残酷な描写あり
1.桜花の告白ー3
蒼天から、はらり、はらりと桜の花びらが舞い降りた。
舞台は、よりいっそう華やかに彩られ、青芝生の客席の者たちは、貴族令嬢の話が始まるのを固唾を呑んで見守っている。
メイシアは、傍らのルイフォンを見上げた。
「ルイフォン……」
薄紅色の唇が彼を呼んだ。
じっと見つめてくる黒曜石の瞳には、不安の色が見え隠れしている。彼女の手は、彼の手に触れそうで触れないところをうろついていた。
ルイフォンは、その指先を絡め取ろうとして、思いとどまる。
彼女が貴族の娘として警察隊に対峙した以上、凶賊の彼と馴れ合うのはまずかろう。彼女の聡明な頭脳から生み出された策が、どのようなものかは分からぬが、邪魔するような行動は慎むべきだ。
すぐそばにいて、触れてはならないもどかしさ。本当は、彼女の華奢な手を片手で捕まえて抱き寄せ、もう一方の手で彼女の黒髪をくしゃりと撫でたい……。
そんな彼の代わりに、春風が彼女の髪をふわりと揺らしていった。
――不意に、メイシアが体ごと、ルイフォンに向き直った。
「……?」
疑問に眉を寄せた彼をよそに、彼女の両手が彼の顔へと伸ばされた。
彼女の手は彼の頬をかすめ、彼の癖のある前髪に指先が触れる。更に、彼女は爪先立ちになりながら、彼の頭の上に白い手を載せた。
髪に落ちてきた花びらでも、払おうとしているのだろうか……?
ルイフォンはそう思ったが、すぐに否定した。
彼は今まで、幾度となく彼女に触れてきた。しかし、彼女のほうから彼に触れたことなど一度もない。いや、あったかもしれないが、記憶にない。
――という、問題ではなくて、今は警察隊に囲まれている状況だ。この行為になんの意味が……?
困惑するルイフォンの頭を、メイシアの両手が、ぐいっと引き下げた。
「え……?」
目前に、彼女の顔があった。
瞬きする間すら与えられないうちに、彼女の薄紅色の唇が近づいてきて、彼のそれと重ね合わされる。
ふわりとした柔らかな感触。
――その清楚さと同時に、唇のわずかな隙間から漏れ出した吐息が、しっとりした艶めかしさを伝えてきた。
ルイフォンの心臓が大きく高鳴る。
いつもは細い猫の目が、彼女でいっぱいになっていた。
頭上にあったメイシアの手が、そろそろと降りてきて、ルイフォンの背中を捕まえた。ぎゅっと力の入った指先が、彼のシャツに無数の皺を刻んでいく。その温かく湿った感触が、小刻みに震えていた。
いつもの彼女らしいところを見つけ、彼は安堵する。そして、彼もまた彼女の背に手を回し、力強く抱きしめた。
どっ……と、その場が沸いた。
貴族令嬢のまさかの行動に、誰もが驚きを禁じ得なかった。
この舞台を設けた立役者、先ほど命の危険を顧みずに、この両者を守り抜いた猛者リュイセンは、腰を抜かしかけた。
動揺を隠しきれない警察隊の騒ぎ声に、ルイフォンの男前ぶりを囃し立てる凶賊の野次が混じる。
メイシアがルイフォンの背に回した手を外した。
彼女がすっと正面を向くと、ざわめきの波が徐々に引いていく。皆が彼女の次の言葉に注目していた。
彼女は、長い黒髪が地面に付かんばかりに、深々と一礼をする。
そして、玲々とした声を響かせた。
「私は、この方を――鷹刀ルイフォンを愛しています……!」
あたりが、しん……と、静まり返った。
「けれど、私は貴族、彼は凶賊。私たちの仲が許されるわけがありません。私の想いを知った父は、私に内緒で縁談をまとめてしまいました……」
ルイフォンはメイシアの震える肩をそっと抱いた。
「私はたまらず、家を飛び出しました。そして、ルイフォンのもとへ……。これは、誘拐などではありません。私は、私の意志でここにいます!」
「いやぁ……。はっはっは……」
桜の大木が枝を伸ばした先にある部屋のひとつ――執務室にて、イーレオが涙を浮かべながら腹を抱えていた。
その隣では、警察隊の指揮官が、顔を歪めて唇を噛んだまま、拳を震わせている。
これで警察隊は鷹刀一族に手を出せなくなった。メイシアに逆らうも同然だからだ。警察隊に有無を言わせぬだけの権力が、貴族にはある。
「若いって、いいですねぇ」
イーレオは指揮官の肩を、ぽんと叩いた。
「貴様……」
「ああ、あの果報者が、私の末の息子です」
そう言って、イーレオは桜に祝福されたかのような、ふたりを見下ろす。
『価値』を試してほしいと言った少女が、いったい、どんな策を弄するのかと思えば……。
思い切った見事な芝居に、イーレオは愉快でならなかった。
矛盾はなく、鷹刀一族も、警察隊も、実家の藤咲家も、誰の顔をも立てて丸く収める妙案。――ただし、彼女の貴族としての名誉を引き換えに。
いくら箝口令を敷いたところで、人の口に戸は立てられぬ。貴族の娘が凶賊の男と恋仲だという醜聞は、尾ひれをつけて広まるだろう。
その意味をルイフォンは分かっていないだろうが、メイシアは理解しているはずだ。
――あの娘は本当に俺を魅了してくれる。
上機嫌で笑いながらも、イーレオは瞳に冷静な色を宿す。
警察隊は『誘拐の容疑』という大義名分を失った。これで王手か、それとも……。
「イーレオ様!」
傍に控えていたチャオラウが、小声ながらも鋭く口走った。
その次の瞬間だった。指揮官が窓に駆け寄り、身を乗り出した。
「嘘だっ……!」
指揮官は叫んだ。
貴族の娘は、騙されて、この屋敷にやってきた。斑目一族が、そう仕組んだことを指揮官は知っている。
「お前ら、騙されるな! メイシア嬢は脅されているだけだ!」
汚らしく唾を飛ばし、肺の中の空気を全部使って、指揮官は大声でわめき散らす。
「そうでなければ、貴族の令嬢が、そんな破廉恥な真似をするわけがない!」
こめかみには青筋が立ち、全力で走ってきたかのように、ぜえぜえと肩で息をしていた。
彼の頭の中は、恐怖で埋め尽くされていた。
彼は言われた通りに行動していた。彼自身にはなんの落ち度もなかった。計画通りに進まないのは、斑目一族の目算が甘かったからだ。
けれど――と、彼は思う。凶賊の斑目一族が非を認めるだろうか。
答えは否、だ。
お前のせいだ、と言ってくるに違いない――!
彼は追い詰められていた。なんとしてでも、鷹刀一族を悪者に仕立て上げなければならぬと思った。さもなくば、どうなるか……。
「警察隊員に告げる! メイシア嬢を救え! 連中を確保しろ!」
警察隊員たちにとって、その声は、突然、頭上から冷水を掛けられたようなものだった。
彼らは驚き、声の方角を見上げる。
そこに彼らの指揮官がいた。総帥鷹刀イーレオの元へ案内しろと怒鳴り散らし、姿を消したきりになっていた上官が、屋敷の上階の窓から身を乗り出していた。
指揮官の言葉に、警察隊員たちは桜の舞台のふたりに厳しい目を向けた。
穢れを知らぬ、可憐な桜の精のような美しい貴族の少女と、大華王国一の凶賊に属する少年の組み合わせ。天と地とが手を繋ぎ合うようなことがありうるのだろうか――。
彼らの指揮官は、決して人望のある人物ではなかった。しかし、今の叫び声には真実味があった。
高貴な娘を救え、という言葉も、彼らの正義感を大いに刺激した。
場の空気が一気に緊張に包まれたのを、ルイフォンは感じた。
メイシアにここまでやらせておいて、元の木阿弥にするわけにはいかない。この場をどう切り抜けるか。
彼は、彼女の肩に回した手に力を込めた。
そのとき――。
「騒ぐな! 無礼者ども!」
半音がかすれたような、ハスキーボイスが鋭く響き渡った。
屋敷の窓のひとつが勢いよく開かれ、反動で壁に打ち付けられた窓硝子が悲鳴を上げた。
バルコニーの上で、仕立ての良いスーツに身を包んだ少年が、荒い息を吐いていた。
「何者だ……?」
あたりがざわめく。
少年の後ろから緋色の衣服を纏った美女が慌てて飛び出してきて、彼を守るように前に出た。少年は、そんな美女に首を振った。彼女を押しのけて再び前に出ると、皆に向かって左手の甲を見せる。その指には、金色の指輪が嵌められていた。
遠くから子細は分からなくても、その仕草から家紋の入った当主の指輪に違いなかった。まだ細い少年の指には不釣り合いだったが、それは陽光を跳ね返して、燦然と輝いていた。――その指輪は、彼らの父が密かに家を出たときに、自室に残していったものだった。
「ハオリュウさん、危険です。警察隊の中に、斑目の者が混じっている可能性があります」
声を潜めたミンウェイの声は、当然のことながら庭には届かなかったが、それを聞き取れたはずのハオリュウは、彼女の弁を無視して叫んだ。
「僕は、藤咲ハオリュウ! 貴族の藤咲家の者です。父の代理として、ここに来ました!」
ルイフォンは、傍らに立つメイシアの口が「ハオリュウ……」と漏らすのを聞いた。
やっとその目で直接、無事を確認できた異母弟。名前を呟くだけで精いっぱいで、それ以上の言葉はない。彼女の黒曜石の瞳に涙が浮かび上がり、煌めきに満ちる。
そんな彼女の黒髪を、ルイフォンはくしゃりと撫でた。「よかったな」との思いだが、口に出してしまうと陳腐すぎるので、無言だ。
ハオリュウの登場は力強い援軍だった。指輪の後ろ盾を持った貴族は、警察隊に対して絶対の権力を持つ。彼がいれば、この場はうまく収まるだろう。
安堵の溜め息をついたとき、ルイフォンは鋭い視線を感じた。はっと、その方向を見て肌が粟立つ。
ハオリュウだった。
射抜かんばかりの、強い憎悪の念が向けられていた。
味方として現れたはずの彼が何故……と思った瞬間、ルイフォンは、はたと気づいてメイシアに回していた手を離した。
「全員、そのまま待機してください。凶賊の方も。――もし、凶賊の方々が動くようなら、警察隊の方は発砲して構いません」
少年の声に似合わないような冷酷な指示が下される。
「しばらくお待ちください。そちらに参ります」
彼はそう言って踵を返すと、バルコニーから姿を消した。
ほどなくして玄関から現れたハオリュウに、警察隊員たちも凶賊たちも黙って道を開けた。まるで古くからの護衛のようにミンウェイを従えた彼は、再会の感動に打ち震える異母姉とは対照的に、険しい顔をしていた。
「姉様、ご無事で何よりです」
その声は、あまりにも事務的で、電話越しの再会を果たしたときの彼とは別人のようであった。
違和感を覚えたルイフォンは、ちらりとメイシアを見やる。しかし、彼女もまた異母弟の様子に戸惑っているようで、不思議なものでも見ているような顔をしている。
そんな異母姉に、ハオリュウは硬い表情を変えぬまま一歩近づき、小声で囁いた。
「姉様。やっぱり姉様は、この凶賊に脅迫されていて、言いなりになっていただけ、ということにしていい?」
「え?」
メイシアは、涙が盛り上がっていた目を見開いた。
「このままだと、姉様は凶賊と駆け落ち騒動を起こした、ふしだらな娘という汚名を背負って生きていくことになるんだよ?」
そう言いながら、彼はルイフォンに穢らわしいものを見る目を向ける。
「な……!」
反射的にルイフォンは何かを口走りそうになったが、ハオリュウの酷薄な視線がそれを押しとどめた。
「今なら、まだ取り返しが付くんだ……!」
かすれた高い声が、訴える。
まっすぐに異母姉を見て、ハオリュウは、ぐっと拳を握りしめた。その手の指には、無骨な指輪が光っている。家族を守る当主の指輪。子供の彼には重すぎる、それが――。
「姉様、お願い!」
メイシアの息が一瞬、詰まった。
しかし彼女は、自分を見つめる異母弟から目を逸らすようにうつむいた。メイシアの伏せた瞼の隙間から、ひと筋の涙があふれ、白い頬を伝う。
「ごめんなさい、ハオリュウ。私はルイフォンを、鷹刀の人たちを助けたい……」
「分かった……」
ハオリュウは一瞬だけ、泣き笑いのように、くしゃりと顔を歪めた。少なくともルイフォンにはそう見えた。
その次の瞬間、ハオリュウは勢いよくメイシアの手を取り、自分の方に引き寄せた。
「姉様! その男から離れなさい!」
「ハオリュウ!?」
「これ以上、我が藤咲家の家名に泥を塗るような真似は、僕が許しません!」
「えっ……?」
「一時の気の迷いで、このような者にうつつを抜かすとは……! 恥を知ってください!」
ハオリュウは家紋の入った指輪をはめた手で、ルイフォンを鋭く指差す。
その場にいた者たちはハオリュウの指先に操られたかのように、突き刺すような目線をルイフォンに向けた。
当主代理の激しい憎悪は並ではない。ならば、そこにいる凶賊の若者は、貴族令嬢をたぶらかした極悪人に間違いない。
だが……その傍らには、涙を流す美しい少女がいる。
つまり、貴族の少女の言ったことは本当のことなのだ。――警察隊員たちは、暗示にかかったかのように、皆そう思った。
「皆様、お見苦しいところをお見せしました。どうか、このことはご内密に……」
メイシアの手をきつく握ったまま、周りを取り囲む人の輪に向かって、ハオリュウは形ばかりの礼をとる。言葉だけは丁寧であるが、迂闊なことを外部に漏らせば、ただでは済まさぬと言っているのが見て取れた。
「異母姉は無事に保護しましたので、警察隊の方々はお引き取りを。あとのことは、僕と指揮官の方にお任せください」
そう言ってハオリュウは、窓から顔を覗かせている指揮官を見上げた。
舞台は、よりいっそう華やかに彩られ、青芝生の客席の者たちは、貴族令嬢の話が始まるのを固唾を呑んで見守っている。
メイシアは、傍らのルイフォンを見上げた。
「ルイフォン……」
薄紅色の唇が彼を呼んだ。
じっと見つめてくる黒曜石の瞳には、不安の色が見え隠れしている。彼女の手は、彼の手に触れそうで触れないところをうろついていた。
ルイフォンは、その指先を絡め取ろうとして、思いとどまる。
彼女が貴族の娘として警察隊に対峙した以上、凶賊の彼と馴れ合うのはまずかろう。彼女の聡明な頭脳から生み出された策が、どのようなものかは分からぬが、邪魔するような行動は慎むべきだ。
すぐそばにいて、触れてはならないもどかしさ。本当は、彼女の華奢な手を片手で捕まえて抱き寄せ、もう一方の手で彼女の黒髪をくしゃりと撫でたい……。
そんな彼の代わりに、春風が彼女の髪をふわりと揺らしていった。
――不意に、メイシアが体ごと、ルイフォンに向き直った。
「……?」
疑問に眉を寄せた彼をよそに、彼女の両手が彼の顔へと伸ばされた。
彼女の手は彼の頬をかすめ、彼の癖のある前髪に指先が触れる。更に、彼女は爪先立ちになりながら、彼の頭の上に白い手を載せた。
髪に落ちてきた花びらでも、払おうとしているのだろうか……?
ルイフォンはそう思ったが、すぐに否定した。
彼は今まで、幾度となく彼女に触れてきた。しかし、彼女のほうから彼に触れたことなど一度もない。いや、あったかもしれないが、記憶にない。
――という、問題ではなくて、今は警察隊に囲まれている状況だ。この行為になんの意味が……?
困惑するルイフォンの頭を、メイシアの両手が、ぐいっと引き下げた。
「え……?」
目前に、彼女の顔があった。
瞬きする間すら与えられないうちに、彼女の薄紅色の唇が近づいてきて、彼のそれと重ね合わされる。
ふわりとした柔らかな感触。
――その清楚さと同時に、唇のわずかな隙間から漏れ出した吐息が、しっとりした艶めかしさを伝えてきた。
ルイフォンの心臓が大きく高鳴る。
いつもは細い猫の目が、彼女でいっぱいになっていた。
頭上にあったメイシアの手が、そろそろと降りてきて、ルイフォンの背中を捕まえた。ぎゅっと力の入った指先が、彼のシャツに無数の皺を刻んでいく。その温かく湿った感触が、小刻みに震えていた。
いつもの彼女らしいところを見つけ、彼は安堵する。そして、彼もまた彼女の背に手を回し、力強く抱きしめた。
どっ……と、その場が沸いた。
貴族令嬢のまさかの行動に、誰もが驚きを禁じ得なかった。
この舞台を設けた立役者、先ほど命の危険を顧みずに、この両者を守り抜いた猛者リュイセンは、腰を抜かしかけた。
動揺を隠しきれない警察隊の騒ぎ声に、ルイフォンの男前ぶりを囃し立てる凶賊の野次が混じる。
メイシアがルイフォンの背に回した手を外した。
彼女がすっと正面を向くと、ざわめきの波が徐々に引いていく。皆が彼女の次の言葉に注目していた。
彼女は、長い黒髪が地面に付かんばかりに、深々と一礼をする。
そして、玲々とした声を響かせた。
「私は、この方を――鷹刀ルイフォンを愛しています……!」
あたりが、しん……と、静まり返った。
「けれど、私は貴族、彼は凶賊。私たちの仲が許されるわけがありません。私の想いを知った父は、私に内緒で縁談をまとめてしまいました……」
ルイフォンはメイシアの震える肩をそっと抱いた。
「私はたまらず、家を飛び出しました。そして、ルイフォンのもとへ……。これは、誘拐などではありません。私は、私の意志でここにいます!」
「いやぁ……。はっはっは……」
桜の大木が枝を伸ばした先にある部屋のひとつ――執務室にて、イーレオが涙を浮かべながら腹を抱えていた。
その隣では、警察隊の指揮官が、顔を歪めて唇を噛んだまま、拳を震わせている。
これで警察隊は鷹刀一族に手を出せなくなった。メイシアに逆らうも同然だからだ。警察隊に有無を言わせぬだけの権力が、貴族にはある。
「若いって、いいですねぇ」
イーレオは指揮官の肩を、ぽんと叩いた。
「貴様……」
「ああ、あの果報者が、私の末の息子です」
そう言って、イーレオは桜に祝福されたかのような、ふたりを見下ろす。
『価値』を試してほしいと言った少女が、いったい、どんな策を弄するのかと思えば……。
思い切った見事な芝居に、イーレオは愉快でならなかった。
矛盾はなく、鷹刀一族も、警察隊も、実家の藤咲家も、誰の顔をも立てて丸く収める妙案。――ただし、彼女の貴族としての名誉を引き換えに。
いくら箝口令を敷いたところで、人の口に戸は立てられぬ。貴族の娘が凶賊の男と恋仲だという醜聞は、尾ひれをつけて広まるだろう。
その意味をルイフォンは分かっていないだろうが、メイシアは理解しているはずだ。
――あの娘は本当に俺を魅了してくれる。
上機嫌で笑いながらも、イーレオは瞳に冷静な色を宿す。
警察隊は『誘拐の容疑』という大義名分を失った。これで王手か、それとも……。
「イーレオ様!」
傍に控えていたチャオラウが、小声ながらも鋭く口走った。
その次の瞬間だった。指揮官が窓に駆け寄り、身を乗り出した。
「嘘だっ……!」
指揮官は叫んだ。
貴族の娘は、騙されて、この屋敷にやってきた。斑目一族が、そう仕組んだことを指揮官は知っている。
「お前ら、騙されるな! メイシア嬢は脅されているだけだ!」
汚らしく唾を飛ばし、肺の中の空気を全部使って、指揮官は大声でわめき散らす。
「そうでなければ、貴族の令嬢が、そんな破廉恥な真似をするわけがない!」
こめかみには青筋が立ち、全力で走ってきたかのように、ぜえぜえと肩で息をしていた。
彼の頭の中は、恐怖で埋め尽くされていた。
彼は言われた通りに行動していた。彼自身にはなんの落ち度もなかった。計画通りに進まないのは、斑目一族の目算が甘かったからだ。
けれど――と、彼は思う。凶賊の斑目一族が非を認めるだろうか。
答えは否、だ。
お前のせいだ、と言ってくるに違いない――!
彼は追い詰められていた。なんとしてでも、鷹刀一族を悪者に仕立て上げなければならぬと思った。さもなくば、どうなるか……。
「警察隊員に告げる! メイシア嬢を救え! 連中を確保しろ!」
警察隊員たちにとって、その声は、突然、頭上から冷水を掛けられたようなものだった。
彼らは驚き、声の方角を見上げる。
そこに彼らの指揮官がいた。総帥鷹刀イーレオの元へ案内しろと怒鳴り散らし、姿を消したきりになっていた上官が、屋敷の上階の窓から身を乗り出していた。
指揮官の言葉に、警察隊員たちは桜の舞台のふたりに厳しい目を向けた。
穢れを知らぬ、可憐な桜の精のような美しい貴族の少女と、大華王国一の凶賊に属する少年の組み合わせ。天と地とが手を繋ぎ合うようなことがありうるのだろうか――。
彼らの指揮官は、決して人望のある人物ではなかった。しかし、今の叫び声には真実味があった。
高貴な娘を救え、という言葉も、彼らの正義感を大いに刺激した。
場の空気が一気に緊張に包まれたのを、ルイフォンは感じた。
メイシアにここまでやらせておいて、元の木阿弥にするわけにはいかない。この場をどう切り抜けるか。
彼は、彼女の肩に回した手に力を込めた。
そのとき――。
「騒ぐな! 無礼者ども!」
半音がかすれたような、ハスキーボイスが鋭く響き渡った。
屋敷の窓のひとつが勢いよく開かれ、反動で壁に打ち付けられた窓硝子が悲鳴を上げた。
バルコニーの上で、仕立ての良いスーツに身を包んだ少年が、荒い息を吐いていた。
「何者だ……?」
あたりがざわめく。
少年の後ろから緋色の衣服を纏った美女が慌てて飛び出してきて、彼を守るように前に出た。少年は、そんな美女に首を振った。彼女を押しのけて再び前に出ると、皆に向かって左手の甲を見せる。その指には、金色の指輪が嵌められていた。
遠くから子細は分からなくても、その仕草から家紋の入った当主の指輪に違いなかった。まだ細い少年の指には不釣り合いだったが、それは陽光を跳ね返して、燦然と輝いていた。――その指輪は、彼らの父が密かに家を出たときに、自室に残していったものだった。
「ハオリュウさん、危険です。警察隊の中に、斑目の者が混じっている可能性があります」
声を潜めたミンウェイの声は、当然のことながら庭には届かなかったが、それを聞き取れたはずのハオリュウは、彼女の弁を無視して叫んだ。
「僕は、藤咲ハオリュウ! 貴族の藤咲家の者です。父の代理として、ここに来ました!」
ルイフォンは、傍らに立つメイシアの口が「ハオリュウ……」と漏らすのを聞いた。
やっとその目で直接、無事を確認できた異母弟。名前を呟くだけで精いっぱいで、それ以上の言葉はない。彼女の黒曜石の瞳に涙が浮かび上がり、煌めきに満ちる。
そんな彼女の黒髪を、ルイフォンはくしゃりと撫でた。「よかったな」との思いだが、口に出してしまうと陳腐すぎるので、無言だ。
ハオリュウの登場は力強い援軍だった。指輪の後ろ盾を持った貴族は、警察隊に対して絶対の権力を持つ。彼がいれば、この場はうまく収まるだろう。
安堵の溜め息をついたとき、ルイフォンは鋭い視線を感じた。はっと、その方向を見て肌が粟立つ。
ハオリュウだった。
射抜かんばかりの、強い憎悪の念が向けられていた。
味方として現れたはずの彼が何故……と思った瞬間、ルイフォンは、はたと気づいてメイシアに回していた手を離した。
「全員、そのまま待機してください。凶賊の方も。――もし、凶賊の方々が動くようなら、警察隊の方は発砲して構いません」
少年の声に似合わないような冷酷な指示が下される。
「しばらくお待ちください。そちらに参ります」
彼はそう言って踵を返すと、バルコニーから姿を消した。
ほどなくして玄関から現れたハオリュウに、警察隊員たちも凶賊たちも黙って道を開けた。まるで古くからの護衛のようにミンウェイを従えた彼は、再会の感動に打ち震える異母姉とは対照的に、険しい顔をしていた。
「姉様、ご無事で何よりです」
その声は、あまりにも事務的で、電話越しの再会を果たしたときの彼とは別人のようであった。
違和感を覚えたルイフォンは、ちらりとメイシアを見やる。しかし、彼女もまた異母弟の様子に戸惑っているようで、不思議なものでも見ているような顔をしている。
そんな異母姉に、ハオリュウは硬い表情を変えぬまま一歩近づき、小声で囁いた。
「姉様。やっぱり姉様は、この凶賊に脅迫されていて、言いなりになっていただけ、ということにしていい?」
「え?」
メイシアは、涙が盛り上がっていた目を見開いた。
「このままだと、姉様は凶賊と駆け落ち騒動を起こした、ふしだらな娘という汚名を背負って生きていくことになるんだよ?」
そう言いながら、彼はルイフォンに穢らわしいものを見る目を向ける。
「な……!」
反射的にルイフォンは何かを口走りそうになったが、ハオリュウの酷薄な視線がそれを押しとどめた。
「今なら、まだ取り返しが付くんだ……!」
かすれた高い声が、訴える。
まっすぐに異母姉を見て、ハオリュウは、ぐっと拳を握りしめた。その手の指には、無骨な指輪が光っている。家族を守る当主の指輪。子供の彼には重すぎる、それが――。
「姉様、お願い!」
メイシアの息が一瞬、詰まった。
しかし彼女は、自分を見つめる異母弟から目を逸らすようにうつむいた。メイシアの伏せた瞼の隙間から、ひと筋の涙があふれ、白い頬を伝う。
「ごめんなさい、ハオリュウ。私はルイフォンを、鷹刀の人たちを助けたい……」
「分かった……」
ハオリュウは一瞬だけ、泣き笑いのように、くしゃりと顔を歪めた。少なくともルイフォンにはそう見えた。
その次の瞬間、ハオリュウは勢いよくメイシアの手を取り、自分の方に引き寄せた。
「姉様! その男から離れなさい!」
「ハオリュウ!?」
「これ以上、我が藤咲家の家名に泥を塗るような真似は、僕が許しません!」
「えっ……?」
「一時の気の迷いで、このような者にうつつを抜かすとは……! 恥を知ってください!」
ハオリュウは家紋の入った指輪をはめた手で、ルイフォンを鋭く指差す。
その場にいた者たちはハオリュウの指先に操られたかのように、突き刺すような目線をルイフォンに向けた。
当主代理の激しい憎悪は並ではない。ならば、そこにいる凶賊の若者は、貴族令嬢をたぶらかした極悪人に間違いない。
だが……その傍らには、涙を流す美しい少女がいる。
つまり、貴族の少女の言ったことは本当のことなのだ。――警察隊員たちは、暗示にかかったかのように、皆そう思った。
「皆様、お見苦しいところをお見せしました。どうか、このことはご内密に……」
メイシアの手をきつく握ったまま、周りを取り囲む人の輪に向かって、ハオリュウは形ばかりの礼をとる。言葉だけは丁寧であるが、迂闊なことを外部に漏らせば、ただでは済まさぬと言っているのが見て取れた。
「異母姉は無事に保護しましたので、警察隊の方々はお引き取りを。あとのことは、僕と指揮官の方にお任せください」
そう言ってハオリュウは、窓から顔を覗かせている指揮官を見上げた。