2.二階の人たち
万屋荘は二階建てのアパートだ。
部屋は大家の部屋を除いて、全六部屋。部屋番号はそれぞれ階数と0、それに1から3の数字が割り振られている。
皓子がまずは一番遠くから行って、それから元の場所に戻ってこようと提案すると、アリヤは柔らかく微笑んで了承した。
「それじゃあ、御束くん……でいいかな? マロスさんとは知り合いだけど、御束くんとは初対面だし」
「うん、いいよ。織本さんは、高校生?」
「高校二年だよ」
「あ、それなら同い年だ」
「そっかあ。でも都会の学校と比べると色々遅れているかもしれないけどね。ええと、二階の端から案内するね」
へらっと笑って返して先を歩く。
なんとも話しやすい。さっきの部屋では不満そうだったが、人に当たるタイプでないことに皓子はほっとした。皓子相手に当たり散らすことはできないとしても、態度があからさまに急変化するのは見ていて良い気持ちはしないのだ。
コンクリートの階段を上り、そこからさらに進んで二階の一番奥へ行く。ちょうど皓子たちの大家の部屋が見下ろせる位置にある部屋、201号室。
ドアの前まで進むと、皓子は近くにアリヤが居ることを確認してから、201号室のチャイムを押した。次いで、ノックをする。
ぱた、と駆け寄るような軽い足音が聞こえた。
聞こえたということは慌てて出てくるのだろう。一歩下がった皓子をアリヤが見たが、同じように一歩下がった。
途端、勢いよくドアが開く。
「こっこ~! わしに会いに来たのか? 可愛い奴じゃのう。もそっと近う寄ってたも!」
古風な格好をした童女が、出てきた勢いのまま皓子に駆け寄った。
切りそろえられた髪は黒々としており、肩口までの長さで揺れる。ぱっちりとしたつぶらな黒茶色の瞳には、特徴的な金の輪が縁どって光っていた。
水茂は水色の着物の袖を翻して、皓子の周りをぴょこぴょこと跳ねる。
「なんじゃなんじゃ? 何して遊ぶ? わしはな、これから蛙を獲りにいくところなのじゃ」
はしゃぐ水茂に、皓子は笑い返しながら首を振った。
「こんにちは、水茂。遊びには行けないなあ。今日は新しく来た人の案内で来たの」
「おん? そうかあ。つまらぬのう。こっこ、それが終わったらわしと話そうぞ。わしの獲れ高を報告してやるのじゃ!」
「うん、ありがとう。それでね、この人はマロスさんの息子さんで、御束アリヤくん。水茂は先輩だから、よろしくしてあげてほしいな」
水茂はアリヤの前に躍り出ると、愛嬌のある顔をほころばせて胸を張った。
「ほむ! 任せるのじゃ。わしは万屋荘いっちばんの住人じゃからな! こっこの最初のトモダチであるからして、マロスの子とやらもそこそこに世話してやろうぞ! 奴はたまに菓子をくれるゆえな」
小さな童女がえらぶって話す姿に虚をつかれたのか、アリヤは目を瞬かせている。やがて間をおいてから、膝を折って目を合わせた。
「御束アリヤです。よろしくね」
「わしは水茂じゃ。万屋荘の一番の先輩であるゆえ、とくと敬うと良いぞ。お前にも、ほんの小指の先じゃが守護してやるので感謝するように」
仰々しく頷いて言うと、水茂はこれでいいかとばかりに皓子を見上げてきた。
「水茂、ありがとう。遊びに行くところを、お邪魔してごめんね」
「構わぬぞ。こっこだからのう、赦してやるのじゃ。ではの」
「またねえ」
きゃらきゃら笑った水茂は、皓子に抱きついて離れると跳ねるように部屋に戻っていった。途中で透けはじめていたが、今回は頑張った方だろう。濡れたような艶のある黒い尻尾が、ドアを潜る前に見えてしまっていた。
微笑ましく皓子が見送っていると、遠慮がちに肩をたたかれた。
「御束くん、どうしたの?」
「いや、織本さん、さっきの子は? あの、途中で透けていったような」
「水茂? 神様修行をしている、私の友達。御束くん、守護をもらえて良かったね」
「え?」
予想できた反応だが、アリヤの呆気にとられた表情に笑えてしまう。もしかするとろくな説明をされずにやってきたのかもしれない。皓子はアリヤに向き直ると、あのね、と口を開いた。
201号室、水茂。
立派な水神様になるため、目下修行中のカワウソの化生。
皓子とは幼少期からの仲である。
物心ついたときの皓子が吉祥に連れられて川辺を散策していたときのことだ。習いたての歌を披露したくて歌ったところ、遭遇したのが始まりだった。
皓子の調子外れの元気の良い歌を、何を勘違いしたのか求愛の歌と思って飛び出てきたのである。呆れた吉祥が訂正するまでのところで、一緒に遊んだことがよほど楽しかったのか、水茂は大いに皓子にべったりとくっついてしまった。そこからの縁が続いている。
やがて万屋荘が建てられて、いざ住民を募るかとしたところに真っ先にやってきたのが水茂であった。トモダチと近くに住めるぞ、と無邪気に喜んで住み始めてくれた。201号室を選んだのは、皓子の部屋が201号室あたりから飛ぶとすぐに行けるから、というのが一番の理由らしい。
まだまだ修行中の身であるため、童女の姿を現世でずっと保つことは難しいらしく、よくカワウソ姿で皓子の部屋の窓を叩く。そんな可愛らしい皓子の友人である。
そうかみ砕いて説明したところ、アリヤは絶句して、やがて心配そうに皓子を見た。
「……本気で言ってる?」
「うーん、嘘と思いたいなら思っても良いけれど、それだとここで過ごすの、大変だと思うなあ」
皓子がのんびり言うと、ますますアリヤは眉をひそめた。
「え、神様って家賃払えるんだ?」
「あはは、その心配? 大丈夫。代わりに御利益とかそういうこと与えてくれてるの。将来を見込んで先延ばしだって、ばばちゃ……えっと、私の祖母が」
「……まさか、ここ、そんな人たちばかりだったりする? うちの父さんみたいな変なタイプの」
「まさかあ。ちゃんと人間もいるよ」
「人間も」
「うん。人間も。じゃあ隣行こうか」
202号室を指さす。すると、アリヤがわずかに身構えた。それがまたおかしいが、笑っては失礼だろう。皓子はあくまで営業用と内心で言い聞かせながら微笑むと、次のドアへと足を運んだ。
水茂の部屋と違い、ここには表札が掛かっている。
「飛鳥?」
表札の名前を呼んだアリヤにうなずいて、皓子は説明を入れた。
「飛鳥翔さんっていう、男の人が住んでいるの。何でも屋さんをしていて、とても頼りになるお兄さんで、気さくないい人だから安心して」
「へえ」
少しだけ安心したようなアリヤを見てから、チャイムを押す。今日は運良く在室していたようだ。ほどなく「はい」という声と共にドアが開いた。
飛鳥翔はがたいの良い青年だ。人相も人の良さがそのまま表れたような善良さで、何より笑顔がまぶしい。太めの眉をさげて大きな口をほころばす、こちらまで楽しくなるような笑いかたをする。
「おっ、こっこちゃん……と、君! そろそろ来ると思ってたんだ!」
にかっと満面の笑みで出てきた飛鳥は、チャイムを押した皓子を見て、それからその後ろにいるアリヤを見つけてさらににこにことした。
「君がマロスさんの息子くんだろ? 俺は、飛鳥翔。えーと……身体的には二十二歳。マロスさんにはすごくお世話になっているんだ。君も何か困ったことがあったら、遠慮無く頼ってくれな。俺、恩返ししたいからさ」
「え、と、はい。どうも、御束アリヤです」
「うんうん。よろしくな! 今、挨拶回りしてる? 俺、手伝おっか?」
勢いにアリヤが気圧されている。前のめりになっている飛鳥が、ぐるんと顔を皓子に向けてたずねてきた。
「翔くん、大丈夫。あ、でも、これから田ノ嶋さんのところにも行くから、何か届けるものがあれば一緒に届けるよ」
「あっ、あー……じゃあ、ちょっと待って」
皓子が答えると、飛鳥はぱっと表情を変えてそわそわと引っ込んだ。パタン、とドアが閉じるその向こうで何やら音がする。
「織本さん、田ノ嶋さんって?」
「102号室のお姉さん。忙しい人だから、よく家事を手伝っているんだって」
「へえ」
他愛ない会話をしているうちに、またドアが開く。飛鳥が包みを片手に現われた。
紫色の風呂敷包みの中身は大きなタッパーが三段重ねになっている。皓子が受け取ると、ずしりとした重さが襲う。慌てて両手で抱えるように持つ。
「麻穂さん、またしばらくまともに食事してないだろうからさ、それ数日分だからって教えてあげて」
「繁忙期だって言ってたもんねえ。わかった。任せて」
「おう。その、麻穂さんに……まあ、その、よろしく。俺からだって」
「あはは、うん、任せて」
「笑うなよ、こっこちゃん。ついでで任せてしまって悪いなあ。御束くんも、これからよろしく」
きまり悪そうに頬を掻いた飛鳥に、アリヤが頷いた。ドアが閉じたところで、小さく皓子は呟いた。
「翔くん、田ノ嶋さんのこと好きなんだよ」
「ああ、そういう……」
「御束くんは格好いいから、ちょっと心配そうだったね」
「そうかな? ありがとう」
軽く笑うアリヤは慣れた様子だ。言われなれているのだろう。それもそうか、と思いながら包みを抱えたまま皓子は次、と歩き出した。
次に向かうのは203号室、階段のすぐ上の部屋だ。
表札には、大小町と書かれていたが、すぐにまた変化する。文字がにじんで消えたかと思うと、『佐藤原』という文字が表札に現われた。
(ああ、そろそろだったかあ。御束くん、驚いたかな)
ちら、とアリヤの様子を見れば、怪訝な表情をしていた。表札の変化を目の当たりにしたのだろう。見間違いかと思いながらも、先の水茂のこともあって怪しんでいるに違いない。
「この部屋に住んでいる人は、不定期に名前が変わるから気にしないで」
「……そう。なんでって聞いてもいい?」
「地球での名前はないからって言っていたけど、詳しいことは本人から聞いた方がいいかも」
「……地球?」
「うん。大小町さん、じゃなかった、佐藤原さんは宇宙人なんだ」
ますます怪訝な表情になったアリヤに、これは仕方ないと皓子は笑うしかない。それ以外に言いようがないのだ。
203号の佐藤原は、水茂と並んで万屋荘の最古参だ。
水茂が住みだしてから数日後、募集広告を見まして、と言って現われた。そもそもこの募集広告、吉祥が元悪魔の知識からいじり回して、訳ありしか呼び込まない仕様となっていた。吉祥曰く、弱味がある方が管理や交渉が楽とのことだ。
おかげで、揃いも揃って色物ばかりが集まる始末となったのは今となっては笑い話である。
「ちなみに、どんな宇宙人」
いぶかしみながらも、好奇心がくすぐられたらしい。声を潜めてたずねるアリヤに皓子は困ってしまった。
皓子も佐藤原が宇宙人だとは知っていても良くわからないのだ。検閲されるだとかなんとかで、佐藤原の母語は意味不明の羅列に聞こえてしまう。今の体も地球用のボディを新調したものです、とのことなので、本体ではないことは確かだ。
「ええっと、本人に聞こっか」
答えをはぐらかして、皓子は抱えている包みを四苦八苦しながらチャイムを押そうとした。それより前にアリヤがチャイムを鳴らすと、皓子の持っている風呂敷包みを持ち上げた。どうやら持ってくれるらしい。
「あっ、ありがとう。重たいでしょ」
「いや、そんなに。ごめん、もっと早く持ってあげれば良かったね」
「ううん」
(紳士だあ……)
飛鳥も気が利く方だが、アリヤもそういう人であるらしい。しかもやたら顔がいいから、まるでキラキラしているようにも見える。皓子は感心しながらも、もう一度お礼を言った。
そうこうしているうちに、静かにドアが開く。現われたのは、中肉中背の七三分けの三十代ぐらいの男性だ。皓子の知る大小町とはまた違う背格好となっている。きっちりとスーツを着た神経質そうな顔つきで皓子たちを見ると、のんびりと挨拶をした。
「おや、おはようございます。織本皓子さんと……御束さんのご家族?」
「おはようございます。あの、そうなんです。ええと、佐藤原さん?」
声をかければ、あっていたようで、佐藤原はもっともらしく頷いた。
「はい、私はついさっきから佐藤原です。今はこういうボディだと世間に埋没できるらしいので、そんな感じでちょちょいっと変えてみました」
「ちょいっとで変えられるんですねえ」
「ええ――の技術ならば、可能ですとも」
ノイズが走る。佐藤原の母語が出たのだろう。初めて聞くことになるアリヤはぎょっとした様子だ。佐藤原はアリヤを見ると、すっとスーツの胸ポケットから名刺入れを取り出して差し出した。
「なるほどなるほど。御束マロスさんのご子息が入居するとは聞いていましたが、今日でしたか。どうも、佐藤原です」
「あ、どうも。はじめまして、御束アリヤです。よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ」
アリヤが包みを小脇に抱えて、名刺を受け取る。ちらっと見えたが、日本語と謎の落書きのような文字が印刷されていた。じっと名刺を見るアリヤに、佐藤原は「ああ」と続けて声をかけた。
「それ、田ノ嶋さんへの荷物ですか。私もついでに頼んで良いですか? ちょっと自分から出るのは億劫でして。今いいタイムが出そうなんですよ」
言いながら、こちらの返事も待たずに引っ込むと、またすぐに佐藤原は戻ってきて皓子に封筒を差し出した。
「先週のギャラです、と言っておけば伝わりますので」
「あっ、はい」
それからさらに、小さなパッケージに入ったあめ玉の袋を佐藤原はアリヤに差し出した。
「それから、御束アリヤさんにはお近づきの印にこちらを。ウチの星でおすすめのおやつです。好評でしたらこっちでも売り出すのでよろしくお願いします」
「ありがとうございます」
「それでは、また」
言うだけ言うと、佐藤原は素早く部屋の中に入っていった。しん、と静かになった廊下でアリヤは小さくぼやいた。
「全然宇宙人ぽくないね?」
「ええと、頭の隅にでも情報として入れておくのをおすすめするね。あんまり信じられないかもしれないけれど」
「いや、うん……これ、なんだろ。食べる色してないし……アメリカの菓子の方がマシに見える」
「綺麗だねえ」
「ああ、うん、綺麗は綺麗なんだけど……織本さん、よく肝が太いとか言われない?」
「あはは、言われる」
アリヤがもらったのは、小宇宙飴と描かれたあめ玉のようだ。透明な包み紙に入れられたあめ玉は、天体のように輝いている。よくよく見れば、それが動いているのがわかるだろう。
正直に感想を言ったのだが、アリヤはそれが奇妙に感じたらしい。皓子に対して言われる感想は、実際によく言われるのでその通りだ。笑って肯定すれば、力が抜けたようにアリヤも息を吐いた。
「食べても大丈夫だとは思うけれど、心配ならマロスさんに見てもらってからが良いと思う」
「そうする。次は下?」
無造作にチノパンのポッケに詰めて、アリヤが皓子にたずねる。なんだかんだで、万屋荘の面々と会っても驚きすぎないことから、耐性もなかなかだとわかる。これなら、残りの面子とあっても大丈夫だろうと皓子は安心した心地を抱いた。マロスの息子だから、ある程度の不思議にも慣れているのだろう。
皓子は頷いて、こっち、と昇ってきた階段を示して先に降りた。