残酷な描写あり
2.鉄錆色に潜む影ー2
春風が、桜の大木を揺らす。
はらはらと音を立て、桜吹雪が舞い起こる。
散り乱れる花びらたちの中のひとひらが、仲間からはぐれ、ふわりふわりと執務室の中へと入ってきた。
薄紅色の迷子は、部屋の中をさまよう。そして、あろうことか、うずくまっている指揮官の足元に落ちてしまった。白に近い輝きを放っていたそれは、あっという間にその身を赤黒く染められ光を失ってしまう……。
花びらを染め、絨毯を濡らし、鉄の臭いを撒き散らしている指揮官は、腹部を押さえたまま、じっと動かなかった。脂ぎった額には玉のような汗が次々に流れ出ている。
しかし、誰ひとり、彼に見向きもしない――警察隊の制服を着た大男たちの瞳と銃口は、等しくイーレオを捉えていた。
「チャオラウ」と、イーレオが護衛の名を呼んだ。
「その男を捕まえろ」
無数の銃口に狙われている状況で、イーレオはそう言った。気でも狂ったか、と大男たちが色めきだつ。
だが、言われた護衛のほうも、「御意」と首肯した。
「すまんな」
「いえ」
この場を安全に乗り切る策ならば、ある。
チャオラウが、あえて危険を冒す必要はない。
それは主従ふたり共が承知している。
だがイーレオは、安全な穴蔵でじっとしていられるほど臆病者ではなかったし、いつまでも敵の掌の上で踊り続けてやるほどお人よしでもなかった。
――直情的な斑目一族のやり方とは思えない、今回の複雑な罠。それは、ルイフォンが入手した情報にあった『斑目一族と手を組んだ別の組織』、すなわち〈七つの大罪〉の仕業に違いない。
あの狂った〈悪魔〉たちが何を企んでいるのか、目の前の男なら知っているかもしれない。イーレオは、そう考える。勿論、捕まえたところで、素直に吐くとは思えないが……。
「悪いな。その代わり、俺がお前の盾になってやる」
そう言うと、イーレオはベッドの隙間に隠しておいた刀を引き出した。その柄を握った瞬間、一族を束ねる総帥の顔が、血気盛んな少年のそれになる。
「イーレオ様!?」
「どういう理屈だか知らないが、奴らは俺の身柄をご所望だ。――つまり、奴らは俺を殺すことはできない」
イーレオがベッドを蹴った。
結わえていない長髪が翼のように風を切り、壁に立ち並ぶ大男たちと刀傷の巨漢の間を鋭く分断するように降り立つ。肩に羽織っていた上着だけが、ぽつんとベッドに取り残されていた。
イーレオは大男たちを睥睨すると、わずかに膝を緩め、腰の位置を下げた。
それだけで、その場は、鋭く突き刺さるような冷気を帯びた。少しでも動いたら、目に見えない糸に斬り刻まれる。そんな錯覚すら覚え、男たちは身動きできなくなる。
チャオラウすらも、一瞬、息が詰まった。主人に守ってもらうようでは護衛の面目が丸つぶれだと、不平を鳴らす余地もない。
だが、イーレオの背中は、巨漢に対しては無防備に晒されているのだ。それはチャオラウを信じているからこそ――雑魚は引き受けたから、そちらは頼むと言っている。
「承知いたしました、イーレオ様」
チャオラウが口角と共に、無精髭を引き上げた。彼の瞳が、指揮官を刺した巨漢を捕らえる。闘気がほとばしり、お前の相手は自分だと、無言で宣告した。
「鷹刀イーレオならともかく、護衛は逮捕するまでもありませんね」
巨漢は悠然と言い放ち、手錠を上着のポケットに入れると、代わりに拳銃を取り出した。
と、同時に、チャオラウが疾った。
床を蹴り、大きく飛び出すと同時に、腰に佩いた曲刀が鞘走る。
ぶん、という太く重い唸りを上げ、死神の鎌の如き一閃が繰り出された。
曲刀の自重と、チャオラウの鍛え上げられた筋肉が生み出した、斬るよりも断つための一刀。
巨漢の、大木のような胴が薙ぎ払われる――!
「くっ」という、気合いと呻きの混じった声を上げ、巨漢は、のけ反るようにして後ろに跳んだ。
しかし、避けきれない。
曲刀が巨漢の体を捉えた。チャオラウの腕に、ずしりと確かな負荷がかかる。彼は、足を踏ん張り、勢いを削ぐことなく、腰から全身を回すように腕を振り切った。
「ああ……!」
――という叫びは、巨漢からではなく、イーレオと対峙していた大男たちから上がった。彼らのうちの多くが巨漢の悲惨な末路を予測し、そのうちの半数の者が思わず目を背けた。
だが、現実は違った。
巨漢の体がふたつに分かれることはおろか、血の一滴すらも飛び散ることはなかった。ただ、その巨躯が、まるで人形の如く面白いように吹き飛び、壁に激突した。何かが折れる音が聞こえる。
執務室全体が揺れた。壁に掛けられていた風景画が落ち、桜に面した窓硝子が悲鳴を上げ、シャンデリアを模した洒落た電灯が激しく震え上がる。
イーレオの命は『巨漢の捕縛』――チャオラウは曲刀が巨漢の体に触れる、すんでのところで刀を返し、峰打ちにしたのだ。
そのまま流れるような所作で、チャオラウは、くるりと円を描くように曲刀を振るうと、かちりという鍔鳴りの音を立てて刀を納めた。
ぴくりとも動かぬ巨漢に、いまや観客となっていた大男たちの顔が恐怖に彩られる。
「まさか……」
「あの人が……?」
巨漢は、彼らの立つ壁とは直角に位置するところに打ち付けられた。その顔は下を向いており、意識の有無は確認できない。
そのとき。
チャオラウが、巨漢に向けて枕を投げつけた。イーレオのベッドに載っていたものである。
ほぼ同時に、発砲音――壁に体を預けたままの巨漢。その右腕だけは、まっすぐにチャオラウに向かっており、その手の中の拳銃から煙が立ち上っていた。
執務室の中空で、破裂した枕から白い羽毛が飛び散る。
火薬と布地の焦げた臭いの中に広がる、場違いに幻想的な白さ。そこに目を奪われていた者は、チャオラウの次の行動を見逃し、そのあとに起きたことが、にわかには理解不能だっただろう。
「ぐっ」
巨漢が太い呻きを上げた。
彼の右手にあった拳銃が、どさりと重い音を立てて床に落ちた。
それを握っていたはずの右手は、細長い冷酷な煌めきによって手の甲から掌へと貫かれており、空手であった左手は床に縫い付けられていた。
――チャオラウが両手の袖口に隠し持っていた暗器。不肖の弟子ルイフォンに稽古をつけるときにも使った、小さな刃である。
「頑丈な奴だな」
チャオラウが半ば呆れたように呟く。曲刀の強打に、壁への激突。骨の数本は折れているはずだ。にも関わらず、チャオラウの油断を狙って撃ってきた。
「いえ、この体では、あなたには敵いませんよ」
巨漢が、ゆっくりと顔を上げる。
「でも、気づいていますか? あなたは『警察隊員』に暴行を加えてるんですよ」
巨漢は下劣な笑みを浮かべた。濁った目で顎をしゃくり、挑発的にチャオラウを見上げる。
「そうだ。私は『警察隊員』を相手にしている」
チャオラウは、眉ひとつ動かさない。そして、懐から『拳銃』を取り出した。
「お前が『凶賊』なら、凶賊の義を持って、私の刀の錆にしてやったものを……」
普段、刀の柄を握っているはずの手が、慣れた手つきでスライドを引き、撃鉄を起こした。
「お前など、汚い鉛玉で充分だ」
言うやいなや、チャオラウの拳銃が火を噴いた。
巨漢の右の大腿が正確に撃ち抜かれ、続く二撃目で左腿が血しぶきを上げる。撃たれた瞬間は、さすがに小さな声を漏らしたものの、巨漢は「立派な傷害罪ですね」と、うそぶいた。
四肢を封じられてなお、不気味な笑みを顔に貼り付けたままの巨漢に、チャオラウは神経を尖らせながら近づく。
「そんなに警戒しなくても、何もできはしませんよ」
「……お前、その巨体を活かさぬ動きをしたな」
チャオラウの初撃は、おそらく巨漢には見えていた。だが、鈍重な体では避けきれなかった。もし、あれを躱そうとはせずに受けていれば、あるいはもっと切迫した勝負になったのではないかと、チャオラウは思う。
「何を隠している?」
「さて?」
巨漢の笑みに、チャオラウは、えも言われぬ不快感を覚える。彼の嫌いな卑劣な人種、何を仕掛けてくるか分からぬ輩である。
チャオラウは一息に詰め寄ると、巨漢の喉に腕を回し、瞬時に頸動脈を締めた。
――巨漢は、あえなく失神した。
チャオラウは、巨漢のポケットをまさぐり、手錠を見つけて所有者を拘束した。
イーレオの張りのある魅惑の声が、労いを掛ける。
「ご苦労」
「いえ」
短いやり取り。しかし、彼らにはそれで充分だった。
ルイフォンがメイシアの手を引いて屋敷内に入ると、入り口のところで「遅いぞ」と、低く魅惑的な、けれど冷たさを感じる声が掛かった。
壁に背を預け、ひとりの男が待っていた。軽く腕を組み、感情の読めない目をこちらに向けている。
リュイセンそっくりな美貌。頭に白いものがちらついているが、それすらも渋い大人の魅力にすり替えてしまっている男――次期総帥にしてルイフォンの異母兄、リュイセンの父であるところの鷹刀エルファンである。
彼は群衆に紛れて庭にいたのだが、要領よく抜け出して先回りしたらしい。待ちかねた様子で近づいてきた。
「父上!」
ルイフォンに続いてやってきたリュイセンが叫ぶ。
電話でのやり取りはあったものの、空港で分かれて以来である。お互い、それなりの危険を経てのことであったので、リュイセンの顔に安堵の笑みが浮かんだ。――が、その瞳が父の隣に立つ、警察隊の緋扇シュアンを映した瞬間、がらりと表情が変わった。
「父上、この者は?」
「警察隊の緋扇シュアンだ」
「利用価値を認めたわけですね」
「ああ」
リュイセンが疎ましげな眼光を放つ。対してシュアンは、制帽に押しつぶされたぼさぼさ頭の下から、不快気に三白眼を覗かせた。
ふたりの目線が交錯し、火花を散らす。
リュイセンにしてみれば、ミンウェイに執拗に絡んできた唾棄すべき輩である。シュアンにとっては、図体のでかいお子様が意味もなく偉そうだ、としか思えない。
最後に、ミンウェイに案内されたハオリュウが到着すると、彼はルイフォンの手が異母姉メイシアの手を握っていることに気づき、眉を寄せた。
互いの立場からすると、決して友好的とは言い切れない面々が、現時点では協力関係にあった――。
はらはらと音を立て、桜吹雪が舞い起こる。
散り乱れる花びらたちの中のひとひらが、仲間からはぐれ、ふわりふわりと執務室の中へと入ってきた。
薄紅色の迷子は、部屋の中をさまよう。そして、あろうことか、うずくまっている指揮官の足元に落ちてしまった。白に近い輝きを放っていたそれは、あっという間にその身を赤黒く染められ光を失ってしまう……。
花びらを染め、絨毯を濡らし、鉄の臭いを撒き散らしている指揮官は、腹部を押さえたまま、じっと動かなかった。脂ぎった額には玉のような汗が次々に流れ出ている。
しかし、誰ひとり、彼に見向きもしない――警察隊の制服を着た大男たちの瞳と銃口は、等しくイーレオを捉えていた。
「チャオラウ」と、イーレオが護衛の名を呼んだ。
「その男を捕まえろ」
無数の銃口に狙われている状況で、イーレオはそう言った。気でも狂ったか、と大男たちが色めきだつ。
だが、言われた護衛のほうも、「御意」と首肯した。
「すまんな」
「いえ」
この場を安全に乗り切る策ならば、ある。
チャオラウが、あえて危険を冒す必要はない。
それは主従ふたり共が承知している。
だがイーレオは、安全な穴蔵でじっとしていられるほど臆病者ではなかったし、いつまでも敵の掌の上で踊り続けてやるほどお人よしでもなかった。
――直情的な斑目一族のやり方とは思えない、今回の複雑な罠。それは、ルイフォンが入手した情報にあった『斑目一族と手を組んだ別の組織』、すなわち〈七つの大罪〉の仕業に違いない。
あの狂った〈悪魔〉たちが何を企んでいるのか、目の前の男なら知っているかもしれない。イーレオは、そう考える。勿論、捕まえたところで、素直に吐くとは思えないが……。
「悪いな。その代わり、俺がお前の盾になってやる」
そう言うと、イーレオはベッドの隙間に隠しておいた刀を引き出した。その柄を握った瞬間、一族を束ねる総帥の顔が、血気盛んな少年のそれになる。
「イーレオ様!?」
「どういう理屈だか知らないが、奴らは俺の身柄をご所望だ。――つまり、奴らは俺を殺すことはできない」
イーレオがベッドを蹴った。
結わえていない長髪が翼のように風を切り、壁に立ち並ぶ大男たちと刀傷の巨漢の間を鋭く分断するように降り立つ。肩に羽織っていた上着だけが、ぽつんとベッドに取り残されていた。
イーレオは大男たちを睥睨すると、わずかに膝を緩め、腰の位置を下げた。
それだけで、その場は、鋭く突き刺さるような冷気を帯びた。少しでも動いたら、目に見えない糸に斬り刻まれる。そんな錯覚すら覚え、男たちは身動きできなくなる。
チャオラウすらも、一瞬、息が詰まった。主人に守ってもらうようでは護衛の面目が丸つぶれだと、不平を鳴らす余地もない。
だが、イーレオの背中は、巨漢に対しては無防備に晒されているのだ。それはチャオラウを信じているからこそ――雑魚は引き受けたから、そちらは頼むと言っている。
「承知いたしました、イーレオ様」
チャオラウが口角と共に、無精髭を引き上げた。彼の瞳が、指揮官を刺した巨漢を捕らえる。闘気がほとばしり、お前の相手は自分だと、無言で宣告した。
「鷹刀イーレオならともかく、護衛は逮捕するまでもありませんね」
巨漢は悠然と言い放ち、手錠を上着のポケットに入れると、代わりに拳銃を取り出した。
と、同時に、チャオラウが疾った。
床を蹴り、大きく飛び出すと同時に、腰に佩いた曲刀が鞘走る。
ぶん、という太く重い唸りを上げ、死神の鎌の如き一閃が繰り出された。
曲刀の自重と、チャオラウの鍛え上げられた筋肉が生み出した、斬るよりも断つための一刀。
巨漢の、大木のような胴が薙ぎ払われる――!
「くっ」という、気合いと呻きの混じった声を上げ、巨漢は、のけ反るようにして後ろに跳んだ。
しかし、避けきれない。
曲刀が巨漢の体を捉えた。チャオラウの腕に、ずしりと確かな負荷がかかる。彼は、足を踏ん張り、勢いを削ぐことなく、腰から全身を回すように腕を振り切った。
「ああ……!」
――という叫びは、巨漢からではなく、イーレオと対峙していた大男たちから上がった。彼らのうちの多くが巨漢の悲惨な末路を予測し、そのうちの半数の者が思わず目を背けた。
だが、現実は違った。
巨漢の体がふたつに分かれることはおろか、血の一滴すらも飛び散ることはなかった。ただ、その巨躯が、まるで人形の如く面白いように吹き飛び、壁に激突した。何かが折れる音が聞こえる。
執務室全体が揺れた。壁に掛けられていた風景画が落ち、桜に面した窓硝子が悲鳴を上げ、シャンデリアを模した洒落た電灯が激しく震え上がる。
イーレオの命は『巨漢の捕縛』――チャオラウは曲刀が巨漢の体に触れる、すんでのところで刀を返し、峰打ちにしたのだ。
そのまま流れるような所作で、チャオラウは、くるりと円を描くように曲刀を振るうと、かちりという鍔鳴りの音を立てて刀を納めた。
ぴくりとも動かぬ巨漢に、いまや観客となっていた大男たちの顔が恐怖に彩られる。
「まさか……」
「あの人が……?」
巨漢は、彼らの立つ壁とは直角に位置するところに打ち付けられた。その顔は下を向いており、意識の有無は確認できない。
そのとき。
チャオラウが、巨漢に向けて枕を投げつけた。イーレオのベッドに載っていたものである。
ほぼ同時に、発砲音――壁に体を預けたままの巨漢。その右腕だけは、まっすぐにチャオラウに向かっており、その手の中の拳銃から煙が立ち上っていた。
執務室の中空で、破裂した枕から白い羽毛が飛び散る。
火薬と布地の焦げた臭いの中に広がる、場違いに幻想的な白さ。そこに目を奪われていた者は、チャオラウの次の行動を見逃し、そのあとに起きたことが、にわかには理解不能だっただろう。
「ぐっ」
巨漢が太い呻きを上げた。
彼の右手にあった拳銃が、どさりと重い音を立てて床に落ちた。
それを握っていたはずの右手は、細長い冷酷な煌めきによって手の甲から掌へと貫かれており、空手であった左手は床に縫い付けられていた。
――チャオラウが両手の袖口に隠し持っていた暗器。不肖の弟子ルイフォンに稽古をつけるときにも使った、小さな刃である。
「頑丈な奴だな」
チャオラウが半ば呆れたように呟く。曲刀の強打に、壁への激突。骨の数本は折れているはずだ。にも関わらず、チャオラウの油断を狙って撃ってきた。
「いえ、この体では、あなたには敵いませんよ」
巨漢が、ゆっくりと顔を上げる。
「でも、気づいていますか? あなたは『警察隊員』に暴行を加えてるんですよ」
巨漢は下劣な笑みを浮かべた。濁った目で顎をしゃくり、挑発的にチャオラウを見上げる。
「そうだ。私は『警察隊員』を相手にしている」
チャオラウは、眉ひとつ動かさない。そして、懐から『拳銃』を取り出した。
「お前が『凶賊』なら、凶賊の義を持って、私の刀の錆にしてやったものを……」
普段、刀の柄を握っているはずの手が、慣れた手つきでスライドを引き、撃鉄を起こした。
「お前など、汚い鉛玉で充分だ」
言うやいなや、チャオラウの拳銃が火を噴いた。
巨漢の右の大腿が正確に撃ち抜かれ、続く二撃目で左腿が血しぶきを上げる。撃たれた瞬間は、さすがに小さな声を漏らしたものの、巨漢は「立派な傷害罪ですね」と、うそぶいた。
四肢を封じられてなお、不気味な笑みを顔に貼り付けたままの巨漢に、チャオラウは神経を尖らせながら近づく。
「そんなに警戒しなくても、何もできはしませんよ」
「……お前、その巨体を活かさぬ動きをしたな」
チャオラウの初撃は、おそらく巨漢には見えていた。だが、鈍重な体では避けきれなかった。もし、あれを躱そうとはせずに受けていれば、あるいはもっと切迫した勝負になったのではないかと、チャオラウは思う。
「何を隠している?」
「さて?」
巨漢の笑みに、チャオラウは、えも言われぬ不快感を覚える。彼の嫌いな卑劣な人種、何を仕掛けてくるか分からぬ輩である。
チャオラウは一息に詰め寄ると、巨漢の喉に腕を回し、瞬時に頸動脈を締めた。
――巨漢は、あえなく失神した。
チャオラウは、巨漢のポケットをまさぐり、手錠を見つけて所有者を拘束した。
イーレオの張りのある魅惑の声が、労いを掛ける。
「ご苦労」
「いえ」
短いやり取り。しかし、彼らにはそれで充分だった。
ルイフォンがメイシアの手を引いて屋敷内に入ると、入り口のところで「遅いぞ」と、低く魅惑的な、けれど冷たさを感じる声が掛かった。
壁に背を預け、ひとりの男が待っていた。軽く腕を組み、感情の読めない目をこちらに向けている。
リュイセンそっくりな美貌。頭に白いものがちらついているが、それすらも渋い大人の魅力にすり替えてしまっている男――次期総帥にしてルイフォンの異母兄、リュイセンの父であるところの鷹刀エルファンである。
彼は群衆に紛れて庭にいたのだが、要領よく抜け出して先回りしたらしい。待ちかねた様子で近づいてきた。
「父上!」
ルイフォンに続いてやってきたリュイセンが叫ぶ。
電話でのやり取りはあったものの、空港で分かれて以来である。お互い、それなりの危険を経てのことであったので、リュイセンの顔に安堵の笑みが浮かんだ。――が、その瞳が父の隣に立つ、警察隊の緋扇シュアンを映した瞬間、がらりと表情が変わった。
「父上、この者は?」
「警察隊の緋扇シュアンだ」
「利用価値を認めたわけですね」
「ああ」
リュイセンが疎ましげな眼光を放つ。対してシュアンは、制帽に押しつぶされたぼさぼさ頭の下から、不快気に三白眼を覗かせた。
ふたりの目線が交錯し、火花を散らす。
リュイセンにしてみれば、ミンウェイに執拗に絡んできた唾棄すべき輩である。シュアンにとっては、図体のでかいお子様が意味もなく偉そうだ、としか思えない。
最後に、ミンウェイに案内されたハオリュウが到着すると、彼はルイフォンの手が異母姉メイシアの手を握っていることに気づき、眉を寄せた。
互いの立場からすると、決して友好的とは言い切れない面々が、現時点では協力関係にあった――。