残酷な描写あり
013 > 夏休み終了後・辰樹(その2)ー 『託宣』
道中、ベンツには四名の男──左の運転席に岩清水の舎弟である野上、助手席にはその兄弟分であり同じく岩清水の舎弟の花澤、運転席の後ろに岩清水、助手席の後ろに辰樹──が乗っていたが、誰1人喋る者はいなかった。
車内が無言のまま黒塗りのベンツは予備校近辺から住宅街を抜け、30分ほどで生い茂る森を背にした瀟酒な洋風二階建ての一軒家に到着した。
通りに面した家に付随する、ガレージと思われるようなシャッターが音を立てて上がっていき、ベンツが吸い込まれると再度シャッターは降りた。
その一軒家は滝川家の表の顔だ。
見えにくい監視カメラが10数台、外に向けて据え付けられており、その奥には森に扮した1万坪を超える巨大な敷地が広がっていた。
そこが滝川家率いる『滝信会』の本部である。
巧みに隠されたその内部を知るには、鉄条網が張り巡らされた『私有地、立入禁止』の看板が5メートル毎にぶら下がっているその中に入らなければならない。
しかも鉄条網は内と外の二重になっており、外には外部からの侵入を探知するための微弱な、内には侵入を阻止するための高圧電流が流れている。
その洋風一軒家が奥に広がる森の門番を担っているということを知るのは、地元の住人だけである。
車は一旦、洋館の玄関前に横付けされ、辰樹だけが降ろされた。
「私は一度本部に戻ります。後ほど」
「……」
憮然とした表情で辰樹が顎をしゃくると、ベンツはまた音もなく走り去り、敷地奥の森へ消えていった。辰樹はそれを見送ると、玄関を開け、無駄に広いホテルのような玄関兼エントランスに入った。
「ただいま、帰りました」
「まぁ~、辰樹ぼっちゃん、お帰りなさい。最近遅いのは塾に行ってらしたんですって?」
いつもだったらこの時間にいるはずのない家政婦が広い玄関前まで出迎えた。その異変を察知した辰樹は顔を顰めた。
「……そうです」
「言ってくださったらお弁当を作って差し上げましたのに」
「……大丈夫、近くにコンビニも飲食店もあるから、友人と食べてる」
「そうですか?」
肩で切りそろえられた直毛の白髪をした家政婦は割烹着の裾で手を拭いながら話す。
すでに御年75を過ぎた後期高齢者であり、滝川家に雇用されている人間では1番の古株だ。いつの時代も極道の世界では年功序列が染み付いてるせいか、彼女に逆らう人間はそうそういない。
辰樹が広いエントランスをぐるりと見回すと、相変わらず監視カメラが3台回っている。そのうちの1台を睨み付けた後、辰樹は自分の部屋に向かうため無駄に広いエントランスを横切り、円形状になった2本の階段のうちの1つを登り始めようとした。
「あ、辰樹ぼっちゃん。小百合さまから伝言があります」
「……なに?」
「『明日から始まるはずだから、今夜、康樹さまときちんと話し合うように』とのことです」
「……わかった。オヤジは?」
「おそらく本部の方にいらっしゃるかと」
本部とは──今、岩清水が向かっている──この洋風滝川邸の後方、森の中にある御殿のような巨大な和風邸宅だ。今辰樹がいる表向きの家である洋館は建物としての先鋒のようなものであり、奥にある本部こそが客を迎える迎賓館兼滝信会としての作戦本部がある本宅であり要塞のような場所である。
「お豊さんは、今から帰るんですか?」
「そうです。まぁ、帰ったところでお世話する人もいない、婆の寂しい一人暮らしですけどねぇ」
登りかけた階段を数段降りてお豊の近くに立つ。彼女の頭頂部が見えるようになってから、辰樹は彼女とは心理的にも物理的にも距離を置くようにしていた。
そうでなければ、自分の腐臭が清廉な彼女に移ってしまいそうな気がしていたからだ。
「……ここに住めばいいのに」
「それはなりません。先代からの言いつけも言い伝えもございますから」
先代からの言いつけと言い伝えとは──
『女は、この家の者でなければ住むことはまかりならん。女は呪いの素である』
──というものである。
それが何を意味するのか、お豊は知らないが、辰樹はその意味を数年前に理解するようになった。
(俺は、そんなことしない……)
自分がΩであることを呪ったことは数え切れない。
だが、Ωであればこそ、この言い伝えは自分には意味のないものだとも思っている。
そしてまた、この体とともに生きていかなければならないのなら──呪いが解けるのなら──自由を手に入れたら──思いは尽きない。
「坊」
気づけば岩清水が戻ってきていた。立っているだけで威圧感のある岩清水から声を掛けられ、辰樹は一瞬ピクリと動く。
「今から社に向かいます。支度を」
「……わかった」
「辰樹ぼっちゃん、これを」
お豊が声を掛け、何かの紋様が描かれた和紙に包まれたものを差し出した。それを辰樹が右手で受け取めると、お豊は皺を刻んだ小さな両手で辰樹の手を包み込んで目を閉じる。
「ご安全に」
「……ありがとう」
お豊は軽く会釈すると辰樹を見上げて微かに笑った。
「私は帰ります。また、明日」
お豊が出ていくのを辰樹と岩清水が沈黙で見送った後、辰樹は登りかけて降りた階段を上がり自室に向かった。
社(儀式)に向かう準備のために────
本部として構えている森の奥の和風豪邸には滝川家の家族が住んでおり、この洋風邸宅を住まいにしているのは滝川家の中では辰樹だけである。家政婦であるお豊と岩清水とその舎弟くらいしかこの洋館には近づかない。それは辰樹を世話するものだけしかこの家にいないということと同義である。
普段の家事はほぼお豊が行っており、他の人間──岩清水以下、野上と花澤の3名──は主に辰樹の警護と、先鋒であるこの建物のセキュリティチェックが仕事だ。
辰樹の警護と言っても、岩清水以外の人間が辰樹に敵うわけではないので半ばお飾りのようなものだが、人間を配することに意味がある。集団で行動するのが彼ら極道者の常であるため、そのような習慣があるだけだ。
自室の部屋ですら鍵がかかっているため、辰樹は鍵に相当する部分にある3センチ四方の、つるりとした金属プレートに右手の親指を当てる。機械音がして鍵が開くと自動で部屋の扉が開いた。
辰樹の自室は2階フロアの半分を占める30畳程度の洋室だ。そこに生活に必要なもの──机、椅子、ベッド、本棚、オーディオ機器など──が動線を意識して置かれており、自室内にトレーニングできるエリアとシャワールームも完備されている。
辰樹の部屋にないのはキッチンくらいで、食事を摂るために1階に降りていくだけであり、それ以外でほとんど自室を出る必要がない。そのため、通常、辰樹は家にいるほとんどの時間を自室で過ごしている。
今までだったら、帰宅すると自室でシャワーを手早く済ませ、部屋着に着替えて寝るのを待つだけの日々を淡々と過ごしていた。家と学校の行き来だけをするつまらない日常だったのだ。
だが、この2週間でずいぶんと行動範囲が広がり、自分でも予想していない行動をする自分自身に驚いていた。
(北野……直次郎、とか……)
彼のことを考えると、胸や胃のあたりが苦しくなる。
それを自覚しているが故に、この2週間、辰樹は直次郎自身には、彼の近くにいることが何でもないことのように振る舞っていた。
辰樹にとって、北野直次郎は他の人類とは異なる存在だということが出会った瞬間わかったのに、だ。
(北野自身がわからなければ……意味がない)
だから、彼の自覚を待とうと、決断したのは辰樹自身だ。
着ている服を脱いでボクサーパンツだけの姿になると、クローゼットの中から白い服を取り出した。
──白装束、である──
和服ではあるが、通常の和服ではなく洋服のように着脱しやすいよう簡易な作りになっている。それを手に取り袖を通そうとしてふと、合わせ鏡に映る自分の背中を見た。
辰樹の背には──まだ筋彫りのみの段階だが──うっすらと、滝を駆け上がろうとする力強い龍の姿があった。なるべく服から見えないよう、頸椎から下の部分に描かれている入墨は高校を卒業すると同時に完成する予定だ。
鍛錬によって彫り込んだ背筋が認められる白い素肌に浮かび上がる入墨は、本人の意思ではなく、父親からの指示で15の誕生日になってから入れ始めたものである。その事実が、辰樹自身には最も気に食わなかった。
止まっていた手を動かし、いつものようにその服を着る。
襟元を正して着丈を確認すると、今度は下半身に同じ色の白い袴を履く。
姿見で最終確認をすると自室を出た辰樹はエントランスまで降りて行った。
そこでは岩清水が右耳を押さえて無線で誰かと連絡を取り合っている。辰樹の姿に気づくと顔を上げた。
「今日は、1人だけだそうです」
「そうか……」
「アレは、明日からですよね?」
「……そうだ」
(気持ち悪い)
そう思うのも仕方のないことだ。
自分の『ヒートの周期』を確実に把握しているこの家の警護の者たちに、不快感を覚えるのは仕方のないことだろう。
辰樹は何かを振り払うかのように白い袴の裾を払い
「行く」
「……御意」
岩清水と共に、玄関前に駐車されているリムジンに乗り込んだ。
この、死刑宣告をされる方がマシだと思うくらいの毎回の『託宣』は、辰樹の精神をその頑健な身体ごと蝕み続けていた。