残酷な描写あり
1.花咲く藤の昼下がりー4
「やっと姉様と、ふたりきりになれた」
温かな湯気の向こうでハオリュウが言った。
ティーカップから立ち上る香りは芳醇で、先ほど退室したメイドが『屋敷で一番、美味しいお茶を淹れてくれる子』だという、ミンウェイのお墨付きを証明している。
険しい顔をしていた異母弟も、鼻腔をくすぐる癒やしの香に一瞬、顔をほころばせた。だが、すぐにまた元の表情に戻る――。
「ハオリュウ……、心配かけてごめんなさい」
メイシアは目を伏せた。申し訳なさでいっぱいで、まともに異母弟の顔を見ることができなかった。
ハオリュウの不機嫌の理由は、メイシアに対して怒っているからではない。彼は、すべての責任は、初めに誘拐された自分にあると思っている。失態を悔いているのだ。
誘拐は暴力による不可抗力であり、彼の落ち度ではないのに。
メイシアは、いたたまれない気持ちになる。
「姉様。……本当に姉様は……、その……何もされなかった?」
「え?」
「父様の救出を頼んでいる身で疑うのはよくないけど、彼らは凶賊だ。もし、姉様に何かあったのなら、僕は絶対に許さ……」
「そんなこと、ないわ!」
ぱっ、と顔を上げ、メイシアは叫んだ。ティーカップの表面に、琥珀色の波が立つ。
「姉様?」
「鷹刀の人たちは本当に、よくしてくれたの!」
彼らがしてくれたことを、ひとつ残らずハオリュウに教えたい。自分の感じた思いを、分かち合いたい。
けれど、それはあまりにも複雑すぎて、どんな言葉を使っても伝えきることはできないだろう。それがとても、もどかしい。――そう、メイシアは思った。
けれど、ハオリュウは目元を和らげた。顔に険を作っていた憤りの影が消えていく。言葉に表さなくとも、彼には異母姉の心の色が見えていた。
「姉様がそう言うのなら、もういいや。……あいつ……ルイフォン……、姉様のことを…………だし、悪いようにはしてないってのは……分かるよ」
独り言のように呟き、ハオリュウはそれ以上の思いを吐き出さないように、ティーカップで自分の口を塞いだ。彼はそのまま一気に中身をあおろうとしたのだが、あまりの香りの良さに思い留まり、上品に一口だけ飲む。
ハオリュウの顔に、ほっ、と安らぎが生まれた。それを見てメイシアも微笑み、ティーカップを手に取った。
芳醇な香りに包まれた、温かな琥珀色の時間が流れる。
しばしの安らぎと幸福。
――けれどそれは、ティーカップがソーサーに戻されるまで。かたん、と小さな音と共に終わりを告げる。
夢見心地の世界は終わる……。
メイシアは、ごくりと唾を呑み込み、切り出した。
「ハオリュウ。……家は……どんな状況なの……?」
彼女が飛び出してきたときには、実家は大混乱に陥っていた。深窓の令嬢の彼女が、ひとりで外出しても誰も見咎めないくらいに。
ハオリュウが解放されて、少しは落ち着いたのだろうか。
――継母は……。
継母に売られたことを思い出し、ちくり、と胸が痛んだ。だから彼女は、いつもならすぐに返ってくるはずの異母弟の返事が遅れたことに気づかなかった。
「……家は大丈夫だよ。うるさい親戚連中にも帰ってもらった」
「え……。でも、親族の皆様は……」
藤咲家最大の危機に駆けつけた親族は、必ずしも有り難いものではなかった。今後の方針を議論する合間に、頼りない当主の父や、平民の継母の悪口を挟む――そういう人たちだ。
そんな彼らが素直に帰ったりするだろうか――?
「当主の父様がいない今、当主代理の僕が、藤咲家の法だ。この僕に逆らえる者なんていないんだよ」
ハオリュウは、口元から白い歯をちらりと覗かせ、はにかむようにして首を傾けた。
笑みを浮かべているのに、かすれたハスキーボイスが泣いているように聞こえる。――勿論、それは気のせいだ。この異母弟は決して人前で涙を見せない。
けれど、ハオリュウの心は、血の涙を流しているはずなのだ。
権力を振りかざした彼には、親族の容赦ない敵意と悪意が襲いかかったことだろう。たった十二歳の少年が、それで平気なわけがない。
メイシアは、心臓を握りつぶされたような痛みを感じた。
「ハオリュウ……」
泣かない異母弟の代わりに、異母姉の瞳が涙をにじませる。
「姉様、そんな顔をしないで。全部、僕に任せて。大丈夫だから」
ハオリュウがぐっと胸を張る。そして、やや高くなった目線の先に窓辺を映し、彼は「あっ!」と、わざと明るい声を出した。――曇ってしまった異母姉の顔を晴らすために。
「あの庭の桜……! この部屋から見えるんだ。凄い……、絶景だね……」
ハオリュウは桜に惹き寄せられるように歩み寄り、外に出られる大きなテラス窓を開けた。途端、柔らかな春風が室内に舞い込み、桜の花びらが送り込まれる。
「うわぁ……」
風にふわりと前髪を持ち上げられ、ハオリュウは軽く目を閉じた。花びらを浴びようとでもするかのように、少し顎を上げる。その仕草は日差しと無邪気に戯れているようでもあった。
桜吹雪を抱こうとするかのように、ハオリュウは両手を伸ばす。
――その手には、当主の証である金色の指輪が光っている……。
「姉様の部屋が、一番いい客間みたいだね」
「ミンウェイさんが、この部屋に案内してくれたの」
「ああ、やっぱり。――姉様は、賓客扱いだ」
ハオリュウが、くすりと笑う。
「鷹刀一族の人は不思議だね。極悪非道のならず者かと思ったら、こんな景色を愛でる心を持っている。……どう考えても利益にならない、父様の救出なんてことを、笑いながら引き受けてくれる」
彼の掌に、薄紅のひとひらが舞い降りた。だが、それはすぐに悪戯な春風に吹かれ、再び力強く飛び立っていく。
「――凶賊というのは嘘なんじゃないかと、錯覚しそうになるよ」
後ろ姿のハオリュウは、穏やかで……どこか物悲しげで――儚く消えてしまいそう。
気づいたら、メイシアはハオリュウに駆け寄り、後ろから抱きしめていた。
「!? 姉様!?」
「どうしてハオリュウは、全部ひとりで背負い込もうとするの!? 嫌よ、なんか知らない人みたい」
メイシアの腕に包まれたハオリュウの体が、びくりと震えた。
「……姉様、はしたないよ。いくら異母弟でも僕は男だ。むやみに触っちゃ駄目」
「ハオリュウ?」
「分かってくれるかな? 僕はもう子供じゃない。『男』なんだ。自分が守りたいもののために戦いたい。――認めてよ、姉様」
少しだけ甘えたような、ハスキーボイス。
「守りたいもの……?」
「僕の家族――姉様と……父様と母様」
柔らかな声が、メイシアを包む。
彼女が守ってあげなければと思った小さな赤子は、いつの間にか彼女よりも大きくなっていた。切なさで胸がいっぱいになる。
でも、認めてしまったら、異母弟が遠い人になってしまいそうで――彼女の口を衝いたのは意地っ張りの強がりだった。
「……私も同じよ。家族を守りたいと思ったから、家を飛び出して鷹刀に来……」
言葉の途中で、メイシアが止まった。
「……姉様?」
体の触れ合った箇所から、異母姉が小刻みに震えているを感じ、ハオリュウは疑問の声を上げる。
「……違ったわ……。私は、踊らされただけだった……」
メイシアは、自分の台詞が、道化者のそれであることに気づいたのだ。彼女が家族を思う感情こそが、利用されたものだったのだから。
「ね、姉様、ごめん! そうだよね、姉様だって同じだった……」
「ううん、ハオリュウは立派だわ! 家族のために動いている。……でも、私は……、私は……! ……それに……お継母様は私のことを……」
「姉様? 何を言って……? ――あ! ……姉様、ひょっとして……?」
ハオリュウは、緩んできたメイシアの腕をそっと外し、振り向いて異母姉と向き合った。真剣な眼差しで、問い詰めるように尋ねる。
「姉様は自分が鷹刀一族の屋敷に行くことになった経緯、どこまで詳しく知っているの?」
「どこまで、って……?」
メイシアは、質問の意図が読み取れず、首をかしげる。
「姉様は、母様の採寸に来た仕立て屋に『鷹刀一族なら助けてくれる』と言われたんでしょう?」
ハオリュウの言葉に、仕立て屋の絡みつくような蛇の目が思い起こされた。ねっとりとした女の声と、毒々しい紅い唇の動きが蘇ってきて、メイシアは身を震わせる。
「その仕立て屋は偽者で、斑目一族の息の掛かった者だった、って――姉様も、それは知っているよね?」
「ええ。あの仕立て屋に『凶賊には凶賊を』と言われなければ、凶賊を頼るだなんて、私では思いつかなかったもの……」
鷹刀イーレオを『誘拐犯』にするためには、誰かがメイシアを鷹刀一族の屋敷に誘導しなければならない。その役目を請け負ったのが、偽の仕立て屋ホンシュアだった。
「姉様は、その仕立て屋が、どうやって藤咲の屋敷内に入ったか――知っているの?」
「……聞いているわ。お継母様が斑目に脅されて、藤咲家に出入りできる『許可証』を発行して呼び込んだ、って……」
「違う!」
ハオリュウが叫んだ。
「母様じゃない! 伯父様が勝手にやったことだ。母様は半狂乱になって断ったって聞いた!」
「え……!?」
娼館の女主人シャオリエには、継母に売られたのだと教えられた――と、そう言いそうになり、メイシアは、はたと気づく。
シャオリエは、そうは言っていなかった。藤咲家、ホンシュア、斑目一族の三者の動きを教えてくれただけで、結論づけたのメイシア自身だった。
「じゃ、じゃあ、テンカオ伯父様が……」
そんなことをする伯父といえば、テンカオしかあり得ない。
「そう。伯父様は…………僕のことが大事だから……」
――伯父は、貴族の前妻の娘であるメイシアのことが嫌いだから……。
テンカオは、ハオリュウの母の兄である。平民だが、父の右腕として藤咲家のために尽力してくれている。
当主の父がおっとりしているにも関わらず、藤咲家が他家に喰われずにいる――それどころか先代のとき以上に繁栄しているのは、彼のお陰だといわれている。そのため、口うるさい親族も、平民である彼を正面から攻撃しあぐねているくらいだ。
「……お継母様じゃ、なかった…………」
するり、とメイシアの頬を透明な涙が滑り落ちた。毛足の長い絨毯の先にこぼれ落ち、弾けて消える。
夫と息子が人質になっていたら、従うのが当然のはずだ。しかも、凶賊の屋敷に送りまれる義理の娘は、翌日には誘拐事件として警察隊が救い出すという手はずなのだ。
たった一晩。
餓えた獣の巣に放り込まれた娘の身に、何が起こるかに目をつぶりさえすれば、丸く収まる。
それなのに――。
「お継母様は、断ってくださったのね……」
「何言っているんだよ! 母様は姉様のことが大事だよ! 僕のことなんかより、ずっと……!」
「ハオリュウ!?」
「姉様は全然、分かってない! 確かに母様からすれば僕は実の子で、姉様は義理の子供だ。でも、母様が可愛いと思っているのは姉様なんだ! 母様にとって、僕は『跡継ぎの男子』――腫れ物扱いだ」
血を吐くような叫びだった。
肩で息をしながら言い切り、そのあとでハオリュウは、はっと顔色を変えた。
「ごめん、姉様。……言い過ぎた」
「ううん……」
「……姉様が藤咲の家を飛び出したあと、それに気づいた母様が伯父様に掴みかかって暴れた、って聞いた。――僕は、そんな母様を知らない」
実の母が藤咲家を出ていって間もなく、メイシアは継母と出会った。事務見習いとして、父の秘書――今となっては伯父となったテンカオ――の口利きで屋敷に来たのだ。
とても風の強い日だった。
庭の片隅で泣いていたメイシアに、手作りのクッキーをくれた。そそっかしい継母が途中で転んだせいで、それはだいぶ崩れていたのだけれど。
そのときの驚いた表情、赤面した顔、メイシアが「美味しい」と言ったときのあけすけの笑顔。継母は感情豊かな、素朴な町娘だった。メイシアは優しい彼女をすぐに大好きになったし、父も同じ気持ちだったのだと思う。
それが、『貴族の奥方』になった瞬間に、崩れ落ちた。彼女がくれた『砂』というクッキーの名前の通りに、さらさらと。
貴族の奥方として、あるべき姿を強要された彼女は、笑わなくなった。萎縮して、遠慮して、周りの様子をおどおどと窺うばかりになった。
だから、ハオリュウは知らない。本当の継母を知らない。
「お継母様は、そういう方なのよ……」
貴族の奥方だったら、義理の娘の犠牲など厭わなかっただろう。継母は、どこまでも普通の平民だったのだ。
――お継母様、疑って、ごめんなさい……。
メイシアの視界の中で、吹き飛ばされてしまったはずの砂粒が、きらきらと輝き始めた。眩しくて眩しくて涙が止まらない。
「姉様……」
スーツの内ポケットから、ハオリュウが金刺繍の施されたハンカチを出した。
「もう大丈夫だよ。こんなのは今晩で終わりだ。父様を連れて、皆で家に帰ろう。……母様が待っている」
力強く語りかけるハオリュウの脳裏に、正気を失った母の姿がかすめたことを――勿論、メイシアは知らない……。
温かな湯気の向こうでハオリュウが言った。
ティーカップから立ち上る香りは芳醇で、先ほど退室したメイドが『屋敷で一番、美味しいお茶を淹れてくれる子』だという、ミンウェイのお墨付きを証明している。
険しい顔をしていた異母弟も、鼻腔をくすぐる癒やしの香に一瞬、顔をほころばせた。だが、すぐにまた元の表情に戻る――。
「ハオリュウ……、心配かけてごめんなさい」
メイシアは目を伏せた。申し訳なさでいっぱいで、まともに異母弟の顔を見ることができなかった。
ハオリュウの不機嫌の理由は、メイシアに対して怒っているからではない。彼は、すべての責任は、初めに誘拐された自分にあると思っている。失態を悔いているのだ。
誘拐は暴力による不可抗力であり、彼の落ち度ではないのに。
メイシアは、いたたまれない気持ちになる。
「姉様。……本当に姉様は……、その……何もされなかった?」
「え?」
「父様の救出を頼んでいる身で疑うのはよくないけど、彼らは凶賊だ。もし、姉様に何かあったのなら、僕は絶対に許さ……」
「そんなこと、ないわ!」
ぱっ、と顔を上げ、メイシアは叫んだ。ティーカップの表面に、琥珀色の波が立つ。
「姉様?」
「鷹刀の人たちは本当に、よくしてくれたの!」
彼らがしてくれたことを、ひとつ残らずハオリュウに教えたい。自分の感じた思いを、分かち合いたい。
けれど、それはあまりにも複雑すぎて、どんな言葉を使っても伝えきることはできないだろう。それがとても、もどかしい。――そう、メイシアは思った。
けれど、ハオリュウは目元を和らげた。顔に険を作っていた憤りの影が消えていく。言葉に表さなくとも、彼には異母姉の心の色が見えていた。
「姉様がそう言うのなら、もういいや。……あいつ……ルイフォン……、姉様のことを…………だし、悪いようにはしてないってのは……分かるよ」
独り言のように呟き、ハオリュウはそれ以上の思いを吐き出さないように、ティーカップで自分の口を塞いだ。彼はそのまま一気に中身をあおろうとしたのだが、あまりの香りの良さに思い留まり、上品に一口だけ飲む。
ハオリュウの顔に、ほっ、と安らぎが生まれた。それを見てメイシアも微笑み、ティーカップを手に取った。
芳醇な香りに包まれた、温かな琥珀色の時間が流れる。
しばしの安らぎと幸福。
――けれどそれは、ティーカップがソーサーに戻されるまで。かたん、と小さな音と共に終わりを告げる。
夢見心地の世界は終わる……。
メイシアは、ごくりと唾を呑み込み、切り出した。
「ハオリュウ。……家は……どんな状況なの……?」
彼女が飛び出してきたときには、実家は大混乱に陥っていた。深窓の令嬢の彼女が、ひとりで外出しても誰も見咎めないくらいに。
ハオリュウが解放されて、少しは落ち着いたのだろうか。
――継母は……。
継母に売られたことを思い出し、ちくり、と胸が痛んだ。だから彼女は、いつもならすぐに返ってくるはずの異母弟の返事が遅れたことに気づかなかった。
「……家は大丈夫だよ。うるさい親戚連中にも帰ってもらった」
「え……。でも、親族の皆様は……」
藤咲家最大の危機に駆けつけた親族は、必ずしも有り難いものではなかった。今後の方針を議論する合間に、頼りない当主の父や、平民の継母の悪口を挟む――そういう人たちだ。
そんな彼らが素直に帰ったりするだろうか――?
「当主の父様がいない今、当主代理の僕が、藤咲家の法だ。この僕に逆らえる者なんていないんだよ」
ハオリュウは、口元から白い歯をちらりと覗かせ、はにかむようにして首を傾けた。
笑みを浮かべているのに、かすれたハスキーボイスが泣いているように聞こえる。――勿論、それは気のせいだ。この異母弟は決して人前で涙を見せない。
けれど、ハオリュウの心は、血の涙を流しているはずなのだ。
権力を振りかざした彼には、親族の容赦ない敵意と悪意が襲いかかったことだろう。たった十二歳の少年が、それで平気なわけがない。
メイシアは、心臓を握りつぶされたような痛みを感じた。
「ハオリュウ……」
泣かない異母弟の代わりに、異母姉の瞳が涙をにじませる。
「姉様、そんな顔をしないで。全部、僕に任せて。大丈夫だから」
ハオリュウがぐっと胸を張る。そして、やや高くなった目線の先に窓辺を映し、彼は「あっ!」と、わざと明るい声を出した。――曇ってしまった異母姉の顔を晴らすために。
「あの庭の桜……! この部屋から見えるんだ。凄い……、絶景だね……」
ハオリュウは桜に惹き寄せられるように歩み寄り、外に出られる大きなテラス窓を開けた。途端、柔らかな春風が室内に舞い込み、桜の花びらが送り込まれる。
「うわぁ……」
風にふわりと前髪を持ち上げられ、ハオリュウは軽く目を閉じた。花びらを浴びようとでもするかのように、少し顎を上げる。その仕草は日差しと無邪気に戯れているようでもあった。
桜吹雪を抱こうとするかのように、ハオリュウは両手を伸ばす。
――その手には、当主の証である金色の指輪が光っている……。
「姉様の部屋が、一番いい客間みたいだね」
「ミンウェイさんが、この部屋に案内してくれたの」
「ああ、やっぱり。――姉様は、賓客扱いだ」
ハオリュウが、くすりと笑う。
「鷹刀一族の人は不思議だね。極悪非道のならず者かと思ったら、こんな景色を愛でる心を持っている。……どう考えても利益にならない、父様の救出なんてことを、笑いながら引き受けてくれる」
彼の掌に、薄紅のひとひらが舞い降りた。だが、それはすぐに悪戯な春風に吹かれ、再び力強く飛び立っていく。
「――凶賊というのは嘘なんじゃないかと、錯覚しそうになるよ」
後ろ姿のハオリュウは、穏やかで……どこか物悲しげで――儚く消えてしまいそう。
気づいたら、メイシアはハオリュウに駆け寄り、後ろから抱きしめていた。
「!? 姉様!?」
「どうしてハオリュウは、全部ひとりで背負い込もうとするの!? 嫌よ、なんか知らない人みたい」
メイシアの腕に包まれたハオリュウの体が、びくりと震えた。
「……姉様、はしたないよ。いくら異母弟でも僕は男だ。むやみに触っちゃ駄目」
「ハオリュウ?」
「分かってくれるかな? 僕はもう子供じゃない。『男』なんだ。自分が守りたいもののために戦いたい。――認めてよ、姉様」
少しだけ甘えたような、ハスキーボイス。
「守りたいもの……?」
「僕の家族――姉様と……父様と母様」
柔らかな声が、メイシアを包む。
彼女が守ってあげなければと思った小さな赤子は、いつの間にか彼女よりも大きくなっていた。切なさで胸がいっぱいになる。
でも、認めてしまったら、異母弟が遠い人になってしまいそうで――彼女の口を衝いたのは意地っ張りの強がりだった。
「……私も同じよ。家族を守りたいと思ったから、家を飛び出して鷹刀に来……」
言葉の途中で、メイシアが止まった。
「……姉様?」
体の触れ合った箇所から、異母姉が小刻みに震えているを感じ、ハオリュウは疑問の声を上げる。
「……違ったわ……。私は、踊らされただけだった……」
メイシアは、自分の台詞が、道化者のそれであることに気づいたのだ。彼女が家族を思う感情こそが、利用されたものだったのだから。
「ね、姉様、ごめん! そうだよね、姉様だって同じだった……」
「ううん、ハオリュウは立派だわ! 家族のために動いている。……でも、私は……、私は……! ……それに……お継母様は私のことを……」
「姉様? 何を言って……? ――あ! ……姉様、ひょっとして……?」
ハオリュウは、緩んできたメイシアの腕をそっと外し、振り向いて異母姉と向き合った。真剣な眼差しで、問い詰めるように尋ねる。
「姉様は自分が鷹刀一族の屋敷に行くことになった経緯、どこまで詳しく知っているの?」
「どこまで、って……?」
メイシアは、質問の意図が読み取れず、首をかしげる。
「姉様は、母様の採寸に来た仕立て屋に『鷹刀一族なら助けてくれる』と言われたんでしょう?」
ハオリュウの言葉に、仕立て屋の絡みつくような蛇の目が思い起こされた。ねっとりとした女の声と、毒々しい紅い唇の動きが蘇ってきて、メイシアは身を震わせる。
「その仕立て屋は偽者で、斑目一族の息の掛かった者だった、って――姉様も、それは知っているよね?」
「ええ。あの仕立て屋に『凶賊には凶賊を』と言われなければ、凶賊を頼るだなんて、私では思いつかなかったもの……」
鷹刀イーレオを『誘拐犯』にするためには、誰かがメイシアを鷹刀一族の屋敷に誘導しなければならない。その役目を請け負ったのが、偽の仕立て屋ホンシュアだった。
「姉様は、その仕立て屋が、どうやって藤咲の屋敷内に入ったか――知っているの?」
「……聞いているわ。お継母様が斑目に脅されて、藤咲家に出入りできる『許可証』を発行して呼び込んだ、って……」
「違う!」
ハオリュウが叫んだ。
「母様じゃない! 伯父様が勝手にやったことだ。母様は半狂乱になって断ったって聞いた!」
「え……!?」
娼館の女主人シャオリエには、継母に売られたのだと教えられた――と、そう言いそうになり、メイシアは、はたと気づく。
シャオリエは、そうは言っていなかった。藤咲家、ホンシュア、斑目一族の三者の動きを教えてくれただけで、結論づけたのメイシア自身だった。
「じゃ、じゃあ、テンカオ伯父様が……」
そんなことをする伯父といえば、テンカオしかあり得ない。
「そう。伯父様は…………僕のことが大事だから……」
――伯父は、貴族の前妻の娘であるメイシアのことが嫌いだから……。
テンカオは、ハオリュウの母の兄である。平民だが、父の右腕として藤咲家のために尽力してくれている。
当主の父がおっとりしているにも関わらず、藤咲家が他家に喰われずにいる――それどころか先代のとき以上に繁栄しているのは、彼のお陰だといわれている。そのため、口うるさい親族も、平民である彼を正面から攻撃しあぐねているくらいだ。
「……お継母様じゃ、なかった…………」
するり、とメイシアの頬を透明な涙が滑り落ちた。毛足の長い絨毯の先にこぼれ落ち、弾けて消える。
夫と息子が人質になっていたら、従うのが当然のはずだ。しかも、凶賊の屋敷に送りまれる義理の娘は、翌日には誘拐事件として警察隊が救い出すという手はずなのだ。
たった一晩。
餓えた獣の巣に放り込まれた娘の身に、何が起こるかに目をつぶりさえすれば、丸く収まる。
それなのに――。
「お継母様は、断ってくださったのね……」
「何言っているんだよ! 母様は姉様のことが大事だよ! 僕のことなんかより、ずっと……!」
「ハオリュウ!?」
「姉様は全然、分かってない! 確かに母様からすれば僕は実の子で、姉様は義理の子供だ。でも、母様が可愛いと思っているのは姉様なんだ! 母様にとって、僕は『跡継ぎの男子』――腫れ物扱いだ」
血を吐くような叫びだった。
肩で息をしながら言い切り、そのあとでハオリュウは、はっと顔色を変えた。
「ごめん、姉様。……言い過ぎた」
「ううん……」
「……姉様が藤咲の家を飛び出したあと、それに気づいた母様が伯父様に掴みかかって暴れた、って聞いた。――僕は、そんな母様を知らない」
実の母が藤咲家を出ていって間もなく、メイシアは継母と出会った。事務見習いとして、父の秘書――今となっては伯父となったテンカオ――の口利きで屋敷に来たのだ。
とても風の強い日だった。
庭の片隅で泣いていたメイシアに、手作りのクッキーをくれた。そそっかしい継母が途中で転んだせいで、それはだいぶ崩れていたのだけれど。
そのときの驚いた表情、赤面した顔、メイシアが「美味しい」と言ったときのあけすけの笑顔。継母は感情豊かな、素朴な町娘だった。メイシアは優しい彼女をすぐに大好きになったし、父も同じ気持ちだったのだと思う。
それが、『貴族の奥方』になった瞬間に、崩れ落ちた。彼女がくれた『砂』というクッキーの名前の通りに、さらさらと。
貴族の奥方として、あるべき姿を強要された彼女は、笑わなくなった。萎縮して、遠慮して、周りの様子をおどおどと窺うばかりになった。
だから、ハオリュウは知らない。本当の継母を知らない。
「お継母様は、そういう方なのよ……」
貴族の奥方だったら、義理の娘の犠牲など厭わなかっただろう。継母は、どこまでも普通の平民だったのだ。
――お継母様、疑って、ごめんなさい……。
メイシアの視界の中で、吹き飛ばされてしまったはずの砂粒が、きらきらと輝き始めた。眩しくて眩しくて涙が止まらない。
「姉様……」
スーツの内ポケットから、ハオリュウが金刺繍の施されたハンカチを出した。
「もう大丈夫だよ。こんなのは今晩で終わりだ。父様を連れて、皆で家に帰ろう。……母様が待っている」
力強く語りかけるハオリュウの脳裏に、正気を失った母の姿がかすめたことを――勿論、メイシアは知らない……。