残酷な描写あり
3.冥府の守護者ー3
イーレオの指示で、皆が慌ただしく動き始めた。
そんな中で唯ひとり、ルイフォンだけは動かなかった。
「ルイフォン……?」
メイシアが遠慮がちに声を掛ける。
彼を印象づける、特徴的な猫のような表情が消えていた。鷹刀一族の血を示すような、本来の端正な顔立ちが浮き彫りになる。しかしそれは、彼をただの彫像のように見せる効果しかなかった。
「ルイフォン、お前は医務室に行け」
イーレオの声が飛んできた。
ルイフォンの口元は切れ、乾いた血が固まっていた。何度も打撃を受けた腹部は、見た目はシャツが汚れているだけだが、その下の体はどんなにか痛むことだろう。上着はところどころ擦り切れ、ボタンが飛んでいる。
貧民街からずっと、彼はメイシアを守り抜いてきた。
メイシアは、胸が締め付けられるような思いで、ルイフォンを見つめる。いくら感謝してもしきれない。やっと落ち着いた状況になったのだから、彼には休んでほしいと思う。
しかし、ルイフォンは――。
「ルイフォン、イーレオ様が……」
まるで何も聞こえていないかのようなルイフォンの袖を、メイシアはそっと引いた。そのとき初めて気づいたかのように、彼は、はっと目の焦点を戻す。
「あ、ああ……? 何か言ったか?」
「イーレオ様が医務室に行くようにと」
「あ、ああ」
返事をしつつも、やはりどこか上の空である。
「おい、ルイフォン、また頭が異次元に行っているぞ」
つかつかとリュイセンが寄ってきて、ルイフォンの額を指で弾いた。
「……痛ってぇなぁ」
「お前、見事にぼろぼろだぞ。見苦しい。このあと皆で昼食を摂って作戦会議だ。その前にその格好をなんとかしてこい」
「……分かった」
「付き添わせてください」
退出するルイフォンの猫背に、メイシアは思わず駆け寄った。
メイシアの視界の端に、ハオリュウの顔が映る。警察隊のシュアンと何やら話し込んでいた異母弟は「姉様!」と鋭く口走った。
目で制止をかけてくる異母弟を、彼女は直視することはできなかった。ただ無言で頭を下げ、振り切るようにルイフォンを追いかけた。
口を結んで大股に歩くルイフォンを、メイシアは小走りに追いかける。彼が向かった先は医務室ではなく、彼の自室だった。
閉まりそうになる扉にメイシアは滑り込んだ。入った瞬間に、冷気が彼女を包む。汗ばんでいた体が、ひやりと震えた。
廊下ですら絨毯が敷き詰められたこの屋敷の中で、リノリウム張りのルイフォンの仕事部屋。人間より機械が優先される環境は、昨日来たときと寸分変わっていなかった。
「ルイフォン、傷の手当ては……?」
「平気だ」
車座に並べられた机の上に、幾つもの機械類が載せられている。その輪の中に、ルイフォンは入っていく。
回転椅子に座り、置きっぱなしのOAグラスを無造作に掛けると、無機質な横顔になった。キーボードに指を走らせると次々にモニタが点灯し、彼の姿が青白い光に照らし出される。
彼が何をしようとしているのか。コンピュータに詳しくないメイシアでも分かった。
執務室に突如現れた〈ベロ〉。
ルイフォンが制御できない、存在すらも知らなかった『もの』。
その所在を探しているのだ。
「ルイフォン……」
「なんだ?」
抑揚のないテノールが、メイシアの心臓に突き刺さった。
ルイフォンは今、リュイセンが言うように異次元にいる。ケーブルに囲まれた円陣は、別世界への魔法陣なのだ。
「なんでもありません」
出逢ってから、たった一日。
知らない顔があるのは当然のことだ。
――打ち解けたと思っていたのは、世間知らずの自分のほうだけだった。
ずきりと痛む心臓を抑え、メイシアはそっと後ろに下がった。
彼のことは気になるが、彼女がいても邪魔になるだけだ。それより、部屋に戻って着替えでもしておくべきだろう。
彼女は踵を返した。
「糞っ! どこにあるんだ!?」
突然、強い打鍵の音と共に、ルイフォンが叫んだ。
「何故、俺の命令を無視する!? ふざけんなよ!」
驚いたメイシアが振り返ると、ルイフォンが机に拳を叩きつけていた。解かれたままの髪を振り乱し、血走った目でモニタを睨みつけている。
彼女は顔色を変えた。
彼が機械類を扱うとき、今までは表情豊かな得意げな猫の顔か、機械と一体化したかのような無機質な顔をしていた。両極端のようだけれど、どちらも研ぎ澄まされたような聡明さがあった。
しかし、目の前の彼は、癇癪を起こしている子供であった。
「ルイフォン?」
恐る恐る声を掛けると、集中したときには反応を返さないはずのルイフォンが、こちらを向いた。
「メイシア」
モニタ画面を反射したOAグラスは、青白く半透明に輝いており、その下の彼の表情は窺うことができない。
「あれは現在の技術レベルを超えたものだ。自由に考え、勝手に行動する……!」
まるで弾劾でもするかのように、ルイフォンは言った。そして、戸惑うメイシアに尋ねる。
「お前には、あれが何に見えた?」
「『人工知能』、でしょうか……?」
「そうだろうな。だが、中に人間が入っているような、あんな柔軟な代物は存在しないはずなんだ。俺自身が、ずっと研究してきたから知っている。なのに……」
彼は唇を噛んだ。その拍子に口元の傷が開いてしまったのか、一瞬、顔を歪める。しかし、彼は更に強く唇を噛んだ。メイシアにはそれが自傷行為に見えた。
「俺が制御できない代物の存在を、誰も疑問に思わない。悪意ある侵入の可能性も心配もしない。……これがどれだけ異常なことか……!」
ルイフォンが吐き捨てる。
「……分かっている。あれは母さんが作ったものだ。外部からの侵入なら俺が気づいている。だから、母さんしかあり得ない……」
彼の強く握りしめた拳が、白く震える。
「誰もがあっさり受け入れるのは――あれが、母さんが作ったものだからだ……!」
ひやりとした空気を切り裂いて、響き渡る叫びは、嗚咽だった。
絶対の自信を持っている分野で、児戯だと言われたのだ。
――人ではない、母の遺産に。
うなだれた猫背が哀しい……。
メイシアにとって、〈ベロ〉はまったく未知のものだ。
それでも、彼の様子から〈ベロ〉は、とんでもないもので、制御できなければならないものだということは分かる。
だから、必死になって調べるというのなら、ルイフォンが異次元に行ってしまうのでもよかった。
けれど――。
今の彼は、粉々になった矜持に視界を遮られた、迷子だった。
孤独の輪の中で、自分が迷っていることにも気づかずに、ひとり苦しんでいる。
メイシアの足先が、リノリウムの床に硬い響きを立てた。
彼女は、床を這っているケーブルを越えた。
――魔法陣の結界を破って、彼の聖域へと踏み込んだ。
「ルイフォン……」
メイシアは、うつむいたルイフォンの頭を両腕で包み込んだ。彼女の長い黒髪が、彼の背中を覆い、絡め取る。何処かに流されてしまいそうな彼を捕まえるかのように。
その瞬間。
彼の肩がびくりと震えた。
「なんの真似だ?」
低い、低い声――これ以上、近づくなとの警告の声で、ルイフォンが唸った。
身を逆立てる彼に、彼女の心臓が悲鳴を上げた。
「ご、ごめんなさい」
彼女は彼から、ぱっと離れた。
彼はくるりと背を向けた。そして、回転椅子を滑らせ、少し離れたところのコンピュータと対峙する。
「すまない、メイシア。出ていってくれ」
モニタを見据えたまま、ルイフォンは言った。猫が威嚇をするように、大きく背中が膨れていた。
メイシアの顔から血の気が引いていく――。
「い……、嫌です……!」
「邪魔なんだよ!」
即座に返ってくる拒絶。
彼は叩きつけるように、キーボードに指を走らせた。モニタ上で表示が切り替わったが、目は文字を追っていない。
彼女は、飛び出しそうな心臓を、服の上から、ぎゅっと抑えた。
「す、すみません……でも……」
「糞っ」
動こうとしないメイシアに、苛立ちをあらわにしたルイフォンの悪態が被る。彼は、両手で頭を抱えるようにして机に肘をついた。癖の強い髪を掻きむしり、叫ぶ。
「なんで、分からねぇんだよ!」
かなぐり捨てるようにOAグラスを外し、掌で顔を覆う。
「…………俺がっ、惨めだろうっ!」
張り詰めた冷気が弾け飛ぶように、ルイフォンの言葉が砕け散った。
心の底からの、咆哮――。
「……っ! ――すみません……!」
そっとしておくべきだったのだ。
どんなに心配だったとしても、魔法陣の結界は踏み越えてはいけなかったのだ。
メイシアのしていることは、ただの彼女の我儘に過ぎない……。
「――でもっ!」
細い糸を爪弾くような声が、凛と鳴り響く。
まっすぐに顔を上げたメイシアの頬を、透明な涙がすうっと流れた。
「私はっ、ルイフォンのそばに居たいんです!」
心が強く訴える。
昨日までの彼女だったら、こんな我儘など言わなかった。
思ったままに行動することを、他ならぬルイフォンが教えてくれたのだ。
「はっ、なんだよそれ?」
ルイフォンがくるりと回転椅子を回し、肩をすくめた。嘲りを全面に出した嗤いが、口から漏れる。
メイシアは思わずひるみそうになったが、虚勢の強気で言い返した。
「直感です! 我儘です! だって、ルイフォンが言ってくれたじゃないですか! 私はもっと直感的に生きたほうがいい、って。我儘を言ってもいいって」
「いつ俺がそんなこと言った?」
「シャオリエさんのお店で、です」
「忘れた」
「でも、私は覚えています」
メイシアは言い切った。
OAグラスを外したルイフォンの冷たい視線が、彼女に直接、突き刺さる。
「私は……、私たちが今すべきことは、喜ぶことだと思うんです」
「はぁ?」
彼の声が甲高く嘲った。それでも構わず、彼女は続ける。
「私は、生まれて初めて、本当に死ぬかと思うような目に遭いました」
空調のかすかな雑音の上を、透明な声が抜けていく。ひやりとした空気が、熱くなりかけていたふたりを冷やしていく。
「でも、無事だったんです。ルイフォンのお陰で、無事だったんです。奇跡です。それから私、ルイフォンが本当に死んでしまうかと思っ……」
メイシアの頬を涙の筋が走った。
――いくつも、いくつも……。
埃まみれの顔が、そこだけ奇妙に拭われていくのをメイシアは感じた。
きっと、とんでもなくみっともない顔をしているに違いない。けれども、彼女は涙を止めることができなかった。
「『ありがとう』って言いたい。あなたも私も、皆が無事だったことを、喜びたい。『今、あなたと一緒に』喜びたいんです……!」
硬質なリノリウムの床が、メイシアの叫びを拡散させた。彼女の思いは乱反射して、あちらから、こちらから、ルイフォンを包み込む。
「メイシア……」
ルイフォンが回転椅子の背にもたれ、仰ぐようにメイシアを見上げた。涙でべとつき、汚れた黒髪の張り付いた顔が、何よりも美しく見えた。
戦乙女だ、と彼は思った。
貧民街で、彼が地に伏し〈蝿〉の凶刃にかからんとしていたとき、彼女はタオロンの大刀を掲げて彼を救った。あのとき地面から見上げた彼女の姿もぼろぼろだったけれど、煌めきに満ちた魂が優しく、温かく、力強く――彼を魅了した。
ルイフォンの口元が自然に緩んだ。
下手な気休めを言われたのなら、跳ね返すことができた。
けれど、彼女の言葉は、彼の想像を遥かに超えていた。
「……すまなかった」
彼は、癖のある前髪をくしゃりと掻き上げた。こんな安らぎのそばで、険のある顔をし続けることなどできない。
「あの人工知能は、昨日今日に作られたものじゃない。ずっとあったんだ。今、焦っても仕方ないな」
ルイフォンはメイシアと向き合う。その顔には、彼らしい、奔放な猫のような表情が蘇っていた。
「ありがとな」
「え?」
「そばに居てくれて、ありがとな」
そう言うと同時に、ルイフォンは立ち上がり、メイシアを抱きしめた。
「きゃっ」
メイシアが可愛らしい悲鳴を上げる。ルイフォンの腕の中で、真っ赤になる。
「何、照れているんだよ。さっき、お前、俺のこと抱きしめたろ?」
「あ、あああああ。す、すみません……!」
「謝ることじゃないって。それより、一緒に風呂に入ろうぜ? お前も俺もどろどろだ」
彼は彼女の体をひょいと抱き上げると、そのまま続き部屋にある浴室に向かおうとする。
「すすすすみません。勘弁してださい!」
「いいから、いいから」
「よくないです! 下ろしてください!」
相変わらずの嗜虐心をそそる反応に、ルイフォンは目を細めた。
魅了される――。
彼女に惹きつけられてやまない。
異母弟ハオリュウが現れ、協力体制を敷いたことによって、彼女の身柄がどうなるのか分からなくなった。
……おそらくは、貴族の彼女を凶賊の屋敷に残すなんて猛反対が起こるだろう。
貴族と凶賊が、共謀以外の関係で、共にあるなんてあり得ないのだ。
「…………」
ルイフォンの小さな呟きを聞き取れず、メイシアは「え?」と聞き返した。
「なんでもない」
軽く笑って、彼は彼女を下ろした。
「それじゃ、風呂に入るか」
そのまま、彼女の目の前で、汚れた衣服を脱ぎ捨てる。細身であるものの、チャオラウに鍛えられた若々しい肉体が晒され……彼の期待通りに彼女が悲鳴を上げた。
彼女が顔を真っ赤にして慌てる様を、彼は目を細めてにやりと堪能する。
この可愛らしい小鳥が無事で、本当に良かったと思う。
……不意にルイフォンは、床に投げ出した服の波間に、金色の光を見つけた。
はっと気づいて拾い上げる。
――母の形見の鈴。
いつもは、編んだ髪を留める、青い飾り紐の中央に収めているもの。貧民街でタオロンを縛るために紐が必要になったため、鈴は外して懐に入れておいたのだ。
彼は馴染みの感触を指先で確かめ、大切に握りしめた――。
~ 第五章 了 ~
そんな中で唯ひとり、ルイフォンだけは動かなかった。
「ルイフォン……?」
メイシアが遠慮がちに声を掛ける。
彼を印象づける、特徴的な猫のような表情が消えていた。鷹刀一族の血を示すような、本来の端正な顔立ちが浮き彫りになる。しかしそれは、彼をただの彫像のように見せる効果しかなかった。
「ルイフォン、お前は医務室に行け」
イーレオの声が飛んできた。
ルイフォンの口元は切れ、乾いた血が固まっていた。何度も打撃を受けた腹部は、見た目はシャツが汚れているだけだが、その下の体はどんなにか痛むことだろう。上着はところどころ擦り切れ、ボタンが飛んでいる。
貧民街からずっと、彼はメイシアを守り抜いてきた。
メイシアは、胸が締め付けられるような思いで、ルイフォンを見つめる。いくら感謝してもしきれない。やっと落ち着いた状況になったのだから、彼には休んでほしいと思う。
しかし、ルイフォンは――。
「ルイフォン、イーレオ様が……」
まるで何も聞こえていないかのようなルイフォンの袖を、メイシアはそっと引いた。そのとき初めて気づいたかのように、彼は、はっと目の焦点を戻す。
「あ、ああ……? 何か言ったか?」
「イーレオ様が医務室に行くようにと」
「あ、ああ」
返事をしつつも、やはりどこか上の空である。
「おい、ルイフォン、また頭が異次元に行っているぞ」
つかつかとリュイセンが寄ってきて、ルイフォンの額を指で弾いた。
「……痛ってぇなぁ」
「お前、見事にぼろぼろだぞ。見苦しい。このあと皆で昼食を摂って作戦会議だ。その前にその格好をなんとかしてこい」
「……分かった」
「付き添わせてください」
退出するルイフォンの猫背に、メイシアは思わず駆け寄った。
メイシアの視界の端に、ハオリュウの顔が映る。警察隊のシュアンと何やら話し込んでいた異母弟は「姉様!」と鋭く口走った。
目で制止をかけてくる異母弟を、彼女は直視することはできなかった。ただ無言で頭を下げ、振り切るようにルイフォンを追いかけた。
口を結んで大股に歩くルイフォンを、メイシアは小走りに追いかける。彼が向かった先は医務室ではなく、彼の自室だった。
閉まりそうになる扉にメイシアは滑り込んだ。入った瞬間に、冷気が彼女を包む。汗ばんでいた体が、ひやりと震えた。
廊下ですら絨毯が敷き詰められたこの屋敷の中で、リノリウム張りのルイフォンの仕事部屋。人間より機械が優先される環境は、昨日来たときと寸分変わっていなかった。
「ルイフォン、傷の手当ては……?」
「平気だ」
車座に並べられた机の上に、幾つもの機械類が載せられている。その輪の中に、ルイフォンは入っていく。
回転椅子に座り、置きっぱなしのOAグラスを無造作に掛けると、無機質な横顔になった。キーボードに指を走らせると次々にモニタが点灯し、彼の姿が青白い光に照らし出される。
彼が何をしようとしているのか。コンピュータに詳しくないメイシアでも分かった。
執務室に突如現れた〈ベロ〉。
ルイフォンが制御できない、存在すらも知らなかった『もの』。
その所在を探しているのだ。
「ルイフォン……」
「なんだ?」
抑揚のないテノールが、メイシアの心臓に突き刺さった。
ルイフォンは今、リュイセンが言うように異次元にいる。ケーブルに囲まれた円陣は、別世界への魔法陣なのだ。
「なんでもありません」
出逢ってから、たった一日。
知らない顔があるのは当然のことだ。
――打ち解けたと思っていたのは、世間知らずの自分のほうだけだった。
ずきりと痛む心臓を抑え、メイシアはそっと後ろに下がった。
彼のことは気になるが、彼女がいても邪魔になるだけだ。それより、部屋に戻って着替えでもしておくべきだろう。
彼女は踵を返した。
「糞っ! どこにあるんだ!?」
突然、強い打鍵の音と共に、ルイフォンが叫んだ。
「何故、俺の命令を無視する!? ふざけんなよ!」
驚いたメイシアが振り返ると、ルイフォンが机に拳を叩きつけていた。解かれたままの髪を振り乱し、血走った目でモニタを睨みつけている。
彼女は顔色を変えた。
彼が機械類を扱うとき、今までは表情豊かな得意げな猫の顔か、機械と一体化したかのような無機質な顔をしていた。両極端のようだけれど、どちらも研ぎ澄まされたような聡明さがあった。
しかし、目の前の彼は、癇癪を起こしている子供であった。
「ルイフォン?」
恐る恐る声を掛けると、集中したときには反応を返さないはずのルイフォンが、こちらを向いた。
「メイシア」
モニタ画面を反射したOAグラスは、青白く半透明に輝いており、その下の彼の表情は窺うことができない。
「あれは現在の技術レベルを超えたものだ。自由に考え、勝手に行動する……!」
まるで弾劾でもするかのように、ルイフォンは言った。そして、戸惑うメイシアに尋ねる。
「お前には、あれが何に見えた?」
「『人工知能』、でしょうか……?」
「そうだろうな。だが、中に人間が入っているような、あんな柔軟な代物は存在しないはずなんだ。俺自身が、ずっと研究してきたから知っている。なのに……」
彼は唇を噛んだ。その拍子に口元の傷が開いてしまったのか、一瞬、顔を歪める。しかし、彼は更に強く唇を噛んだ。メイシアにはそれが自傷行為に見えた。
「俺が制御できない代物の存在を、誰も疑問に思わない。悪意ある侵入の可能性も心配もしない。……これがどれだけ異常なことか……!」
ルイフォンが吐き捨てる。
「……分かっている。あれは母さんが作ったものだ。外部からの侵入なら俺が気づいている。だから、母さんしかあり得ない……」
彼の強く握りしめた拳が、白く震える。
「誰もがあっさり受け入れるのは――あれが、母さんが作ったものだからだ……!」
ひやりとした空気を切り裂いて、響き渡る叫びは、嗚咽だった。
絶対の自信を持っている分野で、児戯だと言われたのだ。
――人ではない、母の遺産に。
うなだれた猫背が哀しい……。
メイシアにとって、〈ベロ〉はまったく未知のものだ。
それでも、彼の様子から〈ベロ〉は、とんでもないもので、制御できなければならないものだということは分かる。
だから、必死になって調べるというのなら、ルイフォンが異次元に行ってしまうのでもよかった。
けれど――。
今の彼は、粉々になった矜持に視界を遮られた、迷子だった。
孤独の輪の中で、自分が迷っていることにも気づかずに、ひとり苦しんでいる。
メイシアの足先が、リノリウムの床に硬い響きを立てた。
彼女は、床を這っているケーブルを越えた。
――魔法陣の結界を破って、彼の聖域へと踏み込んだ。
「ルイフォン……」
メイシアは、うつむいたルイフォンの頭を両腕で包み込んだ。彼女の長い黒髪が、彼の背中を覆い、絡め取る。何処かに流されてしまいそうな彼を捕まえるかのように。
その瞬間。
彼の肩がびくりと震えた。
「なんの真似だ?」
低い、低い声――これ以上、近づくなとの警告の声で、ルイフォンが唸った。
身を逆立てる彼に、彼女の心臓が悲鳴を上げた。
「ご、ごめんなさい」
彼女は彼から、ぱっと離れた。
彼はくるりと背を向けた。そして、回転椅子を滑らせ、少し離れたところのコンピュータと対峙する。
「すまない、メイシア。出ていってくれ」
モニタを見据えたまま、ルイフォンは言った。猫が威嚇をするように、大きく背中が膨れていた。
メイシアの顔から血の気が引いていく――。
「い……、嫌です……!」
「邪魔なんだよ!」
即座に返ってくる拒絶。
彼は叩きつけるように、キーボードに指を走らせた。モニタ上で表示が切り替わったが、目は文字を追っていない。
彼女は、飛び出しそうな心臓を、服の上から、ぎゅっと抑えた。
「す、すみません……でも……」
「糞っ」
動こうとしないメイシアに、苛立ちをあらわにしたルイフォンの悪態が被る。彼は、両手で頭を抱えるようにして机に肘をついた。癖の強い髪を掻きむしり、叫ぶ。
「なんで、分からねぇんだよ!」
かなぐり捨てるようにOAグラスを外し、掌で顔を覆う。
「…………俺がっ、惨めだろうっ!」
張り詰めた冷気が弾け飛ぶように、ルイフォンの言葉が砕け散った。
心の底からの、咆哮――。
「……っ! ――すみません……!」
そっとしておくべきだったのだ。
どんなに心配だったとしても、魔法陣の結界は踏み越えてはいけなかったのだ。
メイシアのしていることは、ただの彼女の我儘に過ぎない……。
「――でもっ!」
細い糸を爪弾くような声が、凛と鳴り響く。
まっすぐに顔を上げたメイシアの頬を、透明な涙がすうっと流れた。
「私はっ、ルイフォンのそばに居たいんです!」
心が強く訴える。
昨日までの彼女だったら、こんな我儘など言わなかった。
思ったままに行動することを、他ならぬルイフォンが教えてくれたのだ。
「はっ、なんだよそれ?」
ルイフォンがくるりと回転椅子を回し、肩をすくめた。嘲りを全面に出した嗤いが、口から漏れる。
メイシアは思わずひるみそうになったが、虚勢の強気で言い返した。
「直感です! 我儘です! だって、ルイフォンが言ってくれたじゃないですか! 私はもっと直感的に生きたほうがいい、って。我儘を言ってもいいって」
「いつ俺がそんなこと言った?」
「シャオリエさんのお店で、です」
「忘れた」
「でも、私は覚えています」
メイシアは言い切った。
OAグラスを外したルイフォンの冷たい視線が、彼女に直接、突き刺さる。
「私は……、私たちが今すべきことは、喜ぶことだと思うんです」
「はぁ?」
彼の声が甲高く嘲った。それでも構わず、彼女は続ける。
「私は、生まれて初めて、本当に死ぬかと思うような目に遭いました」
空調のかすかな雑音の上を、透明な声が抜けていく。ひやりとした空気が、熱くなりかけていたふたりを冷やしていく。
「でも、無事だったんです。ルイフォンのお陰で、無事だったんです。奇跡です。それから私、ルイフォンが本当に死んでしまうかと思っ……」
メイシアの頬を涙の筋が走った。
――いくつも、いくつも……。
埃まみれの顔が、そこだけ奇妙に拭われていくのをメイシアは感じた。
きっと、とんでもなくみっともない顔をしているに違いない。けれども、彼女は涙を止めることができなかった。
「『ありがとう』って言いたい。あなたも私も、皆が無事だったことを、喜びたい。『今、あなたと一緒に』喜びたいんです……!」
硬質なリノリウムの床が、メイシアの叫びを拡散させた。彼女の思いは乱反射して、あちらから、こちらから、ルイフォンを包み込む。
「メイシア……」
ルイフォンが回転椅子の背にもたれ、仰ぐようにメイシアを見上げた。涙でべとつき、汚れた黒髪の張り付いた顔が、何よりも美しく見えた。
戦乙女だ、と彼は思った。
貧民街で、彼が地に伏し〈蝿〉の凶刃にかからんとしていたとき、彼女はタオロンの大刀を掲げて彼を救った。あのとき地面から見上げた彼女の姿もぼろぼろだったけれど、煌めきに満ちた魂が優しく、温かく、力強く――彼を魅了した。
ルイフォンの口元が自然に緩んだ。
下手な気休めを言われたのなら、跳ね返すことができた。
けれど、彼女の言葉は、彼の想像を遥かに超えていた。
「……すまなかった」
彼は、癖のある前髪をくしゃりと掻き上げた。こんな安らぎのそばで、険のある顔をし続けることなどできない。
「あの人工知能は、昨日今日に作られたものじゃない。ずっとあったんだ。今、焦っても仕方ないな」
ルイフォンはメイシアと向き合う。その顔には、彼らしい、奔放な猫のような表情が蘇っていた。
「ありがとな」
「え?」
「そばに居てくれて、ありがとな」
そう言うと同時に、ルイフォンは立ち上がり、メイシアを抱きしめた。
「きゃっ」
メイシアが可愛らしい悲鳴を上げる。ルイフォンの腕の中で、真っ赤になる。
「何、照れているんだよ。さっき、お前、俺のこと抱きしめたろ?」
「あ、あああああ。す、すみません……!」
「謝ることじゃないって。それより、一緒に風呂に入ろうぜ? お前も俺もどろどろだ」
彼は彼女の体をひょいと抱き上げると、そのまま続き部屋にある浴室に向かおうとする。
「すすすすみません。勘弁してださい!」
「いいから、いいから」
「よくないです! 下ろしてください!」
相変わらずの嗜虐心をそそる反応に、ルイフォンは目を細めた。
魅了される――。
彼女に惹きつけられてやまない。
異母弟ハオリュウが現れ、協力体制を敷いたことによって、彼女の身柄がどうなるのか分からなくなった。
……おそらくは、貴族の彼女を凶賊の屋敷に残すなんて猛反対が起こるだろう。
貴族と凶賊が、共謀以外の関係で、共にあるなんてあり得ないのだ。
「…………」
ルイフォンの小さな呟きを聞き取れず、メイシアは「え?」と聞き返した。
「なんでもない」
軽く笑って、彼は彼女を下ろした。
「それじゃ、風呂に入るか」
そのまま、彼女の目の前で、汚れた衣服を脱ぎ捨てる。細身であるものの、チャオラウに鍛えられた若々しい肉体が晒され……彼の期待通りに彼女が悲鳴を上げた。
彼女が顔を真っ赤にして慌てる様を、彼は目を細めてにやりと堪能する。
この可愛らしい小鳥が無事で、本当に良かったと思う。
……不意にルイフォンは、床に投げ出した服の波間に、金色の光を見つけた。
はっと気づいて拾い上げる。
――母の形見の鈴。
いつもは、編んだ髪を留める、青い飾り紐の中央に収めているもの。貧民街でタオロンを縛るために紐が必要になったため、鈴は外して懐に入れておいたのだ。
彼は馴染みの感触を指先で確かめ、大切に握りしめた――。
~ 第五章 了 ~