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作者: 香澄翔
35.穂花の強さ
 翌日。今日は文化祭の片付けがある。

 ただ穂花ほのかと顔を合わせるのは少々気が引ける。
 穂花がどう思っているのかわからなかった。重い足取りのまま、それでも学校に向かう。
 だけど穂花と会わない訳にもいかない。穂花がオーディションにいく気が無くなっているかも、確認していかなければならない。

 ただその足取りは重い。
 ゆっくりと歩いていく俺の背中から、不意に声をかけられる。

「たかくん、おはよ」

 振り返るとそこにはいつも通りの穂花が立っていた。
 にこやかな笑顔をみせていて、昨日の陰は全く感じさせなかった。

「お、おう。おはよう」

 とりあえず少しどもりながらも普通に挨拶を返す。あまりにも変わらない穂花に、俺はむしろ驚きを隠せなかった。
 穂花はどう思っているのだろうか。昨日は事は謝った方がいいのだろうか。
 少し思案していると、それよりも早く穂花が声を漏らした。

「昨日はごめんね。あれから私もいろいろ考えてみたんだ」

 穂花は少し目線を落としながらも、だけどどこか晴れやかな声で告げていた。

「どうしてたかくんはあんな風にいったのかなって。いつものたかくんと違ったからびっくりしたの。でも、たかくんはもっと練習が必要だっていってたよね。それって本当に夢を叶えたいならもっと真剣になれってことだよね。私、考えが甘かったと思う」

 穂花は穂花なりに悩んで、そしてそう結論づけたのだろう。
 正直俺はそこまでのことは考えていなかった。ただただ穂花を救いたいだけの一心だった。でも俺の言葉を穂花が前向きにとらえてくれたのだったら、それは本当に救われる。

「だからね。私もっと真剣になるよ。もっといろんな演技が出来るように、演劇の本とか読んでみようと思った。オーディション受けるのはまずそれからだよね」

 穂花は笑う。
 だけど良くみると穂花のまぶたが少しだけど赤く腫れている。もしかしたらずっと泣いていたのかもしれない。

 穂花は俺の言葉を必死で受け止めて、何とか前向きな理由を考えていてくれたのだろうか。
 本当はそんな良いものじゃないんだ。ただ事故に遭わないために、無理矢理オーディションに出るのを止めようとしただけなんだ。
 穂花に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 これで夢を諦めた訳でも無く、ただ今回のオーディションにでる事をやめたのであれば俺の願いは届いたという事だろうか。だけど穂花の夢まで壊してしまうような事にならなかったのであれば、少しは救われたと思う。

「そうだな。がんばれよ。俺も本当は応援してるんだぜ」

 穂花に合わせて笑う。
 笑ってみた。うまく笑えていただろうか。わからない。もしかしたら張り付いた笑顔を向けていたのかもしれない。
 だけど穂花が笑っていてくれるのなら、それが何よりも救いだった。俺の心が少しだけ溶けていく。

「うん。たかくん。ありがとう。私ね。がんばるよ」

 穂花の笑顔は何よりもまぶしく見えた。



 学校の中でも穂花は変わらなかった。
 いつも通り朗らかに笑って、少しおっとりとしていながらも、みんなに明るさを届けて周りを温かくしていた。
 次の日は振替休日で、だけど気になって穂花と連絡をとってみた。

 公園で演技の練習をするというから、俺も公園にむかった。
 子供やそのお母さん達が穂花の演技を見ていた。少し恥ずかしそうでもあったけど、それでも練習を続けていた。
 俺はただその様子をそばでじっと見ていた。
 そのうちやってきた子供達が俺の上に登ったりしてきていたから、一緒になって遊んでやったりした。
 穂花はそんな様子をみながら笑っていた。

 思っていたよりもずっと温かくていい時間を過ごせていた。流した涙の分を取り戻すかのように、二人はもういちど距離を縮めていた。
 遠ざかったように感じていたけれど、俺と穂花の間はそれくらいで壊れるほどもろくは無かったようでほっとしていた。

 でも救ってくれたのは穂花の強さだ。前を向いて進もうとする彼女の意思があったからこそ、こうして一緒にいられる。救うはずの穂花に俺は救われていた。

 あべこべが過ぎるなと思う。
 だけど本当に嬉しく思っていた。
 このまま平穏な時間を過ごせればいい。今度こそ穂花を救えればいい。
 強くそう願った。

 そうして再び土曜日を迎えていた。
 穂花が向かうはずだったオーディションの日。
 穂花がオーディションに向かうなら、朝にはでかけるだろう。
 俺は穂花へと電話をかけてみる。

『もしもし』
「あ、穂花か。俺だけど」
『うん。たかくん? 朝早くからどうしたの?』
「今日はどうしてるのかなと思ってさ」
『うーん。そうだね。図書館にいこうかなと思っていたけど』
「図書館?」
『うん。なんか参考になる本とかDVDとか有るかなと思って』
「そうか。俺も一緒にいっていいか?」
『たかくんが? いいけど、図書館では静かにしないとだめだよ』

 穂花は電話越しで訝しげな声をあげていた。いろいろ前科があるので心配されているようだ。
 ただ図書館にいくと言うことは、穂花は今回オーディションに出る気はないのだろう。
 心配していた事態は何とかやり過ごせそうだった。

「もちろん。静かにする事については俺の左にでるものはいないと定評あるんだぜ」

 ふざけた感じで告げる。

『……それって、一番うるさいってことだよね。だめだよ、たかくん』
「ばれたか」

 呆れた様子で告げる穂花に出来るだけいつも通りの感じで答える。穂花に余計な心配をかけさせる訳にはいかないから、少しでも普段の様子でいようと思う。

『まったく。じゃあ私そろそろでようと思っていたんだけど、たかくん、すぐこれるかな。あ、県営図書館までいくから自転車できてね』
「おっけー。四十秒で支度するぜ」
『……最後、滅びの呪文は唱えないでね』

 俺の言葉はすぐに通じたようだった。
 もちろんこの穂花の台詞は「騒がないでね」という事を遠回しにいっている訳ではある。ただ穂花は真面目ではあるんだけど、ちゃんと打てば響くところが、穂花といて楽しく感じるところでもある。案外穂花は俺のぼけに対してつきあいが良い。本人はぼけにつきあっているつもりはないかもしれないけど。

「心配するなって」

 とりあえずいつも通り親指を立ててみせる。
 もちろん電話越しだから見えはしないのだけど。
 ただこんな風にいつも通りの会話が出来た事が嬉しく思えた。

 穂花の家についたら、穂花が自転車を用意して待っていた。俺は愛用のマウンテンバイクで乗り付ける。
 あの時であれば、穂花は駅に向かう時間だ。ただ今回は駅とは反対方向にある図書館にに向かう事になる。
 表面ではへらへらと笑いながらも、内心では強く緊張を覚えて、心臓が強く鼓動しているのを感じていた。

 この時間を乗り越えられるのか。本当に穂花が事故にあう因果律の始めはオーディションに出る事なのか。疑問はつきない。
 このあとどこかからあの車がやってくるのではないか。
 このあともういちど時間を戻さなければならないのではないか。
 その恐怖と闘うだけで俺の心はどこか弾けそうにすら感じていた。

「たかくん。おはよ。さっそくだけどいこっか」

 挨拶もほどほどに自転車にまたがる穂花に、俺はいつも通り拳を握りしめて親指を立てておいた。
 穂花の後ろについてマウンテンバイクにて走り出す。
 いつもあの車が近づいてくるかと聞き耳を立てながら、穂花の後ろを走る。

 道中、エンジン音がきこえるたびに俺は周囲を強く警戒していたが、だけど最後まであの車のエンジン音がきこえてくることはなかった。
 図書館について、そして穂花が目的のものを探し出して、その帰り道でも穂花はあの車に出会う事は無かった。
 穂花は事故に遭わなかった。

「じゃあたかくん。今日は私はこの本とDVDをみて過ごすから、またね」

 穂花は俺と笑顔で別れていた。
 家の中に入っていく穂花を見守って、それから俺も家へと帰る。

 穂花は救われた。フェルの推測は正しかった。だからもう穂花はこれであの車にひかれて、事故に遭う事はないんだ。
 俺は心の底から安堵の息を吐き出す。

 それでもまだ心配になってちょくちょくライムを送ったりしたけれど、すぐに既読がついて返事も戻ってきていた。
 穂花の件に関しては、もう三十分という時間にはこだわる必要はない。うまくいかなければ大きく時間を戻せばいい。だけどそれでも心配で何度もライムを送っていた。

『今日はなんだかたくさんライム送ってくるんだね。いつもこれくらいマメに返事くれたらいいのに』

 穂花から怒っているのか、笑っているのかわからないこんなメッセージも届いたが、間違いなく生きている証拠だった。
 少しずつ俺の緊張が解けていく。
 穂花は救われた。少なくともあの車にはねられる事はない。
 穂花の部屋は二階だし、家の中に突っ込んできたとしても、よほど運が悪くない限りは命を落とすような場所にいる事もないだろう。
 穂花はもう失われることはない。
 俺は心の底からわき上がってくるこの想いに、部屋の中だというのに叫びだしていた。

「やった……! やったぞ……!! 穂花は助かったんだ。なぁ、フェル。そうだよな」

 フェルに向けて声をかける。
 机の上のえんぴつ削りの上に座っていたフェルは、俺の方をじっと見つめ返してきていた。

『そうね。穂花はもう大丈夫』

 フェルははっきりと肯定していた。
 だけどこの時、俺はまだ気がついていなかった。どこかフェルの言葉に堅さが残っている事に。
 そして俺はまだ気がついていなかった。
 大切なものを失うという事の意味に。
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