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S09C2 鏡写しの中心
ミーティングは朝まで続いた。途中で兎田が抜けてからも、自らの美容を投げ打ってまで盛り上げたがる連中が中心になり続けたらしい。
起きて一番の連絡チェックで、彼女らが決めた内容を読んだ。兎田からはひと言「楽しみにする」とだけ返して、続く通知を尻目に食事から出発の準備まで済ませた。
今日は奇術師アンノウンの舞台裏へ行く。
書類上の住所は兎田と同じフロアにいるが、実際の彼はあまり帰らない。日本中のどこへでも呼ばれれば駆けつけてショーをする。多くは飛行機かホテルにいて、たまに種の仕込みをするのは空港やターミナル駅に近い貸し倉庫だ。
半ば偶然だった。
常連の話からアンノウンが出ると聞きつけて、主な行動圏の東京・世田谷区を中心に箱を調べ続けたら、それらしきイベントは二件まで絞れた。演者の情報を見て片方だけが全員集合と称したリハーサル写真をSNSに投稿していた。写真の隅でパイプ椅子の銀色にダンボール箱が映り込む。常連が行きたがるにはリテラシーが甘すぎる。
時刻は午後二時、開場には余裕があり、ひとつ前の団体が出て後片付けを終えた頃だ。
裏道を陣取る。彼がコンビニへ向かうならば必ずここを通る。
青のゴミ箱は留め具が裂けて、ガムテープの補強も虚しく口を閉じられない。アリとハエが餌を求めて群がり、自転車にへばりついた飲みこぼしを探している。
暇つぶしに落書きを眺めておく。アルファベットを立体にして左下から見た形と、周囲にバイクやタバコなどの作者のお気に入りらしき小物が並ぶ。作者はばらばららしいがパースは整っていて、基準となる一点に座り心地の良さそうな段差がある。
やけに律儀な連中らしい。ボスの席から正しく見えるように仕上げられるあたり優秀な集まりと見える。美大か、文化資本か、あるいは指示をその通りに解釈できるか。いずれにしても燻らせるには勿体無い。
足跡とコンビニの袋の音が近づく。期待通りの顔が現れた。
「ラビクンか。急ぎの用事かな? キミに似合わない吹き溜まりに来るほどの?」
アンノウンが仰々しく挨拶をした。この場に似合わないのはむしろ彼のほうだ。兎田は不良の妾やOGに見えなくもないが、青のスーツや仰々しい喋りはどれとも馴染まない。
「別に、顔を見たくなっただけ」
「そりゃあ光栄だ。どうぞ、楽屋には紅茶もある」
表に回り、扉を開けて招く。兎田は言葉に甘えた。
リノリウムの踏み心地が懐かしい。学校や公民館に入る機会はなく、アスファルトかカーペットか、潜入する先は大理石や塩化ビニールが主だった。すれ違う会場スタッフにはアンノウンから身分を伝える。頷いて通してくれた。
白と灰色の廊下を通り、白と灰色の部屋へ。ダンボール箱には各種の飲み物が並び、演者へのサービスとして自由に取っていい。他の荷物はキャリーケースがひとつだけで、広さを一割も使えていない。
「一番乗りかしら」
「そうだとも。すなわち、秘密の話は今のうちだ」
アンノウンは見当がついている様子で促す。午後の紅茶を目の前に置いた。兎田が「レモンティー」と呟いたら、彼はミルクティーの封を切った。
「話はひとつよ。紹介してくれるどなたかについて」
「巨大なネズミか。キミの頼みとあれば、すぐに」
電話を取り、最小限の往復で切る。兎田はまだレモンティーの封を切るだけだった。
手紙を書く。日付と行き先のメモと、合言葉を。その間にひと口だけのレモン味を転がした。一流には劣るが二流を引き離す、大量生産の一・五流をたまには味わっておく。
その紙を兎田に渡したら話は終わりだ。
「終わりだがキミ、すぐに向かうつもりかな?」
「そうだけど」
「やめた方がいい。明日の昼、それもおやつ時をおすすめするよ」
場所と時計を見比べる。現在が二時三十四分、移動時間は二十分程度、時刻は相違ない。アンノウンはおすすめと言った。必要とは違う。
「その心は」
「明日は月曜日だ」
「すると?」
「お楽しみさ。この後のワタシの舞台のようにね」
アンノウンは腕を組んで笑う。体重を背もたれに預けて、これ以上のネタバレをしないつもりで語る。紹介した者の顔を立てるつもりではないが、最適な準備を味わうのが結局は最もいい。言葉通り、訪ねるのは明日にする。
「では、ワタシとの話もおしまいか。寂しくなるが、行きたまえ」
言葉に引っかかりがあった。兎田は職業柄こうした抑揚や息遣いから裏にあるものを見つけ出す。アンノウンが言う「寂しくなる」とは本心に見えた。
少し、揺さぶってみよう。もしかしたら果物が落ちてくるかもしれない。
「行っていいの?」
「構わんさ。それとも、助手を買って出てくれるのかな?」
「聞かせてよ。あなたの身の上を」
重心が変わった。押せば通せる。続く言葉に先んじて兎田のさらなる追及で揺さぶる。
「あなたの事、何も知らないのよ。どう調べても情報がさっぱり。出身地も出身校も来歴も、本名も。片手で数えられる程度よ、そういう人って」
「オビスくんとアルさんだ、そうだろう?」
「話が早くていいわね」
レモンティーを口へ。続く話を促す。飲み込む前に舌で転がす。アンノウンもミルクティーで喉を湿らせて、次の言葉を見つけたらボトルを置いた。
「親代わりだ。アルさんは。何もなかった僕に全てをくれた。居場所も、酒井飛鳥の名前も」
彼は仰々しさの仮面を外した。いま目の前にいるのは人気者の手品師ではなく、一人の小さな青年だ。秘密が大きいほど封じ込める鎧も重さを増す。
「僕の生まれは荒野だった。国の名前も知らず、食うものも食われるものもない、ただ少しの草と砂が続く。遠くには絵を貼り付けたような空と山があって、どんなに歩いても何も変わらない。そんな荒野にいた」
兎田は映像を見たことがある。インドのザンスカール、バイクで走っても景色は足元が動くのみで、ひたすらに同じような道が続く。少しの近いを楽しむには余裕が必要だ。確実に生きて帰れる自信が。
バイクで走れるかを抜きにすれば似たような土地はどこにでもある。いつの話かは不明瞭だが、子供の目線なら地平線まではせいぜい二キロメートルだ。東京では電車で一駅、大人が歩いて三十分。変わり映えなく歩くにはあまりにも遠い。
「言葉も知らなかった僕がどうやって生きてたかはもう覚えていないが、そこから連れ出してくれたのがアルさんだ。初めての空の旅、海の旅、その間に出会う人たちから言葉を知り、今はこうして立派な日本語話者になった」
過去の話に口を出してはいけない。黙って聞く。兎田はそうして信用を得てきた。身の上話とは楽しいものだ。目の前の一人は自分の過去に興味を持ち、ありのままを聞きたがっている。その意思を伝える方法が沈黙だ。ただ耳を使う。
「恩がある。だから返す。それはオビスくんもきみも同じだろう。出会う前の形がどれだけ違ってもね」
兎田の育ちは明らかにアンノウンより恵まれている。衣食住に困ったことは一度もない。飲める水がいくらでも手に入り、死の危険は決まった場所に見えていて、友達も多い。そんな自分が彼と同じと言うには烏滸がましく思えた。
「恩」
おうむ返しで話を続ける。会話は戦いと同じく攻撃側と防御側がある。攻撃側が防御したらチャンスを失い、防御側が攻撃したら粗が生まれる。今の兎田は防御側だ。まだ逆転にはふさわしくない。
「ショウちゃんと出会ったのは?」
「それはきみと同じさ。あのマンションに集まった日に顔を合わせた。昔話は少しだけ。場所は違うが、似たような境遇だった」
「勝手に言う仲なのね」
「許可ならある。彼女はきみを信用しているよ。少なくとも表向きにはね」
兎田は仲間を信用するべきと知っている。しかし、誰が仲間かを知らない。究極的には人は敵同士だ。自分との利害関係が噛み合う間は連帯できる。兎田と彼らを繋ぐのは竜胆だ。彼が消えれば利害の調整先を失い、遅かれ早かれ瓦解する。
「なるほどね。わかったわ。ようやく、わかった」
兎田は静かに噛み締めた。
「私は恵まれてた。あなたやオビスが求めた全てを持ってた。なのに、使い方を知らなかった。やっと、見つけたわ」
「聞きたいね」
「竜胆様。私の目に適う最高位の人」
目の前にいる男を飛び越えて別の男の話をする。褒められた行為ではないが、同じ一人に向いているなら一転して同志になる。
「似たもの同士、か。僕ときみは全てが逆なのに、そう感じるよ」
「鏡写しにしても、中心は重なる」
「違いない」
兎田は右手を出した。意味を理解してアンノウンも右手を。
仲が深まった気がした。どうしようもなく歪な、たった一人の男を中心に置くだけの繋がりだ。
足音と話し声が近づく。別の演者が来た。レモンティーを飲み干し、入ってきた連中とも挨拶をしたら、兎田は帰り道を歩いた。
寒空の下で、コートの前を留め忘れたと気づくには時間がかかった。