R-15
第6話 スポーツバイクってどうやって跨るんだ?
ローラー台に固定されたロードバイクは、まだルリの乗った熱を帯びているようだった。乗る者を選ぶであろうその車体は、アキラを拒むようにそびえたつ。
と、言うよりも……
「これ、フレーム高すぎないか?どうやって跨るんだよ」
物理的な問題。そのフレームは跨ぐのが困難だった。
「トップチューブを超えるのは危険ですね。後輪を跨ぐようにするのが一般的です」
「トップチューブ?」
「はい。フレームの、ヘッドチューブからシートポストまでを繋ぐ2本のチューブがあります。上がトップチューブ。下がボトムチューブです。お判りいただけましたか?」
「ええっと……ヘッドチューブ?」
「はい。フォークコラムを内蔵する部分がヘッドチューブと言います。そこからシートチューブの上部、シートピラー側に接続されたフレームパイプが……」
そこまで言って、ルリは口を閉じた。
(しまった。このままじゃアキラ様に伝わりませんね。というより、変な女だと思われたらどうしましょう?いや、それは手遅れですか……)
ただの自転車好きだと思われている分には良い。それはルリにとって名誉でもある。問題は、ルリが話の通じない人だと思われることだ。人としてまずい。
「――コホン。こちらがトップチューブです。この……えっと、い、一番高いところの鉄パイプです。あ、でもこの車体は実際には鉄ではなくアルミが使用されていまして、いわゆるアルミフレームと呼ばれる車体の……」
「いや、アルミフレームくらい知ってるけどさ。軽いんだろう?」
「そ、そうです。軽いんです」
ルリがそう言うと、アキラは頭を掻いた。どうもルリは時々、説明が下手である。自転車の事となると熱くなってしまうのか、それとも自分の常識と他人の常識が違った認識になっているのか。
「フレーム自体にも、部品の名前があるんだな」
「はい。元々はパイプを溶接したものですから、それぞれの個所に部位の名前があります。人間の身体に、腕とか脚とかがあるようなものです」
「なるほど。さしずめ、この辺が腕か?」
アキラが前輪を挟み込むような部分を指さす。
「はい。そこはフロントフォークと呼ばれる部分ですね。私は前足だと思っています」
「人間の身体に例えてないじゃないか」
軽く突っ込みつつ、アキラはふと疑問に思う。もしかして、自転車にも理想のプロポーションがあるのだろうか?
「どうしました?」
ルリがアキラに問いかける。ぼーっと突っ立っているように見えたのだろう。
「いや、何でもない。それより、これをどうやって跨ぐんだ?」
アキラが聞くと、ルリは自転車に近づく。どうやら実演込みでやってくれるらしい。
「ご覧の通り、フレームより後輪の方が、高さが低いんです。だから思い切って後輪を跨ぎます。回し蹴りを行うような感覚に近いかもしれませんね」
脚を後ろに振り上げたルリは、そのまま身体を前に移動させる。サドルに対して後ろから乗るようなイメージだろう。その姿は、今日だけで2回ほど見た。これが3回目だ。
「その乗り方、危なくないか?」
「確かに、いままでママチャリに乗られていたお客様には、よく言われます。ですが、フレーム自体を跨ぐよりは安全です。実際にやってみてください」
乗るときとは逆の手順で、ルリが自転車を降りる。つまり右足で後輪の上の空間を蹴るようにする。そのまま身体を宙に浮かせて、両足で着地。
――スタン!
「かっこいいな」
「……アキラ様も、すぐに出来るようになります。ロードだけでなく、クロスバイクにも共通する乗り方です。今から練習しておいて損はありません」
自信はないが、やってみないと始まらない。
思いっきり足を上げて、後輪を跨ぐ。意外にも軽々と、その足は車体の向こうにたどり着いた。
そのままサドルに腰を滑り込ませる。高めのサドルに対して後ろから、ギリギリの高さで腰かけた、その瞬間。
ぐぎっ、ごりごり!
「ポォォォオオウ!」
挟んだ。男として大事なところを、思いっきり挟んだ。体中からどっと汗が吹き出し、下半身がどこかへ消えてしまったように麻痺する。
思わずサドルを超えて、さらに前に腰を落とす。先ほど言っていたトップチューブというらしい部分に跨ると、股間をかばうように手を当てる。イメージしたカッコ良さとは程遠い体たらくだった。
「だ、大丈夫ですか?アキラ様」
「だ、大丈夫だ……ただ、ちょっと待ってくれ。すぐに回復する」
大丈夫ではないとは言えまい。女子にこの痛みは分からないだろうし、別に分かってほしいとも思えない。ただ、あまり醜態をさらし続けるわけにもいかない。平静を装いつつ、回復を待つしかない。
「アキラ様は、勢いをつけすぎです。そこまで気負う必要はありません。それに、一歩間違えば車体を蹴り飛ばしてしまいますよ。その車体は売り物ではありませんが、店の展示品に違いは無いのですから」
もともとアウトレット同然の安物のロードバイクであるわけだが、ローラー台の試乗用に備え付けてある車体だ。もし壊れたら、店側も少し迷惑である。
「すまなかったな。で、この後はどうすればいいんだ?」
呼吸を整えたアキラは、ルリに改めて聞く。するとルリは、驚いたように両手を口に当てた。
「え? もうおち〇ちん元気になったんですか? は、早いんですね」
「言い方っ!」
他の客がいない時間帯で良かったと思うばかりだ。店長が凄い表情でこちらを見てから、がっかりしたように店の奥に戻っていったのは見なかったことにする。
「では、ハンドルのテープを巻いている部分を持ってください。どこでもいいです」
「どこでも?つまり、ここでも?」
アキラが持ったのは、ハンドルの付け根に近い部分。まっすぐ横に伸びたところであり、まだ一度も折り返されていないところだ。
「はい。フラットと呼ばれる部分ですね。そこをお持ちいただいても構いません。私はブラケットに手を乗せるのが好きですが……そこは好みやシチュエーションによります。今回は、アキラ様のお好きなように」
ルリがハンドルを持つときは、ブレーキレバーの付け根の上を持っていた。どうやらここがブラケットというらしい。握ってみると、手のひらが内側を向くようになる。脇が締まるように感じられて、なんだかバランスがとりにくい。
「これはきついな。俺はフラットを持つぜ」
ここを持つと、まるで一文字ハンドルのように扱える。やや幅が狭く感じるのと、ブレーキに指が届かないのは問題点だ。もっともローラー台の上では、ハンドルさばきもブレーキも必要ない。
「それでは、私が変速ギアを操作します。アキラ様は安心して、ペダルを漕ぐことに集中してください」
ルリの両手が、ブレーキレバーに触れる。そこはブレーキをかけるところじゃないかと思ったが、どうやらギアの変速もそこで行うようだ。
目標は、36.2km/h以上。それを叩き出せば、アキラの勝ち。憧れのローマが半額で手に入る。
(ルリの半分だ。俺だってやれる。やってやる!)
まずはサドルに腰を乗せて、普通に一漕ぎ……
「うおっと!」
ガクンとペダルが下がる。壊れたのかと思ったが、違う。
そのペダルは、あまりに軽い力で回るのだ。どこかの部品が外れているんじゃないかと心配になるほど、力を入れずに走り出す。まるで空回りしているようだ。
(この軽さが、高級な自転車の乗り心地か。悪くない!)
カチャカチャと、ギアが切り替わる音がする。ルリは真剣にアキラの足元を見ていた。ギアチェンジのタイミングを、適切に測るために。
(これ、案外いけるんじゃないか?)
ペダルが軽いからこそ、高速で漕げる。これなら簡単に速度を出せるはずだ。
腰を入れて、ペダルを強く踏み込む。全体重をかけて、速く踏みつける。
「アキラ様、現在フルアウター――つまり一番速いギアでございます」
たくさん並んだ歯車を、チェーンが移動する。そのチェーンがフレームから見て一番外側に来た時が、フルアウター。もしくはアウタートップと呼ばれる状態だ。最も速度が速い反面、最も漕ぐ感触が重い。
ただ、今まで十分に勢いをつけてから変速してきた。おかげで重さを感じない。今なら十分に漕げる。
「うぉららららららららぁっ!」
力任せに、ガシガシとペダルを踏みつける。地面が揺れ、自転車が唸る。アキラは今、風になったような感覚を味わっていた。
「はぁ、はぁ、はぁっ――はぁ――はぁーっく……ぶはっ、あっ」
すべてを出し切ったアキラは、ペダルを止めてメーターを見た。
「どうだ?ルリ」
「そうですね……」
何やら操作したルリは、そこに映し出された速度を見る。
「28.3km/hです。残念でしたね」
「そ、そんな……」
その数字は、間違いなくアキラ個人のベストスコアだったと言える。ただ、ルリの半分にも満たない。賭けは負けだ。
「やっぱり、そう簡単にはいかないな」
「はい。簡単にいくようなら、私は本気にも、夢中にもならなかったでしょうね」
そう言ったルリは、まだ疲れるアキラの顔を覗き込む。ハンドルを持って前かがみになったアキラを、下から見上げる形になった。
「ですが、私が思うに、アキラ様はすぐ上達します。もう一段ほどですが」
「え?」
すぐに上達する。それはつまり、才能があるという事だろうか?いや、きっとそうに違いない。ルリは今の一瞬で、アキラの才能を見抜いていた。そうに違いないのだ。
「素人は基礎を覚えるだけで、見違えるものです。高校生に代数を教えるのは困難ですが、幼稚園児に足し算を教えるのは簡単ですから」
前言撤回。アキラに才能は無いらしい。
がっかりするアキラに、ルリは立ち上がって言う。
「もう一度、チャンスを与えます。次で私の記録の半分、36.2km/hを超えられたら、賭けはアキラ様の勝ちです。もちろん、勝ち方も教えます。教えたところで、私に勝てるとも思えませんけどね」
「本当か?」
アキラは跳ね起きた。
「ええ、それでは説明します。準備は良いですか?」
「ああ、いいぞ。頼む」
では、と前置きしたルリは、コホンと咳払い。そして――
「ここにリンゴが3こあります。みかんを2こもらいました。ぜんぶでいくつになったでしょうか?というときに使われるのが……」
「いや、誰が足し算を教えてくれって言ったんだよ!?自転車の基礎を教えてくれるんじゃないのかって」
「冗談です」
「冗談なら、もっと冗談っぽく言ってくれ。ドSかよ」
「どちらかと言えばMです。仕返しを期待しています」
「だから冗談っぽく言ってくれ。本気にするぞ」
やっぱり無表情を崩さないルリは、小声で何かを言った後に、後ろに数歩下がった。そして今度こそ、冗談めかしたように棒読みで、芝居がかったような仕草で言う。
「簡単なフォームについてお話ししましょう。細かい姿勢はさておき、意識の持ちようによって変わる話です。
これを習得することで、より早く、より遠くまで行くことができます。簡単に、前に進むことを意識するだけ。自分の身体を自転車と一体化する。そんな方法を試すだけです。
そう、要は、気持ちの問題なんですよ。
なぜならあなたは、自転車のエンジンなのですから。
それでは、エンジンになる方法を教えます。まずはサドルに座って、ハンドルを握ってください」
と、言うよりも……
「これ、フレーム高すぎないか?どうやって跨るんだよ」
物理的な問題。そのフレームは跨ぐのが困難だった。
「トップチューブを超えるのは危険ですね。後輪を跨ぐようにするのが一般的です」
「トップチューブ?」
「はい。フレームの、ヘッドチューブからシートポストまでを繋ぐ2本のチューブがあります。上がトップチューブ。下がボトムチューブです。お判りいただけましたか?」
「ええっと……ヘッドチューブ?」
「はい。フォークコラムを内蔵する部分がヘッドチューブと言います。そこからシートチューブの上部、シートピラー側に接続されたフレームパイプが……」
そこまで言って、ルリは口を閉じた。
(しまった。このままじゃアキラ様に伝わりませんね。というより、変な女だと思われたらどうしましょう?いや、それは手遅れですか……)
ただの自転車好きだと思われている分には良い。それはルリにとって名誉でもある。問題は、ルリが話の通じない人だと思われることだ。人としてまずい。
「――コホン。こちらがトップチューブです。この……えっと、い、一番高いところの鉄パイプです。あ、でもこの車体は実際には鉄ではなくアルミが使用されていまして、いわゆるアルミフレームと呼ばれる車体の……」
「いや、アルミフレームくらい知ってるけどさ。軽いんだろう?」
「そ、そうです。軽いんです」
ルリがそう言うと、アキラは頭を掻いた。どうもルリは時々、説明が下手である。自転車の事となると熱くなってしまうのか、それとも自分の常識と他人の常識が違った認識になっているのか。
「フレーム自体にも、部品の名前があるんだな」
「はい。元々はパイプを溶接したものですから、それぞれの個所に部位の名前があります。人間の身体に、腕とか脚とかがあるようなものです」
「なるほど。さしずめ、この辺が腕か?」
アキラが前輪を挟み込むような部分を指さす。
「はい。そこはフロントフォークと呼ばれる部分ですね。私は前足だと思っています」
「人間の身体に例えてないじゃないか」
軽く突っ込みつつ、アキラはふと疑問に思う。もしかして、自転車にも理想のプロポーションがあるのだろうか?
「どうしました?」
ルリがアキラに問いかける。ぼーっと突っ立っているように見えたのだろう。
「いや、何でもない。それより、これをどうやって跨ぐんだ?」
アキラが聞くと、ルリは自転車に近づく。どうやら実演込みでやってくれるらしい。
「ご覧の通り、フレームより後輪の方が、高さが低いんです。だから思い切って後輪を跨ぎます。回し蹴りを行うような感覚に近いかもしれませんね」
脚を後ろに振り上げたルリは、そのまま身体を前に移動させる。サドルに対して後ろから乗るようなイメージだろう。その姿は、今日だけで2回ほど見た。これが3回目だ。
「その乗り方、危なくないか?」
「確かに、いままでママチャリに乗られていたお客様には、よく言われます。ですが、フレーム自体を跨ぐよりは安全です。実際にやってみてください」
乗るときとは逆の手順で、ルリが自転車を降りる。つまり右足で後輪の上の空間を蹴るようにする。そのまま身体を宙に浮かせて、両足で着地。
――スタン!
「かっこいいな」
「……アキラ様も、すぐに出来るようになります。ロードだけでなく、クロスバイクにも共通する乗り方です。今から練習しておいて損はありません」
自信はないが、やってみないと始まらない。
思いっきり足を上げて、後輪を跨ぐ。意外にも軽々と、その足は車体の向こうにたどり着いた。
そのままサドルに腰を滑り込ませる。高めのサドルに対して後ろから、ギリギリの高さで腰かけた、その瞬間。
ぐぎっ、ごりごり!
「ポォォォオオウ!」
挟んだ。男として大事なところを、思いっきり挟んだ。体中からどっと汗が吹き出し、下半身がどこかへ消えてしまったように麻痺する。
思わずサドルを超えて、さらに前に腰を落とす。先ほど言っていたトップチューブというらしい部分に跨ると、股間をかばうように手を当てる。イメージしたカッコ良さとは程遠い体たらくだった。
「だ、大丈夫ですか?アキラ様」
「だ、大丈夫だ……ただ、ちょっと待ってくれ。すぐに回復する」
大丈夫ではないとは言えまい。女子にこの痛みは分からないだろうし、別に分かってほしいとも思えない。ただ、あまり醜態をさらし続けるわけにもいかない。平静を装いつつ、回復を待つしかない。
「アキラ様は、勢いをつけすぎです。そこまで気負う必要はありません。それに、一歩間違えば車体を蹴り飛ばしてしまいますよ。その車体は売り物ではありませんが、店の展示品に違いは無いのですから」
もともとアウトレット同然の安物のロードバイクであるわけだが、ローラー台の試乗用に備え付けてある車体だ。もし壊れたら、店側も少し迷惑である。
「すまなかったな。で、この後はどうすればいいんだ?」
呼吸を整えたアキラは、ルリに改めて聞く。するとルリは、驚いたように両手を口に当てた。
「え? もうおち〇ちん元気になったんですか? は、早いんですね」
「言い方っ!」
他の客がいない時間帯で良かったと思うばかりだ。店長が凄い表情でこちらを見てから、がっかりしたように店の奥に戻っていったのは見なかったことにする。
「では、ハンドルのテープを巻いている部分を持ってください。どこでもいいです」
「どこでも?つまり、ここでも?」
アキラが持ったのは、ハンドルの付け根に近い部分。まっすぐ横に伸びたところであり、まだ一度も折り返されていないところだ。
「はい。フラットと呼ばれる部分ですね。そこをお持ちいただいても構いません。私はブラケットに手を乗せるのが好きですが……そこは好みやシチュエーションによります。今回は、アキラ様のお好きなように」
ルリがハンドルを持つときは、ブレーキレバーの付け根の上を持っていた。どうやらここがブラケットというらしい。握ってみると、手のひらが内側を向くようになる。脇が締まるように感じられて、なんだかバランスがとりにくい。
「これはきついな。俺はフラットを持つぜ」
ここを持つと、まるで一文字ハンドルのように扱える。やや幅が狭く感じるのと、ブレーキに指が届かないのは問題点だ。もっともローラー台の上では、ハンドルさばきもブレーキも必要ない。
「それでは、私が変速ギアを操作します。アキラ様は安心して、ペダルを漕ぐことに集中してください」
ルリの両手が、ブレーキレバーに触れる。そこはブレーキをかけるところじゃないかと思ったが、どうやらギアの変速もそこで行うようだ。
目標は、36.2km/h以上。それを叩き出せば、アキラの勝ち。憧れのローマが半額で手に入る。
(ルリの半分だ。俺だってやれる。やってやる!)
まずはサドルに腰を乗せて、普通に一漕ぎ……
「うおっと!」
ガクンとペダルが下がる。壊れたのかと思ったが、違う。
そのペダルは、あまりに軽い力で回るのだ。どこかの部品が外れているんじゃないかと心配になるほど、力を入れずに走り出す。まるで空回りしているようだ。
(この軽さが、高級な自転車の乗り心地か。悪くない!)
カチャカチャと、ギアが切り替わる音がする。ルリは真剣にアキラの足元を見ていた。ギアチェンジのタイミングを、適切に測るために。
(これ、案外いけるんじゃないか?)
ペダルが軽いからこそ、高速で漕げる。これなら簡単に速度を出せるはずだ。
腰を入れて、ペダルを強く踏み込む。全体重をかけて、速く踏みつける。
「アキラ様、現在フルアウター――つまり一番速いギアでございます」
たくさん並んだ歯車を、チェーンが移動する。そのチェーンがフレームから見て一番外側に来た時が、フルアウター。もしくはアウタートップと呼ばれる状態だ。最も速度が速い反面、最も漕ぐ感触が重い。
ただ、今まで十分に勢いをつけてから変速してきた。おかげで重さを感じない。今なら十分に漕げる。
「うぉららららららららぁっ!」
力任せに、ガシガシとペダルを踏みつける。地面が揺れ、自転車が唸る。アキラは今、風になったような感覚を味わっていた。
「はぁ、はぁ、はぁっ――はぁ――はぁーっく……ぶはっ、あっ」
すべてを出し切ったアキラは、ペダルを止めてメーターを見た。
「どうだ?ルリ」
「そうですね……」
何やら操作したルリは、そこに映し出された速度を見る。
「28.3km/hです。残念でしたね」
「そ、そんな……」
その数字は、間違いなくアキラ個人のベストスコアだったと言える。ただ、ルリの半分にも満たない。賭けは負けだ。
「やっぱり、そう簡単にはいかないな」
「はい。簡単にいくようなら、私は本気にも、夢中にもならなかったでしょうね」
そう言ったルリは、まだ疲れるアキラの顔を覗き込む。ハンドルを持って前かがみになったアキラを、下から見上げる形になった。
「ですが、私が思うに、アキラ様はすぐ上達します。もう一段ほどですが」
「え?」
すぐに上達する。それはつまり、才能があるという事だろうか?いや、きっとそうに違いない。ルリは今の一瞬で、アキラの才能を見抜いていた。そうに違いないのだ。
「素人は基礎を覚えるだけで、見違えるものです。高校生に代数を教えるのは困難ですが、幼稚園児に足し算を教えるのは簡単ですから」
前言撤回。アキラに才能は無いらしい。
がっかりするアキラに、ルリは立ち上がって言う。
「もう一度、チャンスを与えます。次で私の記録の半分、36.2km/hを超えられたら、賭けはアキラ様の勝ちです。もちろん、勝ち方も教えます。教えたところで、私に勝てるとも思えませんけどね」
「本当か?」
アキラは跳ね起きた。
「ええ、それでは説明します。準備は良いですか?」
「ああ、いいぞ。頼む」
では、と前置きしたルリは、コホンと咳払い。そして――
「ここにリンゴが3こあります。みかんを2こもらいました。ぜんぶでいくつになったでしょうか?というときに使われるのが……」
「いや、誰が足し算を教えてくれって言ったんだよ!?自転車の基礎を教えてくれるんじゃないのかって」
「冗談です」
「冗談なら、もっと冗談っぽく言ってくれ。ドSかよ」
「どちらかと言えばMです。仕返しを期待しています」
「だから冗談っぽく言ってくれ。本気にするぞ」
やっぱり無表情を崩さないルリは、小声で何かを言った後に、後ろに数歩下がった。そして今度こそ、冗談めかしたように棒読みで、芝居がかったような仕草で言う。
「簡単なフォームについてお話ししましょう。細かい姿勢はさておき、意識の持ちようによって変わる話です。
これを習得することで、より早く、より遠くまで行くことができます。簡単に、前に進むことを意識するだけ。自分の身体を自転車と一体化する。そんな方法を試すだけです。
そう、要は、気持ちの問題なんですよ。
なぜならあなたは、自転車のエンジンなのですから。
それでは、エンジンになる方法を教えます。まずはサドルに座って、ハンドルを握ってください」