残酷な描写あり
R-15
2.― PORNO DEMON ―
2.― PORNO DEMON ―
髪から身体へと伝い、排水溝へ流れ落ちる熱めのシャワーを眺めている。それで全てが洗い流せる訳ではないけど、HOEである俺にとっては、何よりもこの一時がリセットを感じられる瞬間だった。
シャワーの蛇口を捻って、両手で髪に纏う水を絞り出す。
「シャワー目当てで、わざわざソープに来るって……」
みなみは呆れた様子で、俺にタオルを投げ渡すと、再びベットに身を投げてのんびりやってる。
「ケチな客でさぁ、ホテルの利用時間ギリギリまでヤッてシャワー浴びる時間くれなかったんだよね」
そのケチな客はヤる事ヤッて一人ゆっくり風呂に入っていた訳だ。俺はタイムリミットを把握していたから、一緒に入って流しやろうかと提案したが、却下され時間切れ。
ご丁寧に封筒に収まったきっかり五〇万の現ナマ。その時点でカツカツな客なんだなって思っていたが、お陰でこっちは歩く度にベトベトしてて不愉快だった。
「シャワーだけなら、その辺の漫画喫茶とかでいいじゃない」
「やだよ、あんな狭くて臭いとこ」身体を拭き終えて下着を履く。「それに、久し振りにみなみとしたかったしね」
みなみは「ついでかよ」と食って掛かるが、その顔が一段と可愛く思える。みなみの隣に座り、やや強めに口付けた。唇から伝う感触と温度を噛み締める。
みなみとは同い年の三十二歳。彼女とするのはこれで六回目ぐらい。深みにハマっている訳ではないが、軽いセックスの後、こうして過ごすのは好きだった。
お互い似たような業種だ。お決まりのコースプレイは飛ばして身体を重ね合うだけ。俺はそれなりに楽なお客さ。それでも互いの心が少しでも満たされなら上出来さ。――ノイズも落ち着く。
もう少し絡めていたいけど、終わった後だ、引き際はしっかりしないと。
「あのさ……」唇同士が離れて、みなみの瞳が視界に入る。「気を悪くしたら謝るけど」
その手の前置きが入ると言う事は、迂闊になりかねない、込み入った事を聞こうとしているのだろうな。
そう言うのを慣れていると、思いたくはないけど――実際、俺みたいなのは慣れっこだった。
「男とヤッた後に、女とヤるのってどんな感じなの? 気持ちの切り替えとかあるの?」
野暮ったい、と言うのが本心。みなみもそれを充分承知で聞いて来るのだろうけど。その答えは実に簡単だった――そんなもの、俺の勝手だろ。これが答えだ。
色んな人達がいる。この街に流れ着いて、それをまざまざと見せ付けられた。俺もその中の一個に過ぎない。
「どうかなぁ? 他はどうか知らないけど、俺は特に何もないかな……」
一応考える様な素振りはしておく。俺の勝手ってのが答えで、他に見当たらないのだが、他の表現方法も模索してみる。
「そうだな、これからセックスをする。楽しみ! そんだけだよ」
ベットから立ち上がり、かごの中の服に手を伸ばす。みなみはハッとして起き上がろうとしたが、俺はそれを止める。客の着替えを手伝うという習慣。
どうでもいい。何故、気持ちの切り替えなんてものが必要なのか。お互い割り切りで誰とでもセックスをする仕事なのに。淡々と手早く済ませたり、ここぞとばかりに変態を曝け出したり、そんなもんだろ。
隔たりを持っている人の感覚。俺も昔は持っていたと思う。けど、今はもう――そんな感情を思い出せない。
「そんな風にシンプルになってみたいもんね」
みなみは呆れていた。俺の本心など知る由もないが、それでいい。誰かに分かって欲しいなんて願う段階は、とっくに終わっているから。
俺自身ですら、俺が何者なのか知るのに随分な時間がかかったんだ。気にする事はない。
「そうでもないさ、他人にはそう見えてても、俺にとっては複雑なものが絡まり合って、そうなっているんだ」
お気に入りのスカジャンを羽織り、ポケットの中に突っ込んでいた封筒から札を取り出す。
「逆に聞くけど、みなみが此処で働いてる理由を、勝手にお金の為とか生活の為とか、シンプルな言葉で片付けられたくないんじゃない?」
三枚程、多めにみなみに渡しながら言った。
でも、考えてみれば俺達の関係ってこんなもんだよな、こんな紙切れで、いとも容易く、そして手っ取り早く抱き合える。
それなのに情が入り過ぎて、相手にも情を求めてしまうのは、俺の悪い癖かもしれない。
「あたしが働く理由なんて、それぐらいよ」
「へえ、俺もそんな風にシンプルに生きてみたいもんだよ」
これで、おあいこだよ。と俺はみなみに意地悪に微笑んで見せる。みなみは自分の言葉が跳ね返って来た事を、ようやく理解したようで面食らっていた。
「それじゃ、お世話様でした」
扉を開けて狭い廊下を進むと、別の部屋からも、お盛んな声が漏れ出している。朝から繁盛してるな。
急な階段を下りて、入口前の店長に軽い挨拶をするが、そっけない。俺みたいのはお嫌いらしい。
店を出て煙草を咥えると、キャッチのおっさんがすかさず火を貸してくれた。相変わらずキラキラした目で俺を見てくる。
みなみの話では案の定、おっさんはゲイだったようだ。しかも、それを隠したまま結婚して家庭を築き、今は息子の大学の費用を稼ぐ為のダブルワーク。勿論、此処で働いている事は家族には内緒にしているのだとか。恐れ入るよ。
「ありがと、今度はおじさんをご指名しちゃおうかな。二人でトロけちゃおうよ」
軽口だけど、半分ぐらいは本気のお誘いである。このおっさんの心は、良い心をしていると感じる。
この欲望丸出しの地獄みたいな輝紫桜町で働いているんだ。少しは楽しみなよ。
「いやいやいや、私なんかとっくに枯れ葉だよ。でも蓮夢さんに誘ってもらえて光栄だよ」
慌てるのか、はしゃいで見せるか。その辺を期待したけど、意外にもおっさんは冷静だった。ちょっとつまらないな。
「もっと若い頃にねぇ、此処を知っていればよかったなぁ、せめて十年前ぐらい前なら」
妙に含みのある言い方だ。おっさんが何を思っているかは、大体察しが付くが。
この街は売る者と、買う者しかいない。乱暴だけど、それ以外の事はどうでもいい街さ。どうでもいい連中に遠慮して隠す必要もない。誰にでも需要が生まれてしまう街。
自慰に狂う猿みたいに、本能むき出しで振舞える解放感がここには在る。とは言え。
「十年前、俺は二十二か。その頃のこの街はマジで地獄だったなぁ……」
煙草の煙を一筋吹く。その頃の俺を思い出すと少し憂鬱になった。まだ自分自身に混乱してた時期で、それでもその時、既にポルノデーモンと呼ばれていた。それもまだまだ身の丈に合ってなかっと思う。目まぐるしかった。
「アンタ名前は?」
「私? 武史だけど」
「じゃあ、武ちゃんだね。お仕事お疲れ様」
武ちゃんを尻目にして帰路へ向かう。輝紫桜町一番の大通り、楽磊(ラクライ)通りも昼間は静まり返っていた。
高層ビルと雑居ビルが犇めいているこの輝紫桜町では、太陽の光すらまともに入ってこない。その陰鬱な暗さはヤクをキメて弾ける夜と、それが切れて一気に鬱に沈み込む様な、丁度、今の俺に近い雰囲気そのものだった。
みなみの心が好き、武ちゃんの心も好き。でも俺の心は誰にも中々伝わらない。
俺も拘っていた頃はあった。この街に流れ着く前は、自分の事を否定してばかりで――仕方がないと、何時も言い聞かせていたっけ。
ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル。どうでもいい事だよ。言葉はあってもいい、馬鹿が多い世の中さ、ガイドラインは必要だ。それでも、その程度の言葉で俺を勝手に縛るなって思う。キッカケ一つで“色”なんて変わるって俺は思ってる――金とか恐怖とか。
今だから悩んでいた時間が下らなかったと言える。俺は決して目には見えない物に惹かれてゆく。それ以外はどうでもいいし、そんな物がなくても金の為なら自分の心だってどうでもいい。本当の俺は分からないけど、成るべくして成ったのだろう。
ダメだな。完全に鬱な思考で満たされていた。頭痛も酷い、さっさと家に帰って、夜が来るまでやり過ごしてしまいたい。
ふと気付くウザったいプロペラ音に目をやると、警察の飛行型ドローンが三機編隊を組んで、頭上を飛び交っていた。多分、数日前の高級クラブでの襲撃事件が原因で、警察が一応の警戒をしているのだろう。この街では、その程度の事しかできない。
幾つかの反社会勢力と、際限なく溢れ出る、貧乏人と俺みたいなHOEで、この街は形成されている。
ところが面白い事に、この街はそれで絶妙に良いバランスをとっていた。御上とやらも、それを分かっているのか、今となっては、この街にとやかくは言ってこない。それも俺にはどうでもいい事だけど。
シケた気分で街を歩いていると、ズボンのポケットに突っ込んである携帯端末が震えた。取り出すと画面には龍岡の二文字が目に入る。
そうだ、今日は龍岡と会う約束があった。――鬱とノイズが加速する。
「神経の方は特に問題なさそうだ。だが、相変わらず不健康な生活が身体に出ているぞ、今だって顔色悪いじゃないか」
疲れた、眠い、頭痛い、くどい、消毒液臭い。輝紫桜クリニックの、龍岡の診療室のベットの上で、身体中のあちこちに貼り付けられたチューブやケーブルにまみれになりながら、白い天井を朦朧と眺めてる。
病院は嫌いだ、昔から苦手だったし、医者の小言にはげんなりする。それに、この商売をしてる奴が病院に出入りしてるのを見られると、決まって変な噂が流れるから面倒臭い。
「ヤク中がヤク切らしてたら、こうなるさ。ある意味自然で健全な状態だろ? 一応ダメ元で聞くけど、酒とかない?」
「全く……」
呆れる龍岡を横目に、身体に巻き付いたケーブルを引き剝がしてベットに座る。
数年前に俺の身に起きた、とんでもないトラブル以来、切っても切れない縁で結ばれてしまった。愛想のない強面の龍岡は、この街にはふさわしくない程の優秀な移植外科医である。むしろ優秀過ぎたから此処へ追いやられたとも言えるが。
しかし、そのお陰もあって、俺は今もこうして生きていけてる。それを望んでいたかどうは別としても。
生れつき貧乏なHOEの俺には、豚に真珠な高価な物が数多く、体内に張り巡らさていた。
今やってる定期健診も必要な事だとは分かっていても、望んでる事ではなく、しかもヤク切れの憂鬱な今の状態にはきつい物があった。
不意に目の前に立つ龍岡に気付く。ズシッとした小包が膝の上に置かれた。
「ほら、頼まれていたヤツ届いてたぞ」
「あ、やっと来たんだ、これで仕事がはかどるよ先生」
乱暴にグルグルと巻かれたテープを剥がして、小包を破ると。数ヶ月前に俺がデザインしたままのラップトップがお目見えした。
薄手十三インチのモニターとキーボード、専用のコネクターも内蔵。このご時世では少々古臭さもある雰囲気の補助端末だけど――これで少しは楽になれる。
「お前の注文通りの仕様にしてある」
「AIは入れた?」
「お前のと同じものが入ってる。それで充分じゃないのか?」
デジタルデバイスに充分なんて言葉はナンセンスだ。例えるなら、リアルの世界では器なければ水を満たす事はできないが、替わりに限界がある。それに対し、デジタルの世界には器がなく、水が溢れる事はない。広大で際限ない世界でとめどなく水が流れ落ちている様な感じだ。
「やっぱりタイピングできるラップトップ型も欲しいんだよ」そのデジタルの世界で、俺は生身の器に過ぎないと思い知らされた。「それに負荷も減らせるし」だからこそ、外部から補強するしかない。
「今の状態で負荷が起きること自体が論外だ。通常の生活なら、そんな事にはならない」
「アンタの言う通常とか言うのを、勝手に俺にはめ込まないでくれる?」
通常だスタンダードだ、普通だストレートだ。俺の一番、大嫌いな言葉だ。この類の言葉は間違いなく、俺の人生にしつこく纏わり付いてきて、俺を苦しめてきたからだ。
何故、こんな言葉があるのだろうか。何時も俺を苛付かせる。
「仕事の方は上手くいっているのか?」
俺の気に障ったのを察したのか、龍岡はデスクチェアーに腰を下ろして話題を変えた。そうしてくれると、こっちもありがたかった。
「仕事? 最近は下手くそで気の回らない奴ばかりに当たって、イキそびれてばっかだよ」
「そっちじゃない。本職の方だ」
「俺の本職は、昔からHOEだよ先生」足を組んで、膝に上に補助端末を置いて電源を起ち上げる。「副職の方はもうじき大口の依頼が終わる。それが上手くいったらガッチリ、二〇〇万ゲットできるぜ」
本職でほぼ一晩、五〇万以上を稼ぎ、副職の方は滅多に依頼を受け付けていないが、一〇〇万単位で請け負っている。それでもまだまだ足りない。
俺の抱えている問題の一つは、余りにも身の丈を超えている。
「蓮夢、無茶はするなよ、せっかく拾った命の為に無茶して落としたら意味がないからな」
「それって、実験体を無駄にしたくないって意味?」
「そういう意味じゃない!」
龍岡のムキに反論する声にタイピングする指が止まる。龍岡の方に視線を動かすと、鋭くもどこか苦し気な目で俺を見ていた。その目を見てると、俺まで苦しくなってきた。
「心配してるんだ。俺だって申し訳ないと思っている。お前に背負わせた事も。しかし、そうでもしなければ、ここまで来れなかったんだ」
俺も捻くれた事を口走っているのは自覚してるし、俺がこんな奴だと龍岡だって知っている筈なのに。
それでも俺と龍岡の関係は変わらない。命を救った者と救われた者、そして造った者と造られた者の、絶対的な上下関係がある。
俺の叫びは所詮、惨めな遠吠えに過ぎず、結局のところ、輝紫桜町に流れ着いた時と変わらず縛られたままだ。変わったのは首輪を引く者が龍岡に変わっただけ。
だから龍岡の優しさに素直に甘える事を、過去の経験が拒んで警戒してしまう。
龍岡の心を、俺はちゃんと見てる筈なのに、この上下関係が苦しい。
「それで? その俺の背負ってるヤツはどれぐらい残ってるの?」
「返済期限は設けてないから焦る必要は……」
そう言う気遣いも、益々辛くなる。現実を突き付けてくればいいのに、そうしてくれれば、俺が憎まれ口を叩きやすくなると言うのに、単純な上下関係で済ませばいいんだよ。信じ切れない優しさが、俺を苦しめる。
言わないのなら、直接見るだけだ。龍岡の造った俺には――それができる。
「まだ、一四〇〇万もあるの? これで焦るなとか無理でしょ? 二〇〇万も雀の涙で笑えないね」
龍岡はハッとして、デスクのパソコンを見ているが、もう手遅れだよ。前髪を掻き上げる素振りで頭を押さえる。今の状態ではこの程度でも頭痛が増していく。
ある程度、分かっていた事だが、実際に残ってる借金額を見ると俺も気が滅入った。
数年前のとんでもないトラブルで死にかけた、いや死んだのかも知れないが、俺の中に入っている物は、その一つ一つが高価な上に、その時はこの輝紫桜町で唯一の病院であるここの全てを総動員させたとも、後で聞いた。マジで貧乏なHOEには荷が重い代償だった。
それでも、俺はまだ、諦めたくない。
「心配してくれるのは嬉しいけど、現実的に俺じゃ無理でしょ? 今までやり方じゃ通用しない、一生鎖に繋がれたままなんて御免だね、その為に俺はバージョンアップしたんだよ」
そうさ、俺は今日まで生き抜いてきた。出し惜しみなんか一切していない。そんな余裕もない、何時でも自分の手持ちのカードで立ち向かってきた。
なんの根拠もない、相手によっては聞き入れてはくれない事だ、只の言い訳なのかもしれない。
それでも、今の俺にはこれしか言えない。恐ろしく無力で惨めな気分だけど、この身体の全てをフル活用して、引っ繰り返してやるんだ。
結構な事を成し遂げてはきたけど、未だに可能性を模索し続けている。無駄じゃなかったと思える日まで、この挑戦は続いていくのだ。
「とにかく、無理だけはするな。今のお前の能力は私にも未知数だ、何かあったらすぐに頼って欲しいんだ。重荷に思わないでくれ」
龍岡はデスクのパソコンに向かいながら背中越しで言った。俺は補助端末を畳んでその背中を見ていた。
鬱も頭痛も酷くなって、どす黒くなる最悪なこの時に唯一、龍岡の心だけが、その心だけが、眩しく感じられた。――嗚呼、その心に触れたい。
そんな衝動に駆り立てられた次の瞬間には、デスクチェアーに座る龍岡を振り向かせ、ひじ掛けに置かれた両腕を抑えるように、自分の両手を添えていた。
今の俺はさぞかし、エロくて妖艶な目をしているのだろうな。まさにポルノデーモンだ。
龍岡の唇に、自分の唇を押し当てて舌を送り込む。一度でも俺の舌の侵入を許せば、後は思いのままだ。舌に付けたピアスを擦り当てて、絡めて、掻き回す。
互いに息苦しくなるその時に、解放する。互いの荒れた吐息だけがこの場を支配した。
「何の真似だ……」
「借金持ちの貧乏人らしく、身体で返そうかなって、溜まってるんでしょ? お代はお気持ちでいいよ、先生」
首筋から耳元まで、ゆっくりと舌を這わせる。
龍岡はストレートだが、俺だけは受け入れている。この関係は一回や二回じゃない。始めは冗談交じりのお遊びの様な物だったが、ここまで龍岡が俺を受け入れるのは、同情なのか、俺の虜になったのか、それは分からないけど――快感なんだ。
「よさないか、そんな気分じゃない」
「気分なんて、すぐに変わるさ……」
「全く……」
鬱な気分も、忌々しい頭痛も忘れてしまいたい。スイッチの切り替えなんてある訳がない。何時も心を引き摺って、誰かの心に重ねて誤魔化していく。形も在り方も、クソみたいな現実だって、どうでもよくなる程に溺れたい。
俺はこれからセックスをする、楽しみで仕方ないね。ただ、それだけの事さ。――何時まで続くのだろうか。
何時も、行き当たりばったり、その場凌ぎで四苦八苦してばかり、心の飢えを誤魔化す事で精一杯の日々。地獄の様なこの街で。
髪から身体へと伝い、排水溝へ流れ落ちる熱めのシャワーを眺めている。それで全てが洗い流せる訳ではないけど、HOEである俺にとっては、何よりもこの一時がリセットを感じられる瞬間だった。
シャワーの蛇口を捻って、両手で髪に纏う水を絞り出す。
「シャワー目当てで、わざわざソープに来るって……」
みなみは呆れた様子で、俺にタオルを投げ渡すと、再びベットに身を投げてのんびりやってる。
「ケチな客でさぁ、ホテルの利用時間ギリギリまでヤッてシャワー浴びる時間くれなかったんだよね」
そのケチな客はヤる事ヤッて一人ゆっくり風呂に入っていた訳だ。俺はタイムリミットを把握していたから、一緒に入って流しやろうかと提案したが、却下され時間切れ。
ご丁寧に封筒に収まったきっかり五〇万の現ナマ。その時点でカツカツな客なんだなって思っていたが、お陰でこっちは歩く度にベトベトしてて不愉快だった。
「シャワーだけなら、その辺の漫画喫茶とかでいいじゃない」
「やだよ、あんな狭くて臭いとこ」身体を拭き終えて下着を履く。「それに、久し振りにみなみとしたかったしね」
みなみは「ついでかよ」と食って掛かるが、その顔が一段と可愛く思える。みなみの隣に座り、やや強めに口付けた。唇から伝う感触と温度を噛み締める。
みなみとは同い年の三十二歳。彼女とするのはこれで六回目ぐらい。深みにハマっている訳ではないが、軽いセックスの後、こうして過ごすのは好きだった。
お互い似たような業種だ。お決まりのコースプレイは飛ばして身体を重ね合うだけ。俺はそれなりに楽なお客さ。それでも互いの心が少しでも満たされなら上出来さ。――ノイズも落ち着く。
もう少し絡めていたいけど、終わった後だ、引き際はしっかりしないと。
「あのさ……」唇同士が離れて、みなみの瞳が視界に入る。「気を悪くしたら謝るけど」
その手の前置きが入ると言う事は、迂闊になりかねない、込み入った事を聞こうとしているのだろうな。
そう言うのを慣れていると、思いたくはないけど――実際、俺みたいなのは慣れっこだった。
「男とヤッた後に、女とヤるのってどんな感じなの? 気持ちの切り替えとかあるの?」
野暮ったい、と言うのが本心。みなみもそれを充分承知で聞いて来るのだろうけど。その答えは実に簡単だった――そんなもの、俺の勝手だろ。これが答えだ。
色んな人達がいる。この街に流れ着いて、それをまざまざと見せ付けられた。俺もその中の一個に過ぎない。
「どうかなぁ? 他はどうか知らないけど、俺は特に何もないかな……」
一応考える様な素振りはしておく。俺の勝手ってのが答えで、他に見当たらないのだが、他の表現方法も模索してみる。
「そうだな、これからセックスをする。楽しみ! そんだけだよ」
ベットから立ち上がり、かごの中の服に手を伸ばす。みなみはハッとして起き上がろうとしたが、俺はそれを止める。客の着替えを手伝うという習慣。
どうでもいい。何故、気持ちの切り替えなんてものが必要なのか。お互い割り切りで誰とでもセックスをする仕事なのに。淡々と手早く済ませたり、ここぞとばかりに変態を曝け出したり、そんなもんだろ。
隔たりを持っている人の感覚。俺も昔は持っていたと思う。けど、今はもう――そんな感情を思い出せない。
「そんな風にシンプルになってみたいもんね」
みなみは呆れていた。俺の本心など知る由もないが、それでいい。誰かに分かって欲しいなんて願う段階は、とっくに終わっているから。
俺自身ですら、俺が何者なのか知るのに随分な時間がかかったんだ。気にする事はない。
「そうでもないさ、他人にはそう見えてても、俺にとっては複雑なものが絡まり合って、そうなっているんだ」
お気に入りのスカジャンを羽織り、ポケットの中に突っ込んでいた封筒から札を取り出す。
「逆に聞くけど、みなみが此処で働いてる理由を、勝手にお金の為とか生活の為とか、シンプルな言葉で片付けられたくないんじゃない?」
三枚程、多めにみなみに渡しながら言った。
でも、考えてみれば俺達の関係ってこんなもんだよな、こんな紙切れで、いとも容易く、そして手っ取り早く抱き合える。
それなのに情が入り過ぎて、相手にも情を求めてしまうのは、俺の悪い癖かもしれない。
「あたしが働く理由なんて、それぐらいよ」
「へえ、俺もそんな風にシンプルに生きてみたいもんだよ」
これで、おあいこだよ。と俺はみなみに意地悪に微笑んで見せる。みなみは自分の言葉が跳ね返って来た事を、ようやく理解したようで面食らっていた。
「それじゃ、お世話様でした」
扉を開けて狭い廊下を進むと、別の部屋からも、お盛んな声が漏れ出している。朝から繁盛してるな。
急な階段を下りて、入口前の店長に軽い挨拶をするが、そっけない。俺みたいのはお嫌いらしい。
店を出て煙草を咥えると、キャッチのおっさんがすかさず火を貸してくれた。相変わらずキラキラした目で俺を見てくる。
みなみの話では案の定、おっさんはゲイだったようだ。しかも、それを隠したまま結婚して家庭を築き、今は息子の大学の費用を稼ぐ為のダブルワーク。勿論、此処で働いている事は家族には内緒にしているのだとか。恐れ入るよ。
「ありがと、今度はおじさんをご指名しちゃおうかな。二人でトロけちゃおうよ」
軽口だけど、半分ぐらいは本気のお誘いである。このおっさんの心は、良い心をしていると感じる。
この欲望丸出しの地獄みたいな輝紫桜町で働いているんだ。少しは楽しみなよ。
「いやいやいや、私なんかとっくに枯れ葉だよ。でも蓮夢さんに誘ってもらえて光栄だよ」
慌てるのか、はしゃいで見せるか。その辺を期待したけど、意外にもおっさんは冷静だった。ちょっとつまらないな。
「もっと若い頃にねぇ、此処を知っていればよかったなぁ、せめて十年前ぐらい前なら」
妙に含みのある言い方だ。おっさんが何を思っているかは、大体察しが付くが。
この街は売る者と、買う者しかいない。乱暴だけど、それ以外の事はどうでもいい街さ。どうでもいい連中に遠慮して隠す必要もない。誰にでも需要が生まれてしまう街。
自慰に狂う猿みたいに、本能むき出しで振舞える解放感がここには在る。とは言え。
「十年前、俺は二十二か。その頃のこの街はマジで地獄だったなぁ……」
煙草の煙を一筋吹く。その頃の俺を思い出すと少し憂鬱になった。まだ自分自身に混乱してた時期で、それでもその時、既にポルノデーモンと呼ばれていた。それもまだまだ身の丈に合ってなかっと思う。目まぐるしかった。
「アンタ名前は?」
「私? 武史だけど」
「じゃあ、武ちゃんだね。お仕事お疲れ様」
武ちゃんを尻目にして帰路へ向かう。輝紫桜町一番の大通り、楽磊(ラクライ)通りも昼間は静まり返っていた。
高層ビルと雑居ビルが犇めいているこの輝紫桜町では、太陽の光すらまともに入ってこない。その陰鬱な暗さはヤクをキメて弾ける夜と、それが切れて一気に鬱に沈み込む様な、丁度、今の俺に近い雰囲気そのものだった。
みなみの心が好き、武ちゃんの心も好き。でも俺の心は誰にも中々伝わらない。
俺も拘っていた頃はあった。この街に流れ着く前は、自分の事を否定してばかりで――仕方がないと、何時も言い聞かせていたっけ。
ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル。どうでもいい事だよ。言葉はあってもいい、馬鹿が多い世の中さ、ガイドラインは必要だ。それでも、その程度の言葉で俺を勝手に縛るなって思う。キッカケ一つで“色”なんて変わるって俺は思ってる――金とか恐怖とか。
今だから悩んでいた時間が下らなかったと言える。俺は決して目には見えない物に惹かれてゆく。それ以外はどうでもいいし、そんな物がなくても金の為なら自分の心だってどうでもいい。本当の俺は分からないけど、成るべくして成ったのだろう。
ダメだな。完全に鬱な思考で満たされていた。頭痛も酷い、さっさと家に帰って、夜が来るまでやり過ごしてしまいたい。
ふと気付くウザったいプロペラ音に目をやると、警察の飛行型ドローンが三機編隊を組んで、頭上を飛び交っていた。多分、数日前の高級クラブでの襲撃事件が原因で、警察が一応の警戒をしているのだろう。この街では、その程度の事しかできない。
幾つかの反社会勢力と、際限なく溢れ出る、貧乏人と俺みたいなHOEで、この街は形成されている。
ところが面白い事に、この街はそれで絶妙に良いバランスをとっていた。御上とやらも、それを分かっているのか、今となっては、この街にとやかくは言ってこない。それも俺にはどうでもいい事だけど。
シケた気分で街を歩いていると、ズボンのポケットに突っ込んである携帯端末が震えた。取り出すと画面には龍岡の二文字が目に入る。
そうだ、今日は龍岡と会う約束があった。――鬱とノイズが加速する。
「神経の方は特に問題なさそうだ。だが、相変わらず不健康な生活が身体に出ているぞ、今だって顔色悪いじゃないか」
疲れた、眠い、頭痛い、くどい、消毒液臭い。輝紫桜クリニックの、龍岡の診療室のベットの上で、身体中のあちこちに貼り付けられたチューブやケーブルにまみれになりながら、白い天井を朦朧と眺めてる。
病院は嫌いだ、昔から苦手だったし、医者の小言にはげんなりする。それに、この商売をしてる奴が病院に出入りしてるのを見られると、決まって変な噂が流れるから面倒臭い。
「ヤク中がヤク切らしてたら、こうなるさ。ある意味自然で健全な状態だろ? 一応ダメ元で聞くけど、酒とかない?」
「全く……」
呆れる龍岡を横目に、身体に巻き付いたケーブルを引き剝がしてベットに座る。
数年前に俺の身に起きた、とんでもないトラブル以来、切っても切れない縁で結ばれてしまった。愛想のない強面の龍岡は、この街にはふさわしくない程の優秀な移植外科医である。むしろ優秀過ぎたから此処へ追いやられたとも言えるが。
しかし、そのお陰もあって、俺は今もこうして生きていけてる。それを望んでいたかどうは別としても。
生れつき貧乏なHOEの俺には、豚に真珠な高価な物が数多く、体内に張り巡らさていた。
今やってる定期健診も必要な事だとは分かっていても、望んでる事ではなく、しかもヤク切れの憂鬱な今の状態にはきつい物があった。
不意に目の前に立つ龍岡に気付く。ズシッとした小包が膝の上に置かれた。
「ほら、頼まれていたヤツ届いてたぞ」
「あ、やっと来たんだ、これで仕事がはかどるよ先生」
乱暴にグルグルと巻かれたテープを剥がして、小包を破ると。数ヶ月前に俺がデザインしたままのラップトップがお目見えした。
薄手十三インチのモニターとキーボード、専用のコネクターも内蔵。このご時世では少々古臭さもある雰囲気の補助端末だけど――これで少しは楽になれる。
「お前の注文通りの仕様にしてある」
「AIは入れた?」
「お前のと同じものが入ってる。それで充分じゃないのか?」
デジタルデバイスに充分なんて言葉はナンセンスだ。例えるなら、リアルの世界では器なければ水を満たす事はできないが、替わりに限界がある。それに対し、デジタルの世界には器がなく、水が溢れる事はない。広大で際限ない世界でとめどなく水が流れ落ちている様な感じだ。
「やっぱりタイピングできるラップトップ型も欲しいんだよ」そのデジタルの世界で、俺は生身の器に過ぎないと思い知らされた。「それに負荷も減らせるし」だからこそ、外部から補強するしかない。
「今の状態で負荷が起きること自体が論外だ。通常の生活なら、そんな事にはならない」
「アンタの言う通常とか言うのを、勝手に俺にはめ込まないでくれる?」
通常だスタンダードだ、普通だストレートだ。俺の一番、大嫌いな言葉だ。この類の言葉は間違いなく、俺の人生にしつこく纏わり付いてきて、俺を苦しめてきたからだ。
何故、こんな言葉があるのだろうか。何時も俺を苛付かせる。
「仕事の方は上手くいっているのか?」
俺の気に障ったのを察したのか、龍岡はデスクチェアーに腰を下ろして話題を変えた。そうしてくれると、こっちもありがたかった。
「仕事? 最近は下手くそで気の回らない奴ばかりに当たって、イキそびれてばっかだよ」
「そっちじゃない。本職の方だ」
「俺の本職は、昔からHOEだよ先生」足を組んで、膝に上に補助端末を置いて電源を起ち上げる。「副職の方はもうじき大口の依頼が終わる。それが上手くいったらガッチリ、二〇〇万ゲットできるぜ」
本職でほぼ一晩、五〇万以上を稼ぎ、副職の方は滅多に依頼を受け付けていないが、一〇〇万単位で請け負っている。それでもまだまだ足りない。
俺の抱えている問題の一つは、余りにも身の丈を超えている。
「蓮夢、無茶はするなよ、せっかく拾った命の為に無茶して落としたら意味がないからな」
「それって、実験体を無駄にしたくないって意味?」
「そういう意味じゃない!」
龍岡のムキに反論する声にタイピングする指が止まる。龍岡の方に視線を動かすと、鋭くもどこか苦し気な目で俺を見ていた。その目を見てると、俺まで苦しくなってきた。
「心配してるんだ。俺だって申し訳ないと思っている。お前に背負わせた事も。しかし、そうでもしなければ、ここまで来れなかったんだ」
俺も捻くれた事を口走っているのは自覚してるし、俺がこんな奴だと龍岡だって知っている筈なのに。
それでも俺と龍岡の関係は変わらない。命を救った者と救われた者、そして造った者と造られた者の、絶対的な上下関係がある。
俺の叫びは所詮、惨めな遠吠えに過ぎず、結局のところ、輝紫桜町に流れ着いた時と変わらず縛られたままだ。変わったのは首輪を引く者が龍岡に変わっただけ。
だから龍岡の優しさに素直に甘える事を、過去の経験が拒んで警戒してしまう。
龍岡の心を、俺はちゃんと見てる筈なのに、この上下関係が苦しい。
「それで? その俺の背負ってるヤツはどれぐらい残ってるの?」
「返済期限は設けてないから焦る必要は……」
そう言う気遣いも、益々辛くなる。現実を突き付けてくればいいのに、そうしてくれれば、俺が憎まれ口を叩きやすくなると言うのに、単純な上下関係で済ませばいいんだよ。信じ切れない優しさが、俺を苦しめる。
言わないのなら、直接見るだけだ。龍岡の造った俺には――それができる。
「まだ、一四〇〇万もあるの? これで焦るなとか無理でしょ? 二〇〇万も雀の涙で笑えないね」
龍岡はハッとして、デスクのパソコンを見ているが、もう手遅れだよ。前髪を掻き上げる素振りで頭を押さえる。今の状態ではこの程度でも頭痛が増していく。
ある程度、分かっていた事だが、実際に残ってる借金額を見ると俺も気が滅入った。
数年前のとんでもないトラブルで死にかけた、いや死んだのかも知れないが、俺の中に入っている物は、その一つ一つが高価な上に、その時はこの輝紫桜町で唯一の病院であるここの全てを総動員させたとも、後で聞いた。マジで貧乏なHOEには荷が重い代償だった。
それでも、俺はまだ、諦めたくない。
「心配してくれるのは嬉しいけど、現実的に俺じゃ無理でしょ? 今までやり方じゃ通用しない、一生鎖に繋がれたままなんて御免だね、その為に俺はバージョンアップしたんだよ」
そうさ、俺は今日まで生き抜いてきた。出し惜しみなんか一切していない。そんな余裕もない、何時でも自分の手持ちのカードで立ち向かってきた。
なんの根拠もない、相手によっては聞き入れてはくれない事だ、只の言い訳なのかもしれない。
それでも、今の俺にはこれしか言えない。恐ろしく無力で惨めな気分だけど、この身体の全てをフル活用して、引っ繰り返してやるんだ。
結構な事を成し遂げてはきたけど、未だに可能性を模索し続けている。無駄じゃなかったと思える日まで、この挑戦は続いていくのだ。
「とにかく、無理だけはするな。今のお前の能力は私にも未知数だ、何かあったらすぐに頼って欲しいんだ。重荷に思わないでくれ」
龍岡はデスクのパソコンに向かいながら背中越しで言った。俺は補助端末を畳んでその背中を見ていた。
鬱も頭痛も酷くなって、どす黒くなる最悪なこの時に唯一、龍岡の心だけが、その心だけが、眩しく感じられた。――嗚呼、その心に触れたい。
そんな衝動に駆り立てられた次の瞬間には、デスクチェアーに座る龍岡を振り向かせ、ひじ掛けに置かれた両腕を抑えるように、自分の両手を添えていた。
今の俺はさぞかし、エロくて妖艶な目をしているのだろうな。まさにポルノデーモンだ。
龍岡の唇に、自分の唇を押し当てて舌を送り込む。一度でも俺の舌の侵入を許せば、後は思いのままだ。舌に付けたピアスを擦り当てて、絡めて、掻き回す。
互いに息苦しくなるその時に、解放する。互いの荒れた吐息だけがこの場を支配した。
「何の真似だ……」
「借金持ちの貧乏人らしく、身体で返そうかなって、溜まってるんでしょ? お代はお気持ちでいいよ、先生」
首筋から耳元まで、ゆっくりと舌を這わせる。
龍岡はストレートだが、俺だけは受け入れている。この関係は一回や二回じゃない。始めは冗談交じりのお遊びの様な物だったが、ここまで龍岡が俺を受け入れるのは、同情なのか、俺の虜になったのか、それは分からないけど――快感なんだ。
「よさないか、そんな気分じゃない」
「気分なんて、すぐに変わるさ……」
「全く……」
鬱な気分も、忌々しい頭痛も忘れてしまいたい。スイッチの切り替えなんてある訳がない。何時も心を引き摺って、誰かの心に重ねて誤魔化していく。形も在り方も、クソみたいな現実だって、どうでもよくなる程に溺れたい。
俺はこれからセックスをする、楽しみで仕方ないね。ただ、それだけの事さ。――何時まで続くのだろうか。
何時も、行き当たりばったり、その場凌ぎで四苦八苦してばかり、心の飢えを誤魔化す事で精一杯の日々。地獄の様なこの街で。