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恋人。
キルコさんと、僕が…………。
ベッドにもぐったまま、真っ黒な天井を見つめる。
キルコさんの恋人になれたのだという実感が、38%ほどしか湧かない。
その中で、嬉しい気持ちが44%、もやもやとした不満感が56%を占めていた。
こんなはずじゃなかった。
100%の嬉しさが、僕の心を満たしているはずだった。
✦ ✦ ✦
中庭の小鳥の囀りで目が覚めた。
ゆっくり昨晩の記憶が戻り、キルコさんと恋人になったことを思い出すと、実感のパーセンテージが69%まで上がった。
嬉しさも、58%まで上がっている。だが、不満感が42%残っていた。
食事の間に入ると、珍しく、テーブルに朝食が並んでいなかった。台所からにおいはするのに。
すっと襖が開いて、母が入ってきた。
「おはよう、秀ちゃん」
「おはよう」
母は静かに襖を閉め、静かに僕の前に正座した。
「……それで、昨日の結果は……?」
「恋人になってもらえることになった」
「まあ! まあまあまあ! やったわー! あぁ、よかったぁ〜! はぁっ! ノブさん、トメさん! お祝い膳! お祝い膳の方よ!! 推しカプの誕生よぉ〜っ!!」
母は甲高い声で叫びながら、小走りで台所に駆けていった。
運ばれてきたのは、赤飯、紅白なます、鯛の塩焼き、煮物、はまぐりのお吸い物だった。だめだった時用食事も別で用意されていたらしい。
いただきます、と手を合わせて箸を取り、母は機嫌良く肩を揺らしながら鯛をほぐした。
「紅白饅頭もあるから、これを食べたらお茶と一緒に食べましょう! んっふふふ……よかったわねぇ、よかった! ああ、キルコさん、いつ来てくれるかしら? 推しカプ拝みた〜い!」
「お互いの家への挨拶は必要だから、相談しておく」
「そうねぇ! 秀ちゃんも、キルコさんのお宅に挨拶に行った方がいいわ。そのまえに一筆書いた方がいいかも。大事なお嬢さんとお付き合い……いいえ、ゆくゆくは結婚させていただくんだから! うふふふふ!
……ねぇ? どうしてそんなにいつも通りなの? 嬉しくないの?」
「58%は嬉しい。42%は不満」
「お付き合いできたのに⁉ なにが不満なの?」
「証明、失敗したから」
証明に必要な情報を搔き集めて、適切に論を組み立てたはずだった。母や家政婦さんたちとの会議を参考に、恋愛感情を意識しやすく、なおかつ恋人になろうという気持ちに向くよう、身だしなみも整えて挑んだ。出会い頭の一言で相手に感謝と誉め言葉をかけるべきとのアドバイスも取り入れた。場所と時間もそうだ。彼女の雰囲気にふさわしく、ムードがいい場所を三ヶ所選んでおき、母たちに投票で選んでもらったあの場所を貸し切っておいた。
だから、失敗するなんて、考えもしなかった。
……いや。違う。失敗したことに落胆しているんじゃない。
僕は、キルコさんが、僕を恋愛感情として好きだと言ってくれなかったことに落胆しているんだ。
「何はどうあれ、恋人になったのだから、することは三つよ。
一つは、キルコさんに好きになってもらうこと。努力なさい。本物の努力は自分を変え、周りを変える。そうして必ず結果につながる。自分も周りも変わらず、結果も出ていないうちは、本気の努力をしていないということ。結果が出てないうちは、決してくじけず、努力を続けなさい。それでもだめなら、汚い手を使って結構。とにかくなにがなんでもキルコさんを手放さないよう、秀ちゃんのとりこにさせなさい。
あとの二つは、簡単よ。キルコさんを大切にして、何より愛してあげること。そして、とにかく楽しむこと。愛とは理性、そしてやさしさなんだから。
アオハル、エンジョイ!」
アオハル、エンジョイ。文法的に間違えている。エンジョイが動詞、アオハルが名詞だから、「エンジョイ、アオハル」になるはずだ。
でも、努力についての話は、たしかにそうかもしれない。僕はこれまで大して努力をしてこなかったけれど、どれも確実に結果を得られた。結果を得られないことなんてこの世には存在しない。得られなければその過程での努力が足りないだけ。結果を得られるまで、もっと努力をするだけだ。
キルコさんは素敵で、不思議な人だ。一筋縄ではいかない。これが人生はじめての、最大の努力になるだろう。
幸い、恋人になったことで、一緒にいられる時間は確保された。この時間を使って、恋愛感情として好きだと思ってもらえるよう、全力で努めよう。
食べたら早速、研究しよう。恋愛感情をどうすれば抱いてもらえるかを。
あとは、恋人としてのルールも決めておいた方がいいかもしれない。交際をやめたいと思われてしまったらそのチャンスさえなくなってしまうから。安心して快適に、かつ楽しく交際するために、巷の恋人たちがどういうルールで交際しているのか、この後データを取りに行こう。
よく考えたら、いつもの僕ならすぐにそう思っていたはずだ。昨日、キルコさんに断られた後、エレベーターが落ちる中で、僕はこのまま死んでしまいたいと思った。結局、キルコさんと一緒にいたいという思いが諦められなくて助かる方法を取ったけど、あの時の僕の気持ちは、生きる意味なんてもうないと思うほど、どん底に落ち込んでいた。そこからまだ這い上っていないために、思考がおかしくなっていたのかもしれない。
でも、もう大丈夫。落胆した感情は12%までにしぼんだ。やってみせるという強気な気持ちが30%湧き上がる。
頑張るのはこれからだ。
早く動きたくて、赤飯を一気に詰め込んだ。
母が、くすりと笑った。
廊下から、ドタバタと騒々しい足音が聞こえてきた。
「大変です、坊ちゃん!」
バァンと襖が開く。
傷だらけの警備員三人がなだれ込んだ。
「また、あいつが来ました!」
「警備員は全員やられて……!」
「かろうじて抑えてはいますが、抑え切れるか……!」
「あら。またなの?」
またか。
玄関に行くと、金髪の男がいつものように腰に縋りつく警備員たちを乱暴に引き剥がしていた。前開きの黒いシャツから、筋肉量50㎏とみられる胸筋が見えていた。
「皆さん、離してもらって大丈夫です。僕が相手をします」
「来やがったな! 今日こそお前をぶっ殺してやる!」
警備員たちが手を離すと、やつがこぶしを唸らせ、僕に向かってきた。
こぶしが僕の右頬に触れようとした直前、パッと手のひらで受け止め、そのまま手首を捻り上げる。「いっでででで!」と嘆く隙に、足を払う。転んだところをすかさず組み伏せる。
何日同じことをやっているんだろう。キルコさんのストーカーであるこの男は、学校の屋上で雷に打たれた次の日から、毎日毎日こうしてやってくるようになった。こうして組み伏せた後、警察に身柄を突き出すのだが、いつのまにか脱走しており、この繰り返しだ。
「キルコさんは、僕の恋人になった」
「……は?」
「だから、何をしようとキルコさんはお前のものにはならない。僕がさせない」
「キ、キキキキ、キリィが、こ、こ、こ、こ………………コォッ」
やつは泡を吹いて気絶した。首は締めていなかったのに。
✦ ✦ ✦
「秀ちゃん、これ使いなさい」
重い木の扉を開けて、母が入ってきた。差し出してきたのは黒い拳銃だった。
「いらないよ」
「撃てるでしょう? 私が撃ちましょうか?」
「外に警察がいるし」
「弁護士にもみ消させればいいじゃない。この男がしつこい方がよっぽど厄介だわ。キルコさんも可哀想だし、殺すのが手っ取り早いでしょう」
「今やるのは最適な方法とタイミングじゃないからいい。出ていって」
「じゃあ、秀ちゃんのいいタイミングでね」
母は僕に拳銃を握らせると、しぶしぶといった様子で出ていった。
質感、重さからして、僕が塩酸を発射するために入手した偽物とは違う。本物? でも、なぜこんなものを持っているんだろう。
まあいいか。関係ないし。
「――う……うぅん…………?」
やっと目が覚めたようだ。
「……どこだ、ここ……?」
「うちの武道場」
やつは、きょろきょろとまわりを見回した。硬い縄に縛られて身動きが取れないのもあり、困惑している様子だ。
「警察は外にいる。ただ、お前から聞きたいことがいろいろあるから、身柄の引き渡しを少し待ってもらっている。いくつか質問するから正直に答えろ。お前は……」
「うるせぇ!! 人間が俺に口聞いてんじゃねえ!
っつーか……ほ、本当か……? キ……キキ……キリィが、お前の、お前の…………!
んなわけねぇ――っ! 2000年も俺に素直にならなかったキリィが、ポッと出の人間なんかと恋人になるはずがねぇ――っ!! キリィは俺の女だぁ――――ッ!!」
獣のように天に向かって咆哮する。犬のようだ。
それにしてもなぜこの男はいつも「2000年」とか「人間」とかと言うのだろう。
気になるが、ひとまず置いておこう。
今の僕の興味は、この男がどんな男なのかだ。
この男は、キルコさんが最も嫌う男。だからだろうか、キルコさんはこの男についてあまり多くは語らなかった。
言動を観察し、分析すれば、キルコさんの嫌いなタイプがよく分かる。それが分かれば、キルコさんに嫌われないよう言動に気を付けることができる。好きになってもらうにあたって、嫌われないことは大前提だから、必要な情報だ。
僕はキルコさんの嫌いなタイプに一つの要素も重ならないように生きていかなければならない。
「今までキルコさんにどんなアプローチをしてきた?」
「んなもん、キリィがほしいって言ったもんも好きなもんも、全部やったに決まってんだろ! 酒も本もDVDも、テレビもスマホも緋王グッズも、全部全部俺がやった! 俺の持ってた、天変地異を揺るがす力もな! 命が狙われようとなんだろうと、キリィのために手に入れてきた! どんな女もとろけるような甘い言葉も、会うたびに囁いてるぜ! 愛してるぜ、百合の花より美しい……ってな!」
口を聞くなと言った割に素直に答えてきた。だけど、ところどころ日本語が分からないところがあって首を傾げた。
だが、それはいったんさておいて、僕は分析に集中した。
今の話からすると、キルコさんは、物質をプレゼントするという行為で愛情表現をしてくることや、軽い言動が嫌い、ということだと考えられる。
昨日はっきり「好き」と言ってしまったことが気に罹った。いや、あれは大事な場面だったから仕方ない。今後はこの男のように軽々しく「好き」や「愛してる」や「美しい」などといった直接的な愛の言葉を口にするのはやめよう。……いや、でも、前に「愛してるゲーム」というものをやらされた際、「愛してる」という言葉をとにかく言わされたような……。あの時のキルコさんはいやそうではなく、むしろ恥じらいながらも喜んでいたように思えた。……分からない。
でも、キルコさんは日本文化を好んでいる。日本語の文学は、直接的な表現より、曖昧な表現が使われることが多い。そう考えると、おそらくキルコさんは直接的な言葉はあまり好きではない、と考えるのが妥当だろう。キルコさんが望んだ時以外は言わない。それが正解な気がした。今後は気をつけよう。
僕がそう考えた0.97秒のすぐ後に、やつは言葉を続けた。
「キリィはいつもツンツンしてて、なかなか素直になりやしねぇ……。でも、俺がやったもんは全部嬉しそうに使うし、欲しいもんはちゃっかり要求すんだ! キリィはなんだかんだ意地張ってるが、俺のことが好きなんだよ! そうだ! やっぱりキリィがお前なんかを好きなはずがない! キリィは俺の女だッ!」
こんなに意味の分からない言葉の羅列に直面したのははじめてだ。頭の中がはてな尽くしで思考が進まない。
一つ一つ気にするのはやめよう。分析に集中する。
つまり、キルコさんの気持ちを勝手に決めつける傲慢さを、キルコさんはいやがって…………。
――ん? それって、昨日の、僕……?
しまった……。僕の証明が失敗した理由はこれだったのか。明日、学校に行ったらすぐに謝らないと……。
不安感が87%に膨らむ。
「はっ…………! そうだ。キリィがお前を好きなんて、絶対ありえねぇ! キリィの嫌いなタイプそのまんっまなんだからな!」
「キルコさんの嫌いなタイプ?」
「ねっとりした口説き言葉を使ってくる軽薄な男、暑苦しく頭の悪い男、真面目でつまらない男、根暗でもそもそしたダサくて醜い男。真面目でつまらない、根暗でダサい! まさにお前だ!」
軽薄、暑苦しい、頭が悪いに自分が該当するとは考えなかったんだろうか。
でも、これが本当なら、僕のその印象が、証明が失敗した理由なのかもしれない。
いや、そうだとしたら推しにすらならないのでは? ひとまず、印象を左右する身だしなみには気を付ける必要がありそうだけど。
「お前と恋人になったのは、キリィの作戦だ! キリィは、お前なんかと本気で付き合っちゃいねぇ! だから、調子に乗って触んじゃねぇぞ? まぁ、あいつはプライドが高いから、お前なんか、指一本触らせねぇと思うけどな!」
作戦? また意味の分からないことを。
なにか算段があるとしたら、はじめに断ったりなんかしなかったはずだ。
そう思ったら、キルコさんがあの時抱きしめ返してくれたのは、僕のことを好きな気持ちがあった証なのだと思えてきた。
嬉しい気持ちが不安感を上塗りし、89%に膨らんだ。
……そろそろいいか。情報は十分に集まった。
真っ向勝負をするとしよう。
「どう思おうと、僕とキルコさんが恋人になった事実は変わらない。だからもう諦めて、キルコさんから手を引け。いやだと言うなら、ここで一対一で決着をつけよう。
それと、僕はすでに手をつないだし、抱きしめもした」
「は?
……はっ! お、俺もこの前抱きしめたし? 俺なんか、いっつもつま先にキスさせてもらってるし?」
「つま先だけだとすれば、僕の方が触れている面積は広い。あと、そちらはあの時、無理矢理一回だけ抱きしめていたかもしれないけど、僕の場合はお誘いしたらキルコさんから腕の中に来てくれたし、手についてはキルコさんからつなぎたいと言ってくれた。触れ合った時間数も僕の方が勝ってる」
「は……、はっ! うっせぇ童貞! お前なんか、キリィの裸も見たことないくせに!」
「は?」
「童貞野郎が、キリィを悦ばせられると思うなよ! キリィのファーストキスも、処女も、全部俺のものだ! そのために俺は2000年――」
バァン!
あ。
しまった。思わず額の真ん中を撃ってしまった。
あまりの下品な言葉に、こんな下品な男がキルコさんのことを汚らわしく話しているのがいやでたまらなくなり、不快感のパーセンテージが100%を越えてしまい、消し去りたい気持ちのままに手が動いてしまった。
驚いた。自分がこんな衝動的に動くなんて思いもよらなかった。
でも、よく分かった。キルコさんは、こういう下品な男が嫌いなのだ。僕は絶対に、こんな理性のない下品な野獣になんてならない。
そう決意したところで、額の穴から煙を昇らせる男が、「はっ」と笑った。
――なぜ。この拳銃は本物だ。そして確実にやつの額を貫通した。やつのかたわらに銃弾が転がっているから間違いない。
それなのに、なぜこの男は、僕を見て笑っているんだ……?
「人間のオモチャで俺が死ぬかよ」
額の穴がふさがっていく。なぜ。
僕が唖然としているうちに、やつは「次は殺す!」と吐き捨てると、煙のように姿を消した。
人間に起こり得る現象ではない。
もしかして、人間じゃない……? いや、明らかに姿は人間と同じ……。
いや、姿形が人間と同じであるからといって人間であるとは限らない。
さっきやつが気を失っている隙に採取した髪の毛の鑑定をしてみよう。
✦ ✦ ✦
夕方。
DNA鑑定の道具を調達してから、恋人としてのルールにどのようなものがあるか、恋愛的に好きになってもらうにはどうしたらいいか、キルコさんの恋人として僕がどうあるべきかを野外調査してきた僕は、畳に仰向けに転がった。
好きになってもらうための手段はいろいろあるけれど、一つ、恋人らしく下の名前で呼び合うというのは、とても有効的に思えた。
兼ねてから密かに、下の名前を呼んでくれたら嬉しいのに、と思ったことがあったから、いい機会だ。
秀英、いや、シュウ……。うん、シュウがいいかもしれない。恋人らしいし、何より、キルコさんがそう言って微笑んだら、いつもの2.597倍可愛らしい。想像したら嬉しさが76%、恥ずかしさが24%に膨れ上がった。
キルコさんにそう呼んでもらえるよう交渉してみよう。
キルコさんと恋人らしいことをするイメージをしていると、ふと、キルコさんがはじめての恋人に僕を選んでくれたことに気付いた。
文化祭の日、恋愛への嫌悪感があるようなことを言っていたのに……。
定義から出したデータの数値より、もしかしたらキルコさんは僕のことを恋愛的に好きでいてくれているのかもしれない。
だが、それは僕の予想でしかない。本当にそうなのかは、定義を再度精査し、情報を集めて、数値化しなければ分からない。
……いや。
キルコさんが僕と恋人にならないと決めた理由も、やっぱり恋人になってくれると決めてくれた理由も、全部キルコさんの中にある。
キルコさんがどれくらい僕を恋愛的に好きでいてくれるか。その数値は、キルコさんの中にある。
明日、キルコさんに聞いてみよう。そして、その数値を100%にするために、研究と実践を繰り返そう。
僕の心は、92%の楽しみな感情に上塗りされた。
不思議だった。
自分の心の中で、いろいろな感情のパーセンテージが上がり下がりしていることが。
キルコさんと出会う前の僕は、感情のパーセンテージが動くことなんてなかった。
これが、生きているという感覚なのかもしれない。
僕はやっぱり、キルコさんなしでは生きられない。
ずっとずっと一緒に歩んで、必ず、一緒に最期を迎えてみせる。
僕はもう、くじけない。
目をつむって、二人で歩む未来を目蓋にうかべる。
――ふと、唇……などといった、あいつの下品な言葉が脳裏をよぎった。
……キルコさんも、はじめて、なのか……。
キスも、全部……。
証明に必死に集中していたために、あまり深く考えていなかったけれど……。
恋人になったということは、性的接触ができる間柄になったわけで……。
それはつまり、キルコさんだけではなく、僕が望んですることも可能な関係というわけで……。
………………したい。かも、しれない…………。
でも、下手に提案したら、下品な印象を与えてしまいかねない。
この欲情は隠しておこう。
だけど、いつかは――。
…………一応、性的接触に関する研究はしておこう。
明日からはじまる、キルコさんとの恋人としての日々。
楽しみな気持ちが、100%に膨らんだ。
キルコさんと、僕が…………。
ベッドにもぐったまま、真っ黒な天井を見つめる。
キルコさんの恋人になれたのだという実感が、38%ほどしか湧かない。
その中で、嬉しい気持ちが44%、もやもやとした不満感が56%を占めていた。
こんなはずじゃなかった。
100%の嬉しさが、僕の心を満たしているはずだった。
✦ ✦ ✦
中庭の小鳥の囀りで目が覚めた。
ゆっくり昨晩の記憶が戻り、キルコさんと恋人になったことを思い出すと、実感のパーセンテージが69%まで上がった。
嬉しさも、58%まで上がっている。だが、不満感が42%残っていた。
食事の間に入ると、珍しく、テーブルに朝食が並んでいなかった。台所からにおいはするのに。
すっと襖が開いて、母が入ってきた。
「おはよう、秀ちゃん」
「おはよう」
母は静かに襖を閉め、静かに僕の前に正座した。
「……それで、昨日の結果は……?」
「恋人になってもらえることになった」
「まあ! まあまあまあ! やったわー! あぁ、よかったぁ〜! はぁっ! ノブさん、トメさん! お祝い膳! お祝い膳の方よ!! 推しカプの誕生よぉ〜っ!!」
母は甲高い声で叫びながら、小走りで台所に駆けていった。
運ばれてきたのは、赤飯、紅白なます、鯛の塩焼き、煮物、はまぐりのお吸い物だった。だめだった時用食事も別で用意されていたらしい。
いただきます、と手を合わせて箸を取り、母は機嫌良く肩を揺らしながら鯛をほぐした。
「紅白饅頭もあるから、これを食べたらお茶と一緒に食べましょう! んっふふふ……よかったわねぇ、よかった! ああ、キルコさん、いつ来てくれるかしら? 推しカプ拝みた〜い!」
「お互いの家への挨拶は必要だから、相談しておく」
「そうねぇ! 秀ちゃんも、キルコさんのお宅に挨拶に行った方がいいわ。そのまえに一筆書いた方がいいかも。大事なお嬢さんとお付き合い……いいえ、ゆくゆくは結婚させていただくんだから! うふふふふ!
……ねぇ? どうしてそんなにいつも通りなの? 嬉しくないの?」
「58%は嬉しい。42%は不満」
「お付き合いできたのに⁉ なにが不満なの?」
「証明、失敗したから」
証明に必要な情報を搔き集めて、適切に論を組み立てたはずだった。母や家政婦さんたちとの会議を参考に、恋愛感情を意識しやすく、なおかつ恋人になろうという気持ちに向くよう、身だしなみも整えて挑んだ。出会い頭の一言で相手に感謝と誉め言葉をかけるべきとのアドバイスも取り入れた。場所と時間もそうだ。彼女の雰囲気にふさわしく、ムードがいい場所を三ヶ所選んでおき、母たちに投票で選んでもらったあの場所を貸し切っておいた。
だから、失敗するなんて、考えもしなかった。
……いや。違う。失敗したことに落胆しているんじゃない。
僕は、キルコさんが、僕を恋愛感情として好きだと言ってくれなかったことに落胆しているんだ。
「何はどうあれ、恋人になったのだから、することは三つよ。
一つは、キルコさんに好きになってもらうこと。努力なさい。本物の努力は自分を変え、周りを変える。そうして必ず結果につながる。自分も周りも変わらず、結果も出ていないうちは、本気の努力をしていないということ。結果が出てないうちは、決してくじけず、努力を続けなさい。それでもだめなら、汚い手を使って結構。とにかくなにがなんでもキルコさんを手放さないよう、秀ちゃんのとりこにさせなさい。
あとの二つは、簡単よ。キルコさんを大切にして、何より愛してあげること。そして、とにかく楽しむこと。愛とは理性、そしてやさしさなんだから。
アオハル、エンジョイ!」
アオハル、エンジョイ。文法的に間違えている。エンジョイが動詞、アオハルが名詞だから、「エンジョイ、アオハル」になるはずだ。
でも、努力についての話は、たしかにそうかもしれない。僕はこれまで大して努力をしてこなかったけれど、どれも確実に結果を得られた。結果を得られないことなんてこの世には存在しない。得られなければその過程での努力が足りないだけ。結果を得られるまで、もっと努力をするだけだ。
キルコさんは素敵で、不思議な人だ。一筋縄ではいかない。これが人生はじめての、最大の努力になるだろう。
幸い、恋人になったことで、一緒にいられる時間は確保された。この時間を使って、恋愛感情として好きだと思ってもらえるよう、全力で努めよう。
食べたら早速、研究しよう。恋愛感情をどうすれば抱いてもらえるかを。
あとは、恋人としてのルールも決めておいた方がいいかもしれない。交際をやめたいと思われてしまったらそのチャンスさえなくなってしまうから。安心して快適に、かつ楽しく交際するために、巷の恋人たちがどういうルールで交際しているのか、この後データを取りに行こう。
よく考えたら、いつもの僕ならすぐにそう思っていたはずだ。昨日、キルコさんに断られた後、エレベーターが落ちる中で、僕はこのまま死んでしまいたいと思った。結局、キルコさんと一緒にいたいという思いが諦められなくて助かる方法を取ったけど、あの時の僕の気持ちは、生きる意味なんてもうないと思うほど、どん底に落ち込んでいた。そこからまだ這い上っていないために、思考がおかしくなっていたのかもしれない。
でも、もう大丈夫。落胆した感情は12%までにしぼんだ。やってみせるという強気な気持ちが30%湧き上がる。
頑張るのはこれからだ。
早く動きたくて、赤飯を一気に詰め込んだ。
母が、くすりと笑った。
廊下から、ドタバタと騒々しい足音が聞こえてきた。
「大変です、坊ちゃん!」
バァンと襖が開く。
傷だらけの警備員三人がなだれ込んだ。
「また、あいつが来ました!」
「警備員は全員やられて……!」
「かろうじて抑えてはいますが、抑え切れるか……!」
「あら。またなの?」
またか。
玄関に行くと、金髪の男がいつものように腰に縋りつく警備員たちを乱暴に引き剥がしていた。前開きの黒いシャツから、筋肉量50㎏とみられる胸筋が見えていた。
「皆さん、離してもらって大丈夫です。僕が相手をします」
「来やがったな! 今日こそお前をぶっ殺してやる!」
警備員たちが手を離すと、やつがこぶしを唸らせ、僕に向かってきた。
こぶしが僕の右頬に触れようとした直前、パッと手のひらで受け止め、そのまま手首を捻り上げる。「いっでででで!」と嘆く隙に、足を払う。転んだところをすかさず組み伏せる。
何日同じことをやっているんだろう。キルコさんのストーカーであるこの男は、学校の屋上で雷に打たれた次の日から、毎日毎日こうしてやってくるようになった。こうして組み伏せた後、警察に身柄を突き出すのだが、いつのまにか脱走しており、この繰り返しだ。
「キルコさんは、僕の恋人になった」
「……は?」
「だから、何をしようとキルコさんはお前のものにはならない。僕がさせない」
「キ、キキキキ、キリィが、こ、こ、こ、こ………………コォッ」
やつは泡を吹いて気絶した。首は締めていなかったのに。
✦ ✦ ✦
「秀ちゃん、これ使いなさい」
重い木の扉を開けて、母が入ってきた。差し出してきたのは黒い拳銃だった。
「いらないよ」
「撃てるでしょう? 私が撃ちましょうか?」
「外に警察がいるし」
「弁護士にもみ消させればいいじゃない。この男がしつこい方がよっぽど厄介だわ。キルコさんも可哀想だし、殺すのが手っ取り早いでしょう」
「今やるのは最適な方法とタイミングじゃないからいい。出ていって」
「じゃあ、秀ちゃんのいいタイミングでね」
母は僕に拳銃を握らせると、しぶしぶといった様子で出ていった。
質感、重さからして、僕が塩酸を発射するために入手した偽物とは違う。本物? でも、なぜこんなものを持っているんだろう。
まあいいか。関係ないし。
「――う……うぅん…………?」
やっと目が覚めたようだ。
「……どこだ、ここ……?」
「うちの武道場」
やつは、きょろきょろとまわりを見回した。硬い縄に縛られて身動きが取れないのもあり、困惑している様子だ。
「警察は外にいる。ただ、お前から聞きたいことがいろいろあるから、身柄の引き渡しを少し待ってもらっている。いくつか質問するから正直に答えろ。お前は……」
「うるせぇ!! 人間が俺に口聞いてんじゃねえ!
っつーか……ほ、本当か……? キ……キキ……キリィが、お前の、お前の…………!
んなわけねぇ――っ! 2000年も俺に素直にならなかったキリィが、ポッと出の人間なんかと恋人になるはずがねぇ――っ!! キリィは俺の女だぁ――――ッ!!」
獣のように天に向かって咆哮する。犬のようだ。
それにしてもなぜこの男はいつも「2000年」とか「人間」とかと言うのだろう。
気になるが、ひとまず置いておこう。
今の僕の興味は、この男がどんな男なのかだ。
この男は、キルコさんが最も嫌う男。だからだろうか、キルコさんはこの男についてあまり多くは語らなかった。
言動を観察し、分析すれば、キルコさんの嫌いなタイプがよく分かる。それが分かれば、キルコさんに嫌われないよう言動に気を付けることができる。好きになってもらうにあたって、嫌われないことは大前提だから、必要な情報だ。
僕はキルコさんの嫌いなタイプに一つの要素も重ならないように生きていかなければならない。
「今までキルコさんにどんなアプローチをしてきた?」
「んなもん、キリィがほしいって言ったもんも好きなもんも、全部やったに決まってんだろ! 酒も本もDVDも、テレビもスマホも緋王グッズも、全部全部俺がやった! 俺の持ってた、天変地異を揺るがす力もな! 命が狙われようとなんだろうと、キリィのために手に入れてきた! どんな女もとろけるような甘い言葉も、会うたびに囁いてるぜ! 愛してるぜ、百合の花より美しい……ってな!」
口を聞くなと言った割に素直に答えてきた。だけど、ところどころ日本語が分からないところがあって首を傾げた。
だが、それはいったんさておいて、僕は分析に集中した。
今の話からすると、キルコさんは、物質をプレゼントするという行為で愛情表現をしてくることや、軽い言動が嫌い、ということだと考えられる。
昨日はっきり「好き」と言ってしまったことが気に罹った。いや、あれは大事な場面だったから仕方ない。今後はこの男のように軽々しく「好き」や「愛してる」や「美しい」などといった直接的な愛の言葉を口にするのはやめよう。……いや、でも、前に「愛してるゲーム」というものをやらされた際、「愛してる」という言葉をとにかく言わされたような……。あの時のキルコさんはいやそうではなく、むしろ恥じらいながらも喜んでいたように思えた。……分からない。
でも、キルコさんは日本文化を好んでいる。日本語の文学は、直接的な表現より、曖昧な表現が使われることが多い。そう考えると、おそらくキルコさんは直接的な言葉はあまり好きではない、と考えるのが妥当だろう。キルコさんが望んだ時以外は言わない。それが正解な気がした。今後は気をつけよう。
僕がそう考えた0.97秒のすぐ後に、やつは言葉を続けた。
「キリィはいつもツンツンしてて、なかなか素直になりやしねぇ……。でも、俺がやったもんは全部嬉しそうに使うし、欲しいもんはちゃっかり要求すんだ! キリィはなんだかんだ意地張ってるが、俺のことが好きなんだよ! そうだ! やっぱりキリィがお前なんかを好きなはずがない! キリィは俺の女だッ!」
こんなに意味の分からない言葉の羅列に直面したのははじめてだ。頭の中がはてな尽くしで思考が進まない。
一つ一つ気にするのはやめよう。分析に集中する。
つまり、キルコさんの気持ちを勝手に決めつける傲慢さを、キルコさんはいやがって…………。
――ん? それって、昨日の、僕……?
しまった……。僕の証明が失敗した理由はこれだったのか。明日、学校に行ったらすぐに謝らないと……。
不安感が87%に膨らむ。
「はっ…………! そうだ。キリィがお前を好きなんて、絶対ありえねぇ! キリィの嫌いなタイプそのまんっまなんだからな!」
「キルコさんの嫌いなタイプ?」
「ねっとりした口説き言葉を使ってくる軽薄な男、暑苦しく頭の悪い男、真面目でつまらない男、根暗でもそもそしたダサくて醜い男。真面目でつまらない、根暗でダサい! まさにお前だ!」
軽薄、暑苦しい、頭が悪いに自分が該当するとは考えなかったんだろうか。
でも、これが本当なら、僕のその印象が、証明が失敗した理由なのかもしれない。
いや、そうだとしたら推しにすらならないのでは? ひとまず、印象を左右する身だしなみには気を付ける必要がありそうだけど。
「お前と恋人になったのは、キリィの作戦だ! キリィは、お前なんかと本気で付き合っちゃいねぇ! だから、調子に乗って触んじゃねぇぞ? まぁ、あいつはプライドが高いから、お前なんか、指一本触らせねぇと思うけどな!」
作戦? また意味の分からないことを。
なにか算段があるとしたら、はじめに断ったりなんかしなかったはずだ。
そう思ったら、キルコさんがあの時抱きしめ返してくれたのは、僕のことを好きな気持ちがあった証なのだと思えてきた。
嬉しい気持ちが不安感を上塗りし、89%に膨らんだ。
……そろそろいいか。情報は十分に集まった。
真っ向勝負をするとしよう。
「どう思おうと、僕とキルコさんが恋人になった事実は変わらない。だからもう諦めて、キルコさんから手を引け。いやだと言うなら、ここで一対一で決着をつけよう。
それと、僕はすでに手をつないだし、抱きしめもした」
「は?
……はっ! お、俺もこの前抱きしめたし? 俺なんか、いっつもつま先にキスさせてもらってるし?」
「つま先だけだとすれば、僕の方が触れている面積は広い。あと、そちらはあの時、無理矢理一回だけ抱きしめていたかもしれないけど、僕の場合はお誘いしたらキルコさんから腕の中に来てくれたし、手についてはキルコさんからつなぎたいと言ってくれた。触れ合った時間数も僕の方が勝ってる」
「は……、はっ! うっせぇ童貞! お前なんか、キリィの裸も見たことないくせに!」
「は?」
「童貞野郎が、キリィを悦ばせられると思うなよ! キリィのファーストキスも、処女も、全部俺のものだ! そのために俺は2000年――」
バァン!
あ。
しまった。思わず額の真ん中を撃ってしまった。
あまりの下品な言葉に、こんな下品な男がキルコさんのことを汚らわしく話しているのがいやでたまらなくなり、不快感のパーセンテージが100%を越えてしまい、消し去りたい気持ちのままに手が動いてしまった。
驚いた。自分がこんな衝動的に動くなんて思いもよらなかった。
でも、よく分かった。キルコさんは、こういう下品な男が嫌いなのだ。僕は絶対に、こんな理性のない下品な野獣になんてならない。
そう決意したところで、額の穴から煙を昇らせる男が、「はっ」と笑った。
――なぜ。この拳銃は本物だ。そして確実にやつの額を貫通した。やつのかたわらに銃弾が転がっているから間違いない。
それなのに、なぜこの男は、僕を見て笑っているんだ……?
「人間のオモチャで俺が死ぬかよ」
額の穴がふさがっていく。なぜ。
僕が唖然としているうちに、やつは「次は殺す!」と吐き捨てると、煙のように姿を消した。
人間に起こり得る現象ではない。
もしかして、人間じゃない……? いや、明らかに姿は人間と同じ……。
いや、姿形が人間と同じであるからといって人間であるとは限らない。
さっきやつが気を失っている隙に採取した髪の毛の鑑定をしてみよう。
✦ ✦ ✦
夕方。
DNA鑑定の道具を調達してから、恋人としてのルールにどのようなものがあるか、恋愛的に好きになってもらうにはどうしたらいいか、キルコさんの恋人として僕がどうあるべきかを野外調査してきた僕は、畳に仰向けに転がった。
好きになってもらうための手段はいろいろあるけれど、一つ、恋人らしく下の名前で呼び合うというのは、とても有効的に思えた。
兼ねてから密かに、下の名前を呼んでくれたら嬉しいのに、と思ったことがあったから、いい機会だ。
秀英、いや、シュウ……。うん、シュウがいいかもしれない。恋人らしいし、何より、キルコさんがそう言って微笑んだら、いつもの2.597倍可愛らしい。想像したら嬉しさが76%、恥ずかしさが24%に膨れ上がった。
キルコさんにそう呼んでもらえるよう交渉してみよう。
キルコさんと恋人らしいことをするイメージをしていると、ふと、キルコさんがはじめての恋人に僕を選んでくれたことに気付いた。
文化祭の日、恋愛への嫌悪感があるようなことを言っていたのに……。
定義から出したデータの数値より、もしかしたらキルコさんは僕のことを恋愛的に好きでいてくれているのかもしれない。
だが、それは僕の予想でしかない。本当にそうなのかは、定義を再度精査し、情報を集めて、数値化しなければ分からない。
……いや。
キルコさんが僕と恋人にならないと決めた理由も、やっぱり恋人になってくれると決めてくれた理由も、全部キルコさんの中にある。
キルコさんがどれくらい僕を恋愛的に好きでいてくれるか。その数値は、キルコさんの中にある。
明日、キルコさんに聞いてみよう。そして、その数値を100%にするために、研究と実践を繰り返そう。
僕の心は、92%の楽しみな感情に上塗りされた。
不思議だった。
自分の心の中で、いろいろな感情のパーセンテージが上がり下がりしていることが。
キルコさんと出会う前の僕は、感情のパーセンテージが動くことなんてなかった。
これが、生きているという感覚なのかもしれない。
僕はやっぱり、キルコさんなしでは生きられない。
ずっとずっと一緒に歩んで、必ず、一緒に最期を迎えてみせる。
僕はもう、くじけない。
目をつむって、二人で歩む未来を目蓋にうかべる。
――ふと、唇……などといった、あいつの下品な言葉が脳裏をよぎった。
……キルコさんも、はじめて、なのか……。
キスも、全部……。
証明に必死に集中していたために、あまり深く考えていなかったけれど……。
恋人になったということは、性的接触ができる間柄になったわけで……。
それはつまり、キルコさんだけではなく、僕が望んですることも可能な関係というわけで……。
………………したい。かも、しれない…………。
でも、下手に提案したら、下品な印象を与えてしまいかねない。
この欲情は隠しておこう。
だけど、いつかは――。
…………一応、性的接触に関する研究はしておこう。
明日からはじまる、キルコさんとの恋人としての日々。
楽しみな気持ちが、100%に膨らんだ。