残酷な描写あり
黄昏の言霊
一生に一度の、恋をした――。
そのとき私は、たった五つの子供だった。
そんな子供に、父は真剣に恋を語った。
「一生に一度のお願いなんだ」
父は、祈るように両手を組んでいた。
貴族の当主としては、ぱっとしない男だった。庭の木陰で、ぼんやりと居眠りしているのが似合う人だった。
傍目には寝ているようにしか見えないけれど、彼はいつも、頭の中で冒険譚を描いているのだという。いつだったか、こっそり教えてくれた。
そんな、夢見がちな人だった。
「彼女を妻として迎えたい。君のお継母様になる。祝福してくれないだろうか」
緊張しているのか、大人相手のような言葉遣いで、父は頭を下げた。
私は彼女のことが大好きだったけれど、貴族の奥方に平民がふさわしくないことは、教育係から教えられていた。そして、口さがない親族たちが入れ替わり立ち替わり現れては、歯に衣着せぬ言葉を落としていった。
それに何より、彼女自身が私に言っていた。
――私は、だいそれたことなんて望まないわ。今のままがいいの……。
真面目で、義理堅いことだけが取り柄の父。年端もいかぬ娘にすら、筋を通そうと頭を垂れる。庭師にでも生まれ落ちていれば、きっと幸せな人生を送れたことだろう。
そんな父の、一生に一度の恋。
家の望むまま、愛も知らずに妻を娶り、破局した男の初めての想い。
「どうして、今のままじゃ駄目なの?」
彼女は我が家で事務の仕事をしていたから、毎日のように逢うことができた。私は花冠が完成したら、すぐに彼女に見せに行ったし、おやつは父の書斎で一緒に食べていた。
「夜の闇から目覚めた瞬間に、彼女の姿を瞳に映したいんだ。そして……」
「そして?」
口ごもる父に、私は小首をかしげる。
「暁の光の中で、彼女に『おはよう』って言ってもらいたい――」
そう言って父は、照れたように笑った。
聞きようによっては、愛の睦言にも取れる詩人めいた言葉。勿論、子供だった当時の私は、素直に、いつも共に在りたいということなのだと解釈した。
――今の私なら……。いえ、今の私でも、やはり父は、純粋な気持ちで言ったのではないかと思う。
ただ彼女に、いつもそばにいてほしいと願った。
運命の姫に出会った少年は恋に落ち、周囲の反対を押し切って結ばれる。きっと父は、そんな物語を頭に描いたのだろう。そして、それを現実のものにした。
それは私の憧れであり、叶わぬ夢と思っていた――。
肩に回った彼の腕が、ぐっと私を抱き寄せた。思わず声を出しそうになるのを、私は必死にこらえる。
これは腕枕というのだろうか。
腕というよりも、私の頭が彼の肩口に載っかってしまっている。頬に彼の鎖骨を感じて、私の鼓動は爆発しそうに高鳴った。
素肌に触れているわけではない。けれど薄地のシャツなど、なんの意味もない。私とはまったく違う肌の香りを阻んだりはしないし、脈打つ体のわずかな動きさえ、損なうことなく滑らかに伝わってくる。
彼の吐息が私の前髪を揺らした。額がかっと熱を持ち、心臓がびくんと跳ね上がる。
彼の吐息が、再び私に掛かる。私は再び……。
――彼は規則的な寝息を立てている。そう、彼は寝ているのだ。熟睡している。信じられないことに! 私が、どんな思いをしているかなんて、お構いなしだ。
強引で、マイペースで、私の言うことなんて、ちっとも聞かない。
ただひたすらに、自分の決めた道に向かって突っ走っていく……。
――そんな強さに惹かれた。
彼の腕が、私の体を更に引き寄せた。私の上半身が彼の胸に載り、心臓と心臓が重なり合う。あまりの距離の近さに、私は思わず体を離そうとするが、細身なのに筋肉質な腕は振りほどけない。
私の心音がうるさくて、彼を起こしてしまいそう。なのに、鎮まれ、鎮まれと念じるたびに、私の心臓は勢いを増す。
これは夢じゃない。
目眩がしそう。
甘くて柔らかな、綿菓子のようなものだと思っていた。
優しい言葉と、温かい微笑みだけの世界だと思っていた。
けれど現実は、傷つけ合ったり、すれ違ったり、伝わらなかったり。泣いたり、怒ったり、笑ったり……。
自分の中の汚いものを全部さらけ出して、相手の強さも弱さも、まるごと受け入れて……。
――全身に、彼のぬくもりを感じる。
このぬくもりを、ずっとそばに感じていたい……。
寝室の小窓が、黄昏どきを告げていた。
彼の体が、ぴくりと動いた。
続けて、小さな呻き声。――目覚めたのだろう。
彼は、私の存在を確かめるかのように、両腕で強く抱きしめてきた。苦しさに、私が小さな声を漏らすと、腕の力がふっと緩む。そこで私は、初めて体を動かすことができた。抱きすくめられたまま、今まで彼の寝顔を見ることも叶わなかったのだ。
寝起きの彼は、まだ目がとろんとしていて、子猫のようだった。癖のある前髪が、更にぼさぼさになっている。
無防備な彼に、愛しさがこみ上げてきた。
そして、私は、にこやかに笑う。
「おはよう、ルイフォン」
黄昏の光が、きっと私の顔の赤さを隠してくれていると信じて――。
そのとき私は、たった五つの子供だった。
そんな子供に、父は真剣に恋を語った。
「一生に一度のお願いなんだ」
父は、祈るように両手を組んでいた。
貴族の当主としては、ぱっとしない男だった。庭の木陰で、ぼんやりと居眠りしているのが似合う人だった。
傍目には寝ているようにしか見えないけれど、彼はいつも、頭の中で冒険譚を描いているのだという。いつだったか、こっそり教えてくれた。
そんな、夢見がちな人だった。
「彼女を妻として迎えたい。君のお継母様になる。祝福してくれないだろうか」
緊張しているのか、大人相手のような言葉遣いで、父は頭を下げた。
私は彼女のことが大好きだったけれど、貴族の奥方に平民がふさわしくないことは、教育係から教えられていた。そして、口さがない親族たちが入れ替わり立ち替わり現れては、歯に衣着せぬ言葉を落としていった。
それに何より、彼女自身が私に言っていた。
――私は、だいそれたことなんて望まないわ。今のままがいいの……。
真面目で、義理堅いことだけが取り柄の父。年端もいかぬ娘にすら、筋を通そうと頭を垂れる。庭師にでも生まれ落ちていれば、きっと幸せな人生を送れたことだろう。
そんな父の、一生に一度の恋。
家の望むまま、愛も知らずに妻を娶り、破局した男の初めての想い。
「どうして、今のままじゃ駄目なの?」
彼女は我が家で事務の仕事をしていたから、毎日のように逢うことができた。私は花冠が完成したら、すぐに彼女に見せに行ったし、おやつは父の書斎で一緒に食べていた。
「夜の闇から目覚めた瞬間に、彼女の姿を瞳に映したいんだ。そして……」
「そして?」
口ごもる父に、私は小首をかしげる。
「暁の光の中で、彼女に『おはよう』って言ってもらいたい――」
そう言って父は、照れたように笑った。
聞きようによっては、愛の睦言にも取れる詩人めいた言葉。勿論、子供だった当時の私は、素直に、いつも共に在りたいということなのだと解釈した。
――今の私なら……。いえ、今の私でも、やはり父は、純粋な気持ちで言ったのではないかと思う。
ただ彼女に、いつもそばにいてほしいと願った。
運命の姫に出会った少年は恋に落ち、周囲の反対を押し切って結ばれる。きっと父は、そんな物語を頭に描いたのだろう。そして、それを現実のものにした。
それは私の憧れであり、叶わぬ夢と思っていた――。
肩に回った彼の腕が、ぐっと私を抱き寄せた。思わず声を出しそうになるのを、私は必死にこらえる。
これは腕枕というのだろうか。
腕というよりも、私の頭が彼の肩口に載っかってしまっている。頬に彼の鎖骨を感じて、私の鼓動は爆発しそうに高鳴った。
素肌に触れているわけではない。けれど薄地のシャツなど、なんの意味もない。私とはまったく違う肌の香りを阻んだりはしないし、脈打つ体のわずかな動きさえ、損なうことなく滑らかに伝わってくる。
彼の吐息が私の前髪を揺らした。額がかっと熱を持ち、心臓がびくんと跳ね上がる。
彼の吐息が、再び私に掛かる。私は再び……。
――彼は規則的な寝息を立てている。そう、彼は寝ているのだ。熟睡している。信じられないことに! 私が、どんな思いをしているかなんて、お構いなしだ。
強引で、マイペースで、私の言うことなんて、ちっとも聞かない。
ただひたすらに、自分の決めた道に向かって突っ走っていく……。
――そんな強さに惹かれた。
彼の腕が、私の体を更に引き寄せた。私の上半身が彼の胸に載り、心臓と心臓が重なり合う。あまりの距離の近さに、私は思わず体を離そうとするが、細身なのに筋肉質な腕は振りほどけない。
私の心音がうるさくて、彼を起こしてしまいそう。なのに、鎮まれ、鎮まれと念じるたびに、私の心臓は勢いを増す。
これは夢じゃない。
目眩がしそう。
甘くて柔らかな、綿菓子のようなものだと思っていた。
優しい言葉と、温かい微笑みだけの世界だと思っていた。
けれど現実は、傷つけ合ったり、すれ違ったり、伝わらなかったり。泣いたり、怒ったり、笑ったり……。
自分の中の汚いものを全部さらけ出して、相手の強さも弱さも、まるごと受け入れて……。
――全身に、彼のぬくもりを感じる。
このぬくもりを、ずっとそばに感じていたい……。
寝室の小窓が、黄昏どきを告げていた。
彼の体が、ぴくりと動いた。
続けて、小さな呻き声。――目覚めたのだろう。
彼は、私の存在を確かめるかのように、両腕で強く抱きしめてきた。苦しさに、私が小さな声を漏らすと、腕の力がふっと緩む。そこで私は、初めて体を動かすことができた。抱きすくめられたまま、今まで彼の寝顔を見ることも叶わなかったのだ。
寝起きの彼は、まだ目がとろんとしていて、子猫のようだった。癖のある前髪が、更にぼさぼさになっている。
無防備な彼に、愛しさがこみ上げてきた。
そして、私は、にこやかに笑う。
「おはよう、ルイフォン」
黄昏の光が、きっと私の顔の赤さを隠してくれていると信じて――。