残酷な描写あり
4.渦巻く砂塵の先に-1
「〈蝿〉! この場を立ち去ってください!」
メイシアの声が、廃墟の外壁に木霊する。
ひび割れた地面から見上げるルイフォンには、彼女がまるで戦乙女のように見えた。
泥で汚れた頬は紅潮し、擦り切れた服の隙間から覗く膝は血が滲んでいる。けれども、彼女は輝くように美しい。
心が、魂が煌めきに満ちている。それは優しく、温かく、力強く――彼を魅了してやまない。
「さぁ!」
か弱き腕を懸命に振り上げ、彼女は〈蝿〉に撤退を迫った。長い黒髪が風に煽られ、乱れ舞うさまが、彼女の気勢をより一層引き立てた。
従わないのなら、この両手の大刀を、一気に振り下ろしてやる!
この足元に横たわるタオロンの首を、一刀両断にしてやる!
黒曜石の瞳が、そう威嚇した。
〈蝿〉は無機質なサングラスの顔を彼女に向け――何も言わなかった。
ただ無言。沈黙を貫く。
動かぬ〈蝿〉に、メイシアの頬を冷たい汗が流れた。
……彼女の両腕は、ふるふると痙攣していた。
「あなたは斑目の食客です。ならば、斑目の名を持つ彼は、あなたにとって守るべき主人の一族です。退きなさい! そして、二度と私たちの前に姿を現さないでください!」
華奢な体躯に対して、その大刀は鉛のように重たい。
それは〈蝿〉にも一目瞭然だった。
彼は、無謀な貴族の娘の、あまりにも愚かしく滑稽な行為に、わずかながらの敬意を払うつもりで口を閉ざしていたのだが、それでも失笑をこらえ続けることは不可能だった。
抑えきれずに低い笑い声を漏らし、淡々とした侮蔑の言葉を投げつける。
「いつまで、その馬鹿でかい刀を振り上げたままでいられますかね? あなたの細腕では、もってあと数分がせいぜいだと思いますよ」
引きずりながらやっと運んだほどの大刀である。一瞬でも持ち上げられたなら、それは既に奇跡だった。
〈蝿〉の示唆したとおり、メイシアの筋肉は憐れな悲鳴を上げている。それでも、彼女はじっと〈蝿〉を見据え続ける。
非力な貴族の娘である自分が、力技で威嚇するなど馬鹿げていると、メイシアにも分かっていた。待っていれば、鷹刀一族が必ず助けに来てくれることも。
けれど、ルイフォンの危機は今、この瞬間なのだ。どう考えても、助けは間に合わない。ならば、そばに居る自分がなんとかするしかないのだ。
メイシアが一方的に睨みつけること、しばし――。
不意に、強い風が吹いた。砂塵を巻き上げ、彼女の目を傷つけ、大刀の幅広い刀身を嬲っていく。
「あ……」
大刀に振り回されるかのように、メイシアの上半身が大きく傾いた。
「駄目っ!」
もつれる足に踏ん張りをきかせ、彼女は歯を食いしばった。倒れてなるものかと、自らを奮い立て、持ちこたえる。
「ほぅ、貴族の箱入り娘にしては、なかなかやりますね」
〈蝿〉の乾いた拍手が響いた。
「実に、面白い見世物です」
メイシアの目に涙が滲む。それが砂に依るものか、たかが食客の身の〈蝿〉に弄ばれているという悔しさ故か、彼女自身も判然としない。
「〈蝿〉! あなたには主人に対する礼はないのですか!?」
両腕で大刀を掲げたまま、泥まみれの頬を伝う、その涙を拭うことのできぬ屈辱の中で、〈蝿〉をきっ、と睨みつけ、メイシアは毅然と言い放った。
「……貴族の小娘。あなたは、人を殺めるとはどういうことか、分かっていますか?」
「え……?」
「肉を斬り裂く、あの固くて柔らかい感触。脳を揺さぶる、むせ返るような血の匂い。その人間の生涯を、自分の手で握り潰す、あの瞬間――」
畳み掛けるような言葉に、メイシアの顔が青ざめていく。
「……あなたに、できますか?」
メイシアの額から脂汗が流れた。どくどくと脈打つ心臓の音が聞こえてくる。それは彼女自身のものか、生命を脅かされているタオロンのものか、あるいは負傷しているルイフォンのものなのか……。
メイシアの全身が震えた。けれど、大刀の柄を握る手にだけは、よりいっそうの力を込める。
「できます!」
「では、やってみてください」
〈蝿〉が、そう言い、挑発的に口角を上げた。
メイシアは目線をタオロンに落とした。
浅黒く光る、筋骨隆々とした立派な体躯。その太い腕は、彼女などあっという間に絞め殺すことが可能だろう。
だが、彼は今、薬で動くことはできず、無防備な体を彼女に晒している。
本当に殺す必要はないのだ――と、メイシアは自分に言い聞かせた。少し傷をつけるだけ、と。
これは駆け引き。いざとなれば、メイシアはタオロンを殺害することも厭わないのだと、〈蝿〉に信じさせるための示威行動。
深い傷にする必要はない。ほんの少し、首筋を軽くかする程度のところに刀を落とし、脅しをかければいい……。
激しい呼吸に胸が上下する。
メイシアは、柄を握る両手に力を込め、一気に振り下ろす――!
「や、めろっ……!」
その瞬間、かすれたような野太い声が、確かに響いた。
驚いたメイシアは、思わず肩をびくつかせたが、重力加速度の勢いを得た大刀は止まらない。研ぎ澄まされた刃は、主たるタオロンの浅黒い皮膚を滑らかに斬り裂き、乾いた地面に突き刺さって土塊を跳ね上げた。わずかに遅れて、深紅色の飛沫が散る。
「――――!」
メイシアは目を見開き、声にならない悲鳴を上げた。
動けないはずのタオロンが、動いた。
首筋をかすめるはずが、肩口をしっかりと捉えていた。
柄から両手に伝わってきた肉を斬る感触が恐ろしく、そして、おぞましかった。あまりの恐怖に彼女は膝から崩れ落ち、大刀を取り落とす。
タオロンの上腕から、どくどくと血が流れていた。血溜まりがメイシアに襲いかかるかのように近づいてきて、彼女は悲鳴を上げながら後ずさる。
「くっ……。藤、咲……、よく、も……」
呂律の回らぬタオロンが、後ろ手に縛られたまま、地面でもぞもぞと動き、メイシアに向かってくる。あとには赤い軌跡が残り、そのたびに彼は太い眉をしかめた。
「もう、動けるんですか。化物並みの回復力ですね」
〈蝿〉が、皮肉たっぷりに感嘆の溜め息を漏らす。タオロンは、ぎろりと眼球を動かして怒りを示すと、再び蒼白な顔をしたメイシアを目線で捕らえた。
「……っ!」
タオロンの、かっと見開かれた黒い目を正面から見た瞬間、メイシアの体は彼の怒気に鷲掴みにされ、動けなくなった。
歪んだ太い眉、苦痛に引きつる頬……。そして、腕を彩る血糊の鮮やかさ――。
苦痛を与えれば、怒りと憎しみが返ってくる。当然の図式に気づきもしないで、自分の内部の生理的嫌悪にしか心が向いていなかった。愚かで自己中心的な自分こそが、おぞましい存在なのだと彼女は悟った。
生まれて初めて、他人に傷を負わせた。皮を破り、肉を裂き、血を吹き出させた。
それは、耐え難い痛みだろう。
相手もまた、同じだけの報復を望むに違いない……。
自らの両手が犯した罪の重さが、掌の上だけでは収まりきれず、指の間からこぼれ落ちて止まらない――そんな錯覚をメイシアは覚える。
「すみ、ません……」
自然と、言葉が漏れた。
タオロンの命を駆け引きの駒にした。彼の生命を脅かし、恐怖を与えた。それが善か悪かと問われれば、今までの彼女の人生からは、悪だという答えしか導き出せない。
だから、決してやってはいけなかったこと――……?
メイシアの澄み渡った湖面のような瞳から、透明な涙が流れた。口元は、嗚咽を漏らさぬよう、強い意志の力で結ばれている。
「藤、咲……?」
彼女に向かって、罵声を浴びせようとしていたタオロンは、突然のことに狼狽した。無骨な彼は女の涙に弱かった。
「けれど、……たとえ、あなたに恨まれても……」
細い声が響く。
「……それがどんなに罪でも、私は何度でも同じことを……します。――ルイフォンのために……!」
結果も伴わなかった。まったくの無意味だった。
けれど、この行動に……。
――後悔はない……!
メイシアは、タオロンの黒い瞳を臆することなく見返した。
「お前……」
今にも壊れそうな、華奢な泥まみれの少女に毅然と言い放たれ、タオロンは毒気を抜かれたように、ぽかんと口を開けた。
彼女が言っていることは自分本位で、彼にとっては許しがたいことである。けれど、彼女の一途な気持ちは、むしろ彼には清々しくさえ思えた。立場的には敵対せざるを得ないが、心情的には近いものを感じたのだ。
「……貴族の小娘というのは、面白いですね。何を言い出すか、見当もつきません」
「〈蝿〉……!」
タオロンは体を巡らし、怒りの矛先を変えた。
「ずっと、聞いていた、ぞ」
刈り上げた短髪を〈蝿〉に向け、メイシアに向けていた分の怒りも上乗せして、タオロンは憤りをたぎらせる。
「それは、そうでしょうね。クラーレは神経毒。意識は、はっきりしていたはずです」
「おまっ……」
「何が言いたいのですか? 小娘に頭を下げて、あなたを助けるべきだったとでも?」
〈蝿〉は、ぷっと吹き出した。白髪頭を揺らし、口元に手を当てて嗤う。
「あり得ませんね。あなたは襲撃に失敗した挙句、非力な子猫に縛り上げられた、愚かなクズです。斑目の一族でもない私が、助けてやる義理はないでしょう?」
「お前の、助けなんて、期待してねぇよ! けど、よ。藤咲、メイシア、煽ったろ!? 俺を襲わせて、何、考えて、やが……る」
怒号を上げて荒れ狂うタオロン。しかし、〈蝿〉は彼のことは相手にせず、ずっといたぶり続けている小さなか弱き小鳥に声をかけた。
「貴族のお嬢ちゃん。あなたは、致命的な勘違いをしていたんですよ。食客が主人の一族に従うべき? そんな決まりはないのです。身分に守られてきたあなたには、理解できないかもしれませんがね?」
〈蝿〉はおもむろに、足元に横たわるルイフォンの襟首を掴んだ。そのまま無造作に彼を引きずりながら、メイシアのほうへと向かう。
人をひとり引きずっているとは思えないような足取り。相変わらず足音はなく、ルイフォンの体が地面と擦れる音だけが響く。
彼女から数歩離れた位置まで来ると、〈蝿〉は、ルイフォンの襟首から手を放した。どさり、と重みのある音を立て、支えを失ったルイフォンの上半身が砂を巻き上げる。彼の口から、苦しげな呻きが漏れた。
「ルイフォン!」
メイシアは叫び、這うようにして彼の元へ寄ろうとした。
その鼻先を、ざらりとした砂粒が遮る。今まで音を立てなかった〈蝿〉の靴先が地を鳴らし、彼女の行く手を阻んだ。
憎悪の視線で、メイシアは〈蝿〉を見上げると、彼は嬉しそうに嗤った。
「いい顔ですね。惨めな弱者の顔です」
「……っ」
「あなたは私を侮辱した――これでも私、怒っているんですよ」
そう言って、〈蝿〉は地面に横たわるルイフォンの腹を踏みつけた。ルイフォンは激痛に、声にならない声を上げる。
「ルイフォン!!」
編んであった髪はすっかりほどけ、癖のある長髪が砂地に広がる。猫のような好奇心溢れた瞳は閉じられ、別人のようなルイフォンの姿に、メイシアは涙を浮かべる。
「あなたに対しては小僧を、小僧に対してはあなたを傷つけるのが効果的。そういう関係があって初めて、脅迫というものは成り立つんですよ。少しは勉強になりましたか?」
勝ち誇ったように〈蝿〉が嗤う。真昼の太陽を背にした〈蝿〉の黒い影は、残忍な悪魔そのものだった。
「やめろよ」
太い声が響いた。両手を後ろ手に縛られたまま、憤怒の表情を見せるタオロンがゆっくりと立ち上がった。
怒気を放ち、まるでメイシアを庇うかのように、彼は、彼女と〈蝿〉の間に割って入る。まだ、わずかに麻痺が残るのか、踏みしめた足元は多少おぼつかないが、憤激の言葉は滑らかだった。
「おやおや。斑目のあなたが、鷹刀の味方をするのですか?」
「俺は、胸糞悪ぃことが嫌いなだけだ」
「ほぅ? ではどうするおつもりで?」
タオロンは、くっ、と唇を噛んだ。
「何も考えていませんでしたね。だからあなたはイノシシ坊やなんですよ」
「黙れ……食客風情が!」
「あなたは、斑目の総帥には逆らえない」
「……逆らうわけじゃねぇよ。けど今回、鷹刀ルイフォンは関係ねぇ! …………藤咲メイシアは……俺が一刀のもとに殺す。それでいいだろ!」
赤いバンダナの下の額に皺を寄せ、タオロンが言い切った。
しばし考えこむように押し黙った〈蝿〉だったが、「いいでしょう」と、ゆらりと身を翻す。音もなくタオロンの背後に回り、刀を一閃した。
「……?」
タオロンの狼狽と共に、ぱらり、と青い飾り紐が地面に落ちた。彼の両腕を拘束していた、ルイフォンの髪結いの紐である。
「所詮、私は『食客風情』ですから、あとは斑目のあなたにお任せしましょう。総帥の命によって、罪もなき、か弱き娘を殺すがいい」
〈蝿〉は嗤いながら、タオロンの大刀を拾い上げ、持ち主に放った。
ずしりと重い刀を、タオロンは無言で受け止める。その質量に、傷つけられた右腕の傷口が新たな血を流したが、彼は奥歯をぎりりと噛み締めただけであった。
それを見届けた〈蝿〉は、場所を譲るべく、メイシアの脇を抜ける。その際――すれ違いざまに、彼女にぼそりと漏らした。
「……〈蛇〉とあなたの間で何があったのか、非常に気になるんですけどね。仕方ありません」
「え……?」
メイシアが疑問の声を上げたが、彼はそのまま通りすぎ、高みの見物を決め込むべく、建物の外壁に体を預けた。
「藤咲メイシア……」
タオロンの刈り上げた短髪から、玉の汗が流れる。乾いた風が吹き抜け、熱を奪い、彼の肌を冷やした。
「なんか、さっきと立場が逆になっちまったな」
切なげで真っ直ぐな瞳が、メイシアを捉えていた。赤いバンダナの下の、人の良さそうな小さな黒い瞳。だが、その上にある太い眉は、意志の強さを示している。
「本当はこんなこと、したくねぇ。だが、お前は凶賊と関わっちまったんだ。……嬲り殺されるくらいなら、俺が一太刀で殺ってやる。……せめてもの、慈悲、だ……」
メイシアの全身に戦慄が走った。
砂まみれの地面にへたり込んだまま、彼女は呆然とタオロンを見上げる。
彼の背後に、透き通るような青い空が広がっていた。
大きく羽根を広げた鳥が悠然と蒼天を抜けていく。大空を舞う彼らは、自らの翼で羽ばたかなければならない。その力を持たぬのなら、世界を自由に飛ぶ資格はないのだ。
無力な自分は地に伏すしかないのだろうか――美しくも残酷な外の世界を見上げながら、メイシアの口から言葉が漏れた。
「嫌……」
喉に張り付くような、かすれた声。蒼白な顔には、いつもの聡明な、凛とした輝きを放つメイシアの面影はなかった。それは、空から撃ち落とされた小鳥の、本能のさえずりだった。
しかし、鋼の重さを感じさせぬ動きで、タオロンが大刀を大きく掲げる。
「や、やめ、ろ……!」
身動き取れぬほどに傷めつけられていたルイフォンが、かすれる声を上げ、メイシアの元へ這い寄ろうとする。
「すまねぇ……」
堅い意志をもった太い声で、タオロンが呟く。
そして、天高く掲げたそれを……今まさに振り下ろそうとするその瞬間――。
「俺の個人的見解では、斑目の野郎がその女を手に掛けるのを邪魔すべきではないんだがな」
低く魅惑的な声を奏でながら、その男は颯爽と路地に入ってきた。
メイシアの声が、廃墟の外壁に木霊する。
ひび割れた地面から見上げるルイフォンには、彼女がまるで戦乙女のように見えた。
泥で汚れた頬は紅潮し、擦り切れた服の隙間から覗く膝は血が滲んでいる。けれども、彼女は輝くように美しい。
心が、魂が煌めきに満ちている。それは優しく、温かく、力強く――彼を魅了してやまない。
「さぁ!」
か弱き腕を懸命に振り上げ、彼女は〈蝿〉に撤退を迫った。長い黒髪が風に煽られ、乱れ舞うさまが、彼女の気勢をより一層引き立てた。
従わないのなら、この両手の大刀を、一気に振り下ろしてやる!
この足元に横たわるタオロンの首を、一刀両断にしてやる!
黒曜石の瞳が、そう威嚇した。
〈蝿〉は無機質なサングラスの顔を彼女に向け――何も言わなかった。
ただ無言。沈黙を貫く。
動かぬ〈蝿〉に、メイシアの頬を冷たい汗が流れた。
……彼女の両腕は、ふるふると痙攣していた。
「あなたは斑目の食客です。ならば、斑目の名を持つ彼は、あなたにとって守るべき主人の一族です。退きなさい! そして、二度と私たちの前に姿を現さないでください!」
華奢な体躯に対して、その大刀は鉛のように重たい。
それは〈蝿〉にも一目瞭然だった。
彼は、無謀な貴族の娘の、あまりにも愚かしく滑稽な行為に、わずかながらの敬意を払うつもりで口を閉ざしていたのだが、それでも失笑をこらえ続けることは不可能だった。
抑えきれずに低い笑い声を漏らし、淡々とした侮蔑の言葉を投げつける。
「いつまで、その馬鹿でかい刀を振り上げたままでいられますかね? あなたの細腕では、もってあと数分がせいぜいだと思いますよ」
引きずりながらやっと運んだほどの大刀である。一瞬でも持ち上げられたなら、それは既に奇跡だった。
〈蝿〉の示唆したとおり、メイシアの筋肉は憐れな悲鳴を上げている。それでも、彼女はじっと〈蝿〉を見据え続ける。
非力な貴族の娘である自分が、力技で威嚇するなど馬鹿げていると、メイシアにも分かっていた。待っていれば、鷹刀一族が必ず助けに来てくれることも。
けれど、ルイフォンの危機は今、この瞬間なのだ。どう考えても、助けは間に合わない。ならば、そばに居る自分がなんとかするしかないのだ。
メイシアが一方的に睨みつけること、しばし――。
不意に、強い風が吹いた。砂塵を巻き上げ、彼女の目を傷つけ、大刀の幅広い刀身を嬲っていく。
「あ……」
大刀に振り回されるかのように、メイシアの上半身が大きく傾いた。
「駄目っ!」
もつれる足に踏ん張りをきかせ、彼女は歯を食いしばった。倒れてなるものかと、自らを奮い立て、持ちこたえる。
「ほぅ、貴族の箱入り娘にしては、なかなかやりますね」
〈蝿〉の乾いた拍手が響いた。
「実に、面白い見世物です」
メイシアの目に涙が滲む。それが砂に依るものか、たかが食客の身の〈蝿〉に弄ばれているという悔しさ故か、彼女自身も判然としない。
「〈蝿〉! あなたには主人に対する礼はないのですか!?」
両腕で大刀を掲げたまま、泥まみれの頬を伝う、その涙を拭うことのできぬ屈辱の中で、〈蝿〉をきっ、と睨みつけ、メイシアは毅然と言い放った。
「……貴族の小娘。あなたは、人を殺めるとはどういうことか、分かっていますか?」
「え……?」
「肉を斬り裂く、あの固くて柔らかい感触。脳を揺さぶる、むせ返るような血の匂い。その人間の生涯を、自分の手で握り潰す、あの瞬間――」
畳み掛けるような言葉に、メイシアの顔が青ざめていく。
「……あなたに、できますか?」
メイシアの額から脂汗が流れた。どくどくと脈打つ心臓の音が聞こえてくる。それは彼女自身のものか、生命を脅かされているタオロンのものか、あるいは負傷しているルイフォンのものなのか……。
メイシアの全身が震えた。けれど、大刀の柄を握る手にだけは、よりいっそうの力を込める。
「できます!」
「では、やってみてください」
〈蝿〉が、そう言い、挑発的に口角を上げた。
メイシアは目線をタオロンに落とした。
浅黒く光る、筋骨隆々とした立派な体躯。その太い腕は、彼女などあっという間に絞め殺すことが可能だろう。
だが、彼は今、薬で動くことはできず、無防備な体を彼女に晒している。
本当に殺す必要はないのだ――と、メイシアは自分に言い聞かせた。少し傷をつけるだけ、と。
これは駆け引き。いざとなれば、メイシアはタオロンを殺害することも厭わないのだと、〈蝿〉に信じさせるための示威行動。
深い傷にする必要はない。ほんの少し、首筋を軽くかする程度のところに刀を落とし、脅しをかければいい……。
激しい呼吸に胸が上下する。
メイシアは、柄を握る両手に力を込め、一気に振り下ろす――!
「や、めろっ……!」
その瞬間、かすれたような野太い声が、確かに響いた。
驚いたメイシアは、思わず肩をびくつかせたが、重力加速度の勢いを得た大刀は止まらない。研ぎ澄まされた刃は、主たるタオロンの浅黒い皮膚を滑らかに斬り裂き、乾いた地面に突き刺さって土塊を跳ね上げた。わずかに遅れて、深紅色の飛沫が散る。
「――――!」
メイシアは目を見開き、声にならない悲鳴を上げた。
動けないはずのタオロンが、動いた。
首筋をかすめるはずが、肩口をしっかりと捉えていた。
柄から両手に伝わってきた肉を斬る感触が恐ろしく、そして、おぞましかった。あまりの恐怖に彼女は膝から崩れ落ち、大刀を取り落とす。
タオロンの上腕から、どくどくと血が流れていた。血溜まりがメイシアに襲いかかるかのように近づいてきて、彼女は悲鳴を上げながら後ずさる。
「くっ……。藤、咲……、よく、も……」
呂律の回らぬタオロンが、後ろ手に縛られたまま、地面でもぞもぞと動き、メイシアに向かってくる。あとには赤い軌跡が残り、そのたびに彼は太い眉をしかめた。
「もう、動けるんですか。化物並みの回復力ですね」
〈蝿〉が、皮肉たっぷりに感嘆の溜め息を漏らす。タオロンは、ぎろりと眼球を動かして怒りを示すと、再び蒼白な顔をしたメイシアを目線で捕らえた。
「……っ!」
タオロンの、かっと見開かれた黒い目を正面から見た瞬間、メイシアの体は彼の怒気に鷲掴みにされ、動けなくなった。
歪んだ太い眉、苦痛に引きつる頬……。そして、腕を彩る血糊の鮮やかさ――。
苦痛を与えれば、怒りと憎しみが返ってくる。当然の図式に気づきもしないで、自分の内部の生理的嫌悪にしか心が向いていなかった。愚かで自己中心的な自分こそが、おぞましい存在なのだと彼女は悟った。
生まれて初めて、他人に傷を負わせた。皮を破り、肉を裂き、血を吹き出させた。
それは、耐え難い痛みだろう。
相手もまた、同じだけの報復を望むに違いない……。
自らの両手が犯した罪の重さが、掌の上だけでは収まりきれず、指の間からこぼれ落ちて止まらない――そんな錯覚をメイシアは覚える。
「すみ、ません……」
自然と、言葉が漏れた。
タオロンの命を駆け引きの駒にした。彼の生命を脅かし、恐怖を与えた。それが善か悪かと問われれば、今までの彼女の人生からは、悪だという答えしか導き出せない。
だから、決してやってはいけなかったこと――……?
メイシアの澄み渡った湖面のような瞳から、透明な涙が流れた。口元は、嗚咽を漏らさぬよう、強い意志の力で結ばれている。
「藤、咲……?」
彼女に向かって、罵声を浴びせようとしていたタオロンは、突然のことに狼狽した。無骨な彼は女の涙に弱かった。
「けれど、……たとえ、あなたに恨まれても……」
細い声が響く。
「……それがどんなに罪でも、私は何度でも同じことを……します。――ルイフォンのために……!」
結果も伴わなかった。まったくの無意味だった。
けれど、この行動に……。
――後悔はない……!
メイシアは、タオロンの黒い瞳を臆することなく見返した。
「お前……」
今にも壊れそうな、華奢な泥まみれの少女に毅然と言い放たれ、タオロンは毒気を抜かれたように、ぽかんと口を開けた。
彼女が言っていることは自分本位で、彼にとっては許しがたいことである。けれど、彼女の一途な気持ちは、むしろ彼には清々しくさえ思えた。立場的には敵対せざるを得ないが、心情的には近いものを感じたのだ。
「……貴族の小娘というのは、面白いですね。何を言い出すか、見当もつきません」
「〈蝿〉……!」
タオロンは体を巡らし、怒りの矛先を変えた。
「ずっと、聞いていた、ぞ」
刈り上げた短髪を〈蝿〉に向け、メイシアに向けていた分の怒りも上乗せして、タオロンは憤りをたぎらせる。
「それは、そうでしょうね。クラーレは神経毒。意識は、はっきりしていたはずです」
「おまっ……」
「何が言いたいのですか? 小娘に頭を下げて、あなたを助けるべきだったとでも?」
〈蝿〉は、ぷっと吹き出した。白髪頭を揺らし、口元に手を当てて嗤う。
「あり得ませんね。あなたは襲撃に失敗した挙句、非力な子猫に縛り上げられた、愚かなクズです。斑目の一族でもない私が、助けてやる義理はないでしょう?」
「お前の、助けなんて、期待してねぇよ! けど、よ。藤咲、メイシア、煽ったろ!? 俺を襲わせて、何、考えて、やが……る」
怒号を上げて荒れ狂うタオロン。しかし、〈蝿〉は彼のことは相手にせず、ずっといたぶり続けている小さなか弱き小鳥に声をかけた。
「貴族のお嬢ちゃん。あなたは、致命的な勘違いをしていたんですよ。食客が主人の一族に従うべき? そんな決まりはないのです。身分に守られてきたあなたには、理解できないかもしれませんがね?」
〈蝿〉はおもむろに、足元に横たわるルイフォンの襟首を掴んだ。そのまま無造作に彼を引きずりながら、メイシアのほうへと向かう。
人をひとり引きずっているとは思えないような足取り。相変わらず足音はなく、ルイフォンの体が地面と擦れる音だけが響く。
彼女から数歩離れた位置まで来ると、〈蝿〉は、ルイフォンの襟首から手を放した。どさり、と重みのある音を立て、支えを失ったルイフォンの上半身が砂を巻き上げる。彼の口から、苦しげな呻きが漏れた。
「ルイフォン!」
メイシアは叫び、這うようにして彼の元へ寄ろうとした。
その鼻先を、ざらりとした砂粒が遮る。今まで音を立てなかった〈蝿〉の靴先が地を鳴らし、彼女の行く手を阻んだ。
憎悪の視線で、メイシアは〈蝿〉を見上げると、彼は嬉しそうに嗤った。
「いい顔ですね。惨めな弱者の顔です」
「……っ」
「あなたは私を侮辱した――これでも私、怒っているんですよ」
そう言って、〈蝿〉は地面に横たわるルイフォンの腹を踏みつけた。ルイフォンは激痛に、声にならない声を上げる。
「ルイフォン!!」
編んであった髪はすっかりほどけ、癖のある長髪が砂地に広がる。猫のような好奇心溢れた瞳は閉じられ、別人のようなルイフォンの姿に、メイシアは涙を浮かべる。
「あなたに対しては小僧を、小僧に対してはあなたを傷つけるのが効果的。そういう関係があって初めて、脅迫というものは成り立つんですよ。少しは勉強になりましたか?」
勝ち誇ったように〈蝿〉が嗤う。真昼の太陽を背にした〈蝿〉の黒い影は、残忍な悪魔そのものだった。
「やめろよ」
太い声が響いた。両手を後ろ手に縛られたまま、憤怒の表情を見せるタオロンがゆっくりと立ち上がった。
怒気を放ち、まるでメイシアを庇うかのように、彼は、彼女と〈蝿〉の間に割って入る。まだ、わずかに麻痺が残るのか、踏みしめた足元は多少おぼつかないが、憤激の言葉は滑らかだった。
「おやおや。斑目のあなたが、鷹刀の味方をするのですか?」
「俺は、胸糞悪ぃことが嫌いなだけだ」
「ほぅ? ではどうするおつもりで?」
タオロンは、くっ、と唇を噛んだ。
「何も考えていませんでしたね。だからあなたはイノシシ坊やなんですよ」
「黙れ……食客風情が!」
「あなたは、斑目の総帥には逆らえない」
「……逆らうわけじゃねぇよ。けど今回、鷹刀ルイフォンは関係ねぇ! …………藤咲メイシアは……俺が一刀のもとに殺す。それでいいだろ!」
赤いバンダナの下の額に皺を寄せ、タオロンが言い切った。
しばし考えこむように押し黙った〈蝿〉だったが、「いいでしょう」と、ゆらりと身を翻す。音もなくタオロンの背後に回り、刀を一閃した。
「……?」
タオロンの狼狽と共に、ぱらり、と青い飾り紐が地面に落ちた。彼の両腕を拘束していた、ルイフォンの髪結いの紐である。
「所詮、私は『食客風情』ですから、あとは斑目のあなたにお任せしましょう。総帥の命によって、罪もなき、か弱き娘を殺すがいい」
〈蝿〉は嗤いながら、タオロンの大刀を拾い上げ、持ち主に放った。
ずしりと重い刀を、タオロンは無言で受け止める。その質量に、傷つけられた右腕の傷口が新たな血を流したが、彼は奥歯をぎりりと噛み締めただけであった。
それを見届けた〈蝿〉は、場所を譲るべく、メイシアの脇を抜ける。その際――すれ違いざまに、彼女にぼそりと漏らした。
「……〈蛇〉とあなたの間で何があったのか、非常に気になるんですけどね。仕方ありません」
「え……?」
メイシアが疑問の声を上げたが、彼はそのまま通りすぎ、高みの見物を決め込むべく、建物の外壁に体を預けた。
「藤咲メイシア……」
タオロンの刈り上げた短髪から、玉の汗が流れる。乾いた風が吹き抜け、熱を奪い、彼の肌を冷やした。
「なんか、さっきと立場が逆になっちまったな」
切なげで真っ直ぐな瞳が、メイシアを捉えていた。赤いバンダナの下の、人の良さそうな小さな黒い瞳。だが、その上にある太い眉は、意志の強さを示している。
「本当はこんなこと、したくねぇ。だが、お前は凶賊と関わっちまったんだ。……嬲り殺されるくらいなら、俺が一太刀で殺ってやる。……せめてもの、慈悲、だ……」
メイシアの全身に戦慄が走った。
砂まみれの地面にへたり込んだまま、彼女は呆然とタオロンを見上げる。
彼の背後に、透き通るような青い空が広がっていた。
大きく羽根を広げた鳥が悠然と蒼天を抜けていく。大空を舞う彼らは、自らの翼で羽ばたかなければならない。その力を持たぬのなら、世界を自由に飛ぶ資格はないのだ。
無力な自分は地に伏すしかないのだろうか――美しくも残酷な外の世界を見上げながら、メイシアの口から言葉が漏れた。
「嫌……」
喉に張り付くような、かすれた声。蒼白な顔には、いつもの聡明な、凛とした輝きを放つメイシアの面影はなかった。それは、空から撃ち落とされた小鳥の、本能のさえずりだった。
しかし、鋼の重さを感じさせぬ動きで、タオロンが大刀を大きく掲げる。
「や、やめ、ろ……!」
身動き取れぬほどに傷めつけられていたルイフォンが、かすれる声を上げ、メイシアの元へ這い寄ろうとする。
「すまねぇ……」
堅い意志をもった太い声で、タオロンが呟く。
そして、天高く掲げたそれを……今まさに振り下ろそうとするその瞬間――。
「俺の個人的見解では、斑目の野郎がその女を手に掛けるのを邪魔すべきではないんだがな」
低く魅惑的な声を奏でながら、その男は颯爽と路地に入ってきた。