10.201号室、見合いの小旅行 10
水茂は庭先から跳ねるように戻ってくるなり、縁側に座る穂灯を見つけて、びゃっと飛び上がった。
そして、縁側に出てきた皓子を見つけると、穂灯と皓子を見比べてぱかりと口を開けた。
「なっ、そ、なんじゃ」
言葉になっていない。
それを見た穂灯は、また、ほほ、と優雅に笑うと、一礼をして去って行った。
手を振る皓子と固まったままの水茂が穂灯を見送った後、今度は空から田衛門がアリヤを伴って降ってきた。
なんだか昨日よりもボロボロに見えるが、それでも昨日よりも元気らしい。
着地した田衛門から転がって、アリヤは距離をとり立ち上がる。さらに数歩距離をとってからアリヤは辺りを見回して、皓子を見つけるなり「狐は?」と聞いてきた。
「水茂、アリヤくんもお帰り。穂灯様はばばちゃんと契約して帰ったよ」
「ん? んん? 何故に吉祥が出てきたのじゃ?」
「なに、俺がいない間になにがあったの」
二人していぶかしそうにしているなかで、田衛門は「おお、水茂様ごきげんうるわしく!」と意気揚々と喉を膨らませている。それに水茂は適当に「うむ。お前は元気そうじゃの。これから飯時ゆえ、お前も戻るが良い」と追い返す。
田衛門はアリヤを意味ありげに目配せしてから、鷹揚に頷いて去って行った。アリヤはげんなりとした様子を隠そうともせずに見送っていた。
田衛門の姿が見えなくなったのを確認して、皓子は詰め寄る水茂をなだめながら答えた。
「お話してただけだよ。もう、大丈夫」
「しかし、うーむ? 吉祥が出張ったなら、まあ、そうかもしれぬが……」
「アリヤくんも。水茂に服装直してもらおう? あ、もう昼時だからご飯にしなきゃだね。さっき契約とれたってばばちゃんご機嫌だから、きっとおまけつきだよ、ご飯」
「……いろいろ聞きたいけど、そうする。くそ、あの蛙男……一日千秋の部屋とか冗談じゃない」
(一日千秋の部屋ってなんだろ。修行部屋なのかな)
皓子としてもそっちの話を聞きたいところだが、明らかに嫌そうにしているので思うだけに留めておいた。
二人を部屋へと促して、まずアリヤの状態を水茂に直してもらい、これまで通りに食事を用意して腹ごなしをしているうち。部屋に使いが訪れた。
呼び出しだ。
縁側に現われた亀の頭をした従業員が、頭を下げている。
「泉源様より、案内をいたすよう申しつけられました」
来たときと同じような文言を口にした亀は、姿勢を正した水茂が返事をすると、では、と障子戸が大きく開かれた。
皓子は慌ててアリヤの分も合わせた荷物を集めて手提げ袋に突っ込み、水茂へと渡す。
ぽん、と水茂の手が合わさると、瞬く間に消える。そうして「参るぞ」と偉ぶって水茂は返した。
いつか来たときと同じ光景。
つやつやとした木目板の廊下を進み、一際豪華な部屋へ。亀が部屋のふすまを開ければ、中にはすでに泉源と見合いの参加者たちが集まっていた。
部屋の中へ水茂を先頭にして入れば、静かにふすまは閉じられた。
席へと皓子たちが座ったのを確認してから、蛇体をくねらせ上体を預けた泉源が口を開いた。
「皆の者、今回の儀はこれまでとする。選定は終わった。後ほど、私から選ばれた者に知らせをしよう」
対面の男たちが揃って泉源へ向けて頭を下げる。
「水茂。友の力を借りることは悪くはないが、己自身の力もさらに磨くように」
「精進いたしますのじゃ」
ぐう、と唸って水茂も頭を下げた。泉源はひとつうなずくと優しい顔がある左の面を皓子たちのほうに向けた。
「淡紅。お前の笛の音は聞こえていたぞ。腕こそ未熟ではあるが、悪くはなかった。もっと吹いてもよかったが……今後も励むが良い。褒めてつかわす」
「は、はい。ありがとうございます」
「松葉も、慣れぬ場でよく逃げず淡紅に心を配っていたな。見ていたぞ。これからも、仲良くやるように」
「……はい」
「うむ、よい。よい」
水茂が言っていた、千里を見通しの言葉を理解した。泉源にとっては、離れた場所に居る皓子たちの言動は見えていたのだろう。もしくは、そのように細工をしていたか。
どちらにせよ、筒抜けだったのだ。
ぎこちなくうなずいたアリヤに、鷹揚に返した泉源が優しげな顔をほころばせる。
「では。これにて」
両手を開き胸元で一つ柏手を打つ。空気を震わせた音が体を通り抜けた。
すると、ふすまの色が変わる。最初は青い色だ。
田衛門があぐらから立ち上がり、腰を曲げて礼をした。
「お先、失礼つかまつる。泉源様、水茂様、此度の機会は得がたいものでしたぞ」
それから田衛門は体を皓子に向けて、平べったい顔に満面の笑みを浮かべる。
「こうこちゃん。またまみえることがあれば、巣のことを考えていただけるとありがたく。楽の精進、楽しみにしておるぞ」
「えっ? あっ、善処します?」
「松葉。おぬしはもっと精進するのだぞ」
「……ほどほどに、善処します」
「しからば」
皓子たちの答えを聞くと、満足そうにげこりと鳴いて堂々とした足取りでふすまから田衛門は出て行った。
まだ巣のことを諦めていなかったらしいことに驚く。アリヤは、本人は不服そうだがいつの間にか弟子扱いされている。あの日中二日間で、何があったというのだろう。
田衛門の姿が見えなくなるやいなや、ふすまは橙の色へと変わる。
「お招きにあずかり、光栄でございました。次がありますれば、喜んではせ参じましょうぞ」
完璧な人間の姿に化けた穂灯が泉源と水茂に丁寧な礼をしてから、続けざまに皓子のほうにも礼をした。
「こうこちゃん、あなたとはまた話せる機会があれば、嬉しく思いますな。踊りはお得意ですか?」
「え、と。ふつう、です」
「それはそれは。わかりました。それでは」
優美な仕草で身をひるがえして穂灯は去って行った。
途端、ものすごい勢いで着物の裾を引っ張られた。
「こ、ここここっこ!? わしがおらぬ間に、やはり! この、このーっ!」
ぎゅうと抱きついた水茂が泉源をきっと睨む。
「泉源様っ! それから又三郎! こっこは駄目じゃからな! わしの一番の友なのじゃ!」
「人たらしならぬ、化生たらし。見ておったが、面白い娘だ」
「坊ちゃんは女どもの格好の噂の的でしたぜ。今もうっすら糸がついてらあ」
「ああ。聞き及んでいる。そちらは私が対処しておこう。水茂、愉快な友だな」
泉源が微笑めば、又三郎が颯爽と立ち上がる。
「では、わたしゃこれで。楽しい話もできましたんで、ま、良い儀でした」
腰元で威嚇する水茂を楽しそうに見てから、軽い調子で礼をする。
それから「そうだった」と、思い出したように又三郎は付け足した。
「お嬢ちゃん。おまえさんにやった物だが、今思えば俺の力が入ったもんだから、現世に戻って風邪を引いちまうかもしれん。ま、鎌鼬のお茶目なところと思っとくれや。それじゃ、またなァ」
ひらりと手を振って、又三郎は緑に変わっていたふすまから旋風を巻いて出て行った。まさしく風のように自由であった。
「こっこ! 何をもらった!」
またぐいぐいと引っ張られた。皓子が又三郎からもらった一枚の葉を見つけた水茂は、鳴き声とも悲鳴ともとれる甲高い声を上げると、葉を奪うように取った。
「ああああんのイタチ!」
立ち上がって地団駄を踏む水茂を止めたのは、呆れた様子のアリヤでも、呆気にとられた皓子でもなかった。静かににこにこと見守っていた泉源だ。
泉源は蛇の体をくねらせて、水茂の着物の襟をつまむと軽々と持ち上げた。
「お前のそういうところが未熟なのだ。そら、お前も帰って修行に励みなさい。それとも直々に私が久方ぶりに稽古をつけようか」
「ぎゅっ!?」
ポンッとカワウソの姿に戻った水茂がじたばたと暴れる。
「帰る! すぐにでも帰りますのじゃ!」
「ふむ、そうか」
手を離されるなり回転しつつ着地を決め、水茂は皓子の胸元に飛び込んだ。いつもの調子で抱えると、尻尾でお腹の辺りを軽くたたかれた。
「戻ろうぞ。こっこ、アリヤもふすまに進むのじゃ」
「淡紅、松葉」
ふすまに移動しようと足を動かす前に、泉源に呼び止められた。
「水茂をこれからもよしなに頼む」
「はい。ありがとうございました」
「うむ、では私からも餞別を。いくらかマシになるであろ」
そう言うと、ふうっと一息手のひらを添えて息を吹きかけられた。冷え冷えとした清水の煙を浴びたかのように、感覚が頭から足先まで通り抜ける。
急げ、とさらに腕の中の水茂が急かす。
部屋から先に出た又三郎たちに倣って、礼をしてからふすまを向けば、自然と開く。
白い靄ばかりで先は見えない。飛び込むのには勇気が要りそうだ。
だが、水茂は「大丈夫じゃぞ」とつぶらな瞳を器用にウインクさせて、皓子を見上げてくる。
「よし……アリヤくん。帰ろうか」
水茂を抱える皓子だって躊躇うのだ。アリヤもきっと、初めてで困惑しているはず。そう思って手を差し出す。
「……そういうとこだね、皓子ちゃん」
なにか納得した様子のアリヤが軽く手を取って握った。
「じゃ、せーので」
「えっ、言うの? 俺も?」
「言いまーす」
「いいから早くまたぐのじゃ。一刻も早く出るのじゃ」
機嫌を損ね始めた水茂に笑いかけて、「それじゃあ」と皓子が呟く。
どちらともなく、「せえの」と言って足を踏み出した。