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作者: 水無月 龍那
残酷な描写あり
5.あの時と同じ言葉で、同じ答えで
 ノイスさん達が帰った後、二人で部屋の片付けをしました。
 散らかったとはいえ、血はお兄さんが綺麗にしてくれいて。後は散らばった物を片付けるしかありませんでしたし、そう大変ではなく。すぐに終わってしまいました。
 
 それから、一緒にご飯を食べました。
 片付けの合間に作っておいた肉じゃがは、ほくほくと甘く、温かくて優しい味でした。
 食事の間、お兄さんは少し元気がなさそうでした。それはご飯を食べ終えてからもそうで。お皿を洗った後も、ソファで静かにテレビを見ていました。
 朝からのバタバタした時間と、片付けで疲れたのかもしれません。

 けれども。ボクはそれだけじゃないことに気付いていました。
 料理の最中。洗い物をしている時。食事の間も。ふとした瞬間に、赤い液体が詰まったペットボトルに視線が向いているのを見ていました。

「お兄さん」
 お茶を出しながら声を掛けると「うん」と小さな声が返ってきました。
「今日は、お疲れ様でした」
「あー……うん。ごめんね。なんか巻き込んじゃって」
「いいえ。気にしないでください」
 それよりも、とボクも隣に座って、湯飲みの湯気をふうと飛ばしました。
「ふらふらしていますが、疲れましたか?」
「あ……ああ。ごめんね」
 そうかも、とお兄さんは少し笑いました。はっきり「疲れた」とは言いませんでしたが、やっぱり疲れているようです。
 いえ、そんな言葉では足りないかもしれません。
 だって、お兄さんは言っていました。

 普通の人だったら、血が足りなくて死んでいるはずだと。
 吸血鬼だから。人より体力があるから、なんとか保っているだけでしょう。
 でも、吸血鬼は誰よりも血を必要とする存在です。なのに血が足りないという辛さは、人以上なのかもしれません。

 お兄さんは自分が辛い事を教えてくれません。
 ボクができることは、きっと多くありません。
 こうしてお茶を淹れたり。
 早く寝るのを勧めたり。
 明日のご飯の準備をしたり――。

「お兄さん」
「うん?」
「ボクの血、飲みますか?」
「ごふっ」
 お茶を飲もうとしていたお兄さんが咳き込んでしまいました。
「ご、ごめんなさい……!」
 慌てて背中をさすろうとすると、咳き込みながらも手のひらで「大丈夫」と制されました。大人しく座り直して、落ち着くのを待ちます。
「大丈夫ですか……?」
「うん。えっと……その……」
 一度置いたカップを持ち直したお兄さんは、困った顔をしていました。目をテレビの方に逸らして、ボクの方を見てくれません。
「お兄さん。ボクは、できる事ならなんでもすると言いました」
「うん、そう、だったね」
 その言葉はとてもぎこちなく聞こえました。お兄さんの迷いが伝わってきます。
 しばらくボクから顔を逸らして考え込んでいたお兄さんでしたが。
「その申し出は、ありがたいんだ。すごく。うん。でもさ」
 でもさ、という声は、悩んでいるようでした。
「以前、ちょっと歯止めが利かなくなってたから……今は、自信なくて」
「なるほど」
 お兄さんの言う事はもっともです。血が足りている状態でも、ボクの血をたくさん飲んでいました。今だとどのくらいになるのか、見当もつきません。
「それで、君がまた倒れるのも嫌だしさ」
「あ……」
 血を吸われた時、ボクがお兄さんから逃げた事を思い出しました。確かに、頭がくらくらしていました。首も、少し痛かったです。
 
 でも。あの日。
 ボクが部屋に逃げ込んで、鍵をかけたのは。本当の理由は。
 
「お兄さん。あの時ボクが逃げてしまったのは、声が聞こえたからです」
 声、と小さく繰り返されます。
 はい。とボクは頷きます。
「それは、あいつか……」
「はい。それで、自分の呪いに気が付いたからです。でも。もう大丈夫です」
 テオドールさんは、ボクの中に呪いは残っていないだろうと言っていました。ならば、ボクの血を吸ってお兄さんに何か悪いことが起きる事はないと思います。
「今度は、逃げません」
「いや……しきちゃん。君が大丈夫でも、僕が大丈夫じゃないって言うか。今はどっちかって言うと、物理的にも足りなくて……。そうだ」
 お兄さんは何かを思いついたように、ふらっと部屋へ入っていきました。すぐに戻ってきたお兄さんの手には、携帯電話がありました。
「柿原なら、なんかいい手を思い付いてくれるかもしれない」
「柿原さんの血をもらう、とかですか?」
 ボクの言葉にお兄さんは少しだけ指を止め。ふるふると首を横に振りました。
「いや、身内に神父居るって言ってたし。なんか内側から打ちのめされそうで嫌だ……」
 そんな事ないとは思うんだけどさ、と続けつつも、やっぱり彼の血はちょっと、と念を押すように呟くと、それに返事をするように携帯が「ぽん」と音を立てました。
 慣れた操作で画面を眺めたお兄さんは、深々と溜息をつきました。
「柿原さんは、なんと?」
「ゆっくり休んで、普通に血を増やせってさ」
「そう、ですね」
「うん。そうだね」
 血が足りないならまずは増やすこと。
 ごもっともな答えでした。
「そうだけど、そうじゃないんだよなあー…………はあ」
 と、溜息をつきながらも、お兄さんは携帯を操作して何かを調べ始めました。少しだけ待って、指で画面をなぞって、流れる文字を追いかけて。
「規則正しい食生活、栄養バランス……魚介、肉、卵と大豆、まあ、そうだよね」
 しばらくはちゃんと食事取らないとねえ。と言って腕をぱたりと下ろしました。
 そうじゃないと言いながらも調べるところがお兄さんらしいなと思って、ふと、浮かんだ疑問を口にしました。
 
「そういえば、昔のお兄さんは、ご飯ってどうしていたんですか?」
「うん?」
 そうだなあ、と怠そうに少し考えて。
「あの頃は……食事は忘れがちで。思い出した時にあったら食べる、くらいの意識だったかな。血があればなんとかなってたし。そう考えると、今はだいぶマシになったね」
「なるほど」
 テオドールさんに心配される理由が分かったような気がしました。
「しきちゃんにはああ言ったけど、僕もかなり不摂生だった自信はあるよ。うん」
「ふふ、そうですね。ボク、朝ご飯とお弁当、ちゃんと作ります」
「うん、夕飯は僕が担当するから。お願いね」
「はい。お任せください」
 こくりと頷くと、お兄さんがくすりと笑いました。
「? どうかしましたか?」
 ボクの疑問に、お兄さんは少し恥ずかしそう、というか照れたように笑って「なんかね」と言葉を続けました。
「今日一日がイレギュラーだっただけで、明日も昨日と同じような生活が続くはずなのに、新生活を始めるみたいな気分になってさ。不思議っていうか……楽しみっていうか」
「楽しみ、ですか」
「うん。僕達を取り巻く環境が変わった訳じゃないのにね」
 何も変わらないはずなのにね、とお兄さんは言います。
 そうですね。とボクも頷きます。
 そうして。ボクとお兄さんはふたりでくすくすと笑い合いました。
 
 そうやって笑っている時間はなんだか温かくて。嬉しくて。
 胸がきゅうと締め付けられるほど愛おしくて。
 この時間がずっと続けばいいなと、思いました。

「そういえば」
 お兄さんは思い出したように言いました。
「あのペットボトル。どうしよう」
 ペットボトル。お兄さんが言うのは、その中の血。いえ、呪いのことでしょう。
「それは……」
 ボクには正直、どうすれば良いのか分かりません。人に――お兄さんに悪さをしない物にできるのか。あのまま放っておいて良いのか。どう扱えば良いのか。
「分からない、です」
「だよね……」
 お兄さんも同じように頷きます。
「そこも今度柿原に聞いてみるか。あいつの部屋の隅に置いたりしたら、改心するかもしれない」
「改心……」
 家を壊して笑っていたあの人。お兄さんの身体を奪おうとしたのは、確かに悪い事です。ですが、ひとりであのままというのは、寂しい気もしました。
「寂しくないと、いいですね」
「ま、どうにかしよう。幸い僕達に時間はたくさんある。世界は未知で溢れてる。だから、これをどうにかする方法も、いつか見つかるかもしれない」
「そうですね」
「攻略方法を試す機会も、方法もたくさんあるだろうし。うん、頑張ろう」
 そう言葉を切ったお兄さんは、やっとボクの方を向いてくれました。赤い髪がさらっと揺れて、青くて綺麗な目にボクが映っていました。
「しきちゃんも、手伝ってくれる?」
「はい、もちろんです」
 頷くと、お兄さんは嬉しそうに微笑んで、手を差し出しました。
「それじゃあ、改めて。これからよろしく。我が家の座敷童――しきちゃん」
 ボクはその手をきゅっと握り返して、「はい」と頷きます。
「よろしくお願いします。……えっと、むつきさん」
 そう返すと、お兄さんはぱちりと瞬きをして。困ったように目を逸らしました。指にも一瞬力が入ったような気がします。
「どうかしましたか?」
「いや、その」
 お兄さんは困ったように言葉を繋ごうとして。やめて。視線だけをボクに向けて。小さな声で言いました。
「……抱きしめても、いい?」
 その視線と声に、何かが胸にぎゅっと詰まった気がしました。その何かが頬まで上がってきて。視線が落ちて。手で止まりました。細くて綺麗な指。力を入れすぎないよう、けれども離さないよう。優しくしっかり握ってくれる手に、ボクは頷いていました。
「はい。大丈夫、で――」
 言い切るより先にグッと手を引かれ。ボクの身体はあっという間に腕の中にありました。
 抱き寄せる腕は力強かったのに、抱き留める腕は全然痛くありません。ただ、お兄さんの温かさと、心臓の鼓動を感じます。それはとてもほっとする温かさで。さっき胸に詰まった何かが、ほどけて消えたような気がしました。
「その。嫌だったら、離すから」
 耳元でそんな言葉が聞こえました。くすぐるような声に、ボクは首を横に振ります。
「いえ。嫌じゃない、ですよ?」
 答えると、嬉しそうに「そっか」と呟いた指が、髪を梳くように撫でてくれました。

 少しして。お兄さんはそっとボクから身体を離しました。
「……ところでさ」
「はい」
「さっき、いらないって言ったんだけど……」
 お兄さんはとても言いにくそうに、天井を見上げて言いました。
「やっぱり、少しだけ血をもらいたい」

 それは、あの夜。遊んでもらう条件を出された時と同じ声をしていました。
 ボクの答えはひとつです。

「――はい。あんまり美味しくないかもしれませんが、ボクの血でよければ」
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