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作者: こむらまこと
1-2. 開港波止場前 朝霧海事法務事務所
 山下公園から、徒歩数分。開港波止場と象の鼻桟橋を臨むビルの3階に位置する朝霧海事法務事務所にて、海事代理士・朝霧まりかと海上保安官・村上かけるは、応接用ローテーブルを挟んで向かい合っていた。
 まりかはハーフアップの髪型にパンツスーツ、村上は楕円形の眼鏡に後ろで束ねた漆黒の長髪、それに海異対の制服である紺色のブレザーとマントというやや堅めの装いをしているが、ふたりの間に漂う雰囲気はすっかり打ち解けたものとなっていた。
「ええっ、村上さんって門司もじ分校の出身なんですか?」
「あはは、よく驚かれるよ」 
 ティースプーンでコーヒーをかき混ぜながら、村上が穏やかに微笑んだ。
「わざわざ民間から海保に入っておきながら海上保安官らしい仕事は何もせず、海の怪異――〈海異かいい〉の相手ばかりしてるなんて、異端にも程があるって自分でも思うから」
 門司分校は、船舶や無線通信などの有資格者を対象とした海上保安官の養成機関である。約半年間の研修を修了した後は、海難救助や犯罪捜査など海上保安官としての業務に従事するのが通例となっている。
「では、魔術師としての活動を始めたのも……」
「うん。本格的に勉強し始めたのは、海保に入ってからだね」
 村上はコーヒーカップをソーサーの上に置くと、応接セットの近くに据え置かれた水槽に顔を向けた。
「こんにちは、金魚のお嬢さんたち。俺の事が気になるかな」
「…………」
 濾過フィルター付きのゆったりとした水槽の縁からは、人型に変化へんげした金魚の精霊、キヌ、タマ、トネが、ちょこんと顔を出して村上を見つめていた。
「…………」
「すみません、いつもはこんな風に出てきたりしないのですが」
 まりかは、戸惑い混じりに村上と金魚たちを見比べた。金魚たちが来客に変化した姿を見せるなど、菊池明が初めて事務所を訪れた時を除けばこれが初めての事である。
「もしかすると、聖守護天使の気配を感じ取っているのかもしれないね」
「天使?」
 普段は口数の少ないトネが、つぶらな瞳に警戒心を滲ませて聞き返す。
「そう、天使」
 村上は金魚たちに頷きかけると、ピンと人差し指を立てて、この世界を構成する真理の一端をさらりと開示したのだった。
「天使というのはね、霊的次元に住まう『法と秩序の精霊』を指す言葉なんだよ」
 霊的次元という単語が出た途端、金魚たちの顔に激しい動揺が走った。
「れ、霊的次元!?」
「――――!」
「ひええっ」
 ポチャンッ。
 そして、目にも留まらぬ速さで水中に顔を引っ込めると、元の金魚の姿に戻ってしまったのである。
「ゴメン、怖がらせるつもりは無かったんだけど……」
「いえ、そんな」
 後で金魚たちにマシュマロをあげようと考えながら、まりかは気を取り直して会話を続行する。
「でも、天使って実在したんですね。明や梗子さんからも聞いたんですけど、正体が『法と秩序の精霊』で、しかも、地上に召喚できるだなんて。なんだか、ファンタジー小説みたいです」
 天使、即ち「法と秩序の精霊」とは、その名の通りこの世界を構成する法や秩序に宿る精霊である。惑星の運行や素粒子の運動といった物理法則はもちろん、人間の作った法律やスポーツのルール、更には鬼ごっこなどの単純な遊びにすら天使が存在するとされている。
「正体というか、その本質を最も適切に表す、いわば学名といった感じかな」
 昼下がりの暖かい光が窓から差し込む中、村上が眼鏡の奥の目を柔和に細めた。
「天使ってさ、古い時代から世界各地で畏敬の対象とされてきたでしょ。だから、精霊呼びは快く思わない人も多いし、実際の所、人間よりも断然上位の存在なんだよね。だから、敬意を表すという意味も込めて、現代の魔術師たちも天使という伝統的な呼称を使っているんだ」
「へえ……」
 まりかは、コーヒーを持つ手を宙で止めたまま感嘆の声を漏らした。魔術師・村上翔の口から語られる霊的次元の話は何もかもが新鮮で、また、こうして新鮮さを感じている事自体が、幼少期から日常的に幽世かくりよに出入りしてきたまりかにとっては本当に新鮮な出来事だと言えた。
 そんなまりかの反応に、村上が腕を組んでふむと唸った。
「朝霧さんが天使について知らなかったなんて、なんだか意外だなあ。てっきり、龍神からあれこれ教えてもらってるとばかり思っていたよ」
「それが、蘇芳様からは、天使の存在に限らず霊的次元の事自体ほとんど教えてもらってないんです」
 まりかは顎に手を当てると、己が持ちうる霊的次元の情報を記憶の表層に引っ張り出そうとする。
 人間に限らず現世うつしよに生きるあらゆる生命はチャクラを通して霊的次元と繋がっている事や、そのチャクラを操作して霊力を最大限に発揮する方法については、蘇芳から詳しく教えられていた。
 しかし、霊的次元とはどんな空間なのか、そこに住まう神仏とはいかなる存在なのかという話になると、蘇芳は言葉を濁すか、はぐらかすかのどちらかであり、まりかはついぞ説明を受ける事は無かったのである。
「案外、そんなものかもしれないね」
 村上は腕組みを解くと、コーヒーカップを持ち上げて残りのコーヒーを飲み干した。
「魔術師だって、魔術の知識をみだりに言い触らしてはならないと戒められているし。なんたって、世界の神秘に関わる事だからさ」
 砕けた口調でそう言うと、コーヒーカップを置いて軽く咳払いをした。
四方山よもやま話が過ぎてしまったけれど、そろそろ本題に入ろう。この間、相談してもらった川上千代さんの件についてだけど」
「はい、お願いします」
 まりかもまたコーヒーカップを置くと、居住まいを正して表情を引き締める。
 去る7月、八景島の沖合に出没した人魚にまつわる依頼を解決するため、まりかは風の精霊の助力を得て一般人である川上千代の自宅を突き止め、訪問していた。依頼を解決するのに必要な事だったとはいえ、プライバシー保護の観点から考えると、まりかの行動は軽率だったと言わざるを得ないだろう。
 この一件により自身の認識の甘さを猛省したまりかは、以前から魔術に興味を持っていた事もあり、先月知り合ったばかりの村上に思い切って相談したというわけだった。
「今後、〈海異〉絡みの依頼をこなす中で一般市民に接触する必要が出てきた場合の対処についてという事だけど……」
 村上はショルダーバッグからクリアファイルを取り出すと、ローテーブルの上に置いてまりかに差し出した。
「結論から言うと、朝霧さんには是非とも魔術師協会に入会してもらいたいと考えている」
「入会? 私が?」
 思いがけない提案に、まりかは目を白黒させた。
「でも、魔術の知識なんて全然無いし……」
「大丈夫。朝霧さんには俺みたいな正会員じゃなくて、とりあえず会費さえ払っておけば一定の恩恵が受けられる準会員になってもらうつもりだから」
 村上は、クリアファイルから魔術師協会のパンフレットを出して広げると、協会の活動内容や入会手続きについて事細かに説明し始めた。
「それでなくとも、朝霧さんには海事代理士としての仕事もあるし、正会員にしたって、本業が別にある人間がほとんどなんだよ」
「そうなんですね」
 村上は再びショルダーバッグの中を探ると、今度は「初級魔術入門」と書かれた薄い冊子を取り出してパンフレットの横に並べた。
「魔術の入門書……」
「毎月きちんと会費を払って、生活に差し障りのない範囲で魔術への理解を深めていく。たったそれだけでも、協会の活動に貢献している事になるから」
「それなら、私にもできそうです」
 まりかは、ほっと胸を撫で下ろした。魔術に興味がある事と魔術師になりたいと思う事は全く別の話であり、魔術師を目指そうとまでは考えていなかったからである。
(でも、基礎を学ぶくらいなら大丈夫よね?)
 「初級魔術入門」の表紙に描かれた不可思議な図像をじっと見つめながら、まりかは未知の世界への期待と不安に胸を高鳴らせていく。
「これが入会申請書だけど、全然急ぎじゃないから後日郵送してもらっても」
「いえ、今ここで書いちゃいます」
 まりかは胸ポケットからボールペンを取り出すと、入会申請書の記入欄を迅速かつ丁寧に埋め、村上に預けた。
「それでは、今後ともよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく。今後、怪異絡みの案件で判断に困ることがあったら、気軽に連絡してほしい。協会が一般社会との間を上手いこと取り持ってくれるはずだから」
 こうしてまりかは、師である龍神・蘇芳の影響下から更に飛び出し、新たなる世界への第一歩を踏み出したのである。





 金魚たちにマシュマロをあげてコーヒーカップを片付けていると、背後からぶっきらぼうな声がかかってきた。
「まりかよ、良いのか? エリカが知ったら、何をやらかすか分からんぞ」
「カナ」
 まりかはコーヒーカップを洗う手を止めて振り向くと、眉を八の字にして溜め息を吐いた。
 おおよそ9歳か10歳くらいの外見に、褐色の肌と軽いウェーブのかかった腰までの白髪。緩やかな曲線を描く青色の入れ墨が手足と胴体を覆い、頬には青い横線のシンプルな入れ墨が入っている。耳にはチェーンのピアスを、首には金色の細めのチョーカーを装着しているが、その華奢な肢体に纏う衣服らしい衣服といえば、簡素な腰布1枚だけだった。
「また上で聞き耳を立ててたのね。まあ、それはもう良いんだけどさ」
 まりかはシンクに向き直って洗剤の泡を切ると、タオルで手を拭きながら応接セットの前まで戻った。この幼子の姿をした老獪な同居人が事務所内の会話を上の階から盗み聞きするなど、何もこれが初めてではない。そして、それを殊更咎めようという気持ちも、今のまりかは抱いていなかった。
 まりかは冷蔵庫からチューブ型のアイスを取り出すと、片方をカナに手渡して応接用ソファに腰掛けた。
「カナ、お願いがあるの。お母さんには、この件は当分の間は黙っておいて」
「ううむ」
 カナが、チューブの吸い口を開けながら渋い顔をする。
「じゃが、男の魔術師じゃぞ? 万が一、エリカの耳に入ったら……」
 チューブから冷たいアイスをチュウチュウと吸いながら、カナは数日前にまりかが語った「真相」を思い返す。
『お母さん、私を引き取るよりもずっと前に、魔術師を名乗る男の人から嫌な思いをさせられた経験があるんですって。今日、お父さんから聞いて初めて知ったんだけど――』
 生まれつき異常なまでに強い霊力を持ち、幽世や化外の存在たちと関わらずに生きていく事が不可能だったまりかのために、父・朝霧利雄と母・朝霧エリカはとある決断をしていた。それは、龍宮城を始めとした幽世との交流は積極的に支援する代わりに、呪術師や浄霊師などの「あわい」に生きる人間との接触を徹底的に排除するという少々思い切ったもので、その狙いは、ふたつの世界で異なる常識や振る舞いを適切に身に付け、過ごす世界に応じて器用に切り替えられるようにする事だったという。
 ところが、菊池明と水晶を交えたエリカ主催のお茶会から数日後、久々に事務所を訪れた利雄によって、実は他にも理由があったと打ち明けられたというわけである。
『――特定の仕事に対する妙な先入観や悪感情を娘に植え付けたくないって事で、ずっと言わないようにしてきたらしいの。でも、お母さんが配下シナモンを使って明の部屋を探らせていたって話を聞いて、お父さん、もうひとつの理由もそろそろ伝えるべきだと思ったんですって』
 カナは、まりかから差し出された麦茶を飲むと、ゲプっと行儀の良くない音を立てた。
(何ともまあ、身も蓋もない。じゃが、理由としてはこちらの方が納得できるのも事実じゃのう)
 何せ、成人年齢に達して久しい娘に対して、未だに精霊の加護を過量投与し続けるほどの溺愛っぷりである。自分と同じような想いを娘にさせたくない、そのためならありとあらゆる可能性を徹底的に排除しようと考えるのも無理はないだろう。
 引き続きチューブからアイスを吸い上げながら、カナは思うがままに自身の考えを述べていく。
「下手に隠し事をしておくと、いざバレた時の釈明が大変だと思うがのう。ほれ、明も似たような事になっておっただろう。それに、お前さんの場合、相手は人間ではなく精霊じゃから」
「いいえ、それは違うわ」
 まりかが、強い口調でカナの言葉を否定した。
 柔らかい応接ソファの上で背筋を伸ばすと、毅然とした表情でカナを見据える。
「確かに、お母さんは強大な力を持つ風の乙女シルフィードだけど、同時に、40年以上の歳月を人間社会で過ごしてきた『人間』でもある。中途半端な精霊扱いは、人間社会に適応しようとしてきたお母さんの努力を否定する事になるわ」
「…………」
「お母さんやお父さんが私を心配する気持ちは、とてもよく分かる。だからこそ、誰にも邪魔される事なく、まずは私自身の力で見極めたいの。魔術師としての村上さんが、魔術師協会が、本当に信頼に値するのかどうかを。そして、信頼できると充分に確信できた時点で、隠していた理由も含めて全部お母さんに話すつもりよ」
「…………誰にも、か」
 カナが、渋い顔をしたまま鼻を鳴らした。吸い尽くしたチューブアイスをゴミ箱に放り込むと、ソファの肘掛けにだらしない姿勢で寄り掛かる。
「そこは痩せ我慢せずとも、わしの見立てを聞いたってよかろうに」
「別に、痩せ我慢してるわけじゃないわよ」
 まりかが、ムッとした表情になって反論する。
「ちょっとした事ですぐにあなたの力を頼るなんて、私はそんな甘えたちゃんじゃないわ。というか、村上さんが危険人物だったら、私に何も言わずに対処してたでしょ」
「なんじゃい、結局わしを頼っておるではないか」
「そ、それは……」
 返答に窮したまりかは、しばし口ごもる。
「……良いじゃないの、それくらい。もう何ヶ月も一緒に住んでるんだし」
 そして、苦し紛れに言い返すと、ほとんど液体と化したアイスを急いで吸い始めた。
(未だに正体を明かさぬ、どこの馬の骨ともしれぬ人魚を、ちょいと信じ過ぎではないかのう)
 わざとらしく視線を逸らしてアイスを吸うまりかの横顔を眺めながら、カナは声を出さずにクスリと笑う。
(もっとも、それを口に出して言うたらイジワルというやつになるな。わしは、まりかよりずっと大人じゃからのう、そういう子供じみた真似はせぬのだ)
 普段の自分自身の言動を棚に上げて、カナはしたり顔でフンフンと頷く。
 コポポポ…… 
 小さな事務所内で繰り広げられる複雑な模様など露知らず、金魚たちは手入れが行き届いた水槽の中をゆったりと揺蕩たゆたうのだった。





 小休止を終え、いそいそとデスクの上を片付け始めるまりかを見て、カナが怪訝そうに眉をひそめた。
「どうした? まだ終業の時間ではなかったと記憶しているが」
「だって、今日はあれでしょ」
 カナの問いに答えながら、まりかはパソコンの電源を落とし、ファイルや文房具類を所定の位置にテキパキと収納していく。
「龍宮城で、梗子さんが黒瀬さんと手合わせするから見に行こうって」
「行かぬ!!」
 カナが、金切り声で叫んだ。
「わしは、あのウミヘビ娘は好かん! 顔も見とうない!!」
「ちょっと、まだ怒ってるの?」
 そっぽを向いてイーッとギザギザの歯を剥き出しにするカナを、まりかは顔を曇らせながらもどうにか諭そうとする。
「梗子さんはね、武術に対して本当に真摯なの。〈夕霧〉で動きを封じた件の意趣返しだなんて、そんな低次元な感情で動く人なんかじゃないわ」
 まりかは先週、菊池明や村上翔と同じ海洋怪異対策室の一員であり、武術の達人でもある伊良部梗子との実戦形式の稽古に臨んでいた。その結果、まりかは完膚なきまでに敗北し、それを例によって盗み見ていたカナが怒り心頭となったというわけである。
 そして、そのカナの怒りは未だに収まるところを知らなかった。
「だとしても、まりかが肉体は普通の人間である事をもっと考慮すべきであろう! なんなんじゃ、あの猛烈な鬼指導は!」
「だから、それは私が未熟だったというだけの事なの。それに、見慣れてない人は驚くかもしれないけど、他の武術でも真剣にやろうとすれば大体あんな感じになるわ」
「お前さんはそう言うが!!」
 カナは、あどけない顔を引き攣らせながらワナワナと両手を震わせた。
「だからって、あんな、あんな…………、ア゛アーーーッ!!」
「!?」
「思い出したら、またムシャクシャしてきた! ひとっ泳ぎしてくる!」
「カナ!?」
 まりかが引き留める間もなく、カナは窓を開けてヒラリと3階分の高さを飛び降りると、あっという間に開港波止場を突っ切って象の鼻桟橋の方へと消えてしまった。
「な、なんなの……」
 ザブンという波飛沫の音を聞きながら、まりかは釈然としない思いで窓の外を眺める。
「私がコテンパンにやられた光景が、そんなにショックだったのかしら……」 
 まりかは、開港波止場の石畳に視線を落とした。
 血飛沫が舞うサメ映画をゲラゲラ笑いながら楽しむような図太い神経の持ち主であるカナが、厳しいとはいえ所詮は稽古でしかない試合を見て取り乱す理由。それが察せられないほど、まりかも鈍感ではない。
 まりかは静かに窓を閉めると、黙々と外出の準備に取り掛かった。
(時間までまだ余裕があるし、水まんじゅうでも買っておいてあげよう)
 そんな事を考えながら秋物のコートに袖を通して財布を手に取ると、最寄りの食料品店へと急いだのだった。
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