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作者: エコエコかわえ
R-15
S02A2 片道切符の売人
 偽物の昼から、本物の夜へ。

 ゲスト用のエレベーターには夕方がある。黄金のメインホールの続きで始まり、階層が下がる毎に少しずつ現実の夜中へ戻れるようにお膳立てがある。次も気持ちよく来てくれるように。もう一度この気持ちよさを求めるように。

 キャスト用のエレベーターにはそんな心遣いはない。質素な小部屋が勢いよく降りる。地上二十階、上を向いて三半規管を守り、耳抜きで気圧を合わせる。地階の駐車場のさらに下、秘密の第二駐車場を知るものはごく少ない。ゆえに、さらに狭い。夢を見せるのが現実の役目だ。

 兎田が最初に見たのは車の扉だ。すでに開いている。今日の運転手は気が利く。男物のトレンチコートを裾まで確実に入れたら運転手の操作で扉を閉める。ルームミラー越しの顔は、馴染みがなかった。

「初めまして、よね。私はラビ、よろしくね」

 彼は意外そうな顔で受け止めた。

「覚えているのですか、しがないドライバーの全員を」
「もちろん。運転手がいなかったら車は走れないもの。あなたもお名前を訊いても?」
馬場昭午ばば・しょうごと申します。支配人からの呼び方は、エクウスと」

 ラテン語の呼び名、支配人のお気に入りだ。理由は弱みか信用か、あるいは両方か。低い声に太い体躯、少しだが白髪も見える。脂が乗った中高年の腕利きと見える。哀れな男だ。もうどこへも逃げられず、一生を彼に捧げるしかない。

「私の本名まで知ってる人?」
兎田卯月とだ・うづき様。傷ひとつつけません」
「あなたは車に集中して。私の傷は私だけが防ぐ」
「御意」

 シートベルトを確認すると、馬場は仏頂面でアクセルを踏んだ。にこやかな挨拶は終わり、仕事を始める。

 道は暗いが、街灯がある。

 一般の大通りを進む。軽井の私邸へ乗り込むには少し遠回りで、すなわち準備がある。馬場が何も言わないので、助手席に座るトランクには気づかないふりをしている。彼は雑談をしたがらないタイプだ。兎田が振っても答えだけを返して、意見を求めれば自分の役割ではないとのみ返す。寡黙な男は腕がいい。寡黙かつ腕も悪いようでは生きられないから。

 寝静まった住宅地を進む。通りは狭くなり、他の車や窓からの光がなくなり、本物の夜が始まる。

「ラビ様」の一言から馬場が切り出した。助手席のトランクを開ける時だ。指輪型の小さくて弱い光で検める。

 中身はガバメント、拳銃だ。

「ご経験は?」
「エアガンで、シューティングレンジでのみ」
「重畳。本物も玩具銃も同じです。引き金に触れるまでは」

 空弾倉に弾丸を込めていく。薬室に一発と弾倉に七発。あとはセフティを外して引き金を引けば弾が出る。空薬莢は側面につけた袋で受け止める。道具の知識があっても、サイレンサーをつけた発砲音を兎田は知らない。この駄菓子ほどの小さな筒でどこまで抑えられるのか。少なくとも、近隣から苦情が来ない程度ならいいが。

「ラビ様は、人を殺す経験は?」
「まさか。だけど私はきっと、避けて通れない道にいる。とっくに覚悟はできてるわ。遅めの初体験といきましょうか」

 馬場は言葉を伏せた。顔色もルームミラー越しには見えない。何を考えても構わないが、兎田は珍しく本心を語った。

 これまで調べ物のついでに支配人の他の仕事も探していた。成果らしい成果は、竜胆辰臣とは偽名らしいとわかった程度だ。そんな男の近くにいる者がどんな道へ引き込まれるか、候補はマークシートよりも狭い。

 政府Governmentの名を冠する銃を無政府Anarchyに使う、皮肉な巡り合わせだ。あるいは、どちらも同じだと突きつけているか。兎田は重心を確認し、照門と照星の見え方を確かめて、セフティとマガジンキャッチの位置を指で覚える。あまり強く掴んで固くしてはいけない。手袋を要求したら、馬場が予備を出す。

 車が止まった。まるで見知らぬ街角で。

「引越しかしら。まさかだけど」
「待ち伏せではなく、待ち合わせです。ラビ様を彼に渡したら、帰り道に先回りを」
「誰に?」
「俺も知りません」

 知らない男、心当たりがある。シートベルトを外して、拳銃を隠し持つ。

 窓を叩く音と、すぐに扉が開いた。兎田は迷わず地に足をつけて、馬場は車を出した。残った人影は予想通りの男だった。

「奇術師アンノウン、この特別舞台でまで助手に選んでいただき、光栄ですわ」

 兎田が彼に合わせた挨拶で始める。バニーガールの脱出ショーでの協力をきっかけに、余興として呼ばれる度に兎田が協力していた。彼も素性が知れない奴の一人で、ここにいる事実から支配人との繋がりが明らかになった。

 彼は酒井飛鳥さかい・あすか、フリーの手品師として各地での公演に参加し、その片手間に怪盗として機密情報を盗み出す。

 シルクハットを仰々しく回して頭を下げた。仮面は顔の上半分のみの、印象を変えるだけで十分とするものだ。ただし、舞台とは別の印象に。目立たず弱々しい顔で、暗い赤のスーツで、さながら鏡写しのライバルを演じた姿で。

「早かったねラビクン。けれど、ひとつ間違いをしている。今日はワタシが助手だ。キミを舞台の最奥へ送り届ける役目のね」

 舞台と同じく仰々しい喋りを、うってかわって小声で話す。真夜中の街角をわかっているのかわかっていないのか判断に迷う男だ。日本人らしいが、日本の文化から少し離れた様子を見てきた。素性の知れなさといい、名前のセンスといい、疑わしい。

「すぐに行くのかしら?」
「そうだともさ。まずはホテルへ。ああもちろん、お色気シーンは控えてくれたまえよ。今日は真面目な日だ」

 その仮面で人前に出るつもりか。言う前に彼は素顔らしきものを見せていた。この時勢で冬だ。つけ外しできる変装でも、髪で左右を隠し、マスクで下半分を隠し、帽子で上端を隠せば、本物の顔と見間違える。休憩できるホテルなら誰も顔を合わせない。

 しかし、この住宅街に? 案内されるままに歩くと、大通りに出て、すぐにホテルが見つかった。アンノウンは慣れた手つきでパネルを押し、金を置いて鍵を取った。

「お盛んなのね」
「キミに言われたくはないなあ。これでもワタシはモテるんだ。ありがたいことにね」

 高階のスイートルームに入った。夜景を見下ろしての情事に人気の一室だ。気になるのはテーブルに、アンノウンの舞台道具で見覚えある箱がはじめから置かれていること。

「いいルームサービスだ。そうは思わないかね、キミも」
「何の箱かしらね」
「ここは盗聴を気にしなくていい建物だよ。わかるだろう?」

 支配人の息がかかっているから。どこまでも底が知れない男だ。今になっていくつもの新情報を浴びせてくる。掌の上にいる。気づく能がある。

「さて。今からの計画を話そう」

 アンノウンが変わらぬ仰々しさで説明した。舞台上で演目の概要を語るのと同じように。

「午前一時台に四度、一帯の監視カメラが居眠りをする。十二分から十三分と、二十三分から二十四分と、三十四分から三十五分と、四十五分から四十六分に。移動するなら居眠りの隣を忍び足で、そうだろう? 行きはパラグライダー、帰りは綱渡り、この部屋とターゲットの家を繋げようという算段だ」

 竹と化学繊維の翼を出す。頼りなさそうでも体重分くらいは耐えられる。余計な衝撃を与えなければ。安全係数をゼロに近づけて軽量化した特注品だ。

 兎田はコートを脱ぎ、潜入用のバニースーツで構えた。身軽で、服のすべてが体に追従する。かつ急に現れたら思考を混乱させる役目もあり、こう見えて潜入に適した装いだ。傷を防げないのは珠に傷だが、金持ちの私邸に絞れば発見されない限りは困らず、発見されれば甲冑でさえ耐えられない。失敗を恐れる前に、成功を目指せ。

「ところでアンノウン、監視カメラの居眠りはどうやって?」
「ネズミがいるのだよ。特大サイズのね。心当たりがないならワタシが紹介しよう」
「助かるわ。ちょうど『新しい友達が欲しかった』所なのよね」

 時間までに準備を済ませる。風向きを確認して、軽井の私邸の外観と近隣の間違いやすい建物を頭に入れて、どこからか届いた映像で軽井の居場所を見る。バスローブでベッドに座り、タブレット端末で連絡か何かをしている。すぐにでも眠りそうだが、寝ついた後とは限らない。微睡みの中で仕留める。

 つい数十分前には情けない顔や愚息を見せていた男の真剣な顔だ。よほどの繋がりがあるらしい。だからこそ繋がりある連中から取り上げれば仲違いや疑心暗鬼が生まれる。

 時が来た。窓を開ける。

 パラグライダーはアンノウンの先導で飛ぶ。街灯が規則的に並び滑走路の誘導灯を思わせる。大通り付近が後ろになると一転して暗闇だ。街灯は減り、どのご家庭も夢の中にいる。

 背後で花火が上がった。見張りが居眠りをしても人の目がある。それらを季節外れの打ち上げ花火で塞ぐ。シャッターチャンスを求めてスマホに注目する。探偵が居場所を特定する手段だぞと書き込んで知識自慢のチャンスにする。

 闇に覆われても行き先だけは見つけられる。軽井の私邸の、二階のバルコニーへ。左に寝室があるので、右の部屋から入る。ひとつ右のご家庭はクリスマス時期にイルミネーションを置く熱心さがある。見間違えはしない。

 減速して、衝撃は脚と壁で受け止める。台風でも静かな建築が仇になり音は伝わらない。兎田が降りた時にはすでにアンノウンが窓を開けていた。ガラスカッターですらない。鍵が開いていた。今日は軽井が出張から帰った日とあり、仕込みは上々だ。

「怪我はないかね?」
「おかげさまで。残る障害は?」
「足音と扉の軋み、それだけさ。キミの舞台の始まりだ」

 兎田はいつも通りに歩いた。軽井と同じ靴下がある。繊維くずに異質なものは混ざらない。足をつけるときは外側を回して押し付けるように、区切りなく動き続ける。扉はノブを回す下方向の力と持ち上げる力を吊り合わせる。蝶番への負担を和らげて軋みを抑える。

 寝室の扉を開く。眠る部屋は暗いほどよい。カーテンを閉じ、照明がひとつもない。音がなければ誰がいても気づかない。ただしベッドが大きいので、近づくには限界がある。

 兎田は顔に飛びつき、手で口を押さえた。顔を振り向かせる。暗闇で姿は見えず、振り払おうとした手を乳房の弾力と大質量で受け止める。銃口が軽井の喉元を捉えれば。あとは遠回りで振り払うより兎田の指のほうが早い。

 頭が弾けた。

 冥土の土産に抱いた美人の笑顔を持ち帰らせる、ゲストへのサービスが最期まで手厚いのは一流の証だ。元の部屋に戻り、アンノウンと共に時を待つ。機は十一分おきで、半分も残した。暇な時間を過ごす。どこに熱心なセキュリティや冷血な盗聴器があるとも知れないので、呼吸の音も隠しておく。

 徐々に行動への実感がついてくる。脈拍が荒ぶり、抑えようとするほど心音が大きくなる。落ち着ける呼吸は知っている。使ったこともある。今は使えていない。頭がぼやける。冬なのに暑くて汗が滲む。血圧の上げすぎだ。

 呆気なかった。初めては終えてみれば呆気ない。軽く押さえて、軽く握るだけで、簡単に、殺した。

 アンノウンの裾を掴む。彼も意図を察した。両手で兎田の手を包み、小声で、把握した盗聴器には届かないように囁く。

「大丈夫。僕たちの仲はずっと同じだ。他の誰だって同じだ。君は明日からも、昨日までと同じく生きていく」

 この土壇場で彼の新たな一面を見た。逆説的に、普段は仰々しい仮面で何かを隠している。今は甘い顔を貪っておく。

 兎田は頷き、小さく震えた。関心の先は初体験からアンノウンの情報に移った。移して目を背けた。短い時間が、体感ではさらに短く感じた。

「ラビクン、立てるね。帰ろうじゃないか、ワタシたちの家へ」

 再び仰々しい口調に戻り、バルコニーから出た。窓を元通りに閉めて、細い手すりや塀を足場に進んだ。寝静まった家の合間を誰にも知られずに渡り歩く。つま先立ちで、歩幅を狭めて、足跡を一直線に。前を行くアンノウンが踏んだ位置を兎田も踏む。足跡が見つかっても人数や体格が見えなくなる。。

 ようやく地面に降りてひと安心した所に車が止まった。馬場だ。

 出発してすぐにアンノウンは握り拳を出した。兎田の目の前で握った手を次に開いたとき、袖から花が飛び出してプレゼントとした。奇術師は人を驚かせて笑顔にする。落ち込んでいる様子を見たら放ってはおけない人種だ。

 銃を返したら肩の荷が軽くなる。残業代が少ない日だった。
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