残酷な描写あり
雫の花束
その日は母様の誕生日だった。
だから僕は、朝食のあと、こっそり庭に抜け出して花を摘んだ。
控えめで可愛らしい、純白のマーガレット。素朴な花は、母様にぴったりの贈り物だと思った。
僕は、できるだけ綺麗な花を集めて、両手いっぱいの花束にした。五歳の僕の掌なんて、たいした大きさではなかったのだろうけれど、朝露を跳ね返す花々は輝いて見えた。
僕は意気揚々と母様の部屋に向かった。
母様はメイドたちの手によって、『絹の貴婦人』に仕立て上げられていた。たっぷりのドレープがあしらわれた、美しい絹地の豪奢なドレスは、今日のパーティのために誂えられたものだ。
小柄な母様には似合わない裾の長いデザイン。野暮ったさすら感じる前時代的なライン。
それでも親族たちは、この伝統的な形式を守ろうとする。我が藤咲家が『絹の家』であることを、広く国中の貴族たちに知らしめるために、当主の奥方の誕生日を口実に盛大なパーティを開く。それを、強要する。
そして、毎度のように「前の奥様ならば、ドレスが霞むほどに美しかったでしょうに」と陰口を叩くのだ。
正装した父様も、母様の部屋に来ていた。不安に震える母様の手を、そっと握っている。平民出身の母様にとって、貴族のパーティなど責め苦にしかならない。
――勿論、そんなことはすべて、後に知ったことだ。
五歳の僕は、今日はパーティで忙しいということしか分かっていなかった。だから、今しかない、と。
「母様! お誕生日おめでとう!」
僕は花束を持って母様に駆け寄った。
輝くマーガレットを目にした瞬間、母様が少女のように頬を染める。
「素敵……! ありがとう!」
母様は、両手で大切そうに花束を受け取った。白く朝日を跳ね返す花びらが、彼女の顔を明るく照らす。
隣に立っていた父様が、花束の中から、ひときわ大きな一輪を抜き取った。そして、それを母様の髪に挿す。借り着に身を包まれたように、ぎこちなかった母様の姿が、一気に華やいだ。
「君に、よく似合うよ。綺麗だ」
「え、ええ? そ、そうかしら?」
照れて慌てふためく母様は、子供の僕から見ても可愛らしかった。今から考えれば、母様は当時まだ二十歳半ば過ぎだったのだから、当然といえば当然だった。
そんな母様の前に、年配のメイド頭がすっと割って入る。
「旦那様、奥様。髪飾りはこちらのものを既にご用意しております」
「あ……」
母様がうつむく。
「それは、この前、陛下から賜ったものだね……」
父様が呟く。
貴族を飾るものは、野の花ではなく、輝石の付いた宝飾品でなければならない。
と、そのとき、後ろに控えていた若いメイドが悲鳴を上げた。
「ハ、ハオリュウ様!」
彼女は僕の足元を指差していた。
僕の足は、母様の長いドレスの裾を踏んでいた。僕の靴は、朝露で柔らかくなった庭の土を踏みしめ、泥だらけになっていた。
蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
メイドたちは慌てふためき、父様と母様は、おろおろするばかり。
そんな中、あろうことか親族の中でも一番口うるさい大叔父が到着し、なんの騒ぎだと乗り込んできた。
「この、平民が!」
状況を理解した大叔父が、手を振り上げた。僕にはそれが見えていた。だけど、怖くて動くことができなかった。
ぶんと、空気が震える気配。
――そのとき、僕の目の前を風がよぎった。
人間の肉を叩く音が、高く鳴り響く。
軽やかな絹のショールが、まるで妖精の羽のように、ふわりと広がり、飛んでいった。
――――!
その場にいたすべての者が凍りついた。
「ね、姉様――!」
床に倒れ込んだ姉様の頬は真っ赤に腫れあがり、瞳は涙で光っていた。姉様は脅えた目で大叔父を見上げていた。けれど、僕が駆け寄ると、僕を大叔父から庇うように背中に隠した。
大叔父は、自分は悪くないと、わめき散らした。躾がなってないと、父様と母様をなじり、これだから平民は、と貶める。父様と母様は萎縮し、恐縮して、嵐が過ぎるのを黙って耐えていた。――当主は父様なのに。
貴族の品位を疑われるようなことは避けるように、などという、二、三の捨て台詞を残し、大叔父は去った。父様は姉様のために医師を呼びつけ、母様とメイドたちはドレスをなんとかするべく奔走した。
僕は泣いていた。「ごめんなさい」を繰り返し言いながら、泣きじゃくっていた。誰に対して「ごめんなさい」なのかは分からない。でも、とにかく謝らなくてはいけないという思いでいっぱいだった。
「ハオリュウ」
不意に、柔らかな感触に、ぎゅっと包まれた。
「ハオリュウは優しい子ね」
鈴を振るような透き通った声。姉様だ。
「ハオリュウはお母様のために一生懸命だった。偉いのよ」
どうして、姉様は僕を褒めるのだろう?
一瞬、涙が止まり、僕は姉様を見上げる。
「誰よりも先に、お母様にプレゼントを渡したかったんでしょう? ハオリュウは、とっても頑張ったの」
「姉様……」
胸が苦しくなった。
再び、僕の瞳に涙が盛り上がり、溢れ出した。僕の心の中から噴き出るような涙は、堰を切ったように、あとからあとから流れてきた。
僕は、声もなく泣き続けた。
僕はちゃんと知っていた。今日は忙しい日だって。
朝ごはんを食べたら、パーティの衣装に着替えなければいけなかった。メイドたちが僕を探していた。
でも、僕はこっそり庭に抜け出した。
だって、もたもたしていたら、誰かに一番乗りを取られてしまうから。
「ハオリュウ、泣かないで。ハオリュウは優しい子。大好きよ」
どう取り繕ったって、悪いのは僕だった。大叔父に殴り飛ばされるほどの悪事だったとは思わないけれど、僕のしたことは褒められることではなかった。
なのに姉様は、僕を褒めるのだ。僕の幼い気持ちを認めてくれるのだ。
優しいのは姉様のほうだ。
僕の涙は止まらない。
とても苦しかった。
そして、とても愛しかった。
やがて僕は、僕と姉様の関係が、決して優しいものではないことを知る。
血統からいえば、家督を継ぐにふさわしいのは姉様のほうだ。けれど、世継ぎは原則として男子であるから、僕が跡取りとなる。
自分の息子を姉様の婿とし、実権を握りたがった親族たちに、僕は疎まれた。命の危険を感じたことも、一度や二度ではない。
僕は生まれてくるべきではなかったのだ。
父は、無邪気な子供が、そのまま大人になったような男だ。穏やかで、争いごとが嫌いで、いつまでも夢見がちな少年だった。善良であることに間違いはないけれど、その優しさが残酷な我儘であることに気づかなかった。
平民の母のことなど、相手にすべきではなかったのだ。せめて妻として迎えずに愛人としておけば、彼女はささやかな幸せを手にしただろう。
まったくもって、父は当主に向かない男だった。
当主なんてものは、愛してもいない人と幸せを装うか、愛する人を幸せにできないかのどちらかなのだ。そのどちらもやった父を見て、僕はそう思う。
…………。
僕がいなければ、姉様が家督に呪縛された。親族たちの都合のよい男が、姉様をほしいままにした。
僕の存在が、姉様を解放する。
つまり、僕は愛する姉様を守るために生まれてきたのだ。
「ハオリュウ」
姉様が僕を呼ぶ。
無垢な笑顔で、僕を呼ぶ。
「あなたは優しい子ね」
姉様の瞳の中には、花を摘んでいた五歳の僕がいる。
「姉様」
僕は応える。
「姉様のことは、僕が守るよ」
姉様が幸せになるためなら、僕はなんでもしよう。
花束に輝く朝露の雫は、もう僕の瞳から流れはしないから。
だから僕は、朝食のあと、こっそり庭に抜け出して花を摘んだ。
控えめで可愛らしい、純白のマーガレット。素朴な花は、母様にぴったりの贈り物だと思った。
僕は、できるだけ綺麗な花を集めて、両手いっぱいの花束にした。五歳の僕の掌なんて、たいした大きさではなかったのだろうけれど、朝露を跳ね返す花々は輝いて見えた。
僕は意気揚々と母様の部屋に向かった。
母様はメイドたちの手によって、『絹の貴婦人』に仕立て上げられていた。たっぷりのドレープがあしらわれた、美しい絹地の豪奢なドレスは、今日のパーティのために誂えられたものだ。
小柄な母様には似合わない裾の長いデザイン。野暮ったさすら感じる前時代的なライン。
それでも親族たちは、この伝統的な形式を守ろうとする。我が藤咲家が『絹の家』であることを、広く国中の貴族たちに知らしめるために、当主の奥方の誕生日を口実に盛大なパーティを開く。それを、強要する。
そして、毎度のように「前の奥様ならば、ドレスが霞むほどに美しかったでしょうに」と陰口を叩くのだ。
正装した父様も、母様の部屋に来ていた。不安に震える母様の手を、そっと握っている。平民出身の母様にとって、貴族のパーティなど責め苦にしかならない。
――勿論、そんなことはすべて、後に知ったことだ。
五歳の僕は、今日はパーティで忙しいということしか分かっていなかった。だから、今しかない、と。
「母様! お誕生日おめでとう!」
僕は花束を持って母様に駆け寄った。
輝くマーガレットを目にした瞬間、母様が少女のように頬を染める。
「素敵……! ありがとう!」
母様は、両手で大切そうに花束を受け取った。白く朝日を跳ね返す花びらが、彼女の顔を明るく照らす。
隣に立っていた父様が、花束の中から、ひときわ大きな一輪を抜き取った。そして、それを母様の髪に挿す。借り着に身を包まれたように、ぎこちなかった母様の姿が、一気に華やいだ。
「君に、よく似合うよ。綺麗だ」
「え、ええ? そ、そうかしら?」
照れて慌てふためく母様は、子供の僕から見ても可愛らしかった。今から考えれば、母様は当時まだ二十歳半ば過ぎだったのだから、当然といえば当然だった。
そんな母様の前に、年配のメイド頭がすっと割って入る。
「旦那様、奥様。髪飾りはこちらのものを既にご用意しております」
「あ……」
母様がうつむく。
「それは、この前、陛下から賜ったものだね……」
父様が呟く。
貴族を飾るものは、野の花ではなく、輝石の付いた宝飾品でなければならない。
と、そのとき、後ろに控えていた若いメイドが悲鳴を上げた。
「ハ、ハオリュウ様!」
彼女は僕の足元を指差していた。
僕の足は、母様の長いドレスの裾を踏んでいた。僕の靴は、朝露で柔らかくなった庭の土を踏みしめ、泥だらけになっていた。
蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
メイドたちは慌てふためき、父様と母様は、おろおろするばかり。
そんな中、あろうことか親族の中でも一番口うるさい大叔父が到着し、なんの騒ぎだと乗り込んできた。
「この、平民が!」
状況を理解した大叔父が、手を振り上げた。僕にはそれが見えていた。だけど、怖くて動くことができなかった。
ぶんと、空気が震える気配。
――そのとき、僕の目の前を風がよぎった。
人間の肉を叩く音が、高く鳴り響く。
軽やかな絹のショールが、まるで妖精の羽のように、ふわりと広がり、飛んでいった。
――――!
その場にいたすべての者が凍りついた。
「ね、姉様――!」
床に倒れ込んだ姉様の頬は真っ赤に腫れあがり、瞳は涙で光っていた。姉様は脅えた目で大叔父を見上げていた。けれど、僕が駆け寄ると、僕を大叔父から庇うように背中に隠した。
大叔父は、自分は悪くないと、わめき散らした。躾がなってないと、父様と母様をなじり、これだから平民は、と貶める。父様と母様は萎縮し、恐縮して、嵐が過ぎるのを黙って耐えていた。――当主は父様なのに。
貴族の品位を疑われるようなことは避けるように、などという、二、三の捨て台詞を残し、大叔父は去った。父様は姉様のために医師を呼びつけ、母様とメイドたちはドレスをなんとかするべく奔走した。
僕は泣いていた。「ごめんなさい」を繰り返し言いながら、泣きじゃくっていた。誰に対して「ごめんなさい」なのかは分からない。でも、とにかく謝らなくてはいけないという思いでいっぱいだった。
「ハオリュウ」
不意に、柔らかな感触に、ぎゅっと包まれた。
「ハオリュウは優しい子ね」
鈴を振るような透き通った声。姉様だ。
「ハオリュウはお母様のために一生懸命だった。偉いのよ」
どうして、姉様は僕を褒めるのだろう?
一瞬、涙が止まり、僕は姉様を見上げる。
「誰よりも先に、お母様にプレゼントを渡したかったんでしょう? ハオリュウは、とっても頑張ったの」
「姉様……」
胸が苦しくなった。
再び、僕の瞳に涙が盛り上がり、溢れ出した。僕の心の中から噴き出るような涙は、堰を切ったように、あとからあとから流れてきた。
僕は、声もなく泣き続けた。
僕はちゃんと知っていた。今日は忙しい日だって。
朝ごはんを食べたら、パーティの衣装に着替えなければいけなかった。メイドたちが僕を探していた。
でも、僕はこっそり庭に抜け出した。
だって、もたもたしていたら、誰かに一番乗りを取られてしまうから。
「ハオリュウ、泣かないで。ハオリュウは優しい子。大好きよ」
どう取り繕ったって、悪いのは僕だった。大叔父に殴り飛ばされるほどの悪事だったとは思わないけれど、僕のしたことは褒められることではなかった。
なのに姉様は、僕を褒めるのだ。僕の幼い気持ちを認めてくれるのだ。
優しいのは姉様のほうだ。
僕の涙は止まらない。
とても苦しかった。
そして、とても愛しかった。
やがて僕は、僕と姉様の関係が、決して優しいものではないことを知る。
血統からいえば、家督を継ぐにふさわしいのは姉様のほうだ。けれど、世継ぎは原則として男子であるから、僕が跡取りとなる。
自分の息子を姉様の婿とし、実権を握りたがった親族たちに、僕は疎まれた。命の危険を感じたことも、一度や二度ではない。
僕は生まれてくるべきではなかったのだ。
父は、無邪気な子供が、そのまま大人になったような男だ。穏やかで、争いごとが嫌いで、いつまでも夢見がちな少年だった。善良であることに間違いはないけれど、その優しさが残酷な我儘であることに気づかなかった。
平民の母のことなど、相手にすべきではなかったのだ。せめて妻として迎えずに愛人としておけば、彼女はささやかな幸せを手にしただろう。
まったくもって、父は当主に向かない男だった。
当主なんてものは、愛してもいない人と幸せを装うか、愛する人を幸せにできないかのどちらかなのだ。そのどちらもやった父を見て、僕はそう思う。
…………。
僕がいなければ、姉様が家督に呪縛された。親族たちの都合のよい男が、姉様をほしいままにした。
僕の存在が、姉様を解放する。
つまり、僕は愛する姉様を守るために生まれてきたのだ。
「ハオリュウ」
姉様が僕を呼ぶ。
無垢な笑顔で、僕を呼ぶ。
「あなたは優しい子ね」
姉様の瞳の中には、花を摘んでいた五歳の僕がいる。
「姉様」
僕は応える。
「姉様のことは、僕が守るよ」
姉様が幸せになるためなら、僕はなんでもしよう。
花束に輝く朝露の雫は、もう僕の瞳から流れはしないから。