残酷な描写あり
3.すれ違いの光と影ー1
頭上は、紺碧の空に覆われていた。
虚無の中に吸い込まれるような深い色。それに喰らいつくかのように、自らが立つ別荘からは、煌々とした光の牙が発せられている――。
斑目タオロンは、バルコニーの手すりに手をかけ、空を仰ぐ。
見通しの利く明るさは、闇を恐れる本能からすると、安堵するものである。だが彼は、天に撒き散らされているはずの星々を見失っているのではないかという、不安にかられていた。
タオロンは目線を下げ、庭を一望する。
張り出したバルコニーからは、一番端に植えてあるブルーベリーの低木までよく見えた。この別荘の元の持ち主たる貴族は、自慢の庭を愛でるために、このバルコニーを作ったのだろう。のちに凶賊の監視台になるとは、夢にも思わなかったに違いない。
手すりに体重をかけ、やや身を乗り出すようにして、タオロンは別荘の明かりから体を離す。向かい側で闇を作る、鬱蒼とした森に目を凝らした。
――いた。
散策路の口に、ふたつの人影。
ひとりは、キャンプ場に出たと報告のあった、鷹刀リュイセン。
そして、もうひとりは、貧民街でタオロンが完敗した、鷹刀ルイフォン――。
純粋な凶賊同士の勝負なら、ルイフォンの奇をてらった攻撃はご法度だった。だが彼は、ただ藤咲メイシアを守るためだけに戦った。だからタオロンは、ルイフォンを卑怯だとは思わない。
本当に来たのか、とタオロンは溜め息をついた。
できれば会いたくなかった。〈蝿〉が「この別荘には子猫が来ますよ」と言うのも、信じまいとしていた。
隣接するキャンプ場から少年たちの声が聞こえたとき、鷹刀ルイフォンの存在が頭をよぎった。だからこそ、部下を見に行かせた。そこらにいる、ただの悪餓鬼だったとの報告を期待したのだ。
ルイフォンは、負けん気の強そうな、まっすぐな少年だった。それでいて頭が回り、凶賊の総帥の実子でありながら、肉体派ではなく頭脳派。――戦闘には不向きなのに、命じれば代わりに戦ってくれる者はいくらでもいるであろうに、自ら乗り込んできた。
藤咲メイシアのために――。
無鉄砲な若さが羨ましい。
タオロンは、太い眉の間に皺を寄せる。
彼とて、まだ二十四である。童顔ゆえに、二十歳そこそこに見られることすらある。それでも彼は、ルイフォンに対して憧憬に近い思い――失われた星々に似た輝きを感じていた。
――タオロンの目が、じっと暗い森を見る。
他に人影はない。ふたりきりで潜入するつもりなのだろう。なんともルイフォンらしい。
こちらも別荘の警護を固めたいところだが、タオロンが指示を出す前に、誰かが勝手にキャンプ場に応援を送ったため、人手が足りない。曖昧な命令で、非番の者全員に通達されたのだ。
これで、よいのだ。――タオロンは、そう思う。
どの道、自分は駒にすぎない。遠くで煌めく星々よりも、手元で輝く珠のほうが、タオロンにとって比類なき存在。その七色の輝きのためになら、彼は泥水だって飲む。
タオロンが鋭い眼光を放つと、ルイフォンとリュイセンは、しっかりと応えた。
交錯する視線。
想いと想いが絡み合う。
――そこにいるのは分かっている。早く来い。
タオロンは、闇の中のふたりに向かって、無言で告げる。
そして、踵を返す。
藤咲姉弟の父親の部屋で待っていればよいのだ。ふたりは必ずたどり着く。
……その前に、ファンルゥの寝顔を見てこようと、タオロンは思った。
普段は聞き分けのよい子だが、今日に限っては「チョコをくれる約束だった」と散々、泣きわめいた。くりっとした大きな目を、涙でいっぱいにした顔には、正直、心が痛んだ。
理由も分からず、いきなり別荘に移動させられて、さぞ不安なことだろう。寂しさから、我儘を言って気を引きたかったのかもしれない。
まっすぐな廊下を、タオロンは歩く。右手側は部屋の扉が続き、左手は窓になっていた。夜でも明るい照明の廊下に対し、外は闇に沈んでいる。硝子窓が、鏡のようにタオロンの姿を映していた。
刈り上げた短髪。常に額に巻いている赤いバンダナは、藤咲メイシアに負傷させられた腕を覆うのに使ったため、今は洗濯中だ。そして、その下の太い眉は、いつもの精彩を欠いていた。
情けない男の顔だ。
タオロンは自嘲した。
このまま斑目一族に服従するのと、〈蝿〉の誘いに乗るのと、どちらがマシというものだろうか――。
そんな彼の葛藤は、ファンルゥのベッドを見た瞬間に、明後日の方向に吹き飛ばされた。
「――ファンルゥ!」
もぬけの殻だった。
皺になったシーツを前に、彼は自分の迂闊さを呪った。
誰に似たのやら、いざ行動に移ったら猪突猛進のファンルゥだ。寝たふりをしてタオロンを安心させ、充分に夜が更けてからチョコを探しに行ったのだろう。
いつもなら、とっくに睡魔に負けている時間だ。しかし、今日は移動中によく寝ていた。それに加え、初めて来た別荘という、見知らぬものに対する興奮。着いてすぐに、別荘中を探検していたほどの好奇心。ファンルゥが、おとなしく寝ているはずがなかった。
行き先は厨房か。
これから、この別荘は戦場になる。ファンルゥには見せたくない。早く見つけ出さねばならない。
タオロンは刈り上げた黒髪を掻きむしり、ふと気づく。
――厨房なら、まだいい。万が一、探検と称して地下に入ってしまったら?
ファンルゥが興味を持たないよう、タオロンは軽い口調で「地下には大事で、壊れやすいものがあるから行ってはいけないよ」とだけ言った。厳しく言い聞かせておくべきだったのだろうか。
ともかくファンルゥを探そうと、タオロンは部屋を飛び出した。
「糞……っ」
監視カメラが使えれば、と彼は毒づいた。別荘中のカメラが、鷹刀ルイフォンによって無用の長物になっていることは、先ほど確認済みだった。
そのとき、タオロンの携帯端末が鳴った。
「本邸から……?」
訝しげに受けると、タオロンの耳を衝撃が襲った。
曰く――。
斑目一族の資産の大部分が凍結された。こちらは今、大混乱である。
そちらの作戦の成功は、今後、重要な資金源となるから、心して遂行するよう――。
ルイフォンとリュイセンは、厨房からほど近い階段室にいた。
見取り図からすると、階段は二箇所にある。もと貴族の別荘ということを考えても、建物の中央にある、吹き抜けの大きなものがメイン階段だろう。そして、小ぢんまりとしたこちらは、使用人たちが使うことを想定して作られたものに違いない。
こちらの階段は他の部屋とは隔離された空間になっており、侵入者たるふたりにとって都合のよい構造になっていた。しかも狭い階段室でなら、敵と遭遇した際には、多勢に無勢でも一対一で戦える。
「それにしても人の気配が薄いな」
リュイセンが、半眼で耳をそばだてた。意識を集中したときの彼は、壁一枚隔てた向こう側の人数を当てることができる。
「このまま三階に上がろう」
廊下に比べ、やや照明が落とされた階段室を見上げ、ルイフォンが言った。三階の一番奥の部屋に、メイシアとハオリュウの父親が囚えられている。
二階に上がると、リュイセンがルイフォンに止まるように合図した。上を指差し、次に指を五本出す。
――三階の階段室を出た、すぐ先の廊下に、敵が五人いる。
潜入は既に知られており、目的も明らかである。ならば、階段よりは広い廊下で待つ、ということだろう。
ルイフォンは分かった、との意味で頷く。
ふたりは足音を殺して階段を登った。あと半階分で上がりきるというところまで来ると、ルイフォンも、おぼろげながら敵の気配を感じる。
おかしい、と彼は思った。
圧倒的な存在がない。この別荘には、タオロンと〈蝿〉がいるはずなのだ。あのふたりの気配が感じられない。
リュイセンも同じ疑問を抱いたようで、戸惑いの表情を見せた。目線がルイフォンの決断を求める。
ルイフォンは癖のある前髪を、くしゃりと掻き上げた。猫のような目を細めて階上を見上げ、不審な状況を睨みつける。
だが、逡巡は一瞬だった。前に進む以外に取る行動はない。
力強く頷き、リュイセンに意思を伝える。ルイフォンが、にやりと不敵な笑みを浮かべると、彼の兄貴分も同じ笑みで応えた。
ルイフォンは身を低くすると、するりとリュイセンの脇を抜けた。軽やかに階段を駆け上がり、そのまま一気に三階に登りきる。
しなやかな体は、立ち止まることなく、階段室から廊下に躍り出た。
壁に寄り掛かり、気を抜いた様子の五人の敵の姿が目に入った。
前触れもなく現れたルイフォンに、彼らは目を丸くしていた。だが、話に聞いていた鷹刀リュイセンではない。細身のルイフォンに対し、屈強な男たちだ。すぐに侮りの表情を浮かべる。
ルイフォンは無言のままに、真上に腕を振り上げた。
「は……?」
男たちの口から、疑問が漏れた。
それに構わず、ルイフォンは肘を前に突き出し、そこから一気に前腕を打ち下ろす。
袖を抜ける、金属の感触。
それが指先に伝わり、飛び出す瞬間に、手首で微妙な角度を与えながら解き放つ――!
小さな煌めきが、彗星の尾の如き残像を残しながら、一直線に流れていった。
やや潰れたような菱形の、ごく小さな刃。暗器と呼ばれる類の投擲武器。
ルイフォンは、腕力の限界から長刀を扱いきれない。それを無理に鍛えるよりも、身の軽さを生かすことを、イーレオの護衛であり、一族の武術師範であるチャオラウは教え込んだ。
一般的な投げナイフよりも更に小型の刃は、命中したところで、たいした殺傷能力はない。だが、その尖端にはミンウェイ特製の毒が塗ってあった。
刀の間合いの遥か外から飛来した凶刃が、男のひとりの眉間を貫く。
痛みよりも驚きの悲鳴を上げながら、男は倒れ込んだ。木の床に、したたか後頭部を打ち付け、二、三度、痙攣したのちに白目をむいて意識を失う。
「なっ!?」
男たちは殺気立ち、すぐさま抜刀する。と、同時に、ルイフォンも第二撃を打っていた。
――――!
甲高い金属音とともに、ルイフォンの刃は叩き落される。だが、そのときには、彼はひらりと身を翻し、階段室に舞い戻っていた。
残された四人の男は、あとを追う。
彼らが階段室にたどり着いたとき、階段の手すりを飛び越え、一気に二階に降りるルイフォンの背中が見えた。着地の衝撃音が振動を伴って聞こえ、更に階下へと降りる足音が響く。
「追え!」
男のひとりが叫んだ。
男たちが次々に階段を駆け下りる。彼らは、ルイフォンのように手すりを越えることはしない。あれは身が軽く、帯刀していないルイフォンだからこそ可能な技である。無理に真似して怪我でもしたら、馬鹿馬鹿しいこと、この上ない。
半階下まで降りた踊り場で、先頭の男が止まった。
「おいっ!?」
続いて降りてきていた男がぶつかり、ふたりがもつれるように階段から転げ落ちる。
慌てふためく怒声が、唐突に悲鳴に変わった。
「ひっ! た、鷹刀リュイセン……!」
癖のない黒髪を肩まで伸ばした、神の御業を疑う黄金比の美貌。噂に違わぬ美の化身が、素早く抜刀する。
耳を貫くような鋭い金属の響き――双刀が鞘走る音は、すぐさま男たちの絶叫に取って代わられた。
階上に残っていた男たちには、仲間が流星に打たれたかのように見えた。そして、次の瞬間には、階段を一足飛びに跳んできた星の輝きに、彼らもまた身を滅ぼされる。
まさに、一瞬。
流星が煌めいてから落ちるまでと、ほぼ同等の時間の出来ごとだった。
背後に控えていたルイフォンが、リュイセンに向かって親指を立てる。振り返ったリュイセンも、それを返した。
息の合った連携――天下無双のリュイセンなら、一対五くらいならば、たいした苦にもならない。けれど、できるだけ短時間、かつ確実に行動するために、ルイフォンが狭い階段室に敵を誘い込んだのだ。
ふたりは倒した敵を縛り上げ、脱出時に邪魔にならないよう、踊り場の端にどかした。
そして、相変わらずの人気のなさに疑念を抱きながら三階に上がり、ふたりは廊下の最奥にたどり着いた。――メイシアとハオリュウの父親の部屋の前に。
扉の向こうにある気配は、ひとつだけ。不可解な状況だが、進むしかない。
ルイフォンは緊張に震えながら、マスターキーを取り出した。
軽い解錠音。
彼がドアノブを回すと、ぎぃ……と、音を立てながら扉が開いた。
虚無の中に吸い込まれるような深い色。それに喰らいつくかのように、自らが立つ別荘からは、煌々とした光の牙が発せられている――。
斑目タオロンは、バルコニーの手すりに手をかけ、空を仰ぐ。
見通しの利く明るさは、闇を恐れる本能からすると、安堵するものである。だが彼は、天に撒き散らされているはずの星々を見失っているのではないかという、不安にかられていた。
タオロンは目線を下げ、庭を一望する。
張り出したバルコニーからは、一番端に植えてあるブルーベリーの低木までよく見えた。この別荘の元の持ち主たる貴族は、自慢の庭を愛でるために、このバルコニーを作ったのだろう。のちに凶賊の監視台になるとは、夢にも思わなかったに違いない。
手すりに体重をかけ、やや身を乗り出すようにして、タオロンは別荘の明かりから体を離す。向かい側で闇を作る、鬱蒼とした森に目を凝らした。
――いた。
散策路の口に、ふたつの人影。
ひとりは、キャンプ場に出たと報告のあった、鷹刀リュイセン。
そして、もうひとりは、貧民街でタオロンが完敗した、鷹刀ルイフォン――。
純粋な凶賊同士の勝負なら、ルイフォンの奇をてらった攻撃はご法度だった。だが彼は、ただ藤咲メイシアを守るためだけに戦った。だからタオロンは、ルイフォンを卑怯だとは思わない。
本当に来たのか、とタオロンは溜め息をついた。
できれば会いたくなかった。〈蝿〉が「この別荘には子猫が来ますよ」と言うのも、信じまいとしていた。
隣接するキャンプ場から少年たちの声が聞こえたとき、鷹刀ルイフォンの存在が頭をよぎった。だからこそ、部下を見に行かせた。そこらにいる、ただの悪餓鬼だったとの報告を期待したのだ。
ルイフォンは、負けん気の強そうな、まっすぐな少年だった。それでいて頭が回り、凶賊の総帥の実子でありながら、肉体派ではなく頭脳派。――戦闘には不向きなのに、命じれば代わりに戦ってくれる者はいくらでもいるであろうに、自ら乗り込んできた。
藤咲メイシアのために――。
無鉄砲な若さが羨ましい。
タオロンは、太い眉の間に皺を寄せる。
彼とて、まだ二十四である。童顔ゆえに、二十歳そこそこに見られることすらある。それでも彼は、ルイフォンに対して憧憬に近い思い――失われた星々に似た輝きを感じていた。
――タオロンの目が、じっと暗い森を見る。
他に人影はない。ふたりきりで潜入するつもりなのだろう。なんともルイフォンらしい。
こちらも別荘の警護を固めたいところだが、タオロンが指示を出す前に、誰かが勝手にキャンプ場に応援を送ったため、人手が足りない。曖昧な命令で、非番の者全員に通達されたのだ。
これで、よいのだ。――タオロンは、そう思う。
どの道、自分は駒にすぎない。遠くで煌めく星々よりも、手元で輝く珠のほうが、タオロンにとって比類なき存在。その七色の輝きのためになら、彼は泥水だって飲む。
タオロンが鋭い眼光を放つと、ルイフォンとリュイセンは、しっかりと応えた。
交錯する視線。
想いと想いが絡み合う。
――そこにいるのは分かっている。早く来い。
タオロンは、闇の中のふたりに向かって、無言で告げる。
そして、踵を返す。
藤咲姉弟の父親の部屋で待っていればよいのだ。ふたりは必ずたどり着く。
……その前に、ファンルゥの寝顔を見てこようと、タオロンは思った。
普段は聞き分けのよい子だが、今日に限っては「チョコをくれる約束だった」と散々、泣きわめいた。くりっとした大きな目を、涙でいっぱいにした顔には、正直、心が痛んだ。
理由も分からず、いきなり別荘に移動させられて、さぞ不安なことだろう。寂しさから、我儘を言って気を引きたかったのかもしれない。
まっすぐな廊下を、タオロンは歩く。右手側は部屋の扉が続き、左手は窓になっていた。夜でも明るい照明の廊下に対し、外は闇に沈んでいる。硝子窓が、鏡のようにタオロンの姿を映していた。
刈り上げた短髪。常に額に巻いている赤いバンダナは、藤咲メイシアに負傷させられた腕を覆うのに使ったため、今は洗濯中だ。そして、その下の太い眉は、いつもの精彩を欠いていた。
情けない男の顔だ。
タオロンは自嘲した。
このまま斑目一族に服従するのと、〈蝿〉の誘いに乗るのと、どちらがマシというものだろうか――。
そんな彼の葛藤は、ファンルゥのベッドを見た瞬間に、明後日の方向に吹き飛ばされた。
「――ファンルゥ!」
もぬけの殻だった。
皺になったシーツを前に、彼は自分の迂闊さを呪った。
誰に似たのやら、いざ行動に移ったら猪突猛進のファンルゥだ。寝たふりをしてタオロンを安心させ、充分に夜が更けてからチョコを探しに行ったのだろう。
いつもなら、とっくに睡魔に負けている時間だ。しかし、今日は移動中によく寝ていた。それに加え、初めて来た別荘という、見知らぬものに対する興奮。着いてすぐに、別荘中を探検していたほどの好奇心。ファンルゥが、おとなしく寝ているはずがなかった。
行き先は厨房か。
これから、この別荘は戦場になる。ファンルゥには見せたくない。早く見つけ出さねばならない。
タオロンは刈り上げた黒髪を掻きむしり、ふと気づく。
――厨房なら、まだいい。万が一、探検と称して地下に入ってしまったら?
ファンルゥが興味を持たないよう、タオロンは軽い口調で「地下には大事で、壊れやすいものがあるから行ってはいけないよ」とだけ言った。厳しく言い聞かせておくべきだったのだろうか。
ともかくファンルゥを探そうと、タオロンは部屋を飛び出した。
「糞……っ」
監視カメラが使えれば、と彼は毒づいた。別荘中のカメラが、鷹刀ルイフォンによって無用の長物になっていることは、先ほど確認済みだった。
そのとき、タオロンの携帯端末が鳴った。
「本邸から……?」
訝しげに受けると、タオロンの耳を衝撃が襲った。
曰く――。
斑目一族の資産の大部分が凍結された。こちらは今、大混乱である。
そちらの作戦の成功は、今後、重要な資金源となるから、心して遂行するよう――。
ルイフォンとリュイセンは、厨房からほど近い階段室にいた。
見取り図からすると、階段は二箇所にある。もと貴族の別荘ということを考えても、建物の中央にある、吹き抜けの大きなものがメイン階段だろう。そして、小ぢんまりとしたこちらは、使用人たちが使うことを想定して作られたものに違いない。
こちらの階段は他の部屋とは隔離された空間になっており、侵入者たるふたりにとって都合のよい構造になっていた。しかも狭い階段室でなら、敵と遭遇した際には、多勢に無勢でも一対一で戦える。
「それにしても人の気配が薄いな」
リュイセンが、半眼で耳をそばだてた。意識を集中したときの彼は、壁一枚隔てた向こう側の人数を当てることができる。
「このまま三階に上がろう」
廊下に比べ、やや照明が落とされた階段室を見上げ、ルイフォンが言った。三階の一番奥の部屋に、メイシアとハオリュウの父親が囚えられている。
二階に上がると、リュイセンがルイフォンに止まるように合図した。上を指差し、次に指を五本出す。
――三階の階段室を出た、すぐ先の廊下に、敵が五人いる。
潜入は既に知られており、目的も明らかである。ならば、階段よりは広い廊下で待つ、ということだろう。
ルイフォンは分かった、との意味で頷く。
ふたりは足音を殺して階段を登った。あと半階分で上がりきるというところまで来ると、ルイフォンも、おぼろげながら敵の気配を感じる。
おかしい、と彼は思った。
圧倒的な存在がない。この別荘には、タオロンと〈蝿〉がいるはずなのだ。あのふたりの気配が感じられない。
リュイセンも同じ疑問を抱いたようで、戸惑いの表情を見せた。目線がルイフォンの決断を求める。
ルイフォンは癖のある前髪を、くしゃりと掻き上げた。猫のような目を細めて階上を見上げ、不審な状況を睨みつける。
だが、逡巡は一瞬だった。前に進む以外に取る行動はない。
力強く頷き、リュイセンに意思を伝える。ルイフォンが、にやりと不敵な笑みを浮かべると、彼の兄貴分も同じ笑みで応えた。
ルイフォンは身を低くすると、するりとリュイセンの脇を抜けた。軽やかに階段を駆け上がり、そのまま一気に三階に登りきる。
しなやかな体は、立ち止まることなく、階段室から廊下に躍り出た。
壁に寄り掛かり、気を抜いた様子の五人の敵の姿が目に入った。
前触れもなく現れたルイフォンに、彼らは目を丸くしていた。だが、話に聞いていた鷹刀リュイセンではない。細身のルイフォンに対し、屈強な男たちだ。すぐに侮りの表情を浮かべる。
ルイフォンは無言のままに、真上に腕を振り上げた。
「は……?」
男たちの口から、疑問が漏れた。
それに構わず、ルイフォンは肘を前に突き出し、そこから一気に前腕を打ち下ろす。
袖を抜ける、金属の感触。
それが指先に伝わり、飛び出す瞬間に、手首で微妙な角度を与えながら解き放つ――!
小さな煌めきが、彗星の尾の如き残像を残しながら、一直線に流れていった。
やや潰れたような菱形の、ごく小さな刃。暗器と呼ばれる類の投擲武器。
ルイフォンは、腕力の限界から長刀を扱いきれない。それを無理に鍛えるよりも、身の軽さを生かすことを、イーレオの護衛であり、一族の武術師範であるチャオラウは教え込んだ。
一般的な投げナイフよりも更に小型の刃は、命中したところで、たいした殺傷能力はない。だが、その尖端にはミンウェイ特製の毒が塗ってあった。
刀の間合いの遥か外から飛来した凶刃が、男のひとりの眉間を貫く。
痛みよりも驚きの悲鳴を上げながら、男は倒れ込んだ。木の床に、したたか後頭部を打ち付け、二、三度、痙攣したのちに白目をむいて意識を失う。
「なっ!?」
男たちは殺気立ち、すぐさま抜刀する。と、同時に、ルイフォンも第二撃を打っていた。
――――!
甲高い金属音とともに、ルイフォンの刃は叩き落される。だが、そのときには、彼はひらりと身を翻し、階段室に舞い戻っていた。
残された四人の男は、あとを追う。
彼らが階段室にたどり着いたとき、階段の手すりを飛び越え、一気に二階に降りるルイフォンの背中が見えた。着地の衝撃音が振動を伴って聞こえ、更に階下へと降りる足音が響く。
「追え!」
男のひとりが叫んだ。
男たちが次々に階段を駆け下りる。彼らは、ルイフォンのように手すりを越えることはしない。あれは身が軽く、帯刀していないルイフォンだからこそ可能な技である。無理に真似して怪我でもしたら、馬鹿馬鹿しいこと、この上ない。
半階下まで降りた踊り場で、先頭の男が止まった。
「おいっ!?」
続いて降りてきていた男がぶつかり、ふたりがもつれるように階段から転げ落ちる。
慌てふためく怒声が、唐突に悲鳴に変わった。
「ひっ! た、鷹刀リュイセン……!」
癖のない黒髪を肩まで伸ばした、神の御業を疑う黄金比の美貌。噂に違わぬ美の化身が、素早く抜刀する。
耳を貫くような鋭い金属の響き――双刀が鞘走る音は、すぐさま男たちの絶叫に取って代わられた。
階上に残っていた男たちには、仲間が流星に打たれたかのように見えた。そして、次の瞬間には、階段を一足飛びに跳んできた星の輝きに、彼らもまた身を滅ぼされる。
まさに、一瞬。
流星が煌めいてから落ちるまでと、ほぼ同等の時間の出来ごとだった。
背後に控えていたルイフォンが、リュイセンに向かって親指を立てる。振り返ったリュイセンも、それを返した。
息の合った連携――天下無双のリュイセンなら、一対五くらいならば、たいした苦にもならない。けれど、できるだけ短時間、かつ確実に行動するために、ルイフォンが狭い階段室に敵を誘い込んだのだ。
ふたりは倒した敵を縛り上げ、脱出時に邪魔にならないよう、踊り場の端にどかした。
そして、相変わらずの人気のなさに疑念を抱きながら三階に上がり、ふたりは廊下の最奥にたどり着いた。――メイシアとハオリュウの父親の部屋の前に。
扉の向こうにある気配は、ひとつだけ。不可解な状況だが、進むしかない。
ルイフォンは緊張に震えながら、マスターキーを取り出した。
軽い解錠音。
彼がドアノブを回すと、ぎぃ……と、音を立てながら扉が開いた。