第29話 海難0527〈ニ〉
けたたましいはずのプロペラ音が、ノイズキャンセリング付きのヘッドセットにより僅かな振動へと減衰され、くぐもった音となって鼓膜へと伝わってくる。
伊豆半島の最南端、石廊崎の沖合で座礁したRORO船「あかとき丸」を目指すヘリコプターの機内において、乗組員たちは最後の打ち合わせを行っていた。
乗組員の内訳は、操縦士と副操縦士、通信士。それから、航空整備士と機動救難士がそれぞれ2人ずつ。そして、海洋怪異対策室の若手3人という構成になっている。
「――ええ、そうです。デブリーフィングでもお伝えした通り、30分を目安に『あかとき丸』上空に戻ってきてください。皆さんの幽世への親和性は低いですが、それでも〈海異〉事案の発生した現場に留まる時間は、極力短くした方が安全ですから」
ヘッドセットのマイクに向かって、菊池明が張りのある声で話しかける。慣れないヘリ内でのヘッドセット越しの会話であるが、この救難の現場において、相手に及び腰と思われるような態度をとるわけにはいかなかった。
「君たちを侮っているわけでは無いが……本当に30分だけでいいのか? 例の一等航海士から話を聞く必要もあるだろう」
機動救難士の比嘉達哉が、こちらを慮るような表情で訊ねる。
しかし、明は即座に首を振った。
「おそらく、彼自身からは大した話は聞けないでしょう。それよりも、一刻も早く要救助者2名を現場から引き離すべきです。念の為、基地に戻ったら村上さんか九鬼室長に診てもらってください」
キッパリとそう答えると、明は確認のために先輩2人を振り返った。
「〈海異〉のことは、うちらにお任せ下さい」
榊原楓が、比嘉に向かって力強く頷く。
「だな。俺たちのことは気にせず、とにかく要救助者を最優先してください」
伊良部梗子も同様に、自信に満ちた眼差しで比嘉を見つめ返す。
若者たちの頼もしい反応に、比嘉は少しだけ頬を緩ませた。
「分かった。その通りにしよう。〈海異〉のことは、専門家である君たちに任せる」
続けて、こうつけ加える。
「余計なお世話かもしれないが、幽世は非常に危険な場所と聞く。もちろん救助活動も重要だが、まずは君たち自身の生命を大事にしてくれ。私からは以上だ」
それから、もう1人の機動救難士・伊藤順平が、明るい笑顔を浮かべてこんなことを言ってきた。
「正直、海異対って普段から何やってるのかよく分からねえけどさ。海上保安官としての心構えはしっかりと残ってるみたいで、安心したぜ。気をつけて行ってこいよ」
その言葉を皮切りに、他の乗組員たちからも次々と、激励の言葉がヘッドセットを通して3人に届けられる。
予想外の声援の数々に、3人は互いに顔を見合せて微笑むと、乗組員たちに対して口々に礼を述べた。
海洋怪異対策室は、海上保安庁の中でも極めて異質な存在である。「何をしているのか分からない」と思われるくらいならマシな方で、中には「仕事と称して怪異や妖と戯れている」などと陰口を叩く人間もいるらしい。
それだけに、他部署の人間から面と向かって激励されると、明としては少々くすぐったい気持ちになってしまう。そして、素直に嬉しいとも感じている。
(この人たちのためにも、失敗は許されない)
今回の事案には、普通の海上保安官だけでなく、一般人も絡んでいる。ほんの少しの油断が、いとも簡単に二次災害を引き起こすことを、今一度肝に銘じなければならない。
「見えてきたぞ」
比嘉が、窓の外を指さした。
同時に、現場海域への到着を知らせる操縦士のアナウンスが、ヘッドセット越しに流れてくる。
「あれが、あかとき丸……」
眼下に広がる光景を目にした楓が、整った眉をひそめて口元を抑えた。梗子と明は厳しい表情で、白波が立つ大海原をじっと見つめる。
石廊埼灯台から、南西に約4kmの沖合。そこには、無残にも浅瀬に乗り上げて航行不能となった、RORO船「あかとき丸」の姿があった。
全長約170m、総トン数1万トンを超えるこの巨大な船には、「Roll On, Roll Off」の名が表す通り、貨物を載せたトラックやトレーラーが所狭しと積載されているはずである。人的被害は出ていないとはいえ、経済的損失のことを考えると、海運会社や荷主などの各方面において相当な打撃となっているに違いなかった。
あかとき丸に向けてヘリの高度が徐々に下がっていく中で、明たち3人は最終確認を取り合う。
「船の最上部、『暴露甲板』ってところなんだけど。そこに降りたら、すぐに船橋に向かうからな」
「菊池君は、ヘリから降りた経験はあったんやっけ」
「五管にいたとき、訓練で2回ほど。正直、あまり気は進みませんね」
「俺が最初に行くぜ。その方が2人も入り易いだろ」
多少の緊張は見せつつも、意外にも場馴れした様子で言葉を交わす3人。そんな彼らを、比嘉は戸惑いを感じながら眺めている。
(やはり、俺たちの常識では計り知れない世界だな)
比嘉は、海異対の制服を身につけた彼らの装備に目を向けた。
菊池明と榊原楓は、腰巻式の軽いライフジャケットのみを着用している。伊良部梗子に至っては、そのライフジャケットすら身につけていない。もっとも、伊良部梗子に関しては〈異形〉としての特異体質によりライフジャケット不使用の特別許可が本庁から下りているらしい。
それでも、「海」という大自然の魔の手から幾度となく人々を救い上げてきた比嘉からすると、彼らの軽装はあまりにも心許なかった。
比嘉は、離陸直前に実施したデブリーフィングでのやり取りを思い返す。
『本当に、危険は無いのですよね?』
3人のヘリからの降下方法を聞いた時、比嘉は思わず、同席していた海異対の室長を問い質してしまった。比嘉の「常識」からすると、その方法はあまりにも無謀としか思えなかったのだ。
しかし、そんな比嘉に対し、菊池明は小さく笑ってこんなことを言ってきた。
『大丈夫ですよ。幽世って、俺たちにとっては馴染み深い世界ですから』
比嘉は、窓の外に視線を戻した。ヘリはあかとき丸上空に辿り着き、今にもホバリングを開始しようとしている。
「では、手筈通りに」
「ええ、また後ほど」
梗子は比嘉に向かって頷くと、ヘッドセットを外してドアの前に移動した。楓と明も同様に、ヘッドセットを外して元の場所に戻してから、梗子の背後に片膝をついて待機する。
明は、耳をつんざくようなプロペラ音に顔をしかめながら、海異対の制帽をかぶり直し、大きく息を吸い込んだ。
海水にホットミルクを注いだような、幽世特有の甘くてしょっぱい匂いが、鼻腔をくすぐりながら肺の中をあっという間に満たしていく。
(この濃さなら、余裕で入れるな)
ヘリの高度のことは考えないようにしながら、幽世に入ってからの動きを、繰り返し脳内でシミュレーションする。
ほどなく、ヘリのホバリングが安定した。ドアの横で待機していた航空整備士が、ヘッドセットのマイクに向かって話しかけながら小さく頷く。そして、ハンドサインを繰り出すと、一気にドアを全開にした。
「ドアよし!」
直後、梗子が虚空に向かって力強く飛び出した。
一呼吸分おいてから、楓と明も同時に飛び出す。
束の間、世界全体が水飴に包まれたような、全ての動きが遅くなったような奇妙な感覚が、ヘリの乗組員たちを支配した。
そして。
「き、消えた……」
伊藤が、信じられないという表情でドアの外を凝視した。
航空整備士たちも驚愕の表情を浮かべていたが、さすがにそこはプロであるため、即座にドアを密閉すると、無事に作業が完了したことを操縦士たちに伝える。
「いやあ、ビックリしました」
現場海域から一旦離脱するヘリの中で、伊藤が水分補給をしながら比嘉に向かって軽口を叩いた。
「それにしても、あの高度からの降下が可能だなんて、幽世というのも使い方によっては便利なんですね。普通の人間にも使えたら良いのにって」
「伊藤、お前知らないのか」
比嘉が難しい表情で腕を組みながら、後輩の発言を窘めた。
その視線の先に広がるのは、風が吹き荒ぶ灰色の空。
「普通の人間が幽世に入ったら、どうなるのかを」
半ば独り言のように呟くと、目を閉じて先ほどの光景を思い返す。
命綱も付けずに、生身で虚空に飛び出していった3人の姿が、生々しさをもって比嘉の脳裏によみがえる。
(俺は、俺がするべき事をするだけだ)
比嘉はすぐに目を開けた。そして、来るべき救助活動に備えて、各装備品の最終チェックを開始する。
ヘッドセットからは、何も聞こえない。誰しもが無言のまま、各々の職務に集中しようとしている。
幽世と現世のあわいを彷徨う彼らの帰還を、願いながら。
伊豆半島の最南端、石廊崎の沖合で座礁したRORO船「あかとき丸」を目指すヘリコプターの機内において、乗組員たちは最後の打ち合わせを行っていた。
乗組員の内訳は、操縦士と副操縦士、通信士。それから、航空整備士と機動救難士がそれぞれ2人ずつ。そして、海洋怪異対策室の若手3人という構成になっている。
「――ええ、そうです。デブリーフィングでもお伝えした通り、30分を目安に『あかとき丸』上空に戻ってきてください。皆さんの幽世への親和性は低いですが、それでも〈海異〉事案の発生した現場に留まる時間は、極力短くした方が安全ですから」
ヘッドセットのマイクに向かって、菊池明が張りのある声で話しかける。慣れないヘリ内でのヘッドセット越しの会話であるが、この救難の現場において、相手に及び腰と思われるような態度をとるわけにはいかなかった。
「君たちを侮っているわけでは無いが……本当に30分だけでいいのか? 例の一等航海士から話を聞く必要もあるだろう」
機動救難士の比嘉達哉が、こちらを慮るような表情で訊ねる。
しかし、明は即座に首を振った。
「おそらく、彼自身からは大した話は聞けないでしょう。それよりも、一刻も早く要救助者2名を現場から引き離すべきです。念の為、基地に戻ったら村上さんか九鬼室長に診てもらってください」
キッパリとそう答えると、明は確認のために先輩2人を振り返った。
「〈海異〉のことは、うちらにお任せ下さい」
榊原楓が、比嘉に向かって力強く頷く。
「だな。俺たちのことは気にせず、とにかく要救助者を最優先してください」
伊良部梗子も同様に、自信に満ちた眼差しで比嘉を見つめ返す。
若者たちの頼もしい反応に、比嘉は少しだけ頬を緩ませた。
「分かった。その通りにしよう。〈海異〉のことは、専門家である君たちに任せる」
続けて、こうつけ加える。
「余計なお世話かもしれないが、幽世は非常に危険な場所と聞く。もちろん救助活動も重要だが、まずは君たち自身の生命を大事にしてくれ。私からは以上だ」
それから、もう1人の機動救難士・伊藤順平が、明るい笑顔を浮かべてこんなことを言ってきた。
「正直、海異対って普段から何やってるのかよく分からねえけどさ。海上保安官としての心構えはしっかりと残ってるみたいで、安心したぜ。気をつけて行ってこいよ」
その言葉を皮切りに、他の乗組員たちからも次々と、激励の言葉がヘッドセットを通して3人に届けられる。
予想外の声援の数々に、3人は互いに顔を見合せて微笑むと、乗組員たちに対して口々に礼を述べた。
海洋怪異対策室は、海上保安庁の中でも極めて異質な存在である。「何をしているのか分からない」と思われるくらいならマシな方で、中には「仕事と称して怪異や妖と戯れている」などと陰口を叩く人間もいるらしい。
それだけに、他部署の人間から面と向かって激励されると、明としては少々くすぐったい気持ちになってしまう。そして、素直に嬉しいとも感じている。
(この人たちのためにも、失敗は許されない)
今回の事案には、普通の海上保安官だけでなく、一般人も絡んでいる。ほんの少しの油断が、いとも簡単に二次災害を引き起こすことを、今一度肝に銘じなければならない。
「見えてきたぞ」
比嘉が、窓の外を指さした。
同時に、現場海域への到着を知らせる操縦士のアナウンスが、ヘッドセット越しに流れてくる。
「あれが、あかとき丸……」
眼下に広がる光景を目にした楓が、整った眉をひそめて口元を抑えた。梗子と明は厳しい表情で、白波が立つ大海原をじっと見つめる。
石廊埼灯台から、南西に約4kmの沖合。そこには、無残にも浅瀬に乗り上げて航行不能となった、RORO船「あかとき丸」の姿があった。
全長約170m、総トン数1万トンを超えるこの巨大な船には、「Roll On, Roll Off」の名が表す通り、貨物を載せたトラックやトレーラーが所狭しと積載されているはずである。人的被害は出ていないとはいえ、経済的損失のことを考えると、海運会社や荷主などの各方面において相当な打撃となっているに違いなかった。
あかとき丸に向けてヘリの高度が徐々に下がっていく中で、明たち3人は最終確認を取り合う。
「船の最上部、『暴露甲板』ってところなんだけど。そこに降りたら、すぐに船橋に向かうからな」
「菊池君は、ヘリから降りた経験はあったんやっけ」
「五管にいたとき、訓練で2回ほど。正直、あまり気は進みませんね」
「俺が最初に行くぜ。その方が2人も入り易いだろ」
多少の緊張は見せつつも、意外にも場馴れした様子で言葉を交わす3人。そんな彼らを、比嘉は戸惑いを感じながら眺めている。
(やはり、俺たちの常識では計り知れない世界だな)
比嘉は、海異対の制服を身につけた彼らの装備に目を向けた。
菊池明と榊原楓は、腰巻式の軽いライフジャケットのみを着用している。伊良部梗子に至っては、そのライフジャケットすら身につけていない。もっとも、伊良部梗子に関しては〈異形〉としての特異体質によりライフジャケット不使用の特別許可が本庁から下りているらしい。
それでも、「海」という大自然の魔の手から幾度となく人々を救い上げてきた比嘉からすると、彼らの軽装はあまりにも心許なかった。
比嘉は、離陸直前に実施したデブリーフィングでのやり取りを思い返す。
『本当に、危険は無いのですよね?』
3人のヘリからの降下方法を聞いた時、比嘉は思わず、同席していた海異対の室長を問い質してしまった。比嘉の「常識」からすると、その方法はあまりにも無謀としか思えなかったのだ。
しかし、そんな比嘉に対し、菊池明は小さく笑ってこんなことを言ってきた。
『大丈夫ですよ。幽世って、俺たちにとっては馴染み深い世界ですから』
比嘉は、窓の外に視線を戻した。ヘリはあかとき丸上空に辿り着き、今にもホバリングを開始しようとしている。
「では、手筈通りに」
「ええ、また後ほど」
梗子は比嘉に向かって頷くと、ヘッドセットを外してドアの前に移動した。楓と明も同様に、ヘッドセットを外して元の場所に戻してから、梗子の背後に片膝をついて待機する。
明は、耳をつんざくようなプロペラ音に顔をしかめながら、海異対の制帽をかぶり直し、大きく息を吸い込んだ。
海水にホットミルクを注いだような、幽世特有の甘くてしょっぱい匂いが、鼻腔をくすぐりながら肺の中をあっという間に満たしていく。
(この濃さなら、余裕で入れるな)
ヘリの高度のことは考えないようにしながら、幽世に入ってからの動きを、繰り返し脳内でシミュレーションする。
ほどなく、ヘリのホバリングが安定した。ドアの横で待機していた航空整備士が、ヘッドセットのマイクに向かって話しかけながら小さく頷く。そして、ハンドサインを繰り出すと、一気にドアを全開にした。
「ドアよし!」
直後、梗子が虚空に向かって力強く飛び出した。
一呼吸分おいてから、楓と明も同時に飛び出す。
束の間、世界全体が水飴に包まれたような、全ての動きが遅くなったような奇妙な感覚が、ヘリの乗組員たちを支配した。
そして。
「き、消えた……」
伊藤が、信じられないという表情でドアの外を凝視した。
航空整備士たちも驚愕の表情を浮かべていたが、さすがにそこはプロであるため、即座にドアを密閉すると、無事に作業が完了したことを操縦士たちに伝える。
「いやあ、ビックリしました」
現場海域から一旦離脱するヘリの中で、伊藤が水分補給をしながら比嘉に向かって軽口を叩いた。
「それにしても、あの高度からの降下が可能だなんて、幽世というのも使い方によっては便利なんですね。普通の人間にも使えたら良いのにって」
「伊藤、お前知らないのか」
比嘉が難しい表情で腕を組みながら、後輩の発言を窘めた。
その視線の先に広がるのは、風が吹き荒ぶ灰色の空。
「普通の人間が幽世に入ったら、どうなるのかを」
半ば独り言のように呟くと、目を閉じて先ほどの光景を思い返す。
命綱も付けずに、生身で虚空に飛び出していった3人の姿が、生々しさをもって比嘉の脳裏によみがえる。
(俺は、俺がするべき事をするだけだ)
比嘉はすぐに目を開けた。そして、来るべき救助活動に備えて、各装備品の最終チェックを開始する。
ヘッドセットからは、何も聞こえない。誰しもが無言のまま、各々の職務に集中しようとしている。
幽世と現世のあわいを彷徨う彼らの帰還を、願いながら。