねえよ」
明はそれを拾い上げると、嫌悪感を露わにしながらも、その詳細を観察し始めた。
八頭ウツボを凶暴化させていたものの正体。それは釣り糸だった。十数メートルもの長さがある上に、ご丁寧にも釣り針や釣り用オモリが付いたままとなっている。更に、何故かビニールの切れ端までもが所々に絡まっていた。
釣り用語でテグスとも呼ばれるそれは、マナーの悪い一部の釣り人により、海ゴミとして投棄されることがしばしばある。そして、多くの海鳥や海洋生物たちが、このテグスの犠牲となっている現実が存在する。
八頭ウツボの凶暴化の原因がこのテグスであることを看破した明は、災いや苦難を取り除くとされる孔雀明王真言の力を行使することを即座に決めた。
つまり、直刀にこの真言の効力を上乗せすることで、八頭ウツボの身体を傷付けることなく、この場合の「諸毒」であるテグスのみを断ち切り、取り除くことを可能としたのである。
明は、八頭ウツボから取り除いたテグスと穴の空いたマリンキャップを、ズタズタになったマントで包み込んだ。
ゴミはきちんと持ち帰る。海に限らず、これはレジャーを楽しむ際の基本中の基本である。
「俺たち人間のせいで苦しい思いをさせて、本当にごめんな」
明は、さっきから不思議そうな顔で自分を見つめている八頭ウツボに対し、謝罪の言葉を口にした。
「……」
八頭ウツボは無言のまま、16の瞳でじっと明を見つめている。
明は構わず、安心させるように小さく笑いかけながら言葉を続けた。
「実は、龍神からはお前を退治するように命令されてたんだ。でも、もうその必要は無さそうだ。命令違反ってことになるけど、何ら脅威にならない怪異を退治するなんてこと、俺は絶対にするつもりは無い。後は好きなようにしてくれ」
ここは、蘇芳の勢力圏内。蘇芳が聞き耳を立てている可能性を十分に考慮しながらも、明は敢えて、自分の意見を堂々と述べることにした。
「小僧、お前」
横で聞いていた多聞丸が、ピョコピョコと尻尾を振って明の顔を凝視する。
「なんだよ、文句あるか」
明が腕を組んで応戦する構えを見せる。
しかし、多聞丸の口から飛び出したのは、明にとっては想定外の言葉だった。
「すっごく優しいやつなんだな」
「……」
完全に不意打ちを喰らい、明はスッと視線を反対側に逸らす。
「そんなんじゃねえよ」
照れくささが表出しないように必死に胸の内に抑えながら、どうにか言い返す。
しかし、多聞丸にはお見通しだった。
「照れてやがんの!」
「別に照れてねえよ!」
その時、2人のすぐ横で、空間がグニャリと歪曲した。
「〈門〉が開くぞ」
明はこれ幸いとばかりに言い合いを打ち切ると、八頭ウツボに背を向ける形で〈門〉に向かい合う。
「小僧!」
多聞丸の悲鳴のような声が後ろで響く。
「っ!」
明が振り向いたのと、八頭ウツボが明に覆い被さったのは、ほぼ同時だった。