▼詳細検索を開く
R-15
文学少女と天才ピアニスト その十五
 15

「ちょっと待ってください……お義父さま……」

 ぼくを庇うように、沙音が男の腕を掴んでいる。その顔はいつもと違って真剣そのものだ。

 こんな表情の沙音を見たのは初めて……。

「沙音……」

 ぼくは呆然としながら呟くと、男は驚いたような表情を浮かべた。

「沙音だと……?」

「はい、私が沙音です……お義父さま」

「何を言っている……お前が沙音ならこいつは誰だ?」

 ぼくと沙音の顔を交互に見ながら男は沙音に問いかける。まるで意味が分からないといった様子だ。

「彼女は、本郷沙葉という私にそっくりな友だちで、別人です」

「なっ……!?」

 沙音が言うと男は絶句する。そしてぼくを見つめると、信じられないといった表情を浮かべた。

「ま、まさか……そんな……いや、あの女なら……他にも……ありえなくは……」

 男はぶつぶつと独り言を呟きながら考え込んでいる。

「お義父さま、沙葉の手を放してください」

 沙音が毅然とした態度で言い放つと、男はハッとして手を離した。

 ようやく解放されたぼくだったが、男に強く握られたせいで腕が痛い。それに握られた部分は少し赤くなっていた。

「サヨサヨ……ごめんね……あーしのせいで……」

 沙音が申し訳なさそうに謝りながらぼくの赤くなった腕を触れると、優しく撫でてくれる。

「それに恐かったよね……もう大丈夫だから」

「そ、そんなことは……」

「ウソ……サヨサヨ、顔いまにも泣き出しそうじゃん」

 優しく触れていた沙音の手が今度はぼくの頰に触れる。そして沙音はそのままぼくを抱きしめた。

 その瞬間、ぼくはようやく自分が泣き出しそうになっていることに気づく。

「うっ……うっ……」

 ぼくは堪えきれず嗚咽を漏らし始めた。

 恐かった……。急に知らない男に腕を掴まれて、どこかへ連れて行かれそうになったことが……。

 抵抗したら殴られるかもしれない……。

 そう考えると恐怖で頭がいっぱいになり、何も考えられなかった。だから沙音が助けに来てくれて本当に良かったと思う。

「よしよし……」

 沙音はぼくを抱きしめたまま優しく背中をさすってくれた。そのおかげで少しずつ落ち着きを取り戻すことができた。

 やがて涙が止まると、沙音は静かに体を離すとぼくの目を見て言った。

「もう大丈夫だからね」

 それだけ伝えると、沙音は男の方へと歩いて行く。そして男の前に立つと静かに口を開いた。

「お義父さま、勝手に家を抜け出したことは謝ります」

 沙音は男に頭を下げる。それを見て男はフンッと鼻を鳴らすと、見下したような視線を沙音に向けた。

「ですが、私の友人に乱暴を働いたことには謝罪をしていただきます」

 男の態度にも動じず、沙音は淡々と告げる。沙音の毅然とした態度に男は一瞬言葉に詰まった様子だったが、すぐに反論してきた。

「ふっ、何を言うかと思えば……元々お前が家を抜け出さなければこんなことにはならなかったんだぞ!!」

「はい……その件に関しては本当に反省しております」

 沙音は反省の言葉を口にすると、もう一度深く頭を下げた。

「なら、家に戻るんだな!! お前ごときに私の貴重な時間を使わせおって!!」

 男は怒り心頭といった様子で沙音を怒鳴り散らす。しかしそれでも、彼女は動じることなく頭を下げたままだった。

 そんな様子に男も徐々に勢いを失っていった。そしてしばらく沈黙が続いた後、男が口を開く。

「ふん、まあいい……早く戻るぞ……」

 そう言って男はスタスタと歩くと、ぼくの目の前までやってきた。

「勘違いして悪かったな」

 ただそれだけ言うと、男は踵を返して駅の出口へと歩き出していく。その後ろに沙音も続いた。

「ちょ……沙音……」

 思わず呼び止めると、沙音は一瞬だけ振り返るとぼくにこう告げた。

「ごめんね……サヨサヨ……じゃあね……」

 まるで一生の別れみたいな言い方で沙音は去って行く。

 一瞬だけ見えた彼女の表情はどこか寂しげで、辛そうな表情。

「待って、沙音……」

 ぼくは思わず追いかけようとしたけど、脚は動かず、その場に立ち尽くしたまま呆然とするしかなかった。

 それからどれくらい時間が経っただろう? 気がつくと辺りはすっかり暗くなっていた。

「……帰らなきゃ」

 いつまでもここで突っ立っていても仕方がないと思い、ぼくは家路につくことにしたのだった。
Twitter