残酷な描写あり
5.紡ぎあげられた邂逅ー3
憤りを含んだ声と共に、乱暴に開かれた厨房の扉。その向こう側で、すらりと背の高い男が肩を怒らせていた。
「〈蝿〉……」
まだ、ぼうっとする頭で、ルイフォンは呟いた。夜であるにも関わらずサングラスを掛けているのは、顔を隠すためだろう。
敵を前にして平衡感覚が戻らぬ体に、ルイフォンは焦燥を覚えた。
突然、頭に激痛が走ったかと思ったら、ホンシュアの背から光の羽が現れた。朧げな意識の中で光に抱かれ……何が起きているのか分からないうちに、急に楽になった。
その直後の、〈蝿〉の登場である。
ルイフォンのそばに駆け寄ってきていたリュイセンは、くっ、と息を吐いた。打ち合わせでは〈蝿〉と遭遇した際には、リュイセンが牽制している間に、ルイフォンとコウレンが先に脱出する手はずになっていた。しかし今のルイフォンには、それを期待できそうにない。
リュイセンは、抱えていたコウレンをそっと床に横たえた。自力で動けない者がふたりもいては、担いで帰ることはできない。コウレンを薬で眠らせてしまったことに、今更ながら彼は後悔していた。
双刀の柄に手をかけ、リュイセンは前に踏み出す。
――突如、ホンシュアの背から白金の光が伸び、彼の行く手を阻んだ。
脈打つように太さと明るさを変える光の糸は、かなりの熱量を持っているらしい。触れずとも温度が伝わってくる。
「……なんのつもりだ?」
邪魔をするような光の羽に、リュイセンはホンシュアの意図を測りかね、眉を寄せた。
彼女は〈蝿〉と同じ、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉。だが、リュイセンが肌で感じた見解では、彼女は敵ではない。おそらくは、ルイフォンの母親の関係者というところだろう。
ホンシュアはリュイセンには答えず、座った姿勢のまま、ゆっくりと〈蝿〉を振り返った。白金の光に照らされ、神性すら感じられる顔は明らかな嫌悪をはらんでいる。
そんな彼女に〈蝿〉が低い声を掛けた。
「姿が見えないと思っていたら、こんなところで何をしていたんですか?」
侵入者たるルイフォンとリュイセンを無視して、〈蝿〉の顔は、まっすぐにホンシュアに向けられていた。
「……頼まれたこと以外……私の……自由で……いいでしょう……?」
ホンシュアの肩が荒い呼吸と共に上下し、それに併せるように背中の羽がざわざわと波打つ。羽から発せられる熱気が熱い風を生み出し、厨房の室温を上昇させた。
「鷹刀の子猫と、エルファンの小倅、それとイノシシ坊やの娘ですか。子供たちを集めて、お遊戯会でもするつもりですか?」
「……あなた、には……関係ない、でしょ……う……!」
苦しそうに言い返すホンシュアを〈蝿〉は鼻で嗤う。
「熱暴走とは相当に辛いもののようですね。つまり――そこまでするだけの理由が、あなたにはあるわけですね? 気になりますね。あなたがここで何をしようとしていたのか。――あなたが『誰』なのか」
「……答え、る……義理、は……ない、わ」
ホンシュアは両手を床につけ、倒れそうになる上体を懸命に支えながら、〈蝿〉を睨みつけた。拭うことのできない脂汗が、額からつぅっと滴る。
「あなたは私に与えられた道具ですよ。言うことを聞いてもらわなくては困ります」
わざとらしい溜め息をつき、〈蝿〉は肩をすくめた。そして軽く顎を上げ、ホンシュアを見下しながら言った。
「――それとも『デヴァイン・シンフォニア計画』とやらが頓挫しても構わないのですか? 私の技術が必要なのでしょう?」
勝ち誇ったような〈蝿〉に、しかしホンシュアは薄く嗤う。
「……あなたは、……自分のほうが、偉い、とでも……思っているの?」
ホンシュアの羽がひときわ輝き、人間の背丈ほどの長さだった網目状の糸の絡まりがほどけ、〈蝿〉を目指して伸びた。
「本気ですか? そんなことをすれば、熱暴走が止まらなくなりますよ?」
〈蝿〉は口元に薄ら笑いを浮かべる。だが、光の糸が足元に近づいてくると、避けるように一歩下がった。サングラスの目線が、糸の動きを警戒していた。――動揺を隠しきれていなかった。
「あなただって……記憶……書き……られるのが……怖いのね。……あなた、は……『呪い』と……呼んでいた……かしら……?」
「……こいつ!」
ホンシュアは嗤う。
長い髪を、顔貌を、むき出しの肩を……全身を白金の光で染め上げ、無慈悲な天使の微笑みを落とす。
「斑目には……あたかも、あなた自身が、……脳内介入できる、かのように……振る舞って……、あつかまし……。……所詮、あなた、も……『私』、の駒……なのに……!」
「……!」
〈蝿〉の怒気が膨れ上がった。だが、ホンシュアの放つ光が、それを押さえ込むかのように輝きを増す。
くっ、と〈蝿〉から小さな声が漏れ、不快げに鼻を鳴らした。しかし、それは一瞬のことで、彼はすぐに両手を上げる――小馬鹿にしたような態度で。
「ここは引きましょう。私のほうが分が悪い。あなたに呪われることだけは避けたいですからね」
彼は懐から小瓶を出し、近くの調理台に載せた。ことり、と置かれたそれには、透明な液体が入っており、透けた影を台の上に伸ばしていた。
「冷却剤です。今のあなたには必要なものでしょう?」
そう言いながら、〈蝿〉は音もなく、すっと扉を出ていこうとした。
「ま、待て!」
熱気で温められた空間を、鋭いテノールが切り裂いた。
床に座り込んだままのルイフォンが腕を伸ばし、去ろうとする〈蝿〉を捕まえようとするかのように指先が空を掴む。そばにいたリュイセンが「ルイフォン!?」と困惑の叫びを上げるが、ルイフォンはそれを聞き流した。
「〈蝿〉! 何故、俺たちを無視する?」
横たえられたコウレンの姿は〈蝿〉にも見えている。ルイフォンたちが何をしに来たか、一目瞭然だ。それを見逃すような真似をするのは腑に落ちなかった。
〈蝿〉は口の端を上げた。
「あなたたちは、その貴族に用があってきたのでしょう? そして、私は貴族には興味がない。私にとって意味があるのは鷹刀イーレオだけです。それだけのことです」
貴族など眼中にない。むしろ疑問に思われるとは心外だと言わんばかりの〈蝿〉である。
信用してよいのか否か微妙なところだが、確かに理にかなっている。
戸惑うルイフォンに、〈蝿〉は顔を向けた。サングラスの下の目は何を思っているのか分からないが、それでも嘲りの表情は見て取れた。
「あなたこそ、危険を顧みず、よくここまで来たものですね。あの小娘の色香に堕ちましたか?」
ルイフォンは反射的に、むっと鼻に皺を寄せた。
だが、くだらない挑発に乗っても平常心を失うだけだと、すぐに気づいた。――先ほど激痛に倒れたのが嘘であるかのように、思考がはっきりとしている。
彼は目を細め、にやりと不敵に嗤った。
「ああ、その通りだ。だから、俺があいつのために何かしてやりたい、って思うのは当然だろ?」
事もなげに答えるルイフォンに、〈蝿〉は冷ややかに言う。
「……興が冷めました。帰って小娘と甘い夜でも過ごすがよいでしょう」
「勿論、そのつもりだ」
畳み掛けるように、ルイフォンが言い返す。
やってられない、とばかりの溜め息を漏らし、〈蝿〉は立ち去ろうとした。その後ろ姿に、ルイフォンは問いかけた。
「お前、ミンウェイの父親、ヘイシャオだろ?」
「……さて?」
「でも、ヘイシャオは死んだはずだ。なら、ここにいるお前は何者だ?」
ゆっくりと立ち上がりながら、ルイフォンは自分の体が自由に動くことを確かめる。〈蝿〉の後ろ姿にじっと目を凝らし、間隔を測った。
「何者と言われましても、私は私ですよ。それとも私は、あなたが納得するような答えを言わなければならない義務でもあるのですか?」
ルイフォンは、ふぅと息を吐いた。そしてわずかに間を置き、落とした声で言った。
「それもそうだな」
その声の調子に、リュイセンは感づいた。目配せをしてルイフォンに了承を示し、臨戦態勢を取る。打ち合わせにはないが、この先は状況に合わせて従うという意味だ。
ルイフォンもリュイセンに目線を返し、言葉を続けた。
「もしかして、お前が本物のヘイシャオなら伝えておこうと思っただけだ。――ミンウェイの結婚が決まった」
〈蝿〉の動きが止まった。身構えていたリュイセンは、辛うじて平然を通す。
「相手は一族の男だ。いずれ総帥になる男――ここにいる、リュイセンだ」
「なんだと!」
眦を吊り上げ、〈蝿〉が振り返った。その瞬間、ルイフォンは隠し持っていた菱形の暗器を〈蝿〉のサングラスに向かって投げつける。
「――――!」
〈蝿〉のサングラスが弾かれ、宙に飛んだ。そこに晒された顔は――。
「エルファン……?」
「父上……」
――否。年齢が近いため酷似して見えるが、エルファンよりも頭髪に白いものが多く、血色が悪い。しかし、そっくりな顔。
紛うことなき鷹刀一族の血を色濃く表す風貌に、ルイフォンとリュイセンは絶句した。
〈蝿〉とは、ミンウェイの父ヘイシャオの〈悪魔〉としての名前。
けれど、ヘイシャオは死んだはずなのだ。
ならば、ここにいる〈蝿〉はヘイシャオのふりをした別人であるか、過去にヘイシャオとして死んだ者が身代わりであったか――このどちらかなのだ。
顔さえ見れば分かると、ルイフォンは考えた。鷹刀一族の直系なら、他の血族の者たちと似た顔であるはずだから、と。
「ミンウェイは俺のものだ。貴様などには渡さん!」
鬼の形相となり、〈蝿〉は、リュイセンに斬りかからんと刀に手をかけた。
そのとき――。
〈蝿〉の前を、光の糸が走り抜けた。はっと顔色を変えた〈蝿〉は、荒く息をつくホンシュアを睨みつける。
光の糸は数を増やし、〈蝿〉を牽制するように、足元に光の小川を作り出していった。
「……またの機会にしましょう」
〈蝿〉は落ちていたサングラスを拾い上げ、欠けていることに舌打ちしながら、足早に厨房を出ていった。
あとには沈黙が残されるのみ……。
「あの顔……」
ルイフォンが呟くと、リュイセンが「ああ」と応えた。
――どう見ても、一族の者だった。
深い溜め息をついて、ルイフォンは癖のある前髪をくしゃりと掻き上げる。
「……ミンウェイが俺と結婚、って、なんだよそれ?」
突っ込むどころか、驚くことさえ許されなかった大嘘に、リュイセンは抗議する。
「奴を動揺させるための方便だ。あそこで、ミンウェイの相手が俺と言っても、信憑性がないだろ?」
〈蝿〉が、ミンウェイの父ヘイシャオなら、一族が近親婚を繰り返してきたことを知っている。ミンウェイの相手がリュイセンだと言われれば、なんの疑問もなく信じ込むだろう。そう踏んでのことだったが、効果てきめんだった。
「……人の気も知らんで……」
リュイセンが口の中で呟いたとき、どさり、という物音がした。気力で体を支えていたホンシュアが、床に伏した音だった。
「〈蝿〉……」
まだ、ぼうっとする頭で、ルイフォンは呟いた。夜であるにも関わらずサングラスを掛けているのは、顔を隠すためだろう。
敵を前にして平衡感覚が戻らぬ体に、ルイフォンは焦燥を覚えた。
突然、頭に激痛が走ったかと思ったら、ホンシュアの背から光の羽が現れた。朧げな意識の中で光に抱かれ……何が起きているのか分からないうちに、急に楽になった。
その直後の、〈蝿〉の登場である。
ルイフォンのそばに駆け寄ってきていたリュイセンは、くっ、と息を吐いた。打ち合わせでは〈蝿〉と遭遇した際には、リュイセンが牽制している間に、ルイフォンとコウレンが先に脱出する手はずになっていた。しかし今のルイフォンには、それを期待できそうにない。
リュイセンは、抱えていたコウレンをそっと床に横たえた。自力で動けない者がふたりもいては、担いで帰ることはできない。コウレンを薬で眠らせてしまったことに、今更ながら彼は後悔していた。
双刀の柄に手をかけ、リュイセンは前に踏み出す。
――突如、ホンシュアの背から白金の光が伸び、彼の行く手を阻んだ。
脈打つように太さと明るさを変える光の糸は、かなりの熱量を持っているらしい。触れずとも温度が伝わってくる。
「……なんのつもりだ?」
邪魔をするような光の羽に、リュイセンはホンシュアの意図を測りかね、眉を寄せた。
彼女は〈蝿〉と同じ、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉。だが、リュイセンが肌で感じた見解では、彼女は敵ではない。おそらくは、ルイフォンの母親の関係者というところだろう。
ホンシュアはリュイセンには答えず、座った姿勢のまま、ゆっくりと〈蝿〉を振り返った。白金の光に照らされ、神性すら感じられる顔は明らかな嫌悪をはらんでいる。
そんな彼女に〈蝿〉が低い声を掛けた。
「姿が見えないと思っていたら、こんなところで何をしていたんですか?」
侵入者たるルイフォンとリュイセンを無視して、〈蝿〉の顔は、まっすぐにホンシュアに向けられていた。
「……頼まれたこと以外……私の……自由で……いいでしょう……?」
ホンシュアの肩が荒い呼吸と共に上下し、それに併せるように背中の羽がざわざわと波打つ。羽から発せられる熱気が熱い風を生み出し、厨房の室温を上昇させた。
「鷹刀の子猫と、エルファンの小倅、それとイノシシ坊やの娘ですか。子供たちを集めて、お遊戯会でもするつもりですか?」
「……あなた、には……関係ない、でしょ……う……!」
苦しそうに言い返すホンシュアを〈蝿〉は鼻で嗤う。
「熱暴走とは相当に辛いもののようですね。つまり――そこまでするだけの理由が、あなたにはあるわけですね? 気になりますね。あなたがここで何をしようとしていたのか。――あなたが『誰』なのか」
「……答え、る……義理、は……ない、わ」
ホンシュアは両手を床につけ、倒れそうになる上体を懸命に支えながら、〈蝿〉を睨みつけた。拭うことのできない脂汗が、額からつぅっと滴る。
「あなたは私に与えられた道具ですよ。言うことを聞いてもらわなくては困ります」
わざとらしい溜め息をつき、〈蝿〉は肩をすくめた。そして軽く顎を上げ、ホンシュアを見下しながら言った。
「――それとも『デヴァイン・シンフォニア計画』とやらが頓挫しても構わないのですか? 私の技術が必要なのでしょう?」
勝ち誇ったような〈蝿〉に、しかしホンシュアは薄く嗤う。
「……あなたは、……自分のほうが、偉い、とでも……思っているの?」
ホンシュアの羽がひときわ輝き、人間の背丈ほどの長さだった網目状の糸の絡まりがほどけ、〈蝿〉を目指して伸びた。
「本気ですか? そんなことをすれば、熱暴走が止まらなくなりますよ?」
〈蝿〉は口元に薄ら笑いを浮かべる。だが、光の糸が足元に近づいてくると、避けるように一歩下がった。サングラスの目線が、糸の動きを警戒していた。――動揺を隠しきれていなかった。
「あなただって……記憶……書き……られるのが……怖いのね。……あなた、は……『呪い』と……呼んでいた……かしら……?」
「……こいつ!」
ホンシュアは嗤う。
長い髪を、顔貌を、むき出しの肩を……全身を白金の光で染め上げ、無慈悲な天使の微笑みを落とす。
「斑目には……あたかも、あなた自身が、……脳内介入できる、かのように……振る舞って……、あつかまし……。……所詮、あなた、も……『私』、の駒……なのに……!」
「……!」
〈蝿〉の怒気が膨れ上がった。だが、ホンシュアの放つ光が、それを押さえ込むかのように輝きを増す。
くっ、と〈蝿〉から小さな声が漏れ、不快げに鼻を鳴らした。しかし、それは一瞬のことで、彼はすぐに両手を上げる――小馬鹿にしたような態度で。
「ここは引きましょう。私のほうが分が悪い。あなたに呪われることだけは避けたいですからね」
彼は懐から小瓶を出し、近くの調理台に載せた。ことり、と置かれたそれには、透明な液体が入っており、透けた影を台の上に伸ばしていた。
「冷却剤です。今のあなたには必要なものでしょう?」
そう言いながら、〈蝿〉は音もなく、すっと扉を出ていこうとした。
「ま、待て!」
熱気で温められた空間を、鋭いテノールが切り裂いた。
床に座り込んだままのルイフォンが腕を伸ばし、去ろうとする〈蝿〉を捕まえようとするかのように指先が空を掴む。そばにいたリュイセンが「ルイフォン!?」と困惑の叫びを上げるが、ルイフォンはそれを聞き流した。
「〈蝿〉! 何故、俺たちを無視する?」
横たえられたコウレンの姿は〈蝿〉にも見えている。ルイフォンたちが何をしに来たか、一目瞭然だ。それを見逃すような真似をするのは腑に落ちなかった。
〈蝿〉は口の端を上げた。
「あなたたちは、その貴族に用があってきたのでしょう? そして、私は貴族には興味がない。私にとって意味があるのは鷹刀イーレオだけです。それだけのことです」
貴族など眼中にない。むしろ疑問に思われるとは心外だと言わんばかりの〈蝿〉である。
信用してよいのか否か微妙なところだが、確かに理にかなっている。
戸惑うルイフォンに、〈蝿〉は顔を向けた。サングラスの下の目は何を思っているのか分からないが、それでも嘲りの表情は見て取れた。
「あなたこそ、危険を顧みず、よくここまで来たものですね。あの小娘の色香に堕ちましたか?」
ルイフォンは反射的に、むっと鼻に皺を寄せた。
だが、くだらない挑発に乗っても平常心を失うだけだと、すぐに気づいた。――先ほど激痛に倒れたのが嘘であるかのように、思考がはっきりとしている。
彼は目を細め、にやりと不敵に嗤った。
「ああ、その通りだ。だから、俺があいつのために何かしてやりたい、って思うのは当然だろ?」
事もなげに答えるルイフォンに、〈蝿〉は冷ややかに言う。
「……興が冷めました。帰って小娘と甘い夜でも過ごすがよいでしょう」
「勿論、そのつもりだ」
畳み掛けるように、ルイフォンが言い返す。
やってられない、とばかりの溜め息を漏らし、〈蝿〉は立ち去ろうとした。その後ろ姿に、ルイフォンは問いかけた。
「お前、ミンウェイの父親、ヘイシャオだろ?」
「……さて?」
「でも、ヘイシャオは死んだはずだ。なら、ここにいるお前は何者だ?」
ゆっくりと立ち上がりながら、ルイフォンは自分の体が自由に動くことを確かめる。〈蝿〉の後ろ姿にじっと目を凝らし、間隔を測った。
「何者と言われましても、私は私ですよ。それとも私は、あなたが納得するような答えを言わなければならない義務でもあるのですか?」
ルイフォンは、ふぅと息を吐いた。そしてわずかに間を置き、落とした声で言った。
「それもそうだな」
その声の調子に、リュイセンは感づいた。目配せをしてルイフォンに了承を示し、臨戦態勢を取る。打ち合わせにはないが、この先は状況に合わせて従うという意味だ。
ルイフォンもリュイセンに目線を返し、言葉を続けた。
「もしかして、お前が本物のヘイシャオなら伝えておこうと思っただけだ。――ミンウェイの結婚が決まった」
〈蝿〉の動きが止まった。身構えていたリュイセンは、辛うじて平然を通す。
「相手は一族の男だ。いずれ総帥になる男――ここにいる、リュイセンだ」
「なんだと!」
眦を吊り上げ、〈蝿〉が振り返った。その瞬間、ルイフォンは隠し持っていた菱形の暗器を〈蝿〉のサングラスに向かって投げつける。
「――――!」
〈蝿〉のサングラスが弾かれ、宙に飛んだ。そこに晒された顔は――。
「エルファン……?」
「父上……」
――否。年齢が近いため酷似して見えるが、エルファンよりも頭髪に白いものが多く、血色が悪い。しかし、そっくりな顔。
紛うことなき鷹刀一族の血を色濃く表す風貌に、ルイフォンとリュイセンは絶句した。
〈蝿〉とは、ミンウェイの父ヘイシャオの〈悪魔〉としての名前。
けれど、ヘイシャオは死んだはずなのだ。
ならば、ここにいる〈蝿〉はヘイシャオのふりをした別人であるか、過去にヘイシャオとして死んだ者が身代わりであったか――このどちらかなのだ。
顔さえ見れば分かると、ルイフォンは考えた。鷹刀一族の直系なら、他の血族の者たちと似た顔であるはずだから、と。
「ミンウェイは俺のものだ。貴様などには渡さん!」
鬼の形相となり、〈蝿〉は、リュイセンに斬りかからんと刀に手をかけた。
そのとき――。
〈蝿〉の前を、光の糸が走り抜けた。はっと顔色を変えた〈蝿〉は、荒く息をつくホンシュアを睨みつける。
光の糸は数を増やし、〈蝿〉を牽制するように、足元に光の小川を作り出していった。
「……またの機会にしましょう」
〈蝿〉は落ちていたサングラスを拾い上げ、欠けていることに舌打ちしながら、足早に厨房を出ていった。
あとには沈黙が残されるのみ……。
「あの顔……」
ルイフォンが呟くと、リュイセンが「ああ」と応えた。
――どう見ても、一族の者だった。
深い溜め息をついて、ルイフォンは癖のある前髪をくしゃりと掻き上げる。
「……ミンウェイが俺と結婚、って、なんだよそれ?」
突っ込むどころか、驚くことさえ許されなかった大嘘に、リュイセンは抗議する。
「奴を動揺させるための方便だ。あそこで、ミンウェイの相手が俺と言っても、信憑性がないだろ?」
〈蝿〉が、ミンウェイの父ヘイシャオなら、一族が近親婚を繰り返してきたことを知っている。ミンウェイの相手がリュイセンだと言われれば、なんの疑問もなく信じ込むだろう。そう踏んでのことだったが、効果てきめんだった。
「……人の気も知らんで……」
リュイセンが口の中で呟いたとき、どさり、という物音がした。気力で体を支えていたホンシュアが、床に伏した音だった。