第27話 海難0527〈プロローグ〉
船橋の窓ガラスを、大粒の雨が激しく叩いている。もうすぐ夜明けだというのに、辺り一面は墨を流し込んだような真っ暗闇に支配され、同じ航路を行き交うはずの他船の存在は、緑と赤、そして白色の航海灯によってのみ視認することができた。
「うええ……」
「無理すんな、安藤」
RORO船「あかとき丸」の一等航海士・上原健司は、操舵輪を握って前方を注視しつつ、海図台にもたれて船酔いに耐えている部下に声をかけてやる。
「ここは良いから、早く吐いてこい」
「すみません、ワッチが始まったばっかりなのに……」
上原の言葉に、甲板員・安藤和樹は片手で口を抑えながらヨロヨロと立ち上がると、船橋から一番近い洗面所へと消えていった。
「こればかりは、慣れるしかないからなあ」
自身は全く船酔いしない体質である上原はボソリと呟くと、左舷前方の一際明るい閃光に目を向ける。
白い閃光が1回。16秒後に赤い閃光が1回。そしてまた16秒後に白い閃光が1回。この規則正しい白と赤のサイクルは、伊豆半島の最南端に位置する石廊埼灯台のみが発するものだった。
(このペースなら、なんとか予定通りの時刻に入港できそうだな)
順調に伊豆半島沖を通過しつつあることに安堵した上原は、石廊埼灯台の西側の空間に目を移してみる。
(そういえば、フランスの貨客船が座礁したのって、確かあの辺りだったか)
明治7年に石廊崎の沖合で発生した、フランスの貨客船の遭難事故を題材にした歴史小説を、上原は最近読んだばかりである。
(技術が進歩した分、今の時代の船乗りは恵まれてるよな)
とはいえ、昨今はこの伊豆半島沖を行き交う船の数が非常に多く、ほんの少しの気の緩みが、船同士の衝突という重大な海難事故を、いとも簡単に誘発してしまうという現状がある。
最後まで気を抜くまいと、上原はすぐに視線を針路方向に戻そうとした。
(ん?)
視界の端に何かを捉えたような気がして、再び石廊埼灯台の西側に目を凝らしてみる。
いつの間にか、紫色の炎が出現していた。
吹き荒ぶ風雨の中、まるでこちらを誘うかのように、ゆらゆらと妖しくその身体を揺らめかせている。
「鬼火!?」
上原は紫色の炎から強引に視線を引き剥がすと、激しく首を振った。それから、制服のポケットから波除神社の御守りを取り出すと、じっと見つめながら気持ちを落ち着かせていく。
(いかんいかん。あんなのに引っ張られたら洒落にならんぞ)
鬼火程度で惑わされるようなことは無いものの、荒天下、しかも夜間の航海というこの状況では、どんなに小さな油断でも命取りになりうる。
上原は大きく息を吐いて御守りをポケットに戻すと、操舵輪を握り直し、船の針路方向に意識を集中させようとした。
『きて』
「っ!?」
すぐ耳元で、女の声が囁いた。
上原は反射的に左耳を抑えながら、思わず左舷方向を振り向いてしまう。
しまったと思った時には、もう遅かった。
遠く伊豆半島の海岸沿いで、紫色の鬼火がめらめらと激しく燃え上がっている。
炎の中に、ぼんやりとした人影が浮かび上がる。
(おかしい)
石廊崎から「あかとき丸」までは何kmもの距離がある。まるで間近で見ているかのように、炎の中に人影を認識できてしまうのは、どう考えてもおかしい。
今すぐ目を離すべきだと、本能がけたたましく警鐘を鳴らす。
『きて』
しかし、上原は目を離せない。
燃え上がった炎の先が、蛇の舌ように夜闇を舐める幻惑的な光景を、もっと見ていたいと思ってしまう。
きて。
きて。
きて。
人影が、より一層くっきりと浮かび上がってくる。
人影は、女だった。
強く波打つ豊かな髪が、一糸まとわぬ裸体の上で艶めかしく揺れている。
気がつくと、視界は全て紫色に覆われていた。
むせかえるような濃厚なミルクと潮の匂いが、むわりと上原を包み込む。
女が、その口元に妖艶な笑みを浮かべた。
ゆっくりと手を差し伸べて、蛇のように指をくねらせて上原を手招きする。
上原は当然のように、操舵輪を左に傾けた。
「うええ……」
「無理すんな、安藤」
RORO船「あかとき丸」の一等航海士・上原健司は、操舵輪を握って前方を注視しつつ、海図台にもたれて船酔いに耐えている部下に声をかけてやる。
「ここは良いから、早く吐いてこい」
「すみません、ワッチが始まったばっかりなのに……」
上原の言葉に、甲板員・安藤和樹は片手で口を抑えながらヨロヨロと立ち上がると、船橋から一番近い洗面所へと消えていった。
「こればかりは、慣れるしかないからなあ」
自身は全く船酔いしない体質である上原はボソリと呟くと、左舷前方の一際明るい閃光に目を向ける。
白い閃光が1回。16秒後に赤い閃光が1回。そしてまた16秒後に白い閃光が1回。この規則正しい白と赤のサイクルは、伊豆半島の最南端に位置する石廊埼灯台のみが発するものだった。
(このペースなら、なんとか予定通りの時刻に入港できそうだな)
順調に伊豆半島沖を通過しつつあることに安堵した上原は、石廊埼灯台の西側の空間に目を移してみる。
(そういえば、フランスの貨客船が座礁したのって、確かあの辺りだったか)
明治7年に石廊崎の沖合で発生した、フランスの貨客船の遭難事故を題材にした歴史小説を、上原は最近読んだばかりである。
(技術が進歩した分、今の時代の船乗りは恵まれてるよな)
とはいえ、昨今はこの伊豆半島沖を行き交う船の数が非常に多く、ほんの少しの気の緩みが、船同士の衝突という重大な海難事故を、いとも簡単に誘発してしまうという現状がある。
最後まで気を抜くまいと、上原はすぐに視線を針路方向に戻そうとした。
(ん?)
視界の端に何かを捉えたような気がして、再び石廊埼灯台の西側に目を凝らしてみる。
いつの間にか、紫色の炎が出現していた。
吹き荒ぶ風雨の中、まるでこちらを誘うかのように、ゆらゆらと妖しくその身体を揺らめかせている。
「鬼火!?」
上原は紫色の炎から強引に視線を引き剥がすと、激しく首を振った。それから、制服のポケットから波除神社の御守りを取り出すと、じっと見つめながら気持ちを落ち着かせていく。
(いかんいかん。あんなのに引っ張られたら洒落にならんぞ)
鬼火程度で惑わされるようなことは無いものの、荒天下、しかも夜間の航海というこの状況では、どんなに小さな油断でも命取りになりうる。
上原は大きく息を吐いて御守りをポケットに戻すと、操舵輪を握り直し、船の針路方向に意識を集中させようとした。
『きて』
「っ!?」
すぐ耳元で、女の声が囁いた。
上原は反射的に左耳を抑えながら、思わず左舷方向を振り向いてしまう。
しまったと思った時には、もう遅かった。
遠く伊豆半島の海岸沿いで、紫色の鬼火がめらめらと激しく燃え上がっている。
炎の中に、ぼんやりとした人影が浮かび上がる。
(おかしい)
石廊崎から「あかとき丸」までは何kmもの距離がある。まるで間近で見ているかのように、炎の中に人影を認識できてしまうのは、どう考えてもおかしい。
今すぐ目を離すべきだと、本能がけたたましく警鐘を鳴らす。
『きて』
しかし、上原は目を離せない。
燃え上がった炎の先が、蛇の舌ように夜闇を舐める幻惑的な光景を、もっと見ていたいと思ってしまう。
きて。
きて。
きて。
人影が、より一層くっきりと浮かび上がってくる。
人影は、女だった。
強く波打つ豊かな髪が、一糸まとわぬ裸体の上で艶めかしく揺れている。
気がつくと、視界は全て紫色に覆われていた。
むせかえるような濃厚なミルクと潮の匂いが、むわりと上原を包み込む。
女が、その口元に妖艶な笑みを浮かべた。
ゆっくりと手を差し伸べて、蛇のように指をくねらせて上原を手招きする。
上原は当然のように、操舵輪を左に傾けた。