残酷な描写あり
R-15
4.― JIU WEI ―
4.― JIU WEI ―
『それにしても 不思議な気分ね この街の何処かに弟がいて アナタがいて 私がいるなんて』
ついつい会話が続いてしまい、気付けば日も暮れかかってる。街角にある、ありふれたコーヒーチェーン店の店内でPCを開き、久し振りにCrackerImpと会話をしている。日本に来て、もうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。
彼との会話は楽しい。勿論、ほとんどは仕事の話ではあるが、CrackerImpは他愛のない話であっても気さくに、そしてよく考えて答えてくれる。良い気晴らしになった。
『お師匠さんは顔が広いし 勘も鋭いからね これだけ大規模な密輸をやっても目立たないのは東北エリアだと踏んだんだろうね 現地で動けるハッカーは俺ぐらいだろうから』
『ハッカーって意外に行動派なのね』
『一流のハッカーは指よりも脚を使う お師匠さんの教えでね 俺達みたいな個人運営のローンウルフは行動あるのみさ』
前に教えてもらったハッカー用語。その名の通り一匹狼で活動し、クライアントともワンショット契約と言う、利益よりもスキルと名声を重んじるハッカー。その逆に、組織化して大手の企業や犯罪組織に雇われて大規模なハッキングやサイバーテロを起こす連中を“ドッグス”と言い、その両方を器用に利用するハッカーは“フォックス”と言う。――中々おもしろい。
私は一旦、席を離れカウンターで紅茶のおかわりを注文した。故郷に様に茶館があれば理想的だが。せめてコーヒー屋もお茶の種類を増やしてほしいものだ。
紅茶を受け取り席に戻ると、新たにメッセージが入っていた。
『最近ちょっと忙しかったけど これからは今まで以上に情報を集められるかもよ』
『期待してるわ』
待たせてしまったので、とりあえず短く返答する。
『とにかく荒神会はこの街でもかなり危険な組織だから くれぐれも慎重にね』
『心配無用よ 私も念じるだけで色々できるから』
以前の会話から引用して、念じると言う言葉を使った。実際、私は本当に念じれば色々できるのだが。
CrackerImpの返信が来ない。こう言う、間の様なものがあると、実在を感じる。PCの画面の中で流れていく文字。その向こうで、その人は何かを思っていて、何かを考えているのだろうか。
『まだ話せそう?』
『ごめんね これから仕事なんだ』
『CrackerImpの副職? ちょっと気になるわね』
『むしろ本業だよ 何をしてるかは聞かないでね』
確かに、これだけ腕のいいハッカーなら、違う分野でも活躍していそうな感じもするが、CrackerImpの本業とはどんな仕事なのだろうか。彼への興味は尽きない。
CrackerImpはどんな人なのか。文章越しに感じる彼の掴み所のなさが魅力的でさえある。私より年上である事は確かだが、時に無邪気で人懐っこい雰囲気。そして男性的であり女性的な雰囲気を感じる事もある。不思議な人だ。
『私達と合流して一緒に行動しない? 流儀に反するのは知っている でも報酬は弾むから』
『余り良いアイディアとは思えないね 悪いけど切るよ 何かあったら何時でもどうぞ』
『何か分かったら連絡して、お仕事頑張ってね』
PCを閉じて椅子に凭れて紅茶を飲む。イマイチ香りのない味わいだった。
窓の外は日も暮れてきて人々の歩みも忙しない。
荒神会か、今は彩子さんも警察の仕事の傍らで情報を集めてもらっている。いっその事、すぐにでも乗り込んで、誰でもいいから締め上げて、弟のジャラの行方を聞き出したい。
カウンターにお代を払い、店を出る。同い年ぐらいの女の子達がはしゃぎながら歩いてる姿を見ながら、方々に対す苛々が募る――サイキックでなければ。
今はまだ、それを望んではいけないと分かっていても、こうなってしまった原因を呪わない日はない。
母が若い頃の時代は、サイキックに対してこれと言った優遇はなかったが、私や弟がサイキックだと判明した頃には、国から多くの補助や優遇を得られる様になっていた。
私の父は上海で貿易関係の仕事をしていた。母の方は詳しくは聞いた事はなかったが、大学を卒業して上海の方へ移り住み、デザイン関係の職に就いていた。家庭は裕福だった。
何故、サイキックである事を申告したのか、充分満たされた環境だったのに。一部の人達からは、私達サイキックこそが人類を新たなフェーズへ導ける存在だと謳っているが、そのお陰で、私のこの様はどうだ。亡き父や母に、そして世の中のシステムに対して、お門違いな恨みを向けている始末だ。
今はまだ先の事を考えるても答えは出ない。希望は捨ててないが、かと言って前向きな思考を保つ事も出来ない。あるのは焦りだけだった。
辺りもすっかり暗く、夜の街になってきた。当てもなく知らない土地を散策するのは好きだった。家族を失ってからは、父方の親戚をたらい回しにされていたから、独りで過ごせる時間が好きだった。
彩子さんには良くしてもらっている。中国では家族を失ってから父方の親戚をたらい回しは苦痛しかなかったし、やっと落ち着いた場所は香港のスラム街。今が一番穏やかなだった。
一際賑やかでカラフルに輝ている方へ向かってみる。高層ビルで方々を囲まれながらも、そこだけはまるで、退廃的な別世界の様だった。八メートルはあるだろうか、錆び付いた大きな門が大きく開いて、中から光が漏れて溢れている様だった。その色は統一感など微塵もなく、自分勝手に主張し合うネオンライトが混ざり合い、品性の欠片もない、おどろおどろしい光だった。
大きく開いた門の、人の出入りは盛んで、とても賑わっていた。門の傍まで来た時に私はハッとした。――輝紫桜町。
日本に一ヶ月、場所の名前などほとんど覚えていないが、此処の名前だけはしっかり覚えていた。彩子さんに何度か、いや何度も念を押す様に、輝紫桜町だけには近づかない様にと言われていたからだ。
その巨大な歓楽街は今や行政や警察すらも匙を投げた街と言われ、大小様々な犯罪組織がのさばり、貧民街も抱える無法地帯として名を轟かし、時に地獄と比喩される街。
しかし、どう言う訳か私は、その危険と分かり切っている大歓楽街に強い興味をそそられていた。こんな世界に――見覚えもある。
これではまるで、光に吸い寄せられる蛾の様なものだ。寧ろ、その蛾の気持ちが分かる気さえする。
街に溢れる赤紫と青紫の光が私を包んでいた。気付くと私は、門を超えて輝紫桜町の入り口に立っている。出入りする人々を避け、一先ず門の右端へ移動した。
「客一人で五十万からかぁ、いいなぁ、あたしもやってみたいなぁ……」
「バーカ! 一晩中好きにしていいよ。なんて言えるかお前? すげぇリスキーだぞ。変態だらけのこの街で、しかも後ろ盾もなく」
「まぁ、確かに……」
門の裏側は狭い裏路地になっていた。そのすぐ横で屯っている男達の会話が耳に入る。
男が二人、缶ビールを片手にやり取りをしていた。その対象となっている者は大きなゴミ収集箱に足を組んで会話を聞いていた。そっと横目でその三人を見て、普通ではないと、すぐに気付く。
一方はあからさまに女装している。もう一方は健康的な褐色肌にへそ出しのトップス。
ゴミ収集箱に座っている男もジャケットから肌をはだけさせ、よくよく見るとアイシャドーもしていた。首筋に付けたチョーカーにはトランプのクラブを象ったメタルプレートが七色に輝いている。
この輝紫桜町に入って早々に男娼を見る事になるとは、如何にも歓楽街と言った所だ。
「てか、お前等、自分のナワバリ行けよな、こっちも仕事中だぞ」
座ってる男は煙草を吸いながら呆れ気味に言う。ポルノデーモンと呼ばれているらしい。通り名の様なものか、口にするのも恥ずかしくなる様な呼び名だ。
そのポルノデーモンは、よく見ると両目の色が違った。右目は普通だが、左目は暗紫色の眼球に真っ赤な瞳孔。義眼だろうか、悪魔の目だと言われれば、その雰囲気はある。どちらにしても見苦しい連中だった。
男娼達を尻目に街の中へ進もうとすると、鋭い口笛が喧騒を破り、否応にも歩みを止められてしまう。
「そこの後ろ髪が綺麗な未成年さん!」
パッと見る限り、未成年と言いえような人間は私ぐらいだった。こちらの視線にでも気づいていたのか。目敏い奴だ。
「悪い事は言わないよ、夜の此処は危険だ。ロクでもない奴等しかいないから」
柔らかな口調だが、何処か男らしさに欠ける、軽くてなよっとした雰囲気。
周りの男達も物珍しい感じに、こっちを見ていた。鬱陶しい、関わりたくないのに。
「それは、貴方達の様な人達かしら?」
けたたましい雑踏の中、私と男達の間の空気が凍り付くのを感じる。いざとなれば、念動力がある。下手に凄んでくれば、男共が宙に舞い上がって終わりだ。
ポルノデーモンの様子を見る。冷静そのものだった。動じる事なく不敵な笑みを見せている。相変わらず口角の上がり、その目は挑発的だった。
ふっと鼻で笑い、左手に持った煙草をはらりと捨てた。その手で支えて凭れると、更にジャケットがはだける。肩から鎖骨、首筋まで、まるで見せ付けているかの様に挑発的に、そして何処か自虐的で妖艶に私を見下し、ビビットピンクのウィッグを付けた黒髪を掻き上げた。
男とは到底思えない程の、色気の様なものを見せ付けている。
しかし、その意図は伝わった。ポルノデーモンは私の挑発に対して――挑発で返してきた。
「この街じゃ、俺等なんかよりも、もっとロクでもない連中がゴロゴロ転がってるぜ、此処に興味があるなら、お昼にでも遊びに来なよ」
「ご忠告どうも……」
心配してくれるようだが、余計なお世話だ。どのような事情が在ろうと、売春で生計を立る程、身を落とした者達の話を、これ以上聞く必要はない。
それでもまだ僅かに視線を感じる。あの暗紫色の目は、私を見ているのだろう。
夜の輝紫桜町は今までに見た日本の景色の中では、最も活気あふれていた。今の時代どこの国も大な小なり、疲弊しているのに。
歩道をはみ出し、車道を歩く人々を避けるように徐行する自動車。
店の並び具合も遠慮もない、飲食店の隣に風俗店があるかと思えば、花屋や雑貨屋、激しく音が漏れてるクラブやカジノも並んでいる。娯楽の坩堝と言った所だ。
だが、驚かされるのは、その雑多な地上から空を見上げた時だった。
この大通りの左右の建物一つ一つは小さな雑居ビルばかり、その二階から三階の辺りからは増築を重ねた、歪な出で立ちをしている。看板のネオン、立体的なプロジェクションマッピングが飛び交い、更に混沌とした輝きを放っている。
更にその先の上に聳え立つ、高層ビル群は均一な明かりを保って圧迫感を与えていた。まるでビルの山と山の間にある、谷底である。
厄介になっていた親戚が住む香港も、丁度こんな雰囲気の街だった。そこで暮らしていた数年間を思い出す。輝紫桜町に親近感を感じていた。
そんな事を考えながら、猥雑な街並みを眺めて歩いていると、前方を塞がれる様に立つ人達に歩みを止められた。
「おお、君可愛いね、何処の店の子? 俺達とどう? 勿論払うよ」
視界に入ったのはスーツ姿の三人の男達だった。何を言っているのか、余りにも唐突過ぎて理解できなかった。
「ほらほら、ちゃんと金はあるんだから遊ぼうぜ」
前に立ちはだかっていた三人は何時の間にか、私を囲んでいた。
「ちょ、ちょっと待ってください、私はっ!」
こちらの言葉を聞く事もなく、両肩に手を添えてきた。本当に待って欲しい、一体何が起きているのだ。胸を打ち破る程の動悸が激しく全身を波打たせる
そうしてる内に、雑居ビルと雑居ビルの間の暗い隙間の方、その奥へどんどん追いやられていく。
「ほら、お金受け取ったろ? OKって事だよな?」
気付くと上着のポケットに紙幣が突っ込まれていた。不味い、あっという間に人気のない所へ追い詰められた。表通りは三人に塞がれている。よく見ると三人とも体格もがっしりしていて背丈も見上げる程だ。
やっと認識した。――こいつ等にレイプされる。
それが分かった瞬間、そして三人の醜く歪んだ笑みが視界に広がり、静かに腰が崩れる。今まで体験した事のない恐怖に身体が竦んでいた。
意識を集中せねば、一体何を恐れる必要があると言うのだ。故郷にいた頃、家族を奪った奴等を数年かけて見つけ出し、一人残らず躊躇なく念動力でズタズタにしてやったじゃないか。
大人の男が見せる、殺意や憤怒の表情は見慣れている。しかし、こんな卑猥で見苦しい表情は見た事がない。直視して集中する事が出来ない。
なら、その辺にある物を動かそうか。焦れば焦る程、視界が狭まっていく。そうしてる間にも男の手が私に触れかかってくる。早く、早く何とかしないと。
「ちょっと、ちょっと!」
奥から聞こえた声で、男共の手が寸前で止まった。
「その子どう見ても素人さんじゃない。良くないなぁ、金掴ませて何かあったら同意の上とか言うパターン?」
声の主はそのままズカズカと三人の間に割って入ってきた。迂闊に思える、囲まれてしまっては不利な状況に陥るのに。
声の感じから、やはりとは思ったが、輝紫桜町の入り口前で私に忠告をしたポルノデーモンと呼ばれていた男だった。
右手に煙草を持ち、相変わらず相手を舐めてかかる様な生意気な笑みを浮かべている。
「出しゃばってんじゃねぇぞ、クソオカマが」
私に触れようとした男が立ち上がり、ポルノデーモンの胸ぐらを掴んでドスの利いた声で凄む。ポルノデーモンの容姿は三人の男達と比べて余りにも華奢だった。
どう見ても、不利で無謀なその状況を、彼は理解しているのだろうか。
「まぁまぁ、そう熱くなるなって。若い子がお望みなら、いいお店を紹介してやるよ。それとも、いけるクチなら俺がお相手してやろうか? ま、お前等のナニなんて、無駄な贅肉に潰れたウィンナーみたいでイイところに届かないだろうけど」
ポルノデーモンの言葉が言い終わるか否かの、その瞬間、男が逆上するのと同時に、ポルノデーモンの目付きも一気に殺気立ち、豹変した。
後頭部を掴み、ポルノデーモンの頭突きが男の鼻っ柱に直撃する。間髪入れずに後ろの男の顔に向けて煙草ごと右手で鷲掴む。
二人がのけ反り怯んでいる隙に、もう一人の男に掴みかかりると、膝で鋭く腹部に何度も打ち付けて反対側へ放り投げ、もう一人と共に倒れ込む。
重なって倒れている二人の男達の顔面目掛けて、ポルノデーモンは長い脚を何度も振り下ろして踏み付けた。男達の顔がみるみる赤黒くなっていく。
ポルノデーモンは顔を上げ、一息吐いて呼吸を整えると、潰された鼻を抑え、その凶暴さに慄く男の方へ、ポケットから取り出したバタフライナイを羽ばたかせて近づいていく。
男は咄嗟の抵抗で手を出すが、ポルノデーモンは躊躇なく、その手をナイフで切り裂く。男は叫ぶが、その声もポルノデーモンの肘で首筋を押さえ付けられ遮られる。ナイフは男の股間へ突き立てられていた。
華奢な容姿に軟派な態度とは裏腹に、相当喧嘩慣れしていた。
「舐めてるの? この輝紫桜町で俺達プロを差し置いて、素人なんかとタダでヤるとか、在り得ないから」
私は依然、意識を集中させる事も、身体を動かす事もままならない状態で、ただ男を押さえ付けて、ギラついた笑みを浮かべるポルノデーモンを見上げてるしかなかった。
突き立てたナイフを男のベルトに置く様に差し込み、右手で男のポケットを手探り、財布を取り出し横目で中身を確認してる。
「免許証あるね。これでお前の正体は直ぐ分かる。今度、詫び入れに来れば勘弁してやるよ」
ポルノデーモンは、男の財布を自分のポケットに突っ込むと、再びナイフを握り締め、そのままシュッと引いて、ベルトを切り落とした。
男の方は完全に怯え切っていた。蚊の鳴く様な、体格に似合わないか細い声でひたすら、すみません、を繰り返していたが、ポルノデーモンはお構いなしに、話を淡々と進める。男の首を絞めてた肘を緩め、そのまま後ろ髪を掴み男の耳元に顔を近づけた。
「でもバックれてみろ、何処にも行き場ないとこまで追い詰めてやるからな」
ヤクザの恐喝にも負けずとも劣らない見事な手際の良さだ。喧嘩の立ち回りといい、脅し方といい、ポルノデーモンからはこの手のトラブルに手慣れている雰囲気を感じた。
「その後は、タップリと俺がお前を犯してやるよ……」
そう言うとポルノデーモンは男の頬を、舌を大きく出して舐め上げ、男の恐怖が絶頂に達したのを確認してから男を解放した。崩れ落ち、おぼつかない脚を必死にバタつかせながら男はその場から走り去っていった。何時の間にか他の二人の姿も消えていた。
ポルノデーモンは冷めた目付きで、男の後ろ姿が消えるの確認して道端へ唾を吐き捨てる。
ようやく身の安全を実感できたが、それと同時に自分の不甲斐なさが、じわじわと押し寄せてきて、情けなくなってきた。
「だから言ったろ、ロクでもないんだって、この街はね」ポルノデーモンが手を差し伸べる。
「触らないで!」
私は反射的にその手を拒んでしまった。一体何をしているんだ、助けてくれた彼を何故、拒んでしまったのか。身体の震えはまだ収まらず、塞ぎ込んで身体が縮まっていった。
ポルノデーモンの足音が遠ざかっていく。流石に見捨てるか、当然だろう。嫌悪感が押し寄せる、最悪の気分だった。
どうにか呼吸を整えて、身体の震えが落ち着き始めてきたタイミングで、彼が戻ってきた。塞ぎ込んだままの私の傍にゆっくりと何かを置き、何も言わずに数歩下がった。置かれていたのは缶コーヒーだった。
「飲みなよ、甘いものは気を落ち着かせるから」
ようやく彼の言葉を、しっかりと聞けるぐらいには落ち着いてきた。缶コーヒーの封は既に開けられている。必ず飲めと言う、意思表示なのだろう。
あまりコーヒーは好きではないが、缶コーヒーを手に取り、一口含む筈が、喉が渇いていたのか、二口目はごくごくと飲んでしまった。ミルクとは違う、柔らかい甘みが口の中に広がっていく。
「不思議な甘さね……」
「練乳入りの缶コーヒーだよ。ヤバい甘さだろ?」薄い笑みを浮かべながら、ポルノデーモンは言った。「で、急かすようで悪いんだけど街の入口まで送るよ、アンタが嫌だろうと、この街には“助けたら終いまで”って決まり事もあるんでね」
再び差し出された彼の手を、今度は受け入れる事が出来た。立ち上がり、表通りへ出ると、眩い赤紫の光に包まれた街の歩道を、ポルノデーモンと共に入口の方へ向かう。
ポルノデーモンは男から奪った財布から、免許証と現金を抜き出して、財布はその辺へと捨ててしまった。免許証を睨む、その暗紫色の目は、気のせいかもしれないが、赤い瞳孔部分が僅かに光を発している様にも見えた。本当に不思議な目をしている。
そして改めて近くで見る彼の整った顔立ちは、中性的で美形と言う言葉が相応しい雰囲気だった。
「ジロジロ見るな、ウザい」
「ごめんなさい。あの……助けてくれて、ありがとう」
そう、私は彼に助けられた。本来ならば、念動力で充分対処できた筈なのに。激しく心を乱され、パニックを起こし、何一つ集中する事も、念じる事も出来なかった。サイキックが聞いて呆れる。
しかも助けてくれたのが、よりにもよって鼻持ちならない歓楽街の男娼なのだから、益々情けない。
「別に、助けたくて助けた訳じゃないし。それに、人の事を蔑んでる奴の言葉なんて嬉しくもないね」
淡々とした調子でポルノデーモンは言うと、免許証と数枚の紙幣をポケットへしまった。見事に私の心は見透かされていた。
「なら、どうして?」
「街の外の人間がトラブルを起こすと、後で色々面倒が起こる。それが嫌なだけだよ。それに……」
私は立ち止まり、ポルノデーモンに尋ねる。ポルノデーモンも立ち止まって答えた。ジャケットの内ポケットから、くしゃくしゃになった煙草の箱を取り出して一本、それを口に咥える。ライターを何度も擦って、ようやく火を着く。
「俺もレイプされた事あるから、ほっとけなかった……」
煙草の煙を一筋吐いて、恐ろしい事をポルノデーモンは淡々と言って見せた。想像できない男性である彼が、あんな目に合うなんて。
私と彼の世界は違い過ぎる。何を言うべきか言葉も見つからなかった。しかし、一つだけ矛盾を感じた。
「それでも貴方は、その……」
「そうだよ、男や女の前で裸になって身体を売ってる、それが何か?」
何一つ、臆する事も恥じる事も、微塵も見せないで堂々と彼は言ってのけた。未成年の女性に対して、生々しくて遠慮のない言い方をする。
「辛くないの?」
ポルノデーモンはやれやれと言った調子で軽い溜息をついて、再び歩き出した。
さっきまでは私の歩幅に合わせて歩いていたが、今は遠慮なく自分の歩幅で歩いている。
「お仕事だからね、辛い事もあるよ。悔しかったり、恥ずかしかったり、苦しかったり、痛かったり、でもね、気持ち良かったり、安っぽくても、心を満たされる事もあるから、厄介なもんだよね……」
ポルノデーモンの暗紫色の目は、鋭く私を睨みながらも、その口元は挑発的な笑みを浮かべている。私が彼の一言一言に、驚愕してる様を楽しんでいる様にさえ思えてくる。
分かっている。私は彼に対して嫌悪感を抱いている。それが少なからず彼に対して無礼になっているのも。
自分の中で折り合いが着けられなかった。これまでの私の人生において、故郷で教わってきた数々の常識がまるで通用しない。彼の発する言葉の一つ一つに、彼が抱えている現実に、私の理解を超えた情報量にひたすら翻弄されていた。
「アンタが俺を同情したり蔑んだりするのも自由だよ。好きにすればいい、俺はその程度じゃ揺るがないけどね」
ポルノデーモンは立ち止まって煙草を吸う。腕の組み方、煙草を持つ指先の繊細さは女性のしぐさ、その物に見えた。男性らしさや女性らしさが入り乱れる、混沌とした姿。
何時の間にか輝紫桜町の入り口前、門の所まで来ていた。門の外へ出ると体に纏わり付く様な、ケバケバしい赤紫の光は消えて正常な街灯の明かりに包まれる。振り返り、門の中のポルノデーモンの方を見た。
「俺は全てを受け入れる事が出来る。この地獄みたいな街の欲にどっぷり染まって、心を貪る悪魔さ」
門を出た輝紫桜町の外、そこから達観する位置でポルノデーモンを中心に雑多で猥雑な輝紫桜町が聳え立っている。強烈に印象に焼き付くかの様な光景に思えた。
普通じゃない街で、普通じゃない事を誇らしげに振舞う彼の姿は、普通になりたいと嘆く私とは、あまりにも対照的な存在で、認め難い反面、引き付けられる雰囲気だった。
「理解できないわ……でも、貴方は多分、強い人なんでしょうね」
「帰りな、未成年さん。悪い夢だと思って忘れるんだね」
互いの目を見つめ合う、五秒くらいの間の後で、私は歩き出し、輝紫桜町を後にする。横目に見たポルノデーモンは煙草を一筋、空に向かって放っていた。
忘れろ――寧ろ、思い出した。
今の不甲斐ない失敗は良い教訓だ。穏やかな時間を過ごしていた。自分でも気付かない内に、腑抜けていたのだ。香港のスラム街で過ごしていた、あの感覚が戻って来た。
飲み干した缶コーヒーの空き缶を宙へ浮かべる。缶はくしゃくしゃと潰れていき、ピンボールの玉程の大きさになる。
慎重にと言っていたCrackerImpには申し訳ないが、今、決心がついた。――明日、荒神会の拠点へ乗り込もう。
彩子さんを説得する暇はなさそうだ。構わない、結果を持ち帰ってこれからの事を決めればいい。
明日から全てが始まる。――邪魔する者は残らず九尾が薙ぎ払う。
『それにしても 不思議な気分ね この街の何処かに弟がいて アナタがいて 私がいるなんて』
ついつい会話が続いてしまい、気付けば日も暮れかかってる。街角にある、ありふれたコーヒーチェーン店の店内でPCを開き、久し振りにCrackerImpと会話をしている。日本に来て、もうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。
彼との会話は楽しい。勿論、ほとんどは仕事の話ではあるが、CrackerImpは他愛のない話であっても気さくに、そしてよく考えて答えてくれる。良い気晴らしになった。
『お師匠さんは顔が広いし 勘も鋭いからね これだけ大規模な密輸をやっても目立たないのは東北エリアだと踏んだんだろうね 現地で動けるハッカーは俺ぐらいだろうから』
『ハッカーって意外に行動派なのね』
『一流のハッカーは指よりも脚を使う お師匠さんの教えでね 俺達みたいな個人運営のローンウルフは行動あるのみさ』
前に教えてもらったハッカー用語。その名の通り一匹狼で活動し、クライアントともワンショット契約と言う、利益よりもスキルと名声を重んじるハッカー。その逆に、組織化して大手の企業や犯罪組織に雇われて大規模なハッキングやサイバーテロを起こす連中を“ドッグス”と言い、その両方を器用に利用するハッカーは“フォックス”と言う。――中々おもしろい。
私は一旦、席を離れカウンターで紅茶のおかわりを注文した。故郷に様に茶館があれば理想的だが。せめてコーヒー屋もお茶の種類を増やしてほしいものだ。
紅茶を受け取り席に戻ると、新たにメッセージが入っていた。
『最近ちょっと忙しかったけど これからは今まで以上に情報を集められるかもよ』
『期待してるわ』
待たせてしまったので、とりあえず短く返答する。
『とにかく荒神会はこの街でもかなり危険な組織だから くれぐれも慎重にね』
『心配無用よ 私も念じるだけで色々できるから』
以前の会話から引用して、念じると言う言葉を使った。実際、私は本当に念じれば色々できるのだが。
CrackerImpの返信が来ない。こう言う、間の様なものがあると、実在を感じる。PCの画面の中で流れていく文字。その向こうで、その人は何かを思っていて、何かを考えているのだろうか。
『まだ話せそう?』
『ごめんね これから仕事なんだ』
『CrackerImpの副職? ちょっと気になるわね』
『むしろ本業だよ 何をしてるかは聞かないでね』
確かに、これだけ腕のいいハッカーなら、違う分野でも活躍していそうな感じもするが、CrackerImpの本業とはどんな仕事なのだろうか。彼への興味は尽きない。
CrackerImpはどんな人なのか。文章越しに感じる彼の掴み所のなさが魅力的でさえある。私より年上である事は確かだが、時に無邪気で人懐っこい雰囲気。そして男性的であり女性的な雰囲気を感じる事もある。不思議な人だ。
『私達と合流して一緒に行動しない? 流儀に反するのは知っている でも報酬は弾むから』
『余り良いアイディアとは思えないね 悪いけど切るよ 何かあったら何時でもどうぞ』
『何か分かったら連絡して、お仕事頑張ってね』
PCを閉じて椅子に凭れて紅茶を飲む。イマイチ香りのない味わいだった。
窓の外は日も暮れてきて人々の歩みも忙しない。
荒神会か、今は彩子さんも警察の仕事の傍らで情報を集めてもらっている。いっその事、すぐにでも乗り込んで、誰でもいいから締め上げて、弟のジャラの行方を聞き出したい。
カウンターにお代を払い、店を出る。同い年ぐらいの女の子達がはしゃぎながら歩いてる姿を見ながら、方々に対す苛々が募る――サイキックでなければ。
今はまだ、それを望んではいけないと分かっていても、こうなってしまった原因を呪わない日はない。
母が若い頃の時代は、サイキックに対してこれと言った優遇はなかったが、私や弟がサイキックだと判明した頃には、国から多くの補助や優遇を得られる様になっていた。
私の父は上海で貿易関係の仕事をしていた。母の方は詳しくは聞いた事はなかったが、大学を卒業して上海の方へ移り住み、デザイン関係の職に就いていた。家庭は裕福だった。
何故、サイキックである事を申告したのか、充分満たされた環境だったのに。一部の人達からは、私達サイキックこそが人類を新たなフェーズへ導ける存在だと謳っているが、そのお陰で、私のこの様はどうだ。亡き父や母に、そして世の中のシステムに対して、お門違いな恨みを向けている始末だ。
今はまだ先の事を考えるても答えは出ない。希望は捨ててないが、かと言って前向きな思考を保つ事も出来ない。あるのは焦りだけだった。
辺りもすっかり暗く、夜の街になってきた。当てもなく知らない土地を散策するのは好きだった。家族を失ってからは、父方の親戚をたらい回しにされていたから、独りで過ごせる時間が好きだった。
彩子さんには良くしてもらっている。中国では家族を失ってから父方の親戚をたらい回しは苦痛しかなかったし、やっと落ち着いた場所は香港のスラム街。今が一番穏やかなだった。
一際賑やかでカラフルに輝ている方へ向かってみる。高層ビルで方々を囲まれながらも、そこだけはまるで、退廃的な別世界の様だった。八メートルはあるだろうか、錆び付いた大きな門が大きく開いて、中から光が漏れて溢れている様だった。その色は統一感など微塵もなく、自分勝手に主張し合うネオンライトが混ざり合い、品性の欠片もない、おどろおどろしい光だった。
大きく開いた門の、人の出入りは盛んで、とても賑わっていた。門の傍まで来た時に私はハッとした。――輝紫桜町。
日本に一ヶ月、場所の名前などほとんど覚えていないが、此処の名前だけはしっかり覚えていた。彩子さんに何度か、いや何度も念を押す様に、輝紫桜町だけには近づかない様にと言われていたからだ。
その巨大な歓楽街は今や行政や警察すらも匙を投げた街と言われ、大小様々な犯罪組織がのさばり、貧民街も抱える無法地帯として名を轟かし、時に地獄と比喩される街。
しかし、どう言う訳か私は、その危険と分かり切っている大歓楽街に強い興味をそそられていた。こんな世界に――見覚えもある。
これではまるで、光に吸い寄せられる蛾の様なものだ。寧ろ、その蛾の気持ちが分かる気さえする。
街に溢れる赤紫と青紫の光が私を包んでいた。気付くと私は、門を超えて輝紫桜町の入り口に立っている。出入りする人々を避け、一先ず門の右端へ移動した。
「客一人で五十万からかぁ、いいなぁ、あたしもやってみたいなぁ……」
「バーカ! 一晩中好きにしていいよ。なんて言えるかお前? すげぇリスキーだぞ。変態だらけのこの街で、しかも後ろ盾もなく」
「まぁ、確かに……」
門の裏側は狭い裏路地になっていた。そのすぐ横で屯っている男達の会話が耳に入る。
男が二人、缶ビールを片手にやり取りをしていた。その対象となっている者は大きなゴミ収集箱に足を組んで会話を聞いていた。そっと横目でその三人を見て、普通ではないと、すぐに気付く。
一方はあからさまに女装している。もう一方は健康的な褐色肌にへそ出しのトップス。
ゴミ収集箱に座っている男もジャケットから肌をはだけさせ、よくよく見るとアイシャドーもしていた。首筋に付けたチョーカーにはトランプのクラブを象ったメタルプレートが七色に輝いている。
この輝紫桜町に入って早々に男娼を見る事になるとは、如何にも歓楽街と言った所だ。
「てか、お前等、自分のナワバリ行けよな、こっちも仕事中だぞ」
座ってる男は煙草を吸いながら呆れ気味に言う。ポルノデーモンと呼ばれているらしい。通り名の様なものか、口にするのも恥ずかしくなる様な呼び名だ。
そのポルノデーモンは、よく見ると両目の色が違った。右目は普通だが、左目は暗紫色の眼球に真っ赤な瞳孔。義眼だろうか、悪魔の目だと言われれば、その雰囲気はある。どちらにしても見苦しい連中だった。
男娼達を尻目に街の中へ進もうとすると、鋭い口笛が喧騒を破り、否応にも歩みを止められてしまう。
「そこの後ろ髪が綺麗な未成年さん!」
パッと見る限り、未成年と言いえような人間は私ぐらいだった。こちらの視線にでも気づいていたのか。目敏い奴だ。
「悪い事は言わないよ、夜の此処は危険だ。ロクでもない奴等しかいないから」
柔らかな口調だが、何処か男らしさに欠ける、軽くてなよっとした雰囲気。
周りの男達も物珍しい感じに、こっちを見ていた。鬱陶しい、関わりたくないのに。
「それは、貴方達の様な人達かしら?」
けたたましい雑踏の中、私と男達の間の空気が凍り付くのを感じる。いざとなれば、念動力がある。下手に凄んでくれば、男共が宙に舞い上がって終わりだ。
ポルノデーモンの様子を見る。冷静そのものだった。動じる事なく不敵な笑みを見せている。相変わらず口角の上がり、その目は挑発的だった。
ふっと鼻で笑い、左手に持った煙草をはらりと捨てた。その手で支えて凭れると、更にジャケットがはだける。肩から鎖骨、首筋まで、まるで見せ付けているかの様に挑発的に、そして何処か自虐的で妖艶に私を見下し、ビビットピンクのウィッグを付けた黒髪を掻き上げた。
男とは到底思えない程の、色気の様なものを見せ付けている。
しかし、その意図は伝わった。ポルノデーモンは私の挑発に対して――挑発で返してきた。
「この街じゃ、俺等なんかよりも、もっとロクでもない連中がゴロゴロ転がってるぜ、此処に興味があるなら、お昼にでも遊びに来なよ」
「ご忠告どうも……」
心配してくれるようだが、余計なお世話だ。どのような事情が在ろうと、売春で生計を立る程、身を落とした者達の話を、これ以上聞く必要はない。
それでもまだ僅かに視線を感じる。あの暗紫色の目は、私を見ているのだろう。
夜の輝紫桜町は今までに見た日本の景色の中では、最も活気あふれていた。今の時代どこの国も大な小なり、疲弊しているのに。
歩道をはみ出し、車道を歩く人々を避けるように徐行する自動車。
店の並び具合も遠慮もない、飲食店の隣に風俗店があるかと思えば、花屋や雑貨屋、激しく音が漏れてるクラブやカジノも並んでいる。娯楽の坩堝と言った所だ。
だが、驚かされるのは、その雑多な地上から空を見上げた時だった。
この大通りの左右の建物一つ一つは小さな雑居ビルばかり、その二階から三階の辺りからは増築を重ねた、歪な出で立ちをしている。看板のネオン、立体的なプロジェクションマッピングが飛び交い、更に混沌とした輝きを放っている。
更にその先の上に聳え立つ、高層ビル群は均一な明かりを保って圧迫感を与えていた。まるでビルの山と山の間にある、谷底である。
厄介になっていた親戚が住む香港も、丁度こんな雰囲気の街だった。そこで暮らしていた数年間を思い出す。輝紫桜町に親近感を感じていた。
そんな事を考えながら、猥雑な街並みを眺めて歩いていると、前方を塞がれる様に立つ人達に歩みを止められた。
「おお、君可愛いね、何処の店の子? 俺達とどう? 勿論払うよ」
視界に入ったのはスーツ姿の三人の男達だった。何を言っているのか、余りにも唐突過ぎて理解できなかった。
「ほらほら、ちゃんと金はあるんだから遊ぼうぜ」
前に立ちはだかっていた三人は何時の間にか、私を囲んでいた。
「ちょ、ちょっと待ってください、私はっ!」
こちらの言葉を聞く事もなく、両肩に手を添えてきた。本当に待って欲しい、一体何が起きているのだ。胸を打ち破る程の動悸が激しく全身を波打たせる
そうしてる内に、雑居ビルと雑居ビルの間の暗い隙間の方、その奥へどんどん追いやられていく。
「ほら、お金受け取ったろ? OKって事だよな?」
気付くと上着のポケットに紙幣が突っ込まれていた。不味い、あっという間に人気のない所へ追い詰められた。表通りは三人に塞がれている。よく見ると三人とも体格もがっしりしていて背丈も見上げる程だ。
やっと認識した。――こいつ等にレイプされる。
それが分かった瞬間、そして三人の醜く歪んだ笑みが視界に広がり、静かに腰が崩れる。今まで体験した事のない恐怖に身体が竦んでいた。
意識を集中せねば、一体何を恐れる必要があると言うのだ。故郷にいた頃、家族を奪った奴等を数年かけて見つけ出し、一人残らず躊躇なく念動力でズタズタにしてやったじゃないか。
大人の男が見せる、殺意や憤怒の表情は見慣れている。しかし、こんな卑猥で見苦しい表情は見た事がない。直視して集中する事が出来ない。
なら、その辺にある物を動かそうか。焦れば焦る程、視界が狭まっていく。そうしてる間にも男の手が私に触れかかってくる。早く、早く何とかしないと。
「ちょっと、ちょっと!」
奥から聞こえた声で、男共の手が寸前で止まった。
「その子どう見ても素人さんじゃない。良くないなぁ、金掴ませて何かあったら同意の上とか言うパターン?」
声の主はそのままズカズカと三人の間に割って入ってきた。迂闊に思える、囲まれてしまっては不利な状況に陥るのに。
声の感じから、やはりとは思ったが、輝紫桜町の入り口前で私に忠告をしたポルノデーモンと呼ばれていた男だった。
右手に煙草を持ち、相変わらず相手を舐めてかかる様な生意気な笑みを浮かべている。
「出しゃばってんじゃねぇぞ、クソオカマが」
私に触れようとした男が立ち上がり、ポルノデーモンの胸ぐらを掴んでドスの利いた声で凄む。ポルノデーモンの容姿は三人の男達と比べて余りにも華奢だった。
どう見ても、不利で無謀なその状況を、彼は理解しているのだろうか。
「まぁまぁ、そう熱くなるなって。若い子がお望みなら、いいお店を紹介してやるよ。それとも、いけるクチなら俺がお相手してやろうか? ま、お前等のナニなんて、無駄な贅肉に潰れたウィンナーみたいでイイところに届かないだろうけど」
ポルノデーモンの言葉が言い終わるか否かの、その瞬間、男が逆上するのと同時に、ポルノデーモンの目付きも一気に殺気立ち、豹変した。
後頭部を掴み、ポルノデーモンの頭突きが男の鼻っ柱に直撃する。間髪入れずに後ろの男の顔に向けて煙草ごと右手で鷲掴む。
二人がのけ反り怯んでいる隙に、もう一人の男に掴みかかりると、膝で鋭く腹部に何度も打ち付けて反対側へ放り投げ、もう一人と共に倒れ込む。
重なって倒れている二人の男達の顔面目掛けて、ポルノデーモンは長い脚を何度も振り下ろして踏み付けた。男達の顔がみるみる赤黒くなっていく。
ポルノデーモンは顔を上げ、一息吐いて呼吸を整えると、潰された鼻を抑え、その凶暴さに慄く男の方へ、ポケットから取り出したバタフライナイを羽ばたかせて近づいていく。
男は咄嗟の抵抗で手を出すが、ポルノデーモンは躊躇なく、その手をナイフで切り裂く。男は叫ぶが、その声もポルノデーモンの肘で首筋を押さえ付けられ遮られる。ナイフは男の股間へ突き立てられていた。
華奢な容姿に軟派な態度とは裏腹に、相当喧嘩慣れしていた。
「舐めてるの? この輝紫桜町で俺達プロを差し置いて、素人なんかとタダでヤるとか、在り得ないから」
私は依然、意識を集中させる事も、身体を動かす事もままならない状態で、ただ男を押さえ付けて、ギラついた笑みを浮かべるポルノデーモンを見上げてるしかなかった。
突き立てたナイフを男のベルトに置く様に差し込み、右手で男のポケットを手探り、財布を取り出し横目で中身を確認してる。
「免許証あるね。これでお前の正体は直ぐ分かる。今度、詫び入れに来れば勘弁してやるよ」
ポルノデーモンは、男の財布を自分のポケットに突っ込むと、再びナイフを握り締め、そのままシュッと引いて、ベルトを切り落とした。
男の方は完全に怯え切っていた。蚊の鳴く様な、体格に似合わないか細い声でひたすら、すみません、を繰り返していたが、ポルノデーモンはお構いなしに、話を淡々と進める。男の首を絞めてた肘を緩め、そのまま後ろ髪を掴み男の耳元に顔を近づけた。
「でもバックれてみろ、何処にも行き場ないとこまで追い詰めてやるからな」
ヤクザの恐喝にも負けずとも劣らない見事な手際の良さだ。喧嘩の立ち回りといい、脅し方といい、ポルノデーモンからはこの手のトラブルに手慣れている雰囲気を感じた。
「その後は、タップリと俺がお前を犯してやるよ……」
そう言うとポルノデーモンは男の頬を、舌を大きく出して舐め上げ、男の恐怖が絶頂に達したのを確認してから男を解放した。崩れ落ち、おぼつかない脚を必死にバタつかせながら男はその場から走り去っていった。何時の間にか他の二人の姿も消えていた。
ポルノデーモンは冷めた目付きで、男の後ろ姿が消えるの確認して道端へ唾を吐き捨てる。
ようやく身の安全を実感できたが、それと同時に自分の不甲斐なさが、じわじわと押し寄せてきて、情けなくなってきた。
「だから言ったろ、ロクでもないんだって、この街はね」ポルノデーモンが手を差し伸べる。
「触らないで!」
私は反射的にその手を拒んでしまった。一体何をしているんだ、助けてくれた彼を何故、拒んでしまったのか。身体の震えはまだ収まらず、塞ぎ込んで身体が縮まっていった。
ポルノデーモンの足音が遠ざかっていく。流石に見捨てるか、当然だろう。嫌悪感が押し寄せる、最悪の気分だった。
どうにか呼吸を整えて、身体の震えが落ち着き始めてきたタイミングで、彼が戻ってきた。塞ぎ込んだままの私の傍にゆっくりと何かを置き、何も言わずに数歩下がった。置かれていたのは缶コーヒーだった。
「飲みなよ、甘いものは気を落ち着かせるから」
ようやく彼の言葉を、しっかりと聞けるぐらいには落ち着いてきた。缶コーヒーの封は既に開けられている。必ず飲めと言う、意思表示なのだろう。
あまりコーヒーは好きではないが、缶コーヒーを手に取り、一口含む筈が、喉が渇いていたのか、二口目はごくごくと飲んでしまった。ミルクとは違う、柔らかい甘みが口の中に広がっていく。
「不思議な甘さね……」
「練乳入りの缶コーヒーだよ。ヤバい甘さだろ?」薄い笑みを浮かべながら、ポルノデーモンは言った。「で、急かすようで悪いんだけど街の入口まで送るよ、アンタが嫌だろうと、この街には“助けたら終いまで”って決まり事もあるんでね」
再び差し出された彼の手を、今度は受け入れる事が出来た。立ち上がり、表通りへ出ると、眩い赤紫の光に包まれた街の歩道を、ポルノデーモンと共に入口の方へ向かう。
ポルノデーモンは男から奪った財布から、免許証と現金を抜き出して、財布はその辺へと捨ててしまった。免許証を睨む、その暗紫色の目は、気のせいかもしれないが、赤い瞳孔部分が僅かに光を発している様にも見えた。本当に不思議な目をしている。
そして改めて近くで見る彼の整った顔立ちは、中性的で美形と言う言葉が相応しい雰囲気だった。
「ジロジロ見るな、ウザい」
「ごめんなさい。あの……助けてくれて、ありがとう」
そう、私は彼に助けられた。本来ならば、念動力で充分対処できた筈なのに。激しく心を乱され、パニックを起こし、何一つ集中する事も、念じる事も出来なかった。サイキックが聞いて呆れる。
しかも助けてくれたのが、よりにもよって鼻持ちならない歓楽街の男娼なのだから、益々情けない。
「別に、助けたくて助けた訳じゃないし。それに、人の事を蔑んでる奴の言葉なんて嬉しくもないね」
淡々とした調子でポルノデーモンは言うと、免許証と数枚の紙幣をポケットへしまった。見事に私の心は見透かされていた。
「なら、どうして?」
「街の外の人間がトラブルを起こすと、後で色々面倒が起こる。それが嫌なだけだよ。それに……」
私は立ち止まり、ポルノデーモンに尋ねる。ポルノデーモンも立ち止まって答えた。ジャケットの内ポケットから、くしゃくしゃになった煙草の箱を取り出して一本、それを口に咥える。ライターを何度も擦って、ようやく火を着く。
「俺もレイプされた事あるから、ほっとけなかった……」
煙草の煙を一筋吐いて、恐ろしい事をポルノデーモンは淡々と言って見せた。想像できない男性である彼が、あんな目に合うなんて。
私と彼の世界は違い過ぎる。何を言うべきか言葉も見つからなかった。しかし、一つだけ矛盾を感じた。
「それでも貴方は、その……」
「そうだよ、男や女の前で裸になって身体を売ってる、それが何か?」
何一つ、臆する事も恥じる事も、微塵も見せないで堂々と彼は言ってのけた。未成年の女性に対して、生々しくて遠慮のない言い方をする。
「辛くないの?」
ポルノデーモンはやれやれと言った調子で軽い溜息をついて、再び歩き出した。
さっきまでは私の歩幅に合わせて歩いていたが、今は遠慮なく自分の歩幅で歩いている。
「お仕事だからね、辛い事もあるよ。悔しかったり、恥ずかしかったり、苦しかったり、痛かったり、でもね、気持ち良かったり、安っぽくても、心を満たされる事もあるから、厄介なもんだよね……」
ポルノデーモンの暗紫色の目は、鋭く私を睨みながらも、その口元は挑発的な笑みを浮かべている。私が彼の一言一言に、驚愕してる様を楽しんでいる様にさえ思えてくる。
分かっている。私は彼に対して嫌悪感を抱いている。それが少なからず彼に対して無礼になっているのも。
自分の中で折り合いが着けられなかった。これまでの私の人生において、故郷で教わってきた数々の常識がまるで通用しない。彼の発する言葉の一つ一つに、彼が抱えている現実に、私の理解を超えた情報量にひたすら翻弄されていた。
「アンタが俺を同情したり蔑んだりするのも自由だよ。好きにすればいい、俺はその程度じゃ揺るがないけどね」
ポルノデーモンは立ち止まって煙草を吸う。腕の組み方、煙草を持つ指先の繊細さは女性のしぐさ、その物に見えた。男性らしさや女性らしさが入り乱れる、混沌とした姿。
何時の間にか輝紫桜町の入り口前、門の所まで来ていた。門の外へ出ると体に纏わり付く様な、ケバケバしい赤紫の光は消えて正常な街灯の明かりに包まれる。振り返り、門の中のポルノデーモンの方を見た。
「俺は全てを受け入れる事が出来る。この地獄みたいな街の欲にどっぷり染まって、心を貪る悪魔さ」
門を出た輝紫桜町の外、そこから達観する位置でポルノデーモンを中心に雑多で猥雑な輝紫桜町が聳え立っている。強烈に印象に焼き付くかの様な光景に思えた。
普通じゃない街で、普通じゃない事を誇らしげに振舞う彼の姿は、普通になりたいと嘆く私とは、あまりにも対照的な存在で、認め難い反面、引き付けられる雰囲気だった。
「理解できないわ……でも、貴方は多分、強い人なんでしょうね」
「帰りな、未成年さん。悪い夢だと思って忘れるんだね」
互いの目を見つめ合う、五秒くらいの間の後で、私は歩き出し、輝紫桜町を後にする。横目に見たポルノデーモンは煙草を一筋、空に向かって放っていた。
忘れろ――寧ろ、思い出した。
今の不甲斐ない失敗は良い教訓だ。穏やかな時間を過ごしていた。自分でも気付かない内に、腑抜けていたのだ。香港のスラム街で過ごしていた、あの感覚が戻って来た。
飲み干した缶コーヒーの空き缶を宙へ浮かべる。缶はくしゃくしゃと潰れていき、ピンボールの玉程の大きさになる。
慎重にと言っていたCrackerImpには申し訳ないが、今、決心がついた。――明日、荒神会の拠点へ乗り込もう。
彩子さんを説得する暇はなさそうだ。構わない、結果を持ち帰ってこれからの事を決めればいい。
明日から全てが始まる。――邪魔する者は残らず九尾が薙ぎ払う。