魔女とタルトタタン ②
久々に青木さんがやってきたのは、前回来た時から1ヶ月程経った頃だった。久々に見る青木さんは、普段に元通りという風には見えなかったけれど、前よりは少し元気そうに見える。
「あら、青木さん。久しぶりですね。しばらく顔を見せてくれなかったので心配してましたよ~」
「マスターにまでご心配をかけてすみません。ゴタゴタも大分落ち着いたので、また夜勤の時には来られるかと思います。」
「青木さん、今日は注文どうされますか?」
「今日はエスプレッソコーヒーをお願いします。」
「分かりました。少々お待ちくださいね。」
エスプレッソコーヒーを3分の1ほど飲んだ頃、青木さんは語りだした。
「……実は、娘が不登校になりまして。最近忙しかったのは、それに対応していたからなんです。」
「それは……大変でしたね。娘さん、中学生でしたよね。」
「えぇ。二年生です。……僕は詳細に聞いたわけではないんですが、いじめられていたみたいです。色々あったみたいで。女性の世界の出来事は男には少し遠いものですから、家内から娘に話せる範囲で事情を聞いてもらったんですが……」
青木さんは事の顛末を語ってくれた。些細なきっかけでいじめが始まってしまったこと。それが続いていく中で娘さんが耐え切れなくなってしまったということ。今も相手の親や学校と話し合いをしている最中だということ。怒りや悲しみのない、淡々とした口調で青木さんは語った。真面目な青木さんのことだから、こちらに心配なんかをかけさせたくなくて、感情を抑えてくれているんだろう。大人だな、と俺は思った。
「……正直、色々考えてしまうんですよ。もっと早く苦しんでることに気づいてあげられなかったのか、なんで娘がいじめられなきゃならないんだ、親としてもっとしてあげられることはないのか……」
ここでそんなことないですよ、と返すのは簡単だ。だけれど、それは無責任に他ならない気がして、僕は何を言うこともできなかった。いつもは明るくしゃべっているマスターも、今は真面目に話を聞いている。
「難しいですね、子供を育てるって。」
青木さんは寂しそうな声で呟いて、コーヒーを一口啜った。親というのは案外孤独なものなのかもしれない。参考書も正解もない中で、正しいかどうか分かるのはその子が大人になるまでわからない。仲間はいたとしても先生はいないのだと考えると、自分には到底できないなとまで思ってしまう。どう言葉を返そうか、そもそも返答を必要としているのかと思案していると、マスターの声が聞こえた。
「大変ですよねぇ、人との付き合いって。友達とか同僚でも難しいんですもん、家族なんてもっと大変だと思います。でも、青木さんは真面目に娘さんのことを思って、大切に思っているから難しいって思えるんですよ。相手のことがどうでもいいんだったら、難しい事なんて一つもないですから。ちゃんと娘さんを愛しているだけでも立派じゃないですか。」
マスターの言葉を聞いて、青木さんはまたコーヒーを一口飲んだ。
「そうですかね。親が子供を大切にするなんて普通のことじゃないですか?」
「普通のことが出来るのだって立派なことです。愛されない子たちもいる世の中ですから……きっと、青木さんの気持ちは娘さんにも伝わってますよ。大人が思っているより数倍、子供は聡いものですから。って、読んだ本の受け売りですけどね。」
言葉を交わしていくうちに、青木さんの顔は最初に比べて随分とリラックスしたように見えた。いつもは適当なことばかり言っているマスターだけれど、こういった誰かの大切な話題になると、その人のためになる言葉をかけられる。それが出来るマスターはカッコよくて、それが出来ない自分はまだまだ未熟だ。
「……ありがとうございます。少し心が軽くなりました。いつもこのお店の方々には助けられてばかりですね。」
「フフッ、ここは休憩所ですから。少しでもお客さんがゆっくり出来たのなら、それほど嬉しいことはないですよ。」
マスターのその言葉には、一つの建前もなかった。
◆
それからまた少し経って、季節はすっかり冬になった。この街の冬はなかなか冷え込んで、雪が降ることも珍しくないので、あまり店にとっては嬉しい季節ではない。
「そういえばマスター、アリアンヌさんしばらくいらっしゃいませんね。」
「そうだねぇ。お仕事が忙しいんじゃないのかい?」
カウンターにダラーっとしているマスターはダラーっとした声でそう言った。昼間とは言えど寒いので、店内は寒くないように暖房を入れている。心地いい暖かさでは誰しもが眠くなってしまうもので、マスターもそうなのだろうと声色から判断できた。
「もうそろそろ2か月になりますからね。このままだと、マスター、またタルトタタンの作り方忘れちゃうんじゃないですか?」
「そうだね~。わすれちゃうかもねぇ。」
いつにもましてマスターの返事は適当だ。流石に店内で寝るのはどうかと思うから、身を切る覚悟で暖房を切って窓を全開にしようか、なんて考えていると、ドアが開いた音がして、青木さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ~。青木さん、この時間にいらっしゃるのは珍しいですね~」
「今日は非番なんですが、家内と娘は実家に帰っていまして。男の独り身、恥ずかしいんですが料理ができないもので……」
見るからに眠たそうなマスターを気にせず、青木さんは言った。警察官は基本遠出はできないと聞いたことがある。本当に大変な職業だ。
「なるほど。料理はなかなか手間ですからね。食べたいものを言ってくれれば大抵のものはできると思いますが……」
あまり一人で外食をしたことをないらしい青木さんは悩んでいたが、結局サンドイッチに落ち着いた。青木さんはシンプルなサンドイッチを一口食べて、「おいしいです」と言ってくれた。
「青木さん、娘さんはお元気ですか?」
キッチンから帰ってきたマスターはすっかり目が覚めているようだった。おそらく野菜を洗う過程で冷たい水に触れて目が覚めたのだろう。キッチンから時折「ひゃあ!」とか「ひぇぇ」とかマスターの悲鳴が聞こえたのがその証左になる。その話題は大丈夫なのだろうかと少し思ったが、青木さんの様子を見るに何も問題はないようだった。
「えぇ。大分よくなったと思います。まだ学校には行っていないんですが、それ以外はすっかり元通りかと。」
「そうですか~。それはよかったです。」
「お二人には前話したと思うんですが、霧生玲子さんのこと。」
「えぇ、覚えてますよ。娘さんが憧れてらっしゃるって。」
「そうです。実は、最近娘が地域の劇団みたいなものに入りまして。いつかは私も霧生さんみたいな大女優に、って張り切ってるんです。ほんと、強い子です。」
「へぇ……いつか娘さんが舞台に出る日が来たら僕たちも見に行きたいです。」
そんな雑談もしばらくして、青木さんが帰ろうとしている時にドアが開いた。
「いらっしゃいませ。あ……アリアンヌさん。お久しぶりですね。」
「えぇ。お久しぶり。」
やってきたのはアリアンヌさんだった。随分久しぶりで、いつもアリアンヌさんが来るときには予約の電話があったので、予約なしの来訪は初めてのことだった。だから、タルトタタンも用意していない。
珍しいなぁと思いながらふと青木さんを見ると、なぜか鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
「あの、青木さん……?」
こちらが声をかけるが早いか、青木さんは勢いよく席を立ってアリアンヌさんのもとへ向かった。唐突だったので、僕もマスターもぽかんとそれを見ていた。
「すみません。人違いであれば申し訳ないのですが、女優の霧生玲子さん……ですか?」
「……えぇ。悪いけれど、サインも写真もお断りして――」
「あの……本当にありがとうございました。」
あまりの急展開に脳が追い付かない。そもそもアリアンヌさんが霧生玲子だったこともこちらは驚きの新情報。名前とか、演技が上手なことくらいは知っていたけど、顔までは覚えていなかったから気づかなかった。
「……私、あなたに感謝される理由が分からないのだけれど。」
「あ、すみません……実は娘が霧生さんの大ファンでして。ドラマも映画も、霧生さんが出ているものはすべて目を通しているんです。それで……娘が、いじめにあって苦しんでいた時も、霧生さんの演技を心のよりどころにしていたと娘は言っていました。私たち親には言えなかった、でも霧生さんの演技を見たら気分が軽くなって、耐えられた……だから、いつか女優になれたら、お礼が言いたい、と。親として、どれだけお礼を言っても足りません。本当に、ありがとうございます……」
青木さんの声は途中から少し震えていた。いろんな感情が胸の内をめぐって、それでもできるだけ平静でいようとしているのだろう。頭を下げている青木さんを前に、アリアンヌさんは顔色を崩さず、かといって何も感じていないようにも見えなかった。
「そう……それは、辛かったでしょうね。でも、羨ましいわ。」
「え?」
思いがけない言葉に、青木さんは顔を上げた。
「だって、こんなに愛されているんですもの。」
そう言ったアリアンヌさんは何だか寂しそうだった。まるで、自分が愛されていなかった、とでもいいたげに見える。
「娘さんに伝言してあげて。『応援、ありがとう。いつか一緒に演技ができる日が来ることを楽しみにしているわ。』ってね。それと……今度の日曜日、インタビュー番組に出るのだけれど、リアルタイムで見てほしいわ。多分、娘さんに向けた言葉もあるだろうから。」
青木さんはそれを聞くと、三度「ありがとうございます!」と言って、外に駆け出して行った。電話で娘さんに伝えるつもりなのだろう、ウチの支払いを忘れるくらいには頭が一杯のようだ。まぁ、頭が一杯でなくてもつけにする人が多いから、何の問題もないけれど。
「なんだか、お騒がせしたわね。普段はあまり対応していないのだけれど、少しあてられたのかしら。」
「いえいえ……それよりも、こっちまで驚きましたよ。まさかアリアンヌさんが女優の霧生玲子だったなんて。」
「あら、気づいてなかったの? 私もまだまだね……」
「す、すみません! テレビも映画もあまり見ないもので!」
「全く、タカヒロ君、そういう時は失礼のないようにしないといけないんだよ。気づかなかったとしても、気づいたうえでそ知らぬふりをしてました~とか、うまいことやらないと。」
「そういうの、あんまり本人の前で言うことじゃないと思いますよ。ていうか、マスターも気づいてなかったでしょ⁉」
「そ、そんなことないヨー。私はアリアンヌさんの迷惑になるかなーと思って黙ってたのダヨー。」
「片言になってるじゃないですか。」
こんな俺たちの言い合いを見て、アリアンヌさんは楽しそうに微笑んでいる。
「あ、すみませんアリアンヌさん。ご注文を聞いてませんでしたね。」
「かまわないわ。そうね、今日はカプチーノでも頂こうかしら。」
◆
「アリアンヌさん、しばらくいらっしゃらなかったのってお仕事のご都合ですか?」
「えぇ。映画の撮影でね。少しところに行っていたものだから。何だかあなた達の掛け合いが見れなくて寂しかったわ。」
なぜかマスターは誇らしげに頷いている。これは喜ぶべきだろうか?まぁ、褒められているのには違いないから喜ぶべきかな。
「公開されたら見に行きますね~。映画館に行くなんて何十年ぶりかなぁ。」
「せっかくだから、試写会にでも招待するわ。面白い映画よ、私が出てるんだもの。」
流石は大女優とでもいうべき自信だ。でも、そのセリフには説得力があった。
「あぁ、そういえば。次の予約をしておいていいかしら? 今回は忙しくて予約できなかったものだから。」
「えぇ、もちろん。嬉しいです!」
予約を入れると、アリアンヌさんは明日も早い時間から撮影があるのだと言って、店を後にしていった。やはり売れっ子女優は忙しいのだろう。
「ウチにまさか女優さんが来てたなんてねぇ。気づかなかったねぇ。」
「やっぱり気づいてなかったんですね……それは置いておいて、びっくりしましたね。ほんと、まさかって感じです。」
「私たち以外は気づいてたんだろうね。そういえばアリアンヌさん、インタビュー番組に出るって言ってたよねぇ。私たちも見ようよ。」
「そうですね。ウチならゆっくり見られそうですし。たまには仕事が忙しくない方がいいこともあるんですねぇ。」
◆
次の日曜、インタビュー番組が放送される日。普段はあまりテレビをつけていない店内には、珍しく騒がし気なCMの音が流れていた。
「なんだか、落ち着かない感じがしますね。いつもはラジオばっかりだから。」
「私があんまりテレビ好きじゃないからなぁ。お客さんもそんなにつけてほしいって言わないし、ほとんど置いてるだけだから、たまには使ってあげないと、付喪神もつかないよねぇ。」
「そういえば、アリアンヌさんの予約の時間もそろそろでしたよね。準備しておかないと……」
タルトタタンの準備をしている間に番組は始まったらしく、キッチンに聞きなじみのある音楽が聞こえてきた。僕の年齢よりもはるか上、100年以上続く長寿番組だから、あまりテレビを見ない僕でもオープニングミュージックが分かる。それが終わらないうちに、急いで準備を終わらせてテレビに向かうと、ちょうどこれから始まるところだった。司会者が映し出され、挨拶とゲストの紹介。そこにいるアリアンヌさんを見ると、やはり芸能人なのだなと思わされる。
「わ~、アリアンヌさん、綺麗だね。」
「普段からお綺麗ですけど、やっぱりプロのメイクさんってすごいんでしょうね。」
30分の番組は滞りなく進んでいく。仕事への向き合い方、日々の生活、意外な一面……半分を過ぎたころ、女優になったきっかけ、というテーマに話は移った。
『それじゃあ、あなたはなんで女優さんになろうと思ったのかしら?』
『そうですね……ちょっと話は逸れるんですけど、子供のころ色々と辛いことが重なった時期があって。その時、好きだった女優さんがいたんです。辛いことがあった時はその人の演技を見て、現実逃避をしてたんです。』
『なるほど、その時間に救われていたと。』
『うーん、救われていたのはそうなんですけれど……私としては、時間稼ぎといった方がしっくりきます。何かを解決してくれるわけじゃない、でも、何も考えなくていい、そんな時間……』
『ははぁ、そうなのね。』
『それで、なんになろうか考えたとき、ふとそのことを思い出して。私も誰かの時間稼ぎが出来れば嬉しいな、そんな風に考えていたら、いつの間にか女優になっていましたね。』
「分かるなぁ、その気持ち。」
「え? マスターも……」
ふとしたつぶやきが気になって問いかけたその時、ドアが開いた。予約の時間が来たみたいだ。
「あ、いらっしゃいませ、アリアンヌさん。」
「あら、二人も見てたのね。なんだか恥ずかしいわ。」
「とってもステキでしたよ~。さ、どうぞどうぞ。」
タルトタタンと飲み物の準備をしている間に番組はほぼ終わってしまっていた。ちょうど、アリアンヌさんの前に料理が並んだ時、テレビには主演映画の宣伝をしているアリアンヌさんが映っていた。
「次の映画、フランスが舞台なんですね。」
「えぇ。……だから、最初は断ろうと思ったの。」
「え……?」
意外な発言に、つい疑問符を返してしまった。フランスといえばなんだかお洒落で、映画を撮るのにも向いていそうだ、と素人目には映る。それなのに、アリアンヌさんがフランスを嫌いなのは何故だろう。
「……私、フランスが故郷なの。16歳でこの国に来るまで、ずっとフランスにいたわ。」
「それじゃあ、どうして……?」
タルトタタンを一口食べて、アリアンヌさんは少し遠くを見つめた。遠くにある故郷を映すように。
◆
「私、さっきの番組で、子供のころ辛いことが重なった時期があったって言ってたわよね。あれ、嘘なの。本当はずっと辛かったわ。」
「もしかして、いじめ、ですか……?」
「……それもあったわ。フランスはね、魔法使いがカーストの最上位。それ以外も色々と種族やキャラクターで立ち位置が決まるの。まぁ、何処の国でも同じなのかもしれないけれど。」
そこでアリアンヌさんはふっと言葉を切った。多分ここからは、話す方も聞く方もつらい話になるんだろう。少しだけの静寂の後、またアリアンヌさんは話し始めた。
「私ね、魔女の家の生まれなの。期待されて、才能のある子が集まる学校に行った。でも、残念なことに私には魔法を使う才能が無かったのよ。火を熾したりするので精いっぱい。空を飛ぶなんて夢のまた夢だったわ。だから、先生にも生徒にも見下されたり、笑われたりしたわ。……代々続く魔女の名門の家に生まれた宿命、といえば聞こえはいいけれど、私には耐えられるものじゃなかったわ。しばらくして、学校には行かなくなった。親は何にも言わなかったわ。母親は私に興味がなかったから。最低限の世話はしてくれたけど、不登校になっても、いじめられていても、何をしても、褒められることも叱られることもなかったわ。だから16歳になってすぐ国を出た。行先はどこでもよかったけれど、一番色んな種族がいるこの国に来たの。それに、好きだった女優さんもこの国の人だったから。」
なんと言葉を返せばいいのか分からない。アリアンヌさんの人生をこちらの想像で慰めるのは、何だか違う気がして喋ることが出来なかった。
「大人になってから知ったわ。私の育った環境は情緒的ネグレクトっていうんですって。ただただ子供に無関心。初めてそれを知った時、笑っちゃったわ。私、どれだけ変な子供時代を過ごしてきたんだろうって。だから、この前つい言っちゃったの。『こんなに愛されてる娘さんが羨ましい』ってね。」
「あの、アリアンヌさん。お父さんって……」
「私が7歳の時、病気で。優しい父親だったわ。父がきちんと愛してくれたから、私はなんとかここまで来られたんだと思う。」
「すみません……」
「いいのよ。」
そこまで話して、アリアンヌさんはディアボロを一口飲んだ。これだけ嫌なことばかりだった故郷。それでも、心のどこかで恨み切れていないのかもしれない。タルトタタンもディアボロも、フランスの代表的な食べ物なのだから。
「それでも、アリアンヌさんはフランスに行ったんですねぇ。」
マスターの言葉に、アリアンヌさんは頬杖をついた。
「最初は行く気なんかなかったわ。誰が帰るもんですかって思ってた。でも、やっぱり、自分を騙しきれなかった。心のどこかで、フランスに帰れば母親に会えるかもしれない、認めてくれるかもしれないって思ったの。三流役者ね、自分も騙せないなんて……もちろん、向こうが私のことなんて気にするはずもないから、会わなかったけれど。」
「久しぶりの故郷はどうでした?」
マスターの質問に、またアリアンヌさんは遠くを見つめた。
「うん、やっぱり嫌なところだったわ。子供のころの嫌な思い出、何者でもなかった自分の姿、思い出したくないことは全部あの国に置いてきたから。でも多分、またいつか帰るんでしょうね。故郷ってそんなもの……」
アリアンヌさんの前のお皿は空っぽで、タルトタタンはいつの間にか綺麗に無くなっていた。
「ここのタルトタタンね、母親が作ったのに似てるのよ。焼き具合も、甘いところも、チーズを乗せるところも。庭にあるテーブルで、父親が頭をなでてくれて、母親が焼きたてのタルトタタンを持ってきて……ずるいわね、親って。子供は親に愛されるかどうか分からないのに、親は子供に無条件で愛されるんだもの。あっちは覚えてなくてもこっちは全部覚えてるのよ。全部忘れられればいいのにね。親のことも、タルトタタンの味も……」
話をしている間、アリアンヌさんから感情が伝わってくることはなかった。自分の体験を話しているというよりは、誰かの体験談を代読しているようだ。平静を演じているのだろう、そうする理由もなんとなく推し量れる。
「ごめんなさいね、こんな話しちゃって。普段はあんまり自分のことは話さないのだけれど、二人には何故だか話しやすくて。」
「そうであれば嬉しいです。お客さんがそうした気持ちになるってことは、きっと居心地がいいってことですから。」
「そうだねぇ。それにしても、アリアンヌさんはすごい頑張り屋さんですね。私だったら、そんなに頑張り続けられませんよ~。」
マスターの言葉に、アリアンヌさんは顔を上げて少し笑った。
「……初めてね。今の話を聞いてそんなことを言った人。今まではみんな、可哀そうとか、親にも何か事情があったんじゃないかとか、そんなのばっかり。やっぱりマスターは面白いわね。」
「だって、可哀そうかどうかを押し付けるのは良くないですから。こっちがそう思っても、本人の気持ちは分かりませんし。どんな思いを持ってもそれは正解ですから。でも、アリアンヌさんが頑張ってきたのは間違いない。知らない国に来て、頼れる人もいなかったはずで。私は、尊敬できるくらいの頑張り屋さんだなって思いました。」
「僕もそう思います。僕らじゃ分からないこともいっぱいあると思いますけど、大変だっただろうってことは分かりますから。」
こちらの言葉に、アリアンヌさんは何を返すでもなく目を閉じた。
「そう……私は頑張ってたのね……ずっと、一人で……」
噛みしめるような声で言う。これまでの人生を肯定するように、自分を認めるように。
「みんな、生きていくのは大変ですから。種族も、職も、性別も思想も趣味嗜好も、送ってる人生もみんな違って、みんなそれぞれに大変で。だからこのお店があるんです。ちょっと生きていくのに疲れた時、お休みできる場所。これからも、お疲れの時は是非、『時間稼ぎ』にいらしてくださいね。」
マスターの言葉に、アリアンヌさんは微笑んだ。
「そうね、お言葉に甘えさせていただくわ。お陰で、少しは自分も周りも少しは許せそうな気がするから。」
こんな出来事があって、アリアンヌさんはウチの常連さんの一人になった。何か心の内を整理することもできたのだろうか、最近はより演技に磨きがかかったと評判だ。青木さんの娘さんもより熱をあげているらしく、困ったものですよと青木さんは笑っていた。
青木さんの娘さんは相変わらず学校には行っていないらしいが、それでもいいんですと青木さんは言っていた。今の時代勉強は家でも出来るし、他者との付き合いも劇団で学べているから問題はないんですと。そう語る青木さんの顔には、悩んでいた面影は無くなっていた。
◆
「私ね、次の映画で喫茶店のマスターの役をやったの。」
春の足音が近づいてきた2月の終わりごろ、店にやってきたアリアンヌさんは言った。相変わらずタルトタタンを食べているアリアンヌさんは、最初やってきた時よりも随分温和な雰囲気になっていた。
「え~! なんだか嬉しいです!」
「僕たちとは関係ないって分かってても何だか嬉しいですね。」
「フフ、楽しみにしておいてね。また試写会に招待するから。」
その後、実際に試写会に招待されて見た映画は、美人で明るい人気者のマスターと、そんなマスターに恋しているお客さんのお話だった。とっても素敵で面白い映画だったけれど、一つだけ気になったことがあった。
「素敵な映画だったねぇ。なんだか恋したくなっちゃった。」
「やっぱり凄いですね、アリアンヌさんは。でも……」
「ん~? どうかした~?」
「……やっぱり何でもないです。」
「えー。気になるなぁ。さては僕もマスターに恋しちゃってるんです……とか!」
「絶対に違います。」
「そんな、隠さなくても大丈夫だよ。OKは出来ないけれど、気持ちは受け取るから……」
何だか俺には映画の中のマスターが、目の前にいるマスターに重なって見えたのだ。こんなに適当なことは言っていなかったし、もっとお淑やかってかんじだったけれど、何だか節々に見えてしまった。でも、本人に言ったら調子に乗って余計なことを言われそうだから、言うのはやめることにした。
「マスター、帰って開店の準備しましょう。」
「そうだね、『コーヒーはいかがでしょうかお客様』……私も参考にしよっと。」
早速映画に感化されているマスターと一緒に歩く帰り道は、映画の中に出てきた街並みにそっくりで、何だか自分が映画の登場人物になったみたいだ。でも、少し前を歩くマスターは映画よりも現実の方が素敵だな、と思った。
「あら、青木さん。久しぶりですね。しばらく顔を見せてくれなかったので心配してましたよ~」
「マスターにまでご心配をかけてすみません。ゴタゴタも大分落ち着いたので、また夜勤の時には来られるかと思います。」
「青木さん、今日は注文どうされますか?」
「今日はエスプレッソコーヒーをお願いします。」
「分かりました。少々お待ちくださいね。」
エスプレッソコーヒーを3分の1ほど飲んだ頃、青木さんは語りだした。
「……実は、娘が不登校になりまして。最近忙しかったのは、それに対応していたからなんです。」
「それは……大変でしたね。娘さん、中学生でしたよね。」
「えぇ。二年生です。……僕は詳細に聞いたわけではないんですが、いじめられていたみたいです。色々あったみたいで。女性の世界の出来事は男には少し遠いものですから、家内から娘に話せる範囲で事情を聞いてもらったんですが……」
青木さんは事の顛末を語ってくれた。些細なきっかけでいじめが始まってしまったこと。それが続いていく中で娘さんが耐え切れなくなってしまったということ。今も相手の親や学校と話し合いをしている最中だということ。怒りや悲しみのない、淡々とした口調で青木さんは語った。真面目な青木さんのことだから、こちらに心配なんかをかけさせたくなくて、感情を抑えてくれているんだろう。大人だな、と俺は思った。
「……正直、色々考えてしまうんですよ。もっと早く苦しんでることに気づいてあげられなかったのか、なんで娘がいじめられなきゃならないんだ、親としてもっとしてあげられることはないのか……」
ここでそんなことないですよ、と返すのは簡単だ。だけれど、それは無責任に他ならない気がして、僕は何を言うこともできなかった。いつもは明るくしゃべっているマスターも、今は真面目に話を聞いている。
「難しいですね、子供を育てるって。」
青木さんは寂しそうな声で呟いて、コーヒーを一口啜った。親というのは案外孤独なものなのかもしれない。参考書も正解もない中で、正しいかどうか分かるのはその子が大人になるまでわからない。仲間はいたとしても先生はいないのだと考えると、自分には到底できないなとまで思ってしまう。どう言葉を返そうか、そもそも返答を必要としているのかと思案していると、マスターの声が聞こえた。
「大変ですよねぇ、人との付き合いって。友達とか同僚でも難しいんですもん、家族なんてもっと大変だと思います。でも、青木さんは真面目に娘さんのことを思って、大切に思っているから難しいって思えるんですよ。相手のことがどうでもいいんだったら、難しい事なんて一つもないですから。ちゃんと娘さんを愛しているだけでも立派じゃないですか。」
マスターの言葉を聞いて、青木さんはまたコーヒーを一口飲んだ。
「そうですかね。親が子供を大切にするなんて普通のことじゃないですか?」
「普通のことが出来るのだって立派なことです。愛されない子たちもいる世の中ですから……きっと、青木さんの気持ちは娘さんにも伝わってますよ。大人が思っているより数倍、子供は聡いものですから。って、読んだ本の受け売りですけどね。」
言葉を交わしていくうちに、青木さんの顔は最初に比べて随分とリラックスしたように見えた。いつもは適当なことばかり言っているマスターだけれど、こういった誰かの大切な話題になると、その人のためになる言葉をかけられる。それが出来るマスターはカッコよくて、それが出来ない自分はまだまだ未熟だ。
「……ありがとうございます。少し心が軽くなりました。いつもこのお店の方々には助けられてばかりですね。」
「フフッ、ここは休憩所ですから。少しでもお客さんがゆっくり出来たのなら、それほど嬉しいことはないですよ。」
マスターのその言葉には、一つの建前もなかった。
◆
それからまた少し経って、季節はすっかり冬になった。この街の冬はなかなか冷え込んで、雪が降ることも珍しくないので、あまり店にとっては嬉しい季節ではない。
「そういえばマスター、アリアンヌさんしばらくいらっしゃいませんね。」
「そうだねぇ。お仕事が忙しいんじゃないのかい?」
カウンターにダラーっとしているマスターはダラーっとした声でそう言った。昼間とは言えど寒いので、店内は寒くないように暖房を入れている。心地いい暖かさでは誰しもが眠くなってしまうもので、マスターもそうなのだろうと声色から判断できた。
「もうそろそろ2か月になりますからね。このままだと、マスター、またタルトタタンの作り方忘れちゃうんじゃないですか?」
「そうだね~。わすれちゃうかもねぇ。」
いつにもましてマスターの返事は適当だ。流石に店内で寝るのはどうかと思うから、身を切る覚悟で暖房を切って窓を全開にしようか、なんて考えていると、ドアが開いた音がして、青木さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ~。青木さん、この時間にいらっしゃるのは珍しいですね~」
「今日は非番なんですが、家内と娘は実家に帰っていまして。男の独り身、恥ずかしいんですが料理ができないもので……」
見るからに眠たそうなマスターを気にせず、青木さんは言った。警察官は基本遠出はできないと聞いたことがある。本当に大変な職業だ。
「なるほど。料理はなかなか手間ですからね。食べたいものを言ってくれれば大抵のものはできると思いますが……」
あまり一人で外食をしたことをないらしい青木さんは悩んでいたが、結局サンドイッチに落ち着いた。青木さんはシンプルなサンドイッチを一口食べて、「おいしいです」と言ってくれた。
「青木さん、娘さんはお元気ですか?」
キッチンから帰ってきたマスターはすっかり目が覚めているようだった。おそらく野菜を洗う過程で冷たい水に触れて目が覚めたのだろう。キッチンから時折「ひゃあ!」とか「ひぇぇ」とかマスターの悲鳴が聞こえたのがその証左になる。その話題は大丈夫なのだろうかと少し思ったが、青木さんの様子を見るに何も問題はないようだった。
「えぇ。大分よくなったと思います。まだ学校には行っていないんですが、それ以外はすっかり元通りかと。」
「そうですか~。それはよかったです。」
「お二人には前話したと思うんですが、霧生玲子さんのこと。」
「えぇ、覚えてますよ。娘さんが憧れてらっしゃるって。」
「そうです。実は、最近娘が地域の劇団みたいなものに入りまして。いつかは私も霧生さんみたいな大女優に、って張り切ってるんです。ほんと、強い子です。」
「へぇ……いつか娘さんが舞台に出る日が来たら僕たちも見に行きたいです。」
そんな雑談もしばらくして、青木さんが帰ろうとしている時にドアが開いた。
「いらっしゃいませ。あ……アリアンヌさん。お久しぶりですね。」
「えぇ。お久しぶり。」
やってきたのはアリアンヌさんだった。随分久しぶりで、いつもアリアンヌさんが来るときには予約の電話があったので、予約なしの来訪は初めてのことだった。だから、タルトタタンも用意していない。
珍しいなぁと思いながらふと青木さんを見ると、なぜか鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
「あの、青木さん……?」
こちらが声をかけるが早いか、青木さんは勢いよく席を立ってアリアンヌさんのもとへ向かった。唐突だったので、僕もマスターもぽかんとそれを見ていた。
「すみません。人違いであれば申し訳ないのですが、女優の霧生玲子さん……ですか?」
「……えぇ。悪いけれど、サインも写真もお断りして――」
「あの……本当にありがとうございました。」
あまりの急展開に脳が追い付かない。そもそもアリアンヌさんが霧生玲子だったこともこちらは驚きの新情報。名前とか、演技が上手なことくらいは知っていたけど、顔までは覚えていなかったから気づかなかった。
「……私、あなたに感謝される理由が分からないのだけれど。」
「あ、すみません……実は娘が霧生さんの大ファンでして。ドラマも映画も、霧生さんが出ているものはすべて目を通しているんです。それで……娘が、いじめにあって苦しんでいた時も、霧生さんの演技を心のよりどころにしていたと娘は言っていました。私たち親には言えなかった、でも霧生さんの演技を見たら気分が軽くなって、耐えられた……だから、いつか女優になれたら、お礼が言いたい、と。親として、どれだけお礼を言っても足りません。本当に、ありがとうございます……」
青木さんの声は途中から少し震えていた。いろんな感情が胸の内をめぐって、それでもできるだけ平静でいようとしているのだろう。頭を下げている青木さんを前に、アリアンヌさんは顔色を崩さず、かといって何も感じていないようにも見えなかった。
「そう……それは、辛かったでしょうね。でも、羨ましいわ。」
「え?」
思いがけない言葉に、青木さんは顔を上げた。
「だって、こんなに愛されているんですもの。」
そう言ったアリアンヌさんは何だか寂しそうだった。まるで、自分が愛されていなかった、とでもいいたげに見える。
「娘さんに伝言してあげて。『応援、ありがとう。いつか一緒に演技ができる日が来ることを楽しみにしているわ。』ってね。それと……今度の日曜日、インタビュー番組に出るのだけれど、リアルタイムで見てほしいわ。多分、娘さんに向けた言葉もあるだろうから。」
青木さんはそれを聞くと、三度「ありがとうございます!」と言って、外に駆け出して行った。電話で娘さんに伝えるつもりなのだろう、ウチの支払いを忘れるくらいには頭が一杯のようだ。まぁ、頭が一杯でなくてもつけにする人が多いから、何の問題もないけれど。
「なんだか、お騒がせしたわね。普段はあまり対応していないのだけれど、少しあてられたのかしら。」
「いえいえ……それよりも、こっちまで驚きましたよ。まさかアリアンヌさんが女優の霧生玲子だったなんて。」
「あら、気づいてなかったの? 私もまだまだね……」
「す、すみません! テレビも映画もあまり見ないもので!」
「全く、タカヒロ君、そういう時は失礼のないようにしないといけないんだよ。気づかなかったとしても、気づいたうえでそ知らぬふりをしてました~とか、うまいことやらないと。」
「そういうの、あんまり本人の前で言うことじゃないと思いますよ。ていうか、マスターも気づいてなかったでしょ⁉」
「そ、そんなことないヨー。私はアリアンヌさんの迷惑になるかなーと思って黙ってたのダヨー。」
「片言になってるじゃないですか。」
こんな俺たちの言い合いを見て、アリアンヌさんは楽しそうに微笑んでいる。
「あ、すみませんアリアンヌさん。ご注文を聞いてませんでしたね。」
「かまわないわ。そうね、今日はカプチーノでも頂こうかしら。」
◆
「アリアンヌさん、しばらくいらっしゃらなかったのってお仕事のご都合ですか?」
「えぇ。映画の撮影でね。少しところに行っていたものだから。何だかあなた達の掛け合いが見れなくて寂しかったわ。」
なぜかマスターは誇らしげに頷いている。これは喜ぶべきだろうか?まぁ、褒められているのには違いないから喜ぶべきかな。
「公開されたら見に行きますね~。映画館に行くなんて何十年ぶりかなぁ。」
「せっかくだから、試写会にでも招待するわ。面白い映画よ、私が出てるんだもの。」
流石は大女優とでもいうべき自信だ。でも、そのセリフには説得力があった。
「あぁ、そういえば。次の予約をしておいていいかしら? 今回は忙しくて予約できなかったものだから。」
「えぇ、もちろん。嬉しいです!」
予約を入れると、アリアンヌさんは明日も早い時間から撮影があるのだと言って、店を後にしていった。やはり売れっ子女優は忙しいのだろう。
「ウチにまさか女優さんが来てたなんてねぇ。気づかなかったねぇ。」
「やっぱり気づいてなかったんですね……それは置いておいて、びっくりしましたね。ほんと、まさかって感じです。」
「私たち以外は気づいてたんだろうね。そういえばアリアンヌさん、インタビュー番組に出るって言ってたよねぇ。私たちも見ようよ。」
「そうですね。ウチならゆっくり見られそうですし。たまには仕事が忙しくない方がいいこともあるんですねぇ。」
◆
次の日曜、インタビュー番組が放送される日。普段はあまりテレビをつけていない店内には、珍しく騒がし気なCMの音が流れていた。
「なんだか、落ち着かない感じがしますね。いつもはラジオばっかりだから。」
「私があんまりテレビ好きじゃないからなぁ。お客さんもそんなにつけてほしいって言わないし、ほとんど置いてるだけだから、たまには使ってあげないと、付喪神もつかないよねぇ。」
「そういえば、アリアンヌさんの予約の時間もそろそろでしたよね。準備しておかないと……」
タルトタタンの準備をしている間に番組は始まったらしく、キッチンに聞きなじみのある音楽が聞こえてきた。僕の年齢よりもはるか上、100年以上続く長寿番組だから、あまりテレビを見ない僕でもオープニングミュージックが分かる。それが終わらないうちに、急いで準備を終わらせてテレビに向かうと、ちょうどこれから始まるところだった。司会者が映し出され、挨拶とゲストの紹介。そこにいるアリアンヌさんを見ると、やはり芸能人なのだなと思わされる。
「わ~、アリアンヌさん、綺麗だね。」
「普段からお綺麗ですけど、やっぱりプロのメイクさんってすごいんでしょうね。」
30分の番組は滞りなく進んでいく。仕事への向き合い方、日々の生活、意外な一面……半分を過ぎたころ、女優になったきっかけ、というテーマに話は移った。
『それじゃあ、あなたはなんで女優さんになろうと思ったのかしら?』
『そうですね……ちょっと話は逸れるんですけど、子供のころ色々と辛いことが重なった時期があって。その時、好きだった女優さんがいたんです。辛いことがあった時はその人の演技を見て、現実逃避をしてたんです。』
『なるほど、その時間に救われていたと。』
『うーん、救われていたのはそうなんですけれど……私としては、時間稼ぎといった方がしっくりきます。何かを解決してくれるわけじゃない、でも、何も考えなくていい、そんな時間……』
『ははぁ、そうなのね。』
『それで、なんになろうか考えたとき、ふとそのことを思い出して。私も誰かの時間稼ぎが出来れば嬉しいな、そんな風に考えていたら、いつの間にか女優になっていましたね。』
「分かるなぁ、その気持ち。」
「え? マスターも……」
ふとしたつぶやきが気になって問いかけたその時、ドアが開いた。予約の時間が来たみたいだ。
「あ、いらっしゃいませ、アリアンヌさん。」
「あら、二人も見てたのね。なんだか恥ずかしいわ。」
「とってもステキでしたよ~。さ、どうぞどうぞ。」
タルトタタンと飲み物の準備をしている間に番組はほぼ終わってしまっていた。ちょうど、アリアンヌさんの前に料理が並んだ時、テレビには主演映画の宣伝をしているアリアンヌさんが映っていた。
「次の映画、フランスが舞台なんですね。」
「えぇ。……だから、最初は断ろうと思ったの。」
「え……?」
意外な発言に、つい疑問符を返してしまった。フランスといえばなんだかお洒落で、映画を撮るのにも向いていそうだ、と素人目には映る。それなのに、アリアンヌさんがフランスを嫌いなのは何故だろう。
「……私、フランスが故郷なの。16歳でこの国に来るまで、ずっとフランスにいたわ。」
「それじゃあ、どうして……?」
タルトタタンを一口食べて、アリアンヌさんは少し遠くを見つめた。遠くにある故郷を映すように。
◆
「私、さっきの番組で、子供のころ辛いことが重なった時期があったって言ってたわよね。あれ、嘘なの。本当はずっと辛かったわ。」
「もしかして、いじめ、ですか……?」
「……それもあったわ。フランスはね、魔法使いがカーストの最上位。それ以外も色々と種族やキャラクターで立ち位置が決まるの。まぁ、何処の国でも同じなのかもしれないけれど。」
そこでアリアンヌさんはふっと言葉を切った。多分ここからは、話す方も聞く方もつらい話になるんだろう。少しだけの静寂の後、またアリアンヌさんは話し始めた。
「私ね、魔女の家の生まれなの。期待されて、才能のある子が集まる学校に行った。でも、残念なことに私には魔法を使う才能が無かったのよ。火を熾したりするので精いっぱい。空を飛ぶなんて夢のまた夢だったわ。だから、先生にも生徒にも見下されたり、笑われたりしたわ。……代々続く魔女の名門の家に生まれた宿命、といえば聞こえはいいけれど、私には耐えられるものじゃなかったわ。しばらくして、学校には行かなくなった。親は何にも言わなかったわ。母親は私に興味がなかったから。最低限の世話はしてくれたけど、不登校になっても、いじめられていても、何をしても、褒められることも叱られることもなかったわ。だから16歳になってすぐ国を出た。行先はどこでもよかったけれど、一番色んな種族がいるこの国に来たの。それに、好きだった女優さんもこの国の人だったから。」
なんと言葉を返せばいいのか分からない。アリアンヌさんの人生をこちらの想像で慰めるのは、何だか違う気がして喋ることが出来なかった。
「大人になってから知ったわ。私の育った環境は情緒的ネグレクトっていうんですって。ただただ子供に無関心。初めてそれを知った時、笑っちゃったわ。私、どれだけ変な子供時代を過ごしてきたんだろうって。だから、この前つい言っちゃったの。『こんなに愛されてる娘さんが羨ましい』ってね。」
「あの、アリアンヌさん。お父さんって……」
「私が7歳の時、病気で。優しい父親だったわ。父がきちんと愛してくれたから、私はなんとかここまで来られたんだと思う。」
「すみません……」
「いいのよ。」
そこまで話して、アリアンヌさんはディアボロを一口飲んだ。これだけ嫌なことばかりだった故郷。それでも、心のどこかで恨み切れていないのかもしれない。タルトタタンもディアボロも、フランスの代表的な食べ物なのだから。
「それでも、アリアンヌさんはフランスに行ったんですねぇ。」
マスターの言葉に、アリアンヌさんは頬杖をついた。
「最初は行く気なんかなかったわ。誰が帰るもんですかって思ってた。でも、やっぱり、自分を騙しきれなかった。心のどこかで、フランスに帰れば母親に会えるかもしれない、認めてくれるかもしれないって思ったの。三流役者ね、自分も騙せないなんて……もちろん、向こうが私のことなんて気にするはずもないから、会わなかったけれど。」
「久しぶりの故郷はどうでした?」
マスターの質問に、またアリアンヌさんは遠くを見つめた。
「うん、やっぱり嫌なところだったわ。子供のころの嫌な思い出、何者でもなかった自分の姿、思い出したくないことは全部あの国に置いてきたから。でも多分、またいつか帰るんでしょうね。故郷ってそんなもの……」
アリアンヌさんの前のお皿は空っぽで、タルトタタンはいつの間にか綺麗に無くなっていた。
「ここのタルトタタンね、母親が作ったのに似てるのよ。焼き具合も、甘いところも、チーズを乗せるところも。庭にあるテーブルで、父親が頭をなでてくれて、母親が焼きたてのタルトタタンを持ってきて……ずるいわね、親って。子供は親に愛されるかどうか分からないのに、親は子供に無条件で愛されるんだもの。あっちは覚えてなくてもこっちは全部覚えてるのよ。全部忘れられればいいのにね。親のことも、タルトタタンの味も……」
話をしている間、アリアンヌさんから感情が伝わってくることはなかった。自分の体験を話しているというよりは、誰かの体験談を代読しているようだ。平静を演じているのだろう、そうする理由もなんとなく推し量れる。
「ごめんなさいね、こんな話しちゃって。普段はあんまり自分のことは話さないのだけれど、二人には何故だか話しやすくて。」
「そうであれば嬉しいです。お客さんがそうした気持ちになるってことは、きっと居心地がいいってことですから。」
「そうだねぇ。それにしても、アリアンヌさんはすごい頑張り屋さんですね。私だったら、そんなに頑張り続けられませんよ~。」
マスターの言葉に、アリアンヌさんは顔を上げて少し笑った。
「……初めてね。今の話を聞いてそんなことを言った人。今まではみんな、可哀そうとか、親にも何か事情があったんじゃないかとか、そんなのばっかり。やっぱりマスターは面白いわね。」
「だって、可哀そうかどうかを押し付けるのは良くないですから。こっちがそう思っても、本人の気持ちは分かりませんし。どんな思いを持ってもそれは正解ですから。でも、アリアンヌさんが頑張ってきたのは間違いない。知らない国に来て、頼れる人もいなかったはずで。私は、尊敬できるくらいの頑張り屋さんだなって思いました。」
「僕もそう思います。僕らじゃ分からないこともいっぱいあると思いますけど、大変だっただろうってことは分かりますから。」
こちらの言葉に、アリアンヌさんは何を返すでもなく目を閉じた。
「そう……私は頑張ってたのね……ずっと、一人で……」
噛みしめるような声で言う。これまでの人生を肯定するように、自分を認めるように。
「みんな、生きていくのは大変ですから。種族も、職も、性別も思想も趣味嗜好も、送ってる人生もみんな違って、みんなそれぞれに大変で。だからこのお店があるんです。ちょっと生きていくのに疲れた時、お休みできる場所。これからも、お疲れの時は是非、『時間稼ぎ』にいらしてくださいね。」
マスターの言葉に、アリアンヌさんは微笑んだ。
「そうね、お言葉に甘えさせていただくわ。お陰で、少しは自分も周りも少しは許せそうな気がするから。」
こんな出来事があって、アリアンヌさんはウチの常連さんの一人になった。何か心の内を整理することもできたのだろうか、最近はより演技に磨きがかかったと評判だ。青木さんの娘さんもより熱をあげているらしく、困ったものですよと青木さんは笑っていた。
青木さんの娘さんは相変わらず学校には行っていないらしいが、それでもいいんですと青木さんは言っていた。今の時代勉強は家でも出来るし、他者との付き合いも劇団で学べているから問題はないんですと。そう語る青木さんの顔には、悩んでいた面影は無くなっていた。
◆
「私ね、次の映画で喫茶店のマスターの役をやったの。」
春の足音が近づいてきた2月の終わりごろ、店にやってきたアリアンヌさんは言った。相変わらずタルトタタンを食べているアリアンヌさんは、最初やってきた時よりも随分温和な雰囲気になっていた。
「え~! なんだか嬉しいです!」
「僕たちとは関係ないって分かってても何だか嬉しいですね。」
「フフ、楽しみにしておいてね。また試写会に招待するから。」
その後、実際に試写会に招待されて見た映画は、美人で明るい人気者のマスターと、そんなマスターに恋しているお客さんのお話だった。とっても素敵で面白い映画だったけれど、一つだけ気になったことがあった。
「素敵な映画だったねぇ。なんだか恋したくなっちゃった。」
「やっぱり凄いですね、アリアンヌさんは。でも……」
「ん~? どうかした~?」
「……やっぱり何でもないです。」
「えー。気になるなぁ。さては僕もマスターに恋しちゃってるんです……とか!」
「絶対に違います。」
「そんな、隠さなくても大丈夫だよ。OKは出来ないけれど、気持ちは受け取るから……」
何だか俺には映画の中のマスターが、目の前にいるマスターに重なって見えたのだ。こんなに適当なことは言っていなかったし、もっとお淑やかってかんじだったけれど、何だか節々に見えてしまった。でも、本人に言ったら調子に乗って余計なことを言われそうだから、言うのはやめることにした。
「マスター、帰って開店の準備しましょう。」
「そうだね、『コーヒーはいかがでしょうかお客様』……私も参考にしよっと。」
早速映画に感化されているマスターと一緒に歩く帰り道は、映画の中に出てきた街並みにそっくりで、何だか自分が映画の登場人物になったみたいだ。でも、少し前を歩くマスターは映画よりも現実の方が素敵だな、と思った。