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作者: 古城ろっく
R-15
第2話 ハンドルの形って名前あんの?
「そういえば、ルリは競輪自転車で大学に来ているよな?」
 アキラが言うと、ルリは若干眉をひそめた。どうして笑顔は作れないのに、不機嫌な表情だけは出来るのだろう。
「あれはロードバイクと言いまして、競輪に使用される車体とは全くの別物です」
「そうなのか?違いが分からない」
 アキラがそう訊くと、ルリは懇切丁寧に説明する。しかしこの説明は読み飛ばすことを推奨したい。次に行間を開けるまでスクロールしてほしい。



「短距離を走行するための競輪自転車は、ピストバイクに限りなく近い車体です。厳密にいえば国際基準のルールを採用する公式ピストと、市街地を乗るためのシティピスト、および競輪という日本独自のローカルルールに基づく競輪自転車はそれぞれ別物ですが、今回は同一の車体として紹介いたします。ピストバイクは選手の短距離での実力を最大限に発揮するため、固定コグとシングルギアにて構成される車体です。そのためペダルを止めることや、ブレーキをかけることを想定せずに設計されます。当然、ベロドロームの中にバンクを除くアップダウンはありませんので、ヒルクライムなどを想定せず、変速ギアも設けません。一方、ロードバイクは公道の閉鎖を行って開催されるので、峠などを超える必要もあります。こちらもレース用のロードレーサーや、トライアスロンバイク、あるいは遠征用のランドナーや市街地用のコンフォートバイクなどに分類されますが、今回は細かい解説を避けます。変速ギアは既に必須。現在ではシマノ、カンパニョーロ、スラム、そしてFSAさえも2×11速を標準としています。もっとも、マイクロシフトは未だに10速を推奨しているようですが、いずれにしても20段以上の変速を可能にするのが当然になっているのがロードの世界です。いえ、決してSORAやClarisを否定するわけでもないですが……失礼しました。とにかく、シングルギアでないのがロードの前提になります。中にはコグをシングル化するためのスペーサーとチェーンテンショナーをセットにした改造キットなどを販売するメーカーもありますが、正当なロードの乗り心地を味わえるものではないので別物と思った方が良いでしょう。それこそロードフレームをオンブレーキピストのように扱うにはいいかもしれませんね。ロードと言えば、ブレーキが付いているのも前提です。最近ではカーボン製のディープリムも増えてきたため、機械式ディスクブレーキを搭載する車両も増えました。ですがやはりキャリパーブレーキでデュアルピボットの方がシェア率が多いような気がしますね。カンパニョーロなどはシングルピボットにこだわる場合もあります。いずれにしても、ブレーキがあって初めて峠やヘアピンカーブなどに対応できることを考えると、ピストのような平地専用と違って、車体が複雑な構造になります。なのでロードとピストに共通性は殆どありません。まあ、元々の先祖が同じ競技用自転車であるため、ブレーキが開発されるまでの間は同一とみなされ、その後ブレーキの有無によってピストとロードに分かれたと言われていますが、それもアスファルトがなかった時代の話です。現代においてはブレーキだけで語れる違いではありません。あえて言うなら、お互いにハンドルがドロップハンドル主流という共通点はありますが、ロードだってブルホーンにDHバーを取り付ける改造を行った車体は、主にタイムトライアルやトライアスロンの業界で使われます。一方でシティピストとなると、ライザーバーハンドルを搭載する場合も多いですね。そもそも、素人には見分けのつかない場所かもしれませんが、ピストドロップはハンドルの下を持つことだけを想定して作られているので、グリップも下にキャップをはめるだけの簡単な構造になります。ロードはいくつものポジションを重視するので、ステムのすぐ横は水平になるのが特徴。そこを握る場合も想定して、上までグリップテープを巻くことがお馴染みですね。つまりステムから出てすぐ下に向かうピスト用とは全く別物のハンドルであって、雰囲気も乗り心地も、想定される姿勢も全く……」



「いや、ストップ。全然分からねぇし怖ぇよ!」
 最初こそ黙って聞いていたアキラだったが、分からないので早々に理解することを諦めた。それでも適当に相槌を打っておこうか、と思ったものの、終わる気配がない。そもそも相槌さえ聞いていない。
 壊れたように解説を続けるルリを、アキラはようやく止めた。
 無表情なまま棒立ちで、瞬きすることも忘れて解説するルリは不気味そのものである。呼吸さえ忘れているようなマシンガントークは、まるでアンドロイドのようだ。何かが取り付いたんじゃないかと不安になる。
「とにかく、お前の自転車は競輪用じゃないんだな。一緒にされて腹が立ったのは分かった。今度から間違えないようにする」
「ええ。そうしてください」
 キレるポイントが全く分からないうえに、怒り方も予想がつかない。ただ……
「本当に自転車が好きなんだな」
 あまり学校で話すことはなかった同級生に、アキラはそう言う。これはクラス中で噂になるわけである。
「――私にとって、自転車とは生きる意味ですから」
「ん?それってどういうことだ?」
「いえ――お喋りが過ぎましたね。要点をまとめると、ブレーキと変速ギアが付いているのがロード。着いていないのが競輪用です。ご理解いただけましたか?」
 今アキラが聞きたかったのは、その話ではない。そんなことはルリにも通じていただろう。
 ただ、あまり詮索するなと言われている気がして、アキラはそれ以上聞けなかった。


 目の前には、そのロードバイクだか何だか……とにかく、ハンドルが下に曲がっている自転車がある。タイヤが細い方が速度が速いらしい。と言われても、アキラには今ひとつピンとこない。
「これって、腰を痛めるんだろう?」
「いいえ。正しく乗れば腰を痛めることはありません」
「でも、腕が疲れるんだろう?」
「いいえ。正しく乗れば腕が疲れることもありません。もっとも、ここで言う正しい乗り方とは、速い乗り方ではなく、どちらかと言えば効率のいい乗り方ですが」
 実際に、車体を棚から降ろす。
「跨ってみますか?私が押さえていますので」
「ああ……いや、やっぱり自信がない」
「そうですか……」
 アキラが断ると、ルリはその自転車に跨った。そしてハンドルの上の方を持つ。
「そこを持つのかよ?」
「はい。ロードだと、割とよくある持ち方です。競輪では使わない持ち方ですね」
 こういうところにも、ロードバイクと競輪用の違いがあるらしい。
 前かがみになったせいで、ワイシャツを持ち上げる胸が強調される。ルリの胸は比較的大きい方だと思っていたが、自転車屋のエプロンの上からでも分かるほどのボリュームは、実際には特大。着やせするタイプと言ったところか。
「実際に乗る場合は、このような姿勢になります。もっとも、私の方が体が小さいので、アキラ様の参考にならないかもしれませんが」
 サドルが高いのか、腰を突き出す形になる。タイトなパンツが腰のラインを浮かび上がらせた。布地が薄いのか、ポケットの縫い目や下着の線まで浮かび上がる。
 幅の狭いハンドルに手をやっているせいで、胸の谷間も強調される。ワイシャツに深い皺を刻む二つのふくらみは、押しつぶされて自由に形を変える。
 正面から見れば胸が、後ろから見ればお尻が……ルリ本人は気づいていないが、通学中でも人目を引く格好になっている。アキラは視線を外した。直視できないし、まして自転車を選ぶ気分じゃなくなってしまう。
「いや、参考になった。やっぱりやめておくよ」
「そうですか……わかりました」
 特に残念そうでもなく、ルリは自転車を棚に戻す。周囲の男性客も残念そうに見ている。見世物じゃないと言いたいアキラだったが、自転車の乗り方を講習しているのだから見世物だ。

「やっぱり、俺にはまっすぐなハンドルがいいな。あれって、何て名前なんだ?」
「アキラ様の自転車についていたのは、ママチャリの業界では一文字いちもんじハンドルと呼ぶハンドルですね。ちなみにこちらがドロップハンドルです」
 ふむ……と、アキラは頷く。競輪みたいなハンドルがドロップハンドル。まっすぐ横に伸びているのが一文字ハンドル。
「ちなみに、よくママチャリについているハンドルは何ていうんだ?あの、手前に曲がっているやつ」
「……ああ、最近では少なくなりましたね。あれはアップハンドル……ですがこの地域では、あまりその呼び名は知られていません。カマキリハンドルと呼んだ方が無難かもしれません」
「へぇ。形がカマキリみたいだからか?」
 たしかに、両手のカマを構えて威嚇するカマキリを彷彿させるかもしれない。
「もともと、ブリヂストンという会社が販売した『カマキリ』という自転車があります。その車体についていたハンドルに似ているので、カマキリハンドルと呼ばれているんです。古い時代の車体ですが、現在のママチャリの基礎を作った車体ですよ」
「へぇ。ブリヂストンって、自動車のスタッドレスタイヤを作っている、あの?」
「はい。そのブリヂストンです。昔から自転車も作っています」
 一瞬、ルリが笑ったように見えた。とはいえ、すぐに後ろを向いてしまったので確認できない。
 次にルリがこちらを見た時は、いつもの無表情に戻っていた。
「ちなみに、カマキリハンドルに対して、一文字ハンドルの別名を『トンボハンドル』と呼ぶこともありますね。あとは……ライザーバーハンドルという別名もあります」
 店内の自転車を指さしながら教えてくれる。

 手前に曲がっているハンドルが、アップハンドル。別名カマキリハンドル。
 まっすぐなハンドルを、一文字ハンドル。別名トンボハンドル。ライザーバーハンドルとも言う。

 アキラはふと、近くにある自転車に目を向ける。
 真っ直ぐなハンドルを持つ、マウンテンバイクみたいな車体だ。それでも、タイヤは細い。さっきのロードバイクと似ている。
「なあ、これがライザーバーっていうハンドルなのか?」
 アキラが聞くと、ルリは首を横に振った。短めの髪が広がって揺れる。
「それは、ストレートバーハンドル。もしくはフラットバーハンドルと言います」
「何か違うのか?」
「はい。ライザーバーは、中央が低く、横にせり出す際に上に反り返ります。一方のフラットバーは、そういった反り返りがありません。ほぼ真っ直ぐです」
 きょろきょろと店内を見渡したルリは、
「……少々お待ちください」
 と言い残して、どこかへ走り去っていった。部品コーナーの方へ姿を消すと、すぐに戻ってくる。パタパタと危なっかしい走り方だ。自転車に乗り慣れているなら、もっとしっかり走れそうなものだが……
「きゃんっ!」
「危ねぇっ」
 自分の脚に突っかかって転びそうになるルリを、アキラが支える。身長差もあって、アキラのお腹にルリの顔が突っ込む。そのままアキラの腰に抱き着くようにして止まったルリは、どうしたらいいか分からず止まってしまった。
 アキラはルリの細い肩を掴むと、強引に押し戻す。
「危ねえよ。俺なら待ってるから、走るな」
「……申し訳ありません」
 体制を戻したルリは、2本の鉄パイプを取り出した。
「ハンドル単品で話をした方が、分かりやすいかと思いまして……」
「なるほど」
 どうやらこの鉄パイプはハンドル本体らしい。自転車のハンドルからブレーキやベルを外していくと、最終的にはこの棒だけが残る。
「こちらの、しなやかに曲がっているのがフラットバー。一方、こちらの真ん中が歪んでいるのがライザーバーです。違いとしましては、ライザーバーの方が高さを調整しやすい面があります。もっとも、ご自分で高さを頻繁に変える人ならば、という限定付きですが」
「つまり、俺には関係ないな」
「そうですね。アキラ様には関係のない違いです」
 ならどうしてここまでして解説してくれるのか、よく分からない。

「なあ、お前はいつでもこんなに詳しく解説してくれるのか?」
「はい。仕事ですから」
「真面目なんだな」
 仕事だから――
 アキラもルリと話したことはあまりないが、大学ではもっとフランクに友達と喋っているやつだったと思った。少し物静かなイメージはあったが、こんなに硬い感じじゃなかったと思う。
「俺の事をアキラ様って呼ぶのも、敬語なのも、仕事だからか?」
 一応、同じ大学の同級生として訊く。するとルリは少し迷った。
「――いえ。接客のマニュアルには、お客様の呼び方に関する項目はありません。仮にあったとしても、下の名前を様付けで呼ぶようには記載されてないでしょうね」
「じゃあ、どうして?」
 ルリは少し考えた。いや、意外と長く考えた。アキラが何も言わずに黙っているのをいいことに、考えて、考えて、考える。
 そして、
「こちらのクロスバイクがお気に召したのであれば、ご試乗なさいますか?」
 はぐらかした。
「お前って、話を逸らすのが下手だよな」
「――自覚はあります。ですが、アキラ様はそれを察してなお、気付かない振りをしてくださると信じております」
 あまりに素直に言うものだから、アキラも調子が狂う。
(こいつ、クールに見えて相当アレだな……)
 口には出さず、そう思った。ルリはいわゆる、天然ボケだ。
「まあ、いいや。クロスバイクって言ったっけ? それってこの自転車の事だろう? 俺、よく分かんないからさ。解説してくれよ」
 アキラが興味を持ったのは本当だ。
 この、ロードバイクみたいなタイヤ。そしてマウンテンバイクのようなハンドル。見るからに沢山ある変速ギア。速そうなデザインでありながら、どこか楽に作られている印象。お洒落で、カジュアルな見た目のスーパーカー。


「それでは、アキラ様にクロスバイクの基礎的なことを教えます。
 その自転車は、サイクリングのために作られた車体です。レースで相手に勝つためではなく、遠くまで楽しくお出かけをするために作られた自転車……
 マウンテンバイクとロードバイクの中間であり、スポーツ自転車とママチャリの中間でもある、中途半端な車体。
 毎日の通学を、楽しい趣味の時間に。お買い物を、スタイリッシュで便利に。貴方の住む町を、別世界に……

 日常を、ほんの少し冒険に変える自転車です」
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