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木曜、金曜は仕事を休んだ。
とはいっても、学校には行く。皇に萌えるためだ。ファンサをもらって、とりとめのない質問をされて帰る。それだけの二日間だった。
金曜日の帰り際、皇から手紙を渡された。
『キルコさんへ
明日はよろしくお願いします。
夕方十七時に駅に車を向かわせます。いつものナンバーの車に乗り込んでください。
終了時刻は二十時以降を予定しています。遅い時間となりますが、帰りもお送りしますので安心してください。
楽しみにしています。
皇 秀英』
とうとう、私の気持ちが推しではないことの証明をされるらしい。
なぜ私の気持ちが推しでないということを証明するのだろう。そして、それになんの意味があるのだろう。やけに真剣だったし……。この証明の先に目標があるとも言っていた。
ファンサと萌えに夢中なあまり意識せずにいたが、直前になったからなのか、ようやく疑問が湧いてきた。
「おはよう、キル・リ・エルデ。何を読んでるの?」
ソファの後ろから、ハデスが覗き込んできた。
またか。不法侵入上司が。
「おはようございます。本日の仕事に必要な資料です。ところで、どうしてここに?」
「君の進捗状況を聞きにきたのと、ジャックの痕跡を探しにね」
「てっきりもう捕まったかと。しばらく来ていなかったので」
「まあ、時間の問題だけどね。部下どもに、ジャックを捕えたら君が求婚に応じてくれるからと言ったら、血眼になって仕事をするようになったからね。使えないやつらだが、あの勢いならなんとかやりきるだろう」
またか……! 毎度毎度、私を餌にしてけしかけやがって……!
ハデスのこういう、部下を道具としか思っていないところが憎らしくてならない。この私が、こんなやつに道具と思われ、雑に使われているという事実が死ぬほどいやだ。
ああ、仕事、辞めたい。
「おや? これは何?」
ハデスが皇コーナーの前にしゃがみ込んだ。
「まさか、好きになった……とか、ないよね?」
――推しです。
と答えそうになったのをぐっと噛みしめ、私は笑顔をつくった。
「仕事への意識を保つためのものです」
「これ、ツーショット?」
「距離感を縮め、いつでも隙をつけるようにしているのです」
「ふぅん?」
ハデスの蛇のような目が、じろりと私を睨んだ。
私も、変わらぬ表情で見据え返す。
ハデスは、ふっと頬を緩めた。
「そうだよね? 2000年、あらゆる男を振り続けてきた君が、人間――あまつさえ、標的の男に堕ちるなんて。そんなプライドとアイデンティティを捨てるようなこと、まさかしないよね?」
「信じていただけましたか?」
「君のことは信じているよ。君は優秀で、何よりもキャリアの優先する死神だ。絶対に失敗はしないし、落ちぶれるようなこともしない。
だけど、かなり時間がかかっているし、念には念を押しておく。標的に恋愛感情をもったから殺せないなんていうことは、許されないよ」
ヒュッと、私の喉元にハデスの鎌の切っ先が触れた。
私のものとは違う、不気味に光る鎌――西洋支部長のハデスと東洋支部のイザナミ様だけが持つ、死神殺しの鎌だ。
「当たり前です」
「そうだね」
ハデスの鎌がふっと消えた。
「じゃあ、引き続き頑張って。いい知らせを待っているよ」
「そちらも、ジャックの件、頑張ってくださいね」
ハデスは返事をせずに消えた。
ふん。舐められたものだ。
私の感情は推し! 恋愛感情などという浅ましいものでは断じてない。
そして私は、推しという最大で最高の愛情を抱いているにも関わらず、仕事を遂行している。仕事を放棄するなどという愚行を、どうして心配されなければならないのだ!
美しく、完璧に仕事をこなすことこそ、私のプライドとアイデンティティ。私は推しを愛するとともに、私自身を愛している。
だから、仕事は放棄しない。
皇の証明が終わったら、再び鎌を握るのだ。
✦ ✦ ✦
皇家の車に揺られ辿り着いたのは、スカイツリーだった。日本のシンボルの一つ……!
せっかく日本に来ていたのに、まだ足を運んでいなかったのだ。ナイスチョイス、皇!
「あの人、かっこよくない⁉」
「っていうか、緋王くんに似てない⁉」
「似てる似てる! もしかして、本物⁉」
えっ⁉ 緋王様⁉
慌ててあたりを見ると、皇の声が聞こえた。
「キルコさん」
声の方を見て、はっとした。
前髪を、緋王様のように真ん中に分け、美しい顔をあらわにした皇……! 白いシャツに、黒いテーラードジャケットで、いつもより大人びて見える……。
美しさ、マシマシ……! 輝いて見える……! 美…………っ!
そんな尊い美しき男が、微笑を浮かべながら私の方に近づいてくるのを、周りの人間たちは呆然と眺めていた。
「今日は遅い時間にありがとうございます。それと、今日も綺麗にしてきていただき、ありがとうございます」
私は何も考えず、黒のミニワンピースをさっと着てきただけだった。髪のセットなりなんなりで時間をかけたのは、皇の方だっただろう。
皇が、すっと手を差し伸べてきた。
「よければ」
きゅ――――――ん!
手の差し伸べ方、微笑み、きゅ――――ん!
萌え……っ!
手をつないで歩きだすと、周囲がひそひそ囁き合った。
「あぁ、やっぱり彼女さんかぁ……」
「彼女さんも綺麗〜……。モデルかなんか?」
「もしかして、撮影?」
「似てるけどやっぱ緋王くんじゃないっぽいね」
「でも、めっちゃかっこいい〜!」
緋王様のようだと噂されていたのは、皇だったのか。たしかに、髪型が同じだからか、いつもよりいっそう似ているように見える。皆、そう思うのだな。
「今日は、メガネではないんですね」
「大切な日なので。コンタクトにしてきました」
「持っているんですか?」
「武道の稽古の時は基本的にコンタクトなので」
武道の稽古をしている皇……⁉ 見たい! 道着姿、絶対にかっこいい! 想像するだけで萌える……!
エレベーターに乗り込み、上層階のレストランに通された。夜景の見えるソファ席に並んで座る。
いつもの昼休みと同じようだけど、少し違う。皇が美しすぎるからだろうか。少し暗くて、ムードがあるからだろうか……。
目の前に広がる東京の景色にも感動した。これが、日本の夜景……。先進的で整っていて、美しい。
「ここでの食事が終わったら、最上階に行きましょう。その方が、もっといろいろな地域が見えますので」
「はい」
話題が途切れた。景色を眺めながら、ふと、今日の仕事について考えなければ……と思った。
運命写真機で、皇を撮る。
美…………!
ぶわりと文字が浮き出す。
今日は私の手でどうにかつくりだすしかなさそうだ。
ここにある凶器となりそうなものといったら――。
あれを使うか。
✦ ✦ ✦
カニの乗ったサラダ、たっぷりのウニ、そして、ジャパニーズ・伊勢エビ……!
どれもこれも、濃厚な甘味と旨みがギュッと凝縮されていて美味しい! ああ、日本の高級食材は素晴らしい……! 一つ一つが上品で上質。まるで緋王様のよう……。
ステーキと白米、抹茶アイスを美味しく平らげる。
温かい緑茶が運ばれてきた。ほぅと一息つくと、照明がゆっくりと落ちた。
かと思うと、店員のような者が二人、なにかを運んできた。黒い管をゴソゴソとつなぐ。そして皇が、窓の前に立った。改めて全身を見て、美しさにどきりとする……。
「それではこれより、キルコさんの僕への感情が『推し』ではないことの証明をはじめさせていただきます」
え? 今、ここで?
皇の後ろの窓に、白いカーテンが降りる。
そこに、パッと文字が映し出された。
『エルデ キルコさんの皇 秀英への感情が“推し”ではないことの証明』。
店員二人がこそこそ出ていく。
「それでは、はじめさせていただきます。
はじめに、結論からお伝えします。
キルコさんの感情は、恋愛感情であると考えます」
――え?
「恋愛の定義は個々人によるもので、明確なものはないとされています。なので、本来はキルコさん自身の恋愛の定義にあてはめて証明したかったのですが、恋愛の経験がないとのことなので、それができません。そのため、今回は一般的な恋愛の定義を用いて証明していきます。
最終的に恋愛感情だと決めるのはキルコさん自身なので、僕の証明を聞き、自身の感情が恋愛感情かどうか、最後に検討してください。
まず、複数の心理学者の文献から、一般的な恋愛の定義を次のようにまとめました」
画面が切り替わり、六項目がずらりと並んだ。
『《一般的な恋愛の定義》
一.相手の外見や内面に魅力を感じる
二.相手に性的接触を求める
三.相手と二人でいたい、独占したいという気持ちがある(独占欲、または共依存)
四.相手を幸せにしたいという気持ちがある
五.相手と一緒にいることで強い幸福感や高揚を感じる(心拍数の上昇、セロトニン量の変化)
六.相手と一緒にいられないと考えると、自分自身の一部が抜け落ちたような感覚になる(アイデンティティの融合)』
「これから、キルコさんの僕への感情が、これらにあてはまっていることを、証明していきます。あてはまったかどうかをより明確にするため、あてはまったら1ポイント、一部あてはまったら0.5ポイントとして換算し、数値化していきます。3ポイント以上になった場合、恋愛感情であることが証明されることとします。
はじめに、一.相手の外見や内面に魅力を感じるについてです。これは、顔が好きだと言ってくれていますし、内面についても好きな点をあげてくださったことからあてはまると言えます。1ポイントです。
次に、二.相手に性的接触を求めるについてです。キルコさんは僕に、『愛してる』という言葉やキスを思わせる仕草、手をつなぐことなどを要求した経験があります。1ポイントです」
性的接触⁉ いや、たしかにそうかもししれないが……! 皇は、私がそれを求めていると受け取ったのか⁉ ただのファンサのつもりだったのに……!
「三.相手と二人でいたい、独占したいという気持ちがある(独占欲、または共依存)についてです。水曜日の最後に質問したのは、ルービンの恋愛尺度を元とした質問事項でした。このうち、会いたい等の項目があてはまりましたので、これもあてはまるといえます。なんでも許せる、という項目も共依存にあてはまります。ただし、独占欲に関してはあてはまりませんでした。そのため、0.5ポイントです。
四.相手を幸せにしたいと言う気持ちがあるについては、質問事項の回答で、僕に対してよりアイドルへの気持ちの方が強いとのことでしたので、あてはまりませんでした。0ポイントです。
五.相手と一緒にいることで強い幸福感や高揚を感じる(心拍数の上昇、セロトニン量の変化)についてです。心拍計のデータから、僕と一緒にいる、または性的接触があった場合に心拍数が上がっていたことが分かりました。また、僕と抱擁した後に飲んだお茶についた唾液から、セロトニン量が通常よりも多く分泌されていたことが分かりました。さらに水曜日、僕に甘えられると言う言葉がありましたので、これも幸福感にあてはまると考えられます。1ポイントです」
唾液を採取されていた……? そして、それを分析されていた⁉ 思わず口を抑えた。
というか私のこの人間の姿は、人間と同様の成分が出るのか……。
「六.相手と一緒にいられないと考えると、自分自身の一部が抜け落ちたような感覚になる(アイデンティティの融合)については、いったんあてはまらないものとします。
ただし、以上の点は、キルコさんの提示した推しの定義である外見が最も好きか、内面が尊敬するほど好きか、応援したい気持ちがあるか、そのうえで他の存在の中で最も好きかの四つの項目のうち応援したい気持ち以外の内容に重なるところがあります。
そのため、キルコさんの推しであるアイドルへの感情との比較を行います」
画面が切り替わる。
『《推しであるアイドルへの感情との比較》
一.アイドルには性的接触を求めない。
二.皇 秀英に対しては甘えられる。関係に安心感がある。
三.アイドルに対しては“永遠に生きてほしい”、皇 秀英に対しては“一緒に死のう”という感情がある』
「以上の一、二から、アイドルよりも僕に対する感情の方が恋愛の定義に近いといえます。
三についても、僕への恋愛感情が表れていると考えられます。
永遠に生きてほしいのは自分の人生と隔絶しているということです。ですが、心中しよう、一緒に死のうという発言については、僕と同じ人生を歩みたいという深層心理がある可能性があると考えられます。
また、キルコさんは、最高の幸せを感じた時に、死にたいと思うと言いました。一緒にいたいからこそ、一緒にいる時に死んで、現在感じている幸せを永遠のものにしたいと思っているのではないかとも解釈できます。
つまり、一緒にいたい、一緒にいることが幸せだと思ってくれているということです。
これは、六に一部あてはまると考えます。
なので、六については、0.5ポイントです。
ポイントの総計は、6ポイント中4ポイントという結果になりました。
以上のことから、キルコさんは僕に、推し以上の感情を――恋愛感情を抱いているといえます」
………………。
「キルコさんは、恋は軽薄なものだと言っていたので、念のためにお伝えしておきます。僕が主張したいのは、恋ではなく恋愛感情です。恋は性的な感情を抱き相手に求めること。ですが、愛、相手を慈しみ尊重する心が伴うもの。だから、決して軽薄なものではありません。僕は、この世界で一番人間らしく、幸福な感情だと思います。
ですから、恋に抵抗があっても、僕が提示する恋愛感情とは違うものだと踏まえて検討をお願いします。
繰り返しになりますが、僕の証明はあくまで論理的、心理学的分析による証明です。最後にキルコさんの気持ちを決めるのはキルコさんなので、ご検討、よろしくお願いします。
そして、恋愛感情であると判断した暁には、僕と、恋人になることを提案します」
…………恋、人…………?
…………え………………?
「最後に、僕と恋人になるべき理由をお話しします」
画面が切り替わる。
『《皇 秀英と恋人になるべき理由》
一.キルコさんが僕に望むことがなんでもできるようになる。
二.将来的にもキルコさんの満足する生活をおくることができる。
三.普遍的な関係性の保障により大きな安心感を抱くことができる』
「一つ目は、現在キルコさんが僕に望んでいることより多くのことを僕が叶えられるようになる、ということです。恋人でなければできないことも可能になりますから」
ごくっ……。今より……! み、魅力的……!
「二つ目については、まだ正確な進路は決まっていませんが、僕は必ず研究者になります。実家もあるので、必ず就職できます。お望みなら実家の株も相談していくらかお渡ししますし、経済面でキルコさんを不安にさせることはありません」
え? 仕事、辞めていい?
「最後ですが……」
皇は、小さな咳払いをした。
そして、今までになく真剣なまなざしで、私をまっすぐに見た。
「――僕は、キルコさんを永遠に愛することを誓います。僕の気持ちは、絶対に変わりません。恋人になったら、その関係は、死ぬまで解消しません。
以上を踏まえて、キルコさんの僕への感情と、僕との関係について、検討をお願いします」
…………。
…………私は、何を聞かされたのだろう。
皇が、私を…………?
いや、というか……私と皇が、恋人……?
そもそも――私が皇を、恋愛的感情で好き……?
違う。
私の皇への感情が、恋愛感情なわけがない。
たしかに皇が言ったことは正しいと思うところもある。緋王様への感情とは違う――推しの定義からはみ出す気持ちもたくさんある。
それでも私は、皇を推している。この感情は推しへの愛だ。
でも、恋人にならないと言ったらどうなるのだろう。
私と皇の関係は? 距離は?
ここまで築いてきたものが崩れるかもしれない。仕事に支障をきたすかもしれない。恐れが胸に広がる。
だとしたら、恋人になるのが正しいのでは?
よりいっそう近い距離で、油断をさせて、皇の魂を狩ることができるかもしれない。
……だけど。
だけど、私は。
私の、気持ちは…………。
「――……私の気持ちは、恋愛感情では、ありません。
私にとって、皇さんは、推しです。
だから、これからも、この関係でありたい。それでは、だめでしょうか」
顔を、上げられなかった。皇の顔を見ることができなかった。
皇の手が、視界の端に映っていた。開いていた大きな手がゆっくり閉じていく。血管が浮き出るほど、強く、こぶしを握りしめている。なにかに耐えるように。
ただ、それを見ているだけなのに、胸が痛い。目が熱い。
どうしてだろう。
きゅっと唇を噛む。
「…………分かり、ました。
検討いただき、ありがとうございました」
今にも消えそうな皇の声に、息ができなくなった。
私も、いつのまにかこぶしを握っていた。
✦ ✦ ✦
レストランを出ると、皇の足が、私の足と逆の方向に進んだ。
「行かないんですか、最上階」
「……そうでした。行きましょう」
エレベーターに乗り込むと、100階も上なのに、わずか50秒でついてしまった。
素晴らしいジャパニーズ・テクノロジー。ただただ感心する。
もう遅い時間だからか、人はまばらだった。
キラキラと光る窓の外の景色に吸い込まれるようにガラスに近づく。
あ、あれは、東京タワー!
ただの夜景も、東京タワーが見えるだけで日本という感じがして、見ていて嬉しい気持ちになった。
これだけ高くから日本を眺めるのはいいものだ。日本のすべてが手に入ったような気分になる。
愛おしくて、嬉しい。
東京タワーの上に、稲光がうねった。
「3、2、1……」
ゴロゴロゴロ……。
なぜ分かった?
じっと見ると、ぼんやりしていた皇が、はっとした。
「つい、癖で……。稲光が見えると、雷鳴までの時間を数えてしまって」
計算で分かるものなのか。
また、ぴかりと光った。
「次はいつ鳴りますか?」
「え? あ……鳴ります」
ゴロゴロゴロゴロ……。
面白い。
私は稲光をつくり、「次は?」と催促した。どれも全部ぴたりと当たる。
「まるで、神のようですね」
そう言って皇を見ると、久しぶりに目が合った。
けれど皇は、唇をきゅっと噛みしめて、すぐに窓の外に目を戻した。
それからは、何も言葉を交わさずに、ゆっくり歩いて景色を眺めた。
半歩後ろを歩く皇の存在が、ゆらめいているように感じる。
東京タワーの見える窓に戻ってくると、皇がぽつりと、「帰りましょうか」と言った。
二人きりでエレベーターに乗り込む。すごい速度で、どんどん下に降りていく。
心の中で三つ数える。
3、2、1――。
ふっと光が消えた。
直後、ガクンと落ちる感覚がはじまった。
私の力で、エレベーターを落としたのだ。
降りている途中だったから、地上300mほどのところからぷつりと落ちたことになる。
凄まじい速さと、圧迫感。床に這いつくばることしかできないこの状況で、もはや助かることなどできまい。
皇をちらりと見る。
皇は――静かにしゃがんでいた。
いつものようになにかを考えている様子でもない。
助かろうという気持ちさえも感じない。
証明が終わったら精神面は落ち着くだろうと踏んでいたが……。
――生きたいという気持ちが、消えている……?
「……体をすべて、床につけてください」
皇が、私をやさしく押し倒した。
肩が、床に押しつけられる。
「体重が分散するので、助かります。しっかり脚を伸ばして、仰向けになってください」
そう言いながら、皇は動かない。
ただ、私を見つめている。悲しそうに、眉間に皺を寄せ、目を細めて。
私も、皇を見つめた。
私の人生で最も好きなこの顔が、見納めになってしまうと、そう察したから――。
あと少しで、地面にぶつかる。
その時だった。
「…………っ」
皇の顔が泣いてしまいそうに歪んだ。
そして、がばりと私を抱きしめた。
――ドォン!
地上に、落下した。衝撃が背中に走ったが、それほどではなかった。真っ暗な空間の中に、「セーフティモード」という緑色の光文字が点滅しているのが見えた。
ジャパニーズ・テクノロジーを舐めていた、か。
しん、と闇の中が静かになった。
皇は、動かなかった。私を強く抱きしめたまま。
「……皇さん」
かろうじて動かせる手で、皇のジャケットの裾を引っ張る。
皇は、いっそうぎゅっと力を込めた。
「…………僕は………………。
…………僕は…………。
…………もし、キルコさんになにかあったら、なんだってして守りたい。
落ち込んでいたら僕が元気にしたいし、キルコさんが幸せになれるなら、僕にできないことでもやる。
キルコさんが他の誰でもなく、僕と一緒にいることを選んでくれることが嬉しいし、これからも僕だけを選んでくれればいいと思う。キルコさんのそばで、キルコさんを幸せにするのは僕だけでありたい。
無意識に目で追ってしまうし、会えない間も帰り道も夜も、ずっと、キルコさんのことばかり考えている。近くにいるだけで心拍数が今までにないほど上がって、今までにないような感情ばかり生まれて、冷静に考えることもできなくて。僕をそんなふうにするのは、キルコさんだけなんです。
全部知りたいし、抱きしめたいし、手を握りたい。無邪気で不思議なキルコさんが、可愛くて仕方ないんです。
キルコさんがキルコさんなら、僕の知らないどんな面があってもいい。それを知ることができなくたって、全部、愛してる……。
キルコさんが僕とずっと一緒にいてくれないというのなら、僕はもう、生きていく意味が分からない。僕の人生の中で、キルコさんより美しいものも、キルコさんと一緒に過ごす時間より輝くものも、何もない。
僕は、キルコさんのことが、恋愛的に好きなんです……!」
ドクン、と胸が鳴った。暗闇の中で、抱きしめられたままで、皇の顔は見えないのに。
震える必死な声音が、続けた。
「だから僕は、このままの関係でいることはできません。
キルコさんと恋人になれないなら、僕はもう、キルコさんに顔は見せません。僕たちの関係を終わらせます。
それがいやなら――……僕を、抱きしめてください……」
ハッと息を呑んだ。
心臓は、バクバクと鳴り響いていた。
関係を、終わらせる――。
皇のたった一言が、胸の奥を深く突き刺した。
痛くて、苦しくて——。
耐えきれず、溢れた涙が流れ落ちた。
私は、皇の背中を、きゅっと握りしめた。
とはいっても、学校には行く。皇に萌えるためだ。ファンサをもらって、とりとめのない質問をされて帰る。それだけの二日間だった。
金曜日の帰り際、皇から手紙を渡された。
『キルコさんへ
明日はよろしくお願いします。
夕方十七時に駅に車を向かわせます。いつものナンバーの車に乗り込んでください。
終了時刻は二十時以降を予定しています。遅い時間となりますが、帰りもお送りしますので安心してください。
楽しみにしています。
皇 秀英』
とうとう、私の気持ちが推しではないことの証明をされるらしい。
なぜ私の気持ちが推しでないということを証明するのだろう。そして、それになんの意味があるのだろう。やけに真剣だったし……。この証明の先に目標があるとも言っていた。
ファンサと萌えに夢中なあまり意識せずにいたが、直前になったからなのか、ようやく疑問が湧いてきた。
「おはよう、キル・リ・エルデ。何を読んでるの?」
ソファの後ろから、ハデスが覗き込んできた。
またか。不法侵入上司が。
「おはようございます。本日の仕事に必要な資料です。ところで、どうしてここに?」
「君の進捗状況を聞きにきたのと、ジャックの痕跡を探しにね」
「てっきりもう捕まったかと。しばらく来ていなかったので」
「まあ、時間の問題だけどね。部下どもに、ジャックを捕えたら君が求婚に応じてくれるからと言ったら、血眼になって仕事をするようになったからね。使えないやつらだが、あの勢いならなんとかやりきるだろう」
またか……! 毎度毎度、私を餌にしてけしかけやがって……!
ハデスのこういう、部下を道具としか思っていないところが憎らしくてならない。この私が、こんなやつに道具と思われ、雑に使われているという事実が死ぬほどいやだ。
ああ、仕事、辞めたい。
「おや? これは何?」
ハデスが皇コーナーの前にしゃがみ込んだ。
「まさか、好きになった……とか、ないよね?」
――推しです。
と答えそうになったのをぐっと噛みしめ、私は笑顔をつくった。
「仕事への意識を保つためのものです」
「これ、ツーショット?」
「距離感を縮め、いつでも隙をつけるようにしているのです」
「ふぅん?」
ハデスの蛇のような目が、じろりと私を睨んだ。
私も、変わらぬ表情で見据え返す。
ハデスは、ふっと頬を緩めた。
「そうだよね? 2000年、あらゆる男を振り続けてきた君が、人間――あまつさえ、標的の男に堕ちるなんて。そんなプライドとアイデンティティを捨てるようなこと、まさかしないよね?」
「信じていただけましたか?」
「君のことは信じているよ。君は優秀で、何よりもキャリアの優先する死神だ。絶対に失敗はしないし、落ちぶれるようなこともしない。
だけど、かなり時間がかかっているし、念には念を押しておく。標的に恋愛感情をもったから殺せないなんていうことは、許されないよ」
ヒュッと、私の喉元にハデスの鎌の切っ先が触れた。
私のものとは違う、不気味に光る鎌――西洋支部長のハデスと東洋支部のイザナミ様だけが持つ、死神殺しの鎌だ。
「当たり前です」
「そうだね」
ハデスの鎌がふっと消えた。
「じゃあ、引き続き頑張って。いい知らせを待っているよ」
「そちらも、ジャックの件、頑張ってくださいね」
ハデスは返事をせずに消えた。
ふん。舐められたものだ。
私の感情は推し! 恋愛感情などという浅ましいものでは断じてない。
そして私は、推しという最大で最高の愛情を抱いているにも関わらず、仕事を遂行している。仕事を放棄するなどという愚行を、どうして心配されなければならないのだ!
美しく、完璧に仕事をこなすことこそ、私のプライドとアイデンティティ。私は推しを愛するとともに、私自身を愛している。
だから、仕事は放棄しない。
皇の証明が終わったら、再び鎌を握るのだ。
✦ ✦ ✦
皇家の車に揺られ辿り着いたのは、スカイツリーだった。日本のシンボルの一つ……!
せっかく日本に来ていたのに、まだ足を運んでいなかったのだ。ナイスチョイス、皇!
「あの人、かっこよくない⁉」
「っていうか、緋王くんに似てない⁉」
「似てる似てる! もしかして、本物⁉」
えっ⁉ 緋王様⁉
慌ててあたりを見ると、皇の声が聞こえた。
「キルコさん」
声の方を見て、はっとした。
前髪を、緋王様のように真ん中に分け、美しい顔をあらわにした皇……! 白いシャツに、黒いテーラードジャケットで、いつもより大人びて見える……。
美しさ、マシマシ……! 輝いて見える……! 美…………っ!
そんな尊い美しき男が、微笑を浮かべながら私の方に近づいてくるのを、周りの人間たちは呆然と眺めていた。
「今日は遅い時間にありがとうございます。それと、今日も綺麗にしてきていただき、ありがとうございます」
私は何も考えず、黒のミニワンピースをさっと着てきただけだった。髪のセットなりなんなりで時間をかけたのは、皇の方だっただろう。
皇が、すっと手を差し伸べてきた。
「よければ」
きゅ――――――ん!
手の差し伸べ方、微笑み、きゅ――――ん!
萌え……っ!
手をつないで歩きだすと、周囲がひそひそ囁き合った。
「あぁ、やっぱり彼女さんかぁ……」
「彼女さんも綺麗〜……。モデルかなんか?」
「もしかして、撮影?」
「似てるけどやっぱ緋王くんじゃないっぽいね」
「でも、めっちゃかっこいい〜!」
緋王様のようだと噂されていたのは、皇だったのか。たしかに、髪型が同じだからか、いつもよりいっそう似ているように見える。皆、そう思うのだな。
「今日は、メガネではないんですね」
「大切な日なので。コンタクトにしてきました」
「持っているんですか?」
「武道の稽古の時は基本的にコンタクトなので」
武道の稽古をしている皇……⁉ 見たい! 道着姿、絶対にかっこいい! 想像するだけで萌える……!
エレベーターに乗り込み、上層階のレストランに通された。夜景の見えるソファ席に並んで座る。
いつもの昼休みと同じようだけど、少し違う。皇が美しすぎるからだろうか。少し暗くて、ムードがあるからだろうか……。
目の前に広がる東京の景色にも感動した。これが、日本の夜景……。先進的で整っていて、美しい。
「ここでの食事が終わったら、最上階に行きましょう。その方が、もっといろいろな地域が見えますので」
「はい」
話題が途切れた。景色を眺めながら、ふと、今日の仕事について考えなければ……と思った。
運命写真機で、皇を撮る。
美…………!
ぶわりと文字が浮き出す。
今日は私の手でどうにかつくりだすしかなさそうだ。
ここにある凶器となりそうなものといったら――。
あれを使うか。
✦ ✦ ✦
カニの乗ったサラダ、たっぷりのウニ、そして、ジャパニーズ・伊勢エビ……!
どれもこれも、濃厚な甘味と旨みがギュッと凝縮されていて美味しい! ああ、日本の高級食材は素晴らしい……! 一つ一つが上品で上質。まるで緋王様のよう……。
ステーキと白米、抹茶アイスを美味しく平らげる。
温かい緑茶が運ばれてきた。ほぅと一息つくと、照明がゆっくりと落ちた。
かと思うと、店員のような者が二人、なにかを運んできた。黒い管をゴソゴソとつなぐ。そして皇が、窓の前に立った。改めて全身を見て、美しさにどきりとする……。
「それではこれより、キルコさんの僕への感情が『推し』ではないことの証明をはじめさせていただきます」
え? 今、ここで?
皇の後ろの窓に、白いカーテンが降りる。
そこに、パッと文字が映し出された。
『エルデ キルコさんの皇 秀英への感情が“推し”ではないことの証明』。
店員二人がこそこそ出ていく。
「それでは、はじめさせていただきます。
はじめに、結論からお伝えします。
キルコさんの感情は、恋愛感情であると考えます」
――え?
「恋愛の定義は個々人によるもので、明確なものはないとされています。なので、本来はキルコさん自身の恋愛の定義にあてはめて証明したかったのですが、恋愛の経験がないとのことなので、それができません。そのため、今回は一般的な恋愛の定義を用いて証明していきます。
最終的に恋愛感情だと決めるのはキルコさん自身なので、僕の証明を聞き、自身の感情が恋愛感情かどうか、最後に検討してください。
まず、複数の心理学者の文献から、一般的な恋愛の定義を次のようにまとめました」
画面が切り替わり、六項目がずらりと並んだ。
『《一般的な恋愛の定義》
一.相手の外見や内面に魅力を感じる
二.相手に性的接触を求める
三.相手と二人でいたい、独占したいという気持ちがある(独占欲、または共依存)
四.相手を幸せにしたいという気持ちがある
五.相手と一緒にいることで強い幸福感や高揚を感じる(心拍数の上昇、セロトニン量の変化)
六.相手と一緒にいられないと考えると、自分自身の一部が抜け落ちたような感覚になる(アイデンティティの融合)』
「これから、キルコさんの僕への感情が、これらにあてはまっていることを、証明していきます。あてはまったかどうかをより明確にするため、あてはまったら1ポイント、一部あてはまったら0.5ポイントとして換算し、数値化していきます。3ポイント以上になった場合、恋愛感情であることが証明されることとします。
はじめに、一.相手の外見や内面に魅力を感じるについてです。これは、顔が好きだと言ってくれていますし、内面についても好きな点をあげてくださったことからあてはまると言えます。1ポイントです。
次に、二.相手に性的接触を求めるについてです。キルコさんは僕に、『愛してる』という言葉やキスを思わせる仕草、手をつなぐことなどを要求した経験があります。1ポイントです」
性的接触⁉ いや、たしかにそうかもししれないが……! 皇は、私がそれを求めていると受け取ったのか⁉ ただのファンサのつもりだったのに……!
「三.相手と二人でいたい、独占したいという気持ちがある(独占欲、または共依存)についてです。水曜日の最後に質問したのは、ルービンの恋愛尺度を元とした質問事項でした。このうち、会いたい等の項目があてはまりましたので、これもあてはまるといえます。なんでも許せる、という項目も共依存にあてはまります。ただし、独占欲に関してはあてはまりませんでした。そのため、0.5ポイントです。
四.相手を幸せにしたいと言う気持ちがあるについては、質問事項の回答で、僕に対してよりアイドルへの気持ちの方が強いとのことでしたので、あてはまりませんでした。0ポイントです。
五.相手と一緒にいることで強い幸福感や高揚を感じる(心拍数の上昇、セロトニン量の変化)についてです。心拍計のデータから、僕と一緒にいる、または性的接触があった場合に心拍数が上がっていたことが分かりました。また、僕と抱擁した後に飲んだお茶についた唾液から、セロトニン量が通常よりも多く分泌されていたことが分かりました。さらに水曜日、僕に甘えられると言う言葉がありましたので、これも幸福感にあてはまると考えられます。1ポイントです」
唾液を採取されていた……? そして、それを分析されていた⁉ 思わず口を抑えた。
というか私のこの人間の姿は、人間と同様の成分が出るのか……。
「六.相手と一緒にいられないと考えると、自分自身の一部が抜け落ちたような感覚になる(アイデンティティの融合)については、いったんあてはまらないものとします。
ただし、以上の点は、キルコさんの提示した推しの定義である外見が最も好きか、内面が尊敬するほど好きか、応援したい気持ちがあるか、そのうえで他の存在の中で最も好きかの四つの項目のうち応援したい気持ち以外の内容に重なるところがあります。
そのため、キルコさんの推しであるアイドルへの感情との比較を行います」
画面が切り替わる。
『《推しであるアイドルへの感情との比較》
一.アイドルには性的接触を求めない。
二.皇 秀英に対しては甘えられる。関係に安心感がある。
三.アイドルに対しては“永遠に生きてほしい”、皇 秀英に対しては“一緒に死のう”という感情がある』
「以上の一、二から、アイドルよりも僕に対する感情の方が恋愛の定義に近いといえます。
三についても、僕への恋愛感情が表れていると考えられます。
永遠に生きてほしいのは自分の人生と隔絶しているということです。ですが、心中しよう、一緒に死のうという発言については、僕と同じ人生を歩みたいという深層心理がある可能性があると考えられます。
また、キルコさんは、最高の幸せを感じた時に、死にたいと思うと言いました。一緒にいたいからこそ、一緒にいる時に死んで、現在感じている幸せを永遠のものにしたいと思っているのではないかとも解釈できます。
つまり、一緒にいたい、一緒にいることが幸せだと思ってくれているということです。
これは、六に一部あてはまると考えます。
なので、六については、0.5ポイントです。
ポイントの総計は、6ポイント中4ポイントという結果になりました。
以上のことから、キルコさんは僕に、推し以上の感情を――恋愛感情を抱いているといえます」
………………。
「キルコさんは、恋は軽薄なものだと言っていたので、念のためにお伝えしておきます。僕が主張したいのは、恋ではなく恋愛感情です。恋は性的な感情を抱き相手に求めること。ですが、愛、相手を慈しみ尊重する心が伴うもの。だから、決して軽薄なものではありません。僕は、この世界で一番人間らしく、幸福な感情だと思います。
ですから、恋に抵抗があっても、僕が提示する恋愛感情とは違うものだと踏まえて検討をお願いします。
繰り返しになりますが、僕の証明はあくまで論理的、心理学的分析による証明です。最後にキルコさんの気持ちを決めるのはキルコさんなので、ご検討、よろしくお願いします。
そして、恋愛感情であると判断した暁には、僕と、恋人になることを提案します」
…………恋、人…………?
…………え………………?
「最後に、僕と恋人になるべき理由をお話しします」
画面が切り替わる。
『《皇 秀英と恋人になるべき理由》
一.キルコさんが僕に望むことがなんでもできるようになる。
二.将来的にもキルコさんの満足する生活をおくることができる。
三.普遍的な関係性の保障により大きな安心感を抱くことができる』
「一つ目は、現在キルコさんが僕に望んでいることより多くのことを僕が叶えられるようになる、ということです。恋人でなければできないことも可能になりますから」
ごくっ……。今より……! み、魅力的……!
「二つ目については、まだ正確な進路は決まっていませんが、僕は必ず研究者になります。実家もあるので、必ず就職できます。お望みなら実家の株も相談していくらかお渡ししますし、経済面でキルコさんを不安にさせることはありません」
え? 仕事、辞めていい?
「最後ですが……」
皇は、小さな咳払いをした。
そして、今までになく真剣なまなざしで、私をまっすぐに見た。
「――僕は、キルコさんを永遠に愛することを誓います。僕の気持ちは、絶対に変わりません。恋人になったら、その関係は、死ぬまで解消しません。
以上を踏まえて、キルコさんの僕への感情と、僕との関係について、検討をお願いします」
…………。
…………私は、何を聞かされたのだろう。
皇が、私を…………?
いや、というか……私と皇が、恋人……?
そもそも――私が皇を、恋愛的感情で好き……?
違う。
私の皇への感情が、恋愛感情なわけがない。
たしかに皇が言ったことは正しいと思うところもある。緋王様への感情とは違う――推しの定義からはみ出す気持ちもたくさんある。
それでも私は、皇を推している。この感情は推しへの愛だ。
でも、恋人にならないと言ったらどうなるのだろう。
私と皇の関係は? 距離は?
ここまで築いてきたものが崩れるかもしれない。仕事に支障をきたすかもしれない。恐れが胸に広がる。
だとしたら、恋人になるのが正しいのでは?
よりいっそう近い距離で、油断をさせて、皇の魂を狩ることができるかもしれない。
……だけど。
だけど、私は。
私の、気持ちは…………。
「――……私の気持ちは、恋愛感情では、ありません。
私にとって、皇さんは、推しです。
だから、これからも、この関係でありたい。それでは、だめでしょうか」
顔を、上げられなかった。皇の顔を見ることができなかった。
皇の手が、視界の端に映っていた。開いていた大きな手がゆっくり閉じていく。血管が浮き出るほど、強く、こぶしを握りしめている。なにかに耐えるように。
ただ、それを見ているだけなのに、胸が痛い。目が熱い。
どうしてだろう。
きゅっと唇を噛む。
「…………分かり、ました。
検討いただき、ありがとうございました」
今にも消えそうな皇の声に、息ができなくなった。
私も、いつのまにかこぶしを握っていた。
✦ ✦ ✦
レストランを出ると、皇の足が、私の足と逆の方向に進んだ。
「行かないんですか、最上階」
「……そうでした。行きましょう」
エレベーターに乗り込むと、100階も上なのに、わずか50秒でついてしまった。
素晴らしいジャパニーズ・テクノロジー。ただただ感心する。
もう遅い時間だからか、人はまばらだった。
キラキラと光る窓の外の景色に吸い込まれるようにガラスに近づく。
あ、あれは、東京タワー!
ただの夜景も、東京タワーが見えるだけで日本という感じがして、見ていて嬉しい気持ちになった。
これだけ高くから日本を眺めるのはいいものだ。日本のすべてが手に入ったような気分になる。
愛おしくて、嬉しい。
東京タワーの上に、稲光がうねった。
「3、2、1……」
ゴロゴロゴロ……。
なぜ分かった?
じっと見ると、ぼんやりしていた皇が、はっとした。
「つい、癖で……。稲光が見えると、雷鳴までの時間を数えてしまって」
計算で分かるものなのか。
また、ぴかりと光った。
「次はいつ鳴りますか?」
「え? あ……鳴ります」
ゴロゴロゴロゴロ……。
面白い。
私は稲光をつくり、「次は?」と催促した。どれも全部ぴたりと当たる。
「まるで、神のようですね」
そう言って皇を見ると、久しぶりに目が合った。
けれど皇は、唇をきゅっと噛みしめて、すぐに窓の外に目を戻した。
それからは、何も言葉を交わさずに、ゆっくり歩いて景色を眺めた。
半歩後ろを歩く皇の存在が、ゆらめいているように感じる。
東京タワーの見える窓に戻ってくると、皇がぽつりと、「帰りましょうか」と言った。
二人きりでエレベーターに乗り込む。すごい速度で、どんどん下に降りていく。
心の中で三つ数える。
3、2、1――。
ふっと光が消えた。
直後、ガクンと落ちる感覚がはじまった。
私の力で、エレベーターを落としたのだ。
降りている途中だったから、地上300mほどのところからぷつりと落ちたことになる。
凄まじい速さと、圧迫感。床に這いつくばることしかできないこの状況で、もはや助かることなどできまい。
皇をちらりと見る。
皇は――静かにしゃがんでいた。
いつものようになにかを考えている様子でもない。
助かろうという気持ちさえも感じない。
証明が終わったら精神面は落ち着くだろうと踏んでいたが……。
――生きたいという気持ちが、消えている……?
「……体をすべて、床につけてください」
皇が、私をやさしく押し倒した。
肩が、床に押しつけられる。
「体重が分散するので、助かります。しっかり脚を伸ばして、仰向けになってください」
そう言いながら、皇は動かない。
ただ、私を見つめている。悲しそうに、眉間に皺を寄せ、目を細めて。
私も、皇を見つめた。
私の人生で最も好きなこの顔が、見納めになってしまうと、そう察したから――。
あと少しで、地面にぶつかる。
その時だった。
「…………っ」
皇の顔が泣いてしまいそうに歪んだ。
そして、がばりと私を抱きしめた。
――ドォン!
地上に、落下した。衝撃が背中に走ったが、それほどではなかった。真っ暗な空間の中に、「セーフティモード」という緑色の光文字が点滅しているのが見えた。
ジャパニーズ・テクノロジーを舐めていた、か。
しん、と闇の中が静かになった。
皇は、動かなかった。私を強く抱きしめたまま。
「……皇さん」
かろうじて動かせる手で、皇のジャケットの裾を引っ張る。
皇は、いっそうぎゅっと力を込めた。
「…………僕は………………。
…………僕は…………。
…………もし、キルコさんになにかあったら、なんだってして守りたい。
落ち込んでいたら僕が元気にしたいし、キルコさんが幸せになれるなら、僕にできないことでもやる。
キルコさんが他の誰でもなく、僕と一緒にいることを選んでくれることが嬉しいし、これからも僕だけを選んでくれればいいと思う。キルコさんのそばで、キルコさんを幸せにするのは僕だけでありたい。
無意識に目で追ってしまうし、会えない間も帰り道も夜も、ずっと、キルコさんのことばかり考えている。近くにいるだけで心拍数が今までにないほど上がって、今までにないような感情ばかり生まれて、冷静に考えることもできなくて。僕をそんなふうにするのは、キルコさんだけなんです。
全部知りたいし、抱きしめたいし、手を握りたい。無邪気で不思議なキルコさんが、可愛くて仕方ないんです。
キルコさんがキルコさんなら、僕の知らないどんな面があってもいい。それを知ることができなくたって、全部、愛してる……。
キルコさんが僕とずっと一緒にいてくれないというのなら、僕はもう、生きていく意味が分からない。僕の人生の中で、キルコさんより美しいものも、キルコさんと一緒に過ごす時間より輝くものも、何もない。
僕は、キルコさんのことが、恋愛的に好きなんです……!」
ドクン、と胸が鳴った。暗闇の中で、抱きしめられたままで、皇の顔は見えないのに。
震える必死な声音が、続けた。
「だから僕は、このままの関係でいることはできません。
キルコさんと恋人になれないなら、僕はもう、キルコさんに顔は見せません。僕たちの関係を終わらせます。
それがいやなら――……僕を、抱きしめてください……」
ハッと息を呑んだ。
心臓は、バクバクと鳴り響いていた。
関係を、終わらせる――。
皇のたった一言が、胸の奥を深く突き刺した。
痛くて、苦しくて——。
耐えきれず、溢れた涙が流れ落ちた。
私は、皇の背中を、きゅっと握りしめた。