残酷な描写あり
6.星影を抱く夜の終わりに
春の夜の外気よりも、更に低く室温の保たれた仕事部屋に、滑らかな打鍵音が木霊する。既に真夜中を回っていたが、ルイフォンは報告書を作るべく、キーボードに指を走らせていた。記憶が新しいうちに、できるだけ早く情報をまとめておきたかった。
これを朝一番にイーレオに提出する。外見はともかく実年齢はそれなりの総帥は、皆が無事に帰ってきたことに労いの言葉を与えたあと、早々に休んでいた。
不意に、部屋の扉がノックされた。
ミンウェイが茶でも持ってきてくれたのだろうか。そういえば、帰ってから彼女の姿を見ていない。
「勝手に入ってくれ」
キーを打つ手を止めることなく、ルイフォンは言った。
すると、廊下でかちゃんと陶器のぶつかる音がして、慌てたような小さな悲鳴が聞こえる。まごついた気配に、まさかと思いながら、作業中は極端に無精者になるルイフォンが席を立った。
脅かさないようにと気をつけながら、ゆっくりと扉を開くと、涙目のメイシアがそこにいた。
左手にはティーセットのトレイ。中身の入ったティーポットと伏せられたティーカップが手の震えに合わせて、かたかた音を立てている。一方の右手は、まさにドアノブをひねろうと半端に浮いた状態になっていた。
「ご、ごめんなさい。お茶を淹れてきたの……」
片手でトレイの重量を上手く支えきれず、バランスを崩してあわや、というところだったのだろう。トレイには少しお茶がこぼれていた。
ルイフォンの心がほっと温かくなる。
「ありがとう」
彼はひょいとトレイを取り上げ、メイシアに部屋に入るよう促した。急に軽くなった手に「あっ」と小さな声を上げながら、彼女は頬を染めてついてくる。
「親父さんのそばについてなくていいのか?」
眠ったままのコウレンは空いている客間に運び、メイシアとハオリュウに事情を話した。
監禁生活による精神への負担が大きかったらしいと告げると、彼らの顔に深い影が落ちた。だいぶ老け込んだように見えると、ハオリュウが溜め息混じりに証言していた。
「ハオリュウが看ていてくれるって。それで、ルイフォンのところに行ってきて、って」
「そうか」
メイシアとは再会もそこそこに、それぞれ仕事部屋と父親の客間とに分かれてしまったので、素直に嬉しい。
ハオリュウは、どういうわけだか、すっかり態度を軟化させていた。
あとで聞いたところによると、貴族の誇り高い彼が、ルイフォンより先に戻ったエルファンの部隊を門で出迎え、頭を下げたのだという。
ルイフォンに対しては、物言いたげでありながらも目を合わせないことで衝突を避けている。その様子は可笑しくもあった。
機械類をどかしてトレイを置くスペースを作り、机の下に入れてあった丸椅子を出してメイシアに勧める。持ってきてくれたお茶を注ごうとしたら、彼女が遮った。
「あ、あのっ! 私がやります。お茶も……私が淹れたの。教えてもらって……」
屋敷で一番、お茶を淹れるのが上手いメイドに教授してもらったのだと、顔を赤くしながら言う。普段は砂糖を入れないルイフォンだが、疲れているときには角砂糖をひとつ落とす。そんなことも習ってきたらしく、メイシアがぎこちない手つきでスプーンを回した。
「ど、どうぞ」
メイシアがじっと見つめる中、ルイフォンは手渡されたカップに口をつけた。
……たかが、お茶を飲むのに、これほど緊張したことはなかった。
「ルイフォン……?」
メイシアが、はっと顔色を変えた。慌てて自分の分を注いで飲む。途端、口元を抑えた。
たかが、お茶。味見をしてくるようなものではない。――メイシアが味を知らなくて当然だ。
「す、すみません!」
「いや、別に飲めないようなものじゃない。……ただ、これを『美味い』と言うべきか否か、悩んでいただけだ」
飲めない、というほどのものではない。ただ渋い。恐ろしく苦い。おそらく手際が悪いために抽出時間が長くなってしまったのだろう。多少、茶葉も多かったのかもしれない。だが、幸い砂糖の甘味もあるし、飲めないことはない。
実は、メイシアを指導したメイドには、味の予測がついていた。
親切なメイドは、メイシアにやり直しを勧めるつもりだった。しかし、先輩メイドが「初めは下手なほうが、ふたりのためなのよ」と小声で入れ知恵してきたのである。その結果、メイドは黙ってメイシアを見送ったのだった。
「も、申し訳ございません。淹れ直してまいります」
「いいって。それから謝るな」
告白以来、彼女ができるだけ敬語を使わないようにしていることに、ルイフォンは気づいていた。なのに、すっかり萎縮のメイシアに戻ってしまっている。
おどおどと見上げてくるメイシアの頭を、ルイフォンがくしゃりと撫でた。
「ありがとな。お前、茶なんて淹れたことなかったんだろ」
「はい。……恥ずかしながら」
彼女は彼に近づこうと努力してくれている。
それが、嬉しい。愛おしかった。
ルイフォンが思わずメイシアを抱きしめようとしたとき、彼女が真面目な顔になって彼を見つめた。
「本当にありがとうございました。父も、異母弟も無事に戻ってきました。私、なんて言ったらいいのか……」
抱擁のタイミングを逃したことを少し残念に思いながら、ルイフォンは微苦笑する。
「そんなにかしこまるな。俺は自分のやりたいことだけをやる男だ。お前の親父さんも、俺がお前に会わせたいと思ったから連れてきた。それだけだ」
「ルイフォン……」
「もっと気を楽にしてさ、自然で我儘なお前でいろよ。そして俺のそばに居てくれたら、それでいい」
その瞬間、メイシアの顔が強張った。
突然の変化にルイフォンは戸惑う。何も悪いことは言っていないはずだ。しかし、彼女は思い詰めたように口を開いた。
「あ、あの、ルイフォン。『俺のもとに来い』っていうの、あれは『駆け落ちしよう』って意味だったの……?」
「え? いや、別に。俺はお前に、ずっとそばに居てほしいと思ったし、親父にもお前の実家にもやりたくないから、俺のところに来いと言ったまでだが……?」
「あのね、ハオリュウがね、……それは駆け落ちだって」
おずおずと、緊張した様子でメイシアが言う。何故そんな顔をするのか、ルイフォンにはまったく分からない。
「……ハオリュウね、初めは鷹刀のことを、凶賊だからって毛嫌いしていたと思う。けど、お父様の救出に懸命になってくださる皆様を見て、考えを改めた。ルイフォンのことを認めてくれた。はっきり言わない子だけど、私には分かるの」
「え……?」
ハオリュウが、認めてくれた……?
「ハオリュウは、私が幸せになるなら祝福して送り出したい、って言ってくれた。けど、家事もできない状態じゃ無理だって。私……その通りだと思った」
メイシアの視線が、中身の残ったままのティーカップに落とされる。
「ルイフォンが『そばに居て』って言ってくれているのに、私は行けないの……。少なくとも、今はまだ、駄目なの……。ごめんなさい」
ルイフォンは、メイシアの不審な態度に、やっと納得がいった。肩を落としてうつむく仕草は憐れを誘ったが、その背後にハオリュウが見えてしまった。
「如何にも、ハオリュウらしいな」
こんなときは不機嫌になるべきなのだろうか? そう思いながらも、ルイフォンは口元に笑みを浮かべていた。
ハオリュウはメイシアの気持ちを尊重しつつ、ルイフォンの恋路を邪魔している。
なのに、何故か心が躍る。尊敬すべき好敵手を前にしたときのような、気持ちのよい高揚感がある。
「メイシア。俺としては、できれば鷹刀とも藤咲家とも仲良くやっていきたい。でも、認めてもらえないなら絶縁されても構わない。そういうスタンス。――だから『駆け落ちしよう』じゃない」
ルイフォンは、すっと立ち上がり、座ったままのメイシアを包み込むように抱きしめた。柔らかで温かな彼女の体が、びくりと震える。
「『嫁に来い』だ」
言葉の意味は甘いけれど、メイシアの耳元に囁かれるテノールは冴え冴えと鋭い。猫のように光る瞳は、鮮やかなほどに好戦的だった。
「えっ!?」
艶やかな前髪がルイフォンの鼻先をかすめ、メイシアの顔がぱっと上を向いた。目と目が、正面から合う。
「明日、お前の親父さんにちゃんと言う。ハオリュウにもだ。それから、俺の親父とも話をつける。皆に祝福されて、俺のもとに来い」
「ルイフォン……。嬉しい、凄く嬉しいと思う……! でも私……、ルイフォンのためにお茶ひとつ満足に淹れることができないの……!」
メイシアは泣きながら、そんなことを言う。
真剣に悩んでいるのは分かる。彼女にとってそれが大問題であるのも分かる。けれど、ルイフォンには些細なことで、彼女には悪いが、どうでもよいことだった。
「母さんが足が不自由だったから、俺はある程度の家事はできる。それに、必要なら人を雇えばいい。お前が実家でしていたような暮らしをしたければ、そうしてやる」
「……え?」
「お前にはまだ言ってなかったから知らないと思うけど、俺には一族の全員を養っていけるほどの財力がある」
「…………え?」
メイシアの瞳が微妙な色合いになった。彼女は、ルイフォンのもうひとつの名前を思い出したのだ。〈猫〉というクラッカーの――。
「非合法な情報の売買だと思ったろ……。それもあるけど、それ以外もやっている」
驚きに目を丸くするメイシアに、ルイフォンは得意気に目を細めた。
「株の自動取り引きって分かるか? 俺が作った独自のアルゴリズムで自動的に売買して儲けを出している。俺は一見、働いていないようで、ちゃんと稼いでいる。心配要らない」
他にも、金になる技術は幾らも持っている。
何しろ稼がなければ〈ベロ〉を始めとした機械類の電気代や保守費用を賄えないのだ。いくら鷹刀一族が凶賊でも、無尽蔵に金があるわけではない。〈ベロ〉だって自分の食い扶持は自分で稼ぐのだ。
「でも! それじゃ、私はルイフォンにお世話になるだけで、何も……」
勢い良く反論したメイシアだったが、言葉の終わりになるにつれ、何もできない自分を再認識するだけのことに気づき、力なく声が沈む。そんな彼女に、ルイフォンは優しく笑いかけた。
「俺は、自分のことを『計算のできる奴』だと思っている。そして、貴族のお前を手に入れようなんてのは馬鹿げたことだと、ちゃんと分かっている」
「……」
「お前を見て綺麗だな、と思う。美しいものは見ていて心地いいからな。お前に対して、最初はそんな、ただの好奇心だった。けどな――」
ルイフォンはそう言いながら、野生の獣のような鋭い眼差しでメイシアを捕らえた。
「俺が欲しいと思ったのは、お前の魂だ。純粋で、まっすぐで、強い。俺は何度も救われた。――お前がいいんだ。どんな計算をしても、俺の答えはお前だ」
「ルイフォン……」
「これからの具体的なことは、周りと話をつけなきゃ決まらないだろう。けど、約束してくれないか。どんな形であれ、俺のそばに居る、と」
「はい。私こそ……!」
涙の筋の残る白い顔が薄紅に色づき、花のようにほころんだ。その花の香に誘われるように、ルイフォンはそっと口づける。途端、花の色が赤く変わった。
初々しいメイシアに微笑しながら、ルイフォンは椅子に戻ってティーカップの中身を一気にあおった。「あっ」と声を上げる彼女は、やはり可愛らしい。
「もっと、いろいろ愛でたいところだが、報告書をまとめないといけないんでな」
「え、あ。す、すみません。私、ルイフォンの邪魔を……!」
慌てて席を立ったメイシアの腕を、ルイフォンはぐいっと掴んだ。突然のことに、メイシアは声もなく驚き、黒曜石の瞳を丸くする。
「もう少し、居てくれ」
衝いて出た言葉は、祈りに似ていた。
「――報告をまとめながら話すからさ、斑目の別荘でのことを聞いてくれないか。……あ、ごめん、眠いか」
「いえ、聞かせて下さい!」
再び、かしこまった態度になってしまったメイシアに、ルイフォンは苦笑する。
――だが、椅子から彼女を仰ぎ見て、はっとした。
彼女の眼差しは、優しく、温かく、力強く……。彼に力を与えてくれる、戦乙女のそれであった。
「あまり、いい話じゃない。……そばに居たら、お前も巻き込むのかもしれない。ごめんな。けど――」
彼の心は彼女に守られている。
ならば彼は、彼女の心も体も、全力で守るのみだ。
姿の見えない敵に無言で宣戦布告して、ルイフォンはメイシアに宣言する。
「――この先、俺はお前なしの生活なんて考えられないから」
「ル、ルイフォン……!」
あまりに強烈な文句に、メイシアは飛び出しそうになる心臓を抑えた。耳まで真っ赤にしてうつむき、小さな声で「ありがとうございます」と呟く。
そんな狼狽ぶりも可愛らしく、ルイフォンの心を和ませた。だが、下を向かれたままでは困るので、彼はいつもの調子に戻して他愛のない言葉を続けた。
「あとで俺が出掛けている間の、お前のことも聞きたいな。特に、お前とハオリュウが何を話したのか、とか」
やや年齢が離れた異母姉弟なのに、メイシアとハオリュウは仲が良い。秘密にしていたわけではないが、いつの間にか告白のことも伝わっていて……少しばかり妬ける。
メイシアの話を聞きたいと言ったのは、ただの興味本位からだった。
しかしルイフォンは、メイシアの顔に影が走るのを見逃さなかった。
「メイシア……?」
「あ……、すみません」
「謝るなよ。それより、何かあるんだろ? 言ってみろ」
どうせまた些細なことだろう。けれど不安の種があるのなら、芽を出さないうちに取り除いてやりたいと思う。
ルイフォンのそんな思いが伝わったのか、ためらっていたメイシアが硬い声で「根拠のない、ただの予感なんです」と前置きした。
「ハオリュウと話していて気になったんです。プライドの高い貴族の厳月が、このまま何もしないなんて、あり得るだろうか、って」
「厳月――?」
「はい。――だから、ふと思ったんです。厳月は、まだ斑目と縁を切っていないんじゃないか、って……」
長い長い夜が終わりを告げようとしているころ、ひとりの女が鷹刀一族の門前で車を降りた。
緩く結い上げた髪からは、襟元までの長めの後れ毛が流れ出て、柔らかく波打っていた。開いた胸元はストールで上品に覆っているものの、溢れる色香は隠しきれていない。
若くはないが、嫋やかで妖艶なる美女。
けれど、門衛たちは彼女に色目を使うことはなかった。姿を見た瞬間、極限まで背筋を伸ばし、こちらから迎え出ては最敬礼を取り、すぐさま屋敷内に案内する。――鷹刀一族総帥、イーレオのもとへ。
朝の早いイーレオでさえ、やや寝ぼけ眼の時間である。
しかし、総帥である彼が叩き起こされても、決して怒ることはなかった。
「どうしたんですか、シャオリエ」
彼が唯一、敬語を使う相手。繁華街の娼館の女主人、シャオリエ――。
「お前、シャツのボタンが段違いよ」
「急いでいたんだから、大目に見てください」
口を尖らすイーレオを、シャオリエが「子供みたいに拗ねないの」とたしなめる。
マイペースな彼女が話を脱線させないよう、イーレオは語気を強めて「いったい、どうしたんですか?」と繰り返した。
「あの子――メイシアに関することよ」
シャオリエの言葉に、イーレオは眼鏡の奥の目に緊張を走らせ、姿勢を正した。
「何か情報を得られないかと、スーリンが厳月家の三男を呼び出したのよ。スーリンはあの男のお気に入りだからね、ほいほい来たわ」
「スーリンが……」
くるくるのポニーテールの可愛らしい少女娼婦。ルイフォンがシャオリエに引き取られていた間、何かと面倒を見てくれた娘である。
「三男が夜中に家を抜け出す際、当主に忠告されたそうよ。『もうすぐ、お前と藤咲の娘の婚約が発表される。しばらく女遊びは控えろ』とね」
「ああ、シャオリエ。厳月家は斑目の裏切りで、もう無関係に……」
「待ってよ。私もそのことは聞いていたけど、おかしいわ。三男は『これからしばらく君のところへ来られない』と、今この瞬間も嘆きながらスーリンに甘えているのよ? それなのに厳月家がもう無関係だなんて言えるの?」
シャオリエの声が白み始めた空に響く。
欠けた月は地平線へと向かいながら、朝日の影へと姿を溶かしていった。
~ 第七章 了 ~
これを朝一番にイーレオに提出する。外見はともかく実年齢はそれなりの総帥は、皆が無事に帰ってきたことに労いの言葉を与えたあと、早々に休んでいた。
不意に、部屋の扉がノックされた。
ミンウェイが茶でも持ってきてくれたのだろうか。そういえば、帰ってから彼女の姿を見ていない。
「勝手に入ってくれ」
キーを打つ手を止めることなく、ルイフォンは言った。
すると、廊下でかちゃんと陶器のぶつかる音がして、慌てたような小さな悲鳴が聞こえる。まごついた気配に、まさかと思いながら、作業中は極端に無精者になるルイフォンが席を立った。
脅かさないようにと気をつけながら、ゆっくりと扉を開くと、涙目のメイシアがそこにいた。
左手にはティーセットのトレイ。中身の入ったティーポットと伏せられたティーカップが手の震えに合わせて、かたかた音を立てている。一方の右手は、まさにドアノブをひねろうと半端に浮いた状態になっていた。
「ご、ごめんなさい。お茶を淹れてきたの……」
片手でトレイの重量を上手く支えきれず、バランスを崩してあわや、というところだったのだろう。トレイには少しお茶がこぼれていた。
ルイフォンの心がほっと温かくなる。
「ありがとう」
彼はひょいとトレイを取り上げ、メイシアに部屋に入るよう促した。急に軽くなった手に「あっ」と小さな声を上げながら、彼女は頬を染めてついてくる。
「親父さんのそばについてなくていいのか?」
眠ったままのコウレンは空いている客間に運び、メイシアとハオリュウに事情を話した。
監禁生活による精神への負担が大きかったらしいと告げると、彼らの顔に深い影が落ちた。だいぶ老け込んだように見えると、ハオリュウが溜め息混じりに証言していた。
「ハオリュウが看ていてくれるって。それで、ルイフォンのところに行ってきて、って」
「そうか」
メイシアとは再会もそこそこに、それぞれ仕事部屋と父親の客間とに分かれてしまったので、素直に嬉しい。
ハオリュウは、どういうわけだか、すっかり態度を軟化させていた。
あとで聞いたところによると、貴族の誇り高い彼が、ルイフォンより先に戻ったエルファンの部隊を門で出迎え、頭を下げたのだという。
ルイフォンに対しては、物言いたげでありながらも目を合わせないことで衝突を避けている。その様子は可笑しくもあった。
機械類をどかしてトレイを置くスペースを作り、机の下に入れてあった丸椅子を出してメイシアに勧める。持ってきてくれたお茶を注ごうとしたら、彼女が遮った。
「あ、あのっ! 私がやります。お茶も……私が淹れたの。教えてもらって……」
屋敷で一番、お茶を淹れるのが上手いメイドに教授してもらったのだと、顔を赤くしながら言う。普段は砂糖を入れないルイフォンだが、疲れているときには角砂糖をひとつ落とす。そんなことも習ってきたらしく、メイシアがぎこちない手つきでスプーンを回した。
「ど、どうぞ」
メイシアがじっと見つめる中、ルイフォンは手渡されたカップに口をつけた。
……たかが、お茶を飲むのに、これほど緊張したことはなかった。
「ルイフォン……?」
メイシアが、はっと顔色を変えた。慌てて自分の分を注いで飲む。途端、口元を抑えた。
たかが、お茶。味見をしてくるようなものではない。――メイシアが味を知らなくて当然だ。
「す、すみません!」
「いや、別に飲めないようなものじゃない。……ただ、これを『美味い』と言うべきか否か、悩んでいただけだ」
飲めない、というほどのものではない。ただ渋い。恐ろしく苦い。おそらく手際が悪いために抽出時間が長くなってしまったのだろう。多少、茶葉も多かったのかもしれない。だが、幸い砂糖の甘味もあるし、飲めないことはない。
実は、メイシアを指導したメイドには、味の予測がついていた。
親切なメイドは、メイシアにやり直しを勧めるつもりだった。しかし、先輩メイドが「初めは下手なほうが、ふたりのためなのよ」と小声で入れ知恵してきたのである。その結果、メイドは黙ってメイシアを見送ったのだった。
「も、申し訳ございません。淹れ直してまいります」
「いいって。それから謝るな」
告白以来、彼女ができるだけ敬語を使わないようにしていることに、ルイフォンは気づいていた。なのに、すっかり萎縮のメイシアに戻ってしまっている。
おどおどと見上げてくるメイシアの頭を、ルイフォンがくしゃりと撫でた。
「ありがとな。お前、茶なんて淹れたことなかったんだろ」
「はい。……恥ずかしながら」
彼女は彼に近づこうと努力してくれている。
それが、嬉しい。愛おしかった。
ルイフォンが思わずメイシアを抱きしめようとしたとき、彼女が真面目な顔になって彼を見つめた。
「本当にありがとうございました。父も、異母弟も無事に戻ってきました。私、なんて言ったらいいのか……」
抱擁のタイミングを逃したことを少し残念に思いながら、ルイフォンは微苦笑する。
「そんなにかしこまるな。俺は自分のやりたいことだけをやる男だ。お前の親父さんも、俺がお前に会わせたいと思ったから連れてきた。それだけだ」
「ルイフォン……」
「もっと気を楽にしてさ、自然で我儘なお前でいろよ。そして俺のそばに居てくれたら、それでいい」
その瞬間、メイシアの顔が強張った。
突然の変化にルイフォンは戸惑う。何も悪いことは言っていないはずだ。しかし、彼女は思い詰めたように口を開いた。
「あ、あの、ルイフォン。『俺のもとに来い』っていうの、あれは『駆け落ちしよう』って意味だったの……?」
「え? いや、別に。俺はお前に、ずっとそばに居てほしいと思ったし、親父にもお前の実家にもやりたくないから、俺のところに来いと言ったまでだが……?」
「あのね、ハオリュウがね、……それは駆け落ちだって」
おずおずと、緊張した様子でメイシアが言う。何故そんな顔をするのか、ルイフォンにはまったく分からない。
「……ハオリュウね、初めは鷹刀のことを、凶賊だからって毛嫌いしていたと思う。けど、お父様の救出に懸命になってくださる皆様を見て、考えを改めた。ルイフォンのことを認めてくれた。はっきり言わない子だけど、私には分かるの」
「え……?」
ハオリュウが、認めてくれた……?
「ハオリュウは、私が幸せになるなら祝福して送り出したい、って言ってくれた。けど、家事もできない状態じゃ無理だって。私……その通りだと思った」
メイシアの視線が、中身の残ったままのティーカップに落とされる。
「ルイフォンが『そばに居て』って言ってくれているのに、私は行けないの……。少なくとも、今はまだ、駄目なの……。ごめんなさい」
ルイフォンは、メイシアの不審な態度に、やっと納得がいった。肩を落としてうつむく仕草は憐れを誘ったが、その背後にハオリュウが見えてしまった。
「如何にも、ハオリュウらしいな」
こんなときは不機嫌になるべきなのだろうか? そう思いながらも、ルイフォンは口元に笑みを浮かべていた。
ハオリュウはメイシアの気持ちを尊重しつつ、ルイフォンの恋路を邪魔している。
なのに、何故か心が躍る。尊敬すべき好敵手を前にしたときのような、気持ちのよい高揚感がある。
「メイシア。俺としては、できれば鷹刀とも藤咲家とも仲良くやっていきたい。でも、認めてもらえないなら絶縁されても構わない。そういうスタンス。――だから『駆け落ちしよう』じゃない」
ルイフォンは、すっと立ち上がり、座ったままのメイシアを包み込むように抱きしめた。柔らかで温かな彼女の体が、びくりと震える。
「『嫁に来い』だ」
言葉の意味は甘いけれど、メイシアの耳元に囁かれるテノールは冴え冴えと鋭い。猫のように光る瞳は、鮮やかなほどに好戦的だった。
「えっ!?」
艶やかな前髪がルイフォンの鼻先をかすめ、メイシアの顔がぱっと上を向いた。目と目が、正面から合う。
「明日、お前の親父さんにちゃんと言う。ハオリュウにもだ。それから、俺の親父とも話をつける。皆に祝福されて、俺のもとに来い」
「ルイフォン……。嬉しい、凄く嬉しいと思う……! でも私……、ルイフォンのためにお茶ひとつ満足に淹れることができないの……!」
メイシアは泣きながら、そんなことを言う。
真剣に悩んでいるのは分かる。彼女にとってそれが大問題であるのも分かる。けれど、ルイフォンには些細なことで、彼女には悪いが、どうでもよいことだった。
「母さんが足が不自由だったから、俺はある程度の家事はできる。それに、必要なら人を雇えばいい。お前が実家でしていたような暮らしをしたければ、そうしてやる」
「……え?」
「お前にはまだ言ってなかったから知らないと思うけど、俺には一族の全員を養っていけるほどの財力がある」
「…………え?」
メイシアの瞳が微妙な色合いになった。彼女は、ルイフォンのもうひとつの名前を思い出したのだ。〈猫〉というクラッカーの――。
「非合法な情報の売買だと思ったろ……。それもあるけど、それ以外もやっている」
驚きに目を丸くするメイシアに、ルイフォンは得意気に目を細めた。
「株の自動取り引きって分かるか? 俺が作った独自のアルゴリズムで自動的に売買して儲けを出している。俺は一見、働いていないようで、ちゃんと稼いでいる。心配要らない」
他にも、金になる技術は幾らも持っている。
何しろ稼がなければ〈ベロ〉を始めとした機械類の電気代や保守費用を賄えないのだ。いくら鷹刀一族が凶賊でも、無尽蔵に金があるわけではない。〈ベロ〉だって自分の食い扶持は自分で稼ぐのだ。
「でも! それじゃ、私はルイフォンにお世話になるだけで、何も……」
勢い良く反論したメイシアだったが、言葉の終わりになるにつれ、何もできない自分を再認識するだけのことに気づき、力なく声が沈む。そんな彼女に、ルイフォンは優しく笑いかけた。
「俺は、自分のことを『計算のできる奴』だと思っている。そして、貴族のお前を手に入れようなんてのは馬鹿げたことだと、ちゃんと分かっている」
「……」
「お前を見て綺麗だな、と思う。美しいものは見ていて心地いいからな。お前に対して、最初はそんな、ただの好奇心だった。けどな――」
ルイフォンはそう言いながら、野生の獣のような鋭い眼差しでメイシアを捕らえた。
「俺が欲しいと思ったのは、お前の魂だ。純粋で、まっすぐで、強い。俺は何度も救われた。――お前がいいんだ。どんな計算をしても、俺の答えはお前だ」
「ルイフォン……」
「これからの具体的なことは、周りと話をつけなきゃ決まらないだろう。けど、約束してくれないか。どんな形であれ、俺のそばに居る、と」
「はい。私こそ……!」
涙の筋の残る白い顔が薄紅に色づき、花のようにほころんだ。その花の香に誘われるように、ルイフォンはそっと口づける。途端、花の色が赤く変わった。
初々しいメイシアに微笑しながら、ルイフォンは椅子に戻ってティーカップの中身を一気にあおった。「あっ」と声を上げる彼女は、やはり可愛らしい。
「もっと、いろいろ愛でたいところだが、報告書をまとめないといけないんでな」
「え、あ。す、すみません。私、ルイフォンの邪魔を……!」
慌てて席を立ったメイシアの腕を、ルイフォンはぐいっと掴んだ。突然のことに、メイシアは声もなく驚き、黒曜石の瞳を丸くする。
「もう少し、居てくれ」
衝いて出た言葉は、祈りに似ていた。
「――報告をまとめながら話すからさ、斑目の別荘でのことを聞いてくれないか。……あ、ごめん、眠いか」
「いえ、聞かせて下さい!」
再び、かしこまった態度になってしまったメイシアに、ルイフォンは苦笑する。
――だが、椅子から彼女を仰ぎ見て、はっとした。
彼女の眼差しは、優しく、温かく、力強く……。彼に力を与えてくれる、戦乙女のそれであった。
「あまり、いい話じゃない。……そばに居たら、お前も巻き込むのかもしれない。ごめんな。けど――」
彼の心は彼女に守られている。
ならば彼は、彼女の心も体も、全力で守るのみだ。
姿の見えない敵に無言で宣戦布告して、ルイフォンはメイシアに宣言する。
「――この先、俺はお前なしの生活なんて考えられないから」
「ル、ルイフォン……!」
あまりに強烈な文句に、メイシアは飛び出しそうになる心臓を抑えた。耳まで真っ赤にしてうつむき、小さな声で「ありがとうございます」と呟く。
そんな狼狽ぶりも可愛らしく、ルイフォンの心を和ませた。だが、下を向かれたままでは困るので、彼はいつもの調子に戻して他愛のない言葉を続けた。
「あとで俺が出掛けている間の、お前のことも聞きたいな。特に、お前とハオリュウが何を話したのか、とか」
やや年齢が離れた異母姉弟なのに、メイシアとハオリュウは仲が良い。秘密にしていたわけではないが、いつの間にか告白のことも伝わっていて……少しばかり妬ける。
メイシアの話を聞きたいと言ったのは、ただの興味本位からだった。
しかしルイフォンは、メイシアの顔に影が走るのを見逃さなかった。
「メイシア……?」
「あ……、すみません」
「謝るなよ。それより、何かあるんだろ? 言ってみろ」
どうせまた些細なことだろう。けれど不安の種があるのなら、芽を出さないうちに取り除いてやりたいと思う。
ルイフォンのそんな思いが伝わったのか、ためらっていたメイシアが硬い声で「根拠のない、ただの予感なんです」と前置きした。
「ハオリュウと話していて気になったんです。プライドの高い貴族の厳月が、このまま何もしないなんて、あり得るだろうか、って」
「厳月――?」
「はい。――だから、ふと思ったんです。厳月は、まだ斑目と縁を切っていないんじゃないか、って……」
長い長い夜が終わりを告げようとしているころ、ひとりの女が鷹刀一族の門前で車を降りた。
緩く結い上げた髪からは、襟元までの長めの後れ毛が流れ出て、柔らかく波打っていた。開いた胸元はストールで上品に覆っているものの、溢れる色香は隠しきれていない。
若くはないが、嫋やかで妖艶なる美女。
けれど、門衛たちは彼女に色目を使うことはなかった。姿を見た瞬間、極限まで背筋を伸ばし、こちらから迎え出ては最敬礼を取り、すぐさま屋敷内に案内する。――鷹刀一族総帥、イーレオのもとへ。
朝の早いイーレオでさえ、やや寝ぼけ眼の時間である。
しかし、総帥である彼が叩き起こされても、決して怒ることはなかった。
「どうしたんですか、シャオリエ」
彼が唯一、敬語を使う相手。繁華街の娼館の女主人、シャオリエ――。
「お前、シャツのボタンが段違いよ」
「急いでいたんだから、大目に見てください」
口を尖らすイーレオを、シャオリエが「子供みたいに拗ねないの」とたしなめる。
マイペースな彼女が話を脱線させないよう、イーレオは語気を強めて「いったい、どうしたんですか?」と繰り返した。
「あの子――メイシアに関することよ」
シャオリエの言葉に、イーレオは眼鏡の奥の目に緊張を走らせ、姿勢を正した。
「何か情報を得られないかと、スーリンが厳月家の三男を呼び出したのよ。スーリンはあの男のお気に入りだからね、ほいほい来たわ」
「スーリンが……」
くるくるのポニーテールの可愛らしい少女娼婦。ルイフォンがシャオリエに引き取られていた間、何かと面倒を見てくれた娘である。
「三男が夜中に家を抜け出す際、当主に忠告されたそうよ。『もうすぐ、お前と藤咲の娘の婚約が発表される。しばらく女遊びは控えろ』とね」
「ああ、シャオリエ。厳月家は斑目の裏切りで、もう無関係に……」
「待ってよ。私もそのことは聞いていたけど、おかしいわ。三男は『これからしばらく君のところへ来られない』と、今この瞬間も嘆きながらスーリンに甘えているのよ? それなのに厳月家がもう無関係だなんて言えるの?」
シャオリエの声が白み始めた空に響く。
欠けた月は地平線へと向かいながら、朝日の影へと姿を溶かしていった。
~ 第七章 了 ~