R-15
S19D6 闇色の生き様
ヘリコプターがワイヤーを下ろす。
縄梯子とか結び目などの気遣いがない、掴まる者を信用したただのワイヤーだ。手や足に自力で巻きつけて上がってくるように。
上にアンノウンを、下に兎田を。怪我人を受け止める形で体を重ねて掴まった。引き上げながら空の旅が始まる。東京のビル群を見下ろし、東京の下町を見下ろし、巻き上げながら飛ぶ。
「お加減は?」
「大したことはないさ。肋と尺骨だ」
掴まっていられる程度に。最後に登るときは兎田が助けてやる。
機内に着いて、応急処置を始めた。ステッキを添木として左腕に、細かい擦り傷はミネラルウォーターで洗い流す。この場に翔がいたらもっと手際がよかったが、生憎の二人と運転手だけだ。
パイロット席には臼井がいた。研究室とは違い、真面目な顔つきで周囲と手元の計器を交互に見る。今の臼井は決してモテなそうでもオタク臭くもない。
「さてお客さんがた。行きたい場所は?」
「選んでいいなら、女体山が見たいわ」
「日本百名山の。うづりんは渋いねえ」
「百名山ね」
口を開けば急に印象が元通りになった。服や表情では言葉までは隠せない。
「予定通り海へ出発だ。この後どうなるかは聞いてたかなあ?」
「何かしら」
「このヘリは不明な機体として捕捉され、やがて太平洋に墜落する。そういう筋書きだから、中で衝撃に備えてて」
臼井が親指で示した先にはこれ見よがしのポッドがあった。海面を穿ち、酸素がなくなる前に船で拾われる。大きさは三人乗り、ちょうどこの場の全員だ。
「狭くなる原因が、二人もいるけど」
「いいねいいねえ、とある細身くんが両手に花になってくれるねえ」
面倒な話題に乗せられた細身くんは苦々しく頷いた。
「好きにしたまえ。ただし、ワタシの左はラビクンだ」
「おやおやおや、睦まじい配置で」
「とある悪戯者に弄り回されたくはないのでね」
「おや、おや、おや、おや。聞きましたかいうづりんさん、リクエストですよ」
「悪いけど乗れない。私を庇った怪我を私がつつくなんてね」
臼井が悪者になり、笑って誤魔化した。
視界から人工物や植物が減りゆく。都心から郊外へ、郊外から千葉県へ。やがて見えるのは一面の海ばかりになる。
気圧計が示す高度は三千、ご当地単位からメートル法に直すと九百ほどだ。前も横も後ろも、見渡すかぎりの水、水、水。
自分たちだけになった世界では小さなアラーム音がやけに耳障りになる。投下地点だ。
臼井はヘッドセットを外して、操縦桿を自動モードに切り替えた。正面になる方向を調整して、しばらくはプログラム通りに直進する。
「そろそろ海に来たから、海に行こうか」
ポッドに入り込んだ。狭い中に三人、強引に入ったのでアンノウンの右半身にぶつかる。怪我が脚でなくて幸いだった。兎田まで届く太もも圧は文字通りの圧力だ。
ハッチを閉じる。このまま既定のコースを飛び、ポッドを投下して、既定のコースで墜落する。
「どこかの自称探査機みたいに単位を間違えてたりしないでしょうね」
「へーきへーき、私の設計だからへーきだよ」
「臭いわよ、あなた」
「グサッ。傷つくなあ。今ので耐久性が下がった」
「いい香りになってきたかも」
「話がわかるねえ、うづりんちゃま」
「復習が必要ね、香害の」
くだらない話で時間を潰す。次のアラームが鳴るまでの時間は、主に臼井の面倒を兎田が受け持つ形になった。
どん、と音と共に自由落下が始まった。十分に高度を下げていても落下は長い。言葉にあるような自由はどこにもない。ただ待ち、ただ衝撃に備える。
兎田は絶叫マシンで遊び損ねたのを後悔した。最初がこれでは次から何に乗ってもきっと楽しめない。
着水の衝撃。重力を感じる方向が変わり、ぼんと音が聞こえる。浮上が始まった。水は入っていないし、圧死もしていない。ただし、短く甲高い音がひとつだけ弾けた。
「アンノウン、その腕で泳ぐ自信は」
「怖くはないな。生存率は据置きだ」
「了解、備えて」
すでに臼井を無視して話を進めている。当の無視された側は「ひどいなあ」と笑いながらぼやく。これは楽しんでいる範疇だ。兎田はそう感じた。成功している者は自らの失敗を演出したがる。失敗続きの者はその逆だ。お互いに自分が持たないものを求める。
海面に出たら重力により引き戻す。その衝撃でハッチが外れた。いい加減な設計だ。
海水が入る。こんなポッドから脱出して救助を待つ構えで浮いた。脚や腕を畳み、水と触れる面積を減らす。体温を守る。
海難の主な死因は低体温症だ。浮かぶ技術や体力だけではない。空気中なら温まった空気を服で保持できるが、水中で同じことはできない。水は体温を奪い続ける。
それとは別に、サメに見つかってはいけない。勝ち目がないからだ。わずかな傷からでも血の匂いが漏れ出せばやがて見つかるし、偶然にも近くにいた可能性もある。
「さて臼井、無事に事故を起こしたけど、これからは?」
「うづりんの無礼なおケツで暖を取る」
「真面目に」
「すぐに船で拾ってくれるよ。見えるかなあ、あれ」
臼井が顔を向けた先には確かに小さな点がある。注目していると徐々に大きくなる。すなわち、近づいてくる。
竜胆のクルーザーが善意の第三者として近づき、海上保安庁に保護した連絡をして、途中で通信を切る。血痕と争った形跡をつけて、そんな船がどこかに流れ着く。調査を始める頃には姿を眩ませている。
筋書きの通りに進めた。竜胆はさらに日本から離れて、先で待つ貨客船に乗り込んだ。船員は各国から引き抜いた有能なはぐれ者たちで、ここに三人も加わった。
甲板に降り、引き揚げた船員と会釈をしていく。
怪我人のアンノウンから。手当できる設備がある。
次に臼井が立った。冗談めいた敬礼をして、コンピュータ室へ向かう。彼女は言動への評判こそ悪いが技術への信用はあるらしい。
最後に兎田が。甲板に足をつけてすぐ竜胆が出てきた。トップは最前に出てこそ信用を得られる。竜胆の考えは、少なくとも船員たちからは支持を得ている。
「答えは見せてもらった。ようこそ、我がワールド・ワイズ号へ」
久しぶりのあの低音が心地よく響く。
「竜胆様」
「部屋はすでに誂えた。ここには居場所がある」
誰もが求めて、他では得られなかったもの。居場所があれば、生きられる。でも、無かったら? 他の何があっても決して満ちる感覚を知らないままで無為に日々を過ごすしかなくなる。
そんな状況に手を差し伸べれば簡単に引き抜ける。自分たちを要らないもの扱いした連中に靡くことは決してない。忠義とは居場所の独占で作る。
「お名前を、これからはどう呼べばよいでしょうか」
日本で動くための日本風の名前は外では不要になる。共通の、本人の名前を求めた。
竜胆は満足げに頷く。
「フェリオだ。フェリオ・アルジェーン。兎田卯月、俺についてこい」
兎田はその名前を復唱し、決めていた答えを返した。
「もちろんです。持ち主様の望みとあれば、どこへでも」
こうして兎田卯月は日本から姿を消した。
闇に生きる者の常として、生き様を語り継ぐのは信頼ある少数に限られる。歴史には現れず、どこの碑文にもない。自分たち以外のすべては何も知らずに掌で踊る連中だ。記録から理解する知性など最初から期待しない。自ら認めた相手だけが知っていればいい。
それが夜の生き様だ。夜明けはまだ遠い。
(了)