残酷な描写あり
3.交差する符丁
ハオリュウは、与えられた客間で体を横たえていた。
ふかふかでありながらも程よくスプリングの効いたベッドは心地よく、実家のベッドと比べても遜色はない。燦々と降り注ぐ陽光は厚地のカーテンによって遮られ、昼間ながらも室内はやや薄暗くなっていた。
しかし、眠気はちっともやってこなかった。昨晩は椅子での仮眠しか取っていないのだから、疲労は溜まっているはずなのに、だ。
原因は、父への疑念。
あの父が、凶賊を相手に上手く立ち回ることなど、はなから期待していなかった。だが、何かが根本的に違うのだ。この異質な感じは、言い表すのは難しい……。
彼が、もう何度目か分からぬくらいの寝返りを打ったとき、遠慮がちなノック音が聞こえた。――と思ったら、続けて力強く扉が叩かれる。
「警察隊の緋扇シュアンだ。藤咲ハオリュウ氏に、至急お目通り願いたい」
「お、おやめください! お客様は今、お休み中です!」
男の声に、メイドらしき女性の悲鳴がかぶさった。
突然の騒音に、ハオリュウは眉を寄せた。いくら寝つけずにいたからといって、凪いだ空間に波を立てられるのは気にいらない。
扉を開けて一喝してやろうと、ベッドを降りた。が、そこで彼は冷静になった。
緋扇シュアンは、警察隊員でありながら凶賊の鷹刀一族と手を組みたいと申し出た、組織の裏切り者である。しかし警察隊の腐敗は、指揮官が斑目一族や厳月家と共謀していたことからも明らかであり、警察隊に忠誠を尽くす価値があるかは疑わしい。
一方で、シュアンと手を組んだ鷹刀一族は、ハオリュウとも友好関係にある。ハオリュウと舌戦を繰り広げたエルファンも、シュアンのことを『使える駒だ』と言っていた。となると、感情に任せて無駄にシュアンと敵対するのは得策ではない。
――そもそも、彼は何故、ハオリュウを訪ねてきたのか。
一応、面識はある。しかし、警察隊が鷹刀一族の屋敷に押しかけた際、最後の局面で一緒になり、それぞれ警察隊と藤咲家の代表として事務的に後処理をこなしただけだ。個人的な言葉を交わしたことはない。
ならば、貴族の権力が目的か――。
ハオリュウは瞬時にそこまで考え、扉の外に声を掛けた。
「すみません。少しお待ち下さい。身支度を整えます」
素早く続き部屋のバスルームに駆け込み、部屋着を脱ぎ捨ててスーツを着込む。顔を洗い、髪をとかし、鏡に映る十二歳の子供の顔を確認した。
シュアンの知るハオリュウは、歳の割にしっかりした異母姉思いの少年、といったところだろう。彼は瞳に残る不機嫌の影を消し去るべく、鏡像の自分に、にっこりと笑ってみせる。
部屋に戻り、厚いカーテンを開けた。眩しい光が、一気に注ぎ込む。
異母姉が案内された最上級の客間より、やや格落ちのこの部屋は、寝室と応接室が別になっていない。見苦しくないようにベッドを整え、ハオリュウはひと息つく。
部屋の掃除など、普段はメイド任せの作業だ。どの程度にしておけばよいのか勝手が分からない。異母姉に向かって、家事ができないと言ったことが、自分に返ってきてしまったようだ。
ハオリュウは自嘲し、それから自分の頬を、ぱんと軽く叩いた。子供らしい笑顔に戻し、扉に向かう。
「おまたせいたしました。お入りください」
高めのハスキーボイスを響かせ、ハオリュウはにこやかにシュアンを招き入れた。
ハオリュウが勧めた椅子に、シュアンは足を広げてどっかりと腰掛けた。血走った目は相変わらずだが、昨日よりも肌に色味がない。青筋の立った不健康そのものの容貌は、余裕のなさを表しているように見えた。
シュアンを案内してきたメイドが、しきりに頭を下げている。貴族のハオリュウに恐縮しているらしい。
「すみませんが、お茶を用意してくれませんか?」
彼女の心をほぐすように、ハオリュウは柔らかく頼んだ。しかし、シュアンが即座に断りを入れる。
「茶は要らん。それより、早くハオリュウ氏とふたりきりにしてくれ」
睨みつけるような三白眼に、メイドは小さな悲鳴を上げ、一礼して退室した。
「……随分とお急ぎのようですね、何があったのですか?」
随分と横暴ですね、と言いかけた言葉を引っ込め、ハオリュウはシュアンの顔を覗き込んだ。上目遣いの仕草は、非力な子供が素直な疑問を投げかけているように感じることだろう。
そんなまっすぐな視線に居心地の悪さを感じたのか、シュアンは小さく咳払いをした。
「お休み中のところ、失礼しました。快く面会を許可していただき、感謝します」
「いえ。緋扇さんにはお世話になりましたから。――それで僕になんのご用ですか? 堅苦しいのはやめて、なんでも遠慮なくおっしゃってください」
無理やり部屋に押しかけておきながら何を言う、と思いながら、ハオリュウは頼りにされたことを喜んでいるかのように目を輝かせる。
シュアンとは敵対しないと決めた以上、たいていのことなら協力してやるつもりだった。問題は、その恩を如何に高く売りつけてやるかであり、その糸口を探るためには相手の口を軽くしてやる必要があった。
「そう言ってくださると助かりますね。――いえね、あなたの権限で捕虜にした警察隊員のことで、ちょっとお願いがありましてね」
気安い口調でシュアンが話し始めた。ハオリュウは内心で我が意を得たりと思いつつ、神妙な顔を作る。
「お願い?」
「ええ。……捕虜の自白に、俺も立ち会ったんですよ」
軽快に話していたはずのシュアンの瞳に、一瞬だけ、陰りが混じる。
「ふたりの捕虜のうち、片方は正規の警察隊員でしてね……。実は、あの指揮官に脅されて、従っていただけだと分かったんです」
シュアンが眉を寄せ、渋い顔をした。声の調子を落とし、ハオリュウに言い聞かせるように言葉を続ける。
「勿論、いくら命令でも、彼があなたの大切な姉君に銃を向けたことは、弁護のしようがない。けど、あれは罠だったんです」
「罠……」
ハオリュウは全身の皮膚が粟立つのを感じた。
あのとき、一歩、間違えていれば異母姉は死んでいた。あの警察隊員の暴挙を思い出すだけで恐怖と怒りが湧いてくる。
それが、この話の流れはなんだ? 罠だと言って、あの男を弁護する気か?
不愉快だ。
ハオリュウの目が、冷ややかな光を帯びる。シュアンはそれに気づかない。
「不正の限りを尽くしていた指揮官は、人一倍、正義漢の彼が邪魔だった。だから罪を犯させ、排除しようとしたわけです。ちょうど総帥のイーレオさんに、誘拐の罪や傷害の罪が用意されていたのと同じですね」
「……」
ハオリュウは口を結び、じっとシュアンの顔を見据えた。
イーレオの罪は明らかに冤罪であり、彼の手は汚れていなかった。しかし、あの警察隊員は自らの手で異母姉に向かって発砲した。断じて同じではない。
「このままなら、彼は処罰を――おそらく極刑をまぬがれないでしょう。けれど、もとはと言えば、彼はあなたの権限で身柄を確保しました。そのあなたが『彼の罪は不問に付す』というお口添えをしてくだされば、彼を救えます。――ただ騙されただけの、不幸な男です。広い心で、恩情を願えませんかね……?」
シュアンが、ぐっと身を乗り出した。ぎょろりとした三白眼が、ハオリュウに絡みつく。
「あなたが断れば、彼は殺される。――あなただって、自分のせいで人が死ぬなんて、嫌でしょう?」
それは情に訴えているようで、実のところ脅迫だった。
気の弱い子供なら、シュアンに協力することこそが善行であると信じて、即座に首を縦に振っただろう。
だが、あいにくハオリュウは、気の弱い子供ではなかった。異母姉の生命を狙った輩など、極刑こそがふさわしいと考える。
ハオリュウは爆発しそうな怒りを押さえつけ、深呼吸をした。冷静になる必要があった。
何故なら――。
「何を言っているんですか、緋扇さん」
笑顔の仮面を顔に載せ、ハオリュウは首を傾げた。
「その男は既に死んでいるでしょう? どうやって、死者を死から救うというのですか?」
ハオリュウは、ミンウェイと一緒に目覚めぬ父を見守っていた。そのとき、彼女がぽつりと漏らしたのだ。――捕虜を死なせてしまった、と。
自白の場に居合わせたのなら、シュアンは男の死を知っているはずだ。
彼の意図が、分からない。
「……『知っていた』のか」
「ええ」
「ならよぉ……」
不意に、シュアンが立ち上がった。
ふらつく足取りでハオリュウに近寄る。ハオリュウは何ごとかと身構えたが、彼の体が自由だったのはそこまでで、あっという間に襟首を掴み上げられた。
「……っ!?」
ハオリュウの子供の体は、いとも簡単にシュアンに宙吊りにされた。床から離れた足が、ばたばたと空を泳ぐ。
「あんた、先輩が無実だって知ってんだろ! 知っていて、何、澄ました顔をしてやがる!」
狂気に満ちた三白眼が、目の前にあった。そのまま喉元を噛みつかれそうなほど近くに口があり、濁った息が拭きつけられる。
ハオリュウは、初めてシュアンに恐怖を覚えた。取るに足らぬ小者だと、見下していたことを後悔する。
「そうさ、先輩は死んでいる。俺が殺した!」
シュアンが叫んだ。
と、同時に手を離し、ハオリュウの尻が椅子に叩き落とされる。
ハオリュウは咳き込んだ。目からは涙が滲んでいる。だが、それよりも、シュアンが叫んだ『俺が殺した』という言葉に混乱していた。
下を向いたシュアンの睫毛は、床に目を落としているように見えた。けれど、その目の焦点は合っていなかった。
「……死んだ人間の汚名を雪ぐことに意味はない。俺は名誉なんてものに、これっぽっちも価値を見出していない。馬鹿馬鹿しいとすら思っている」
シュアンの声が静かに響いた。
「けど、先輩が悪く言われるのは許せない。俺の信じる正義とは別物だが、先輩は『正義』なんだ。だから、先輩を綺麗なまま送り出すことは、先輩を殺した俺の義務だ」
尋常ではないシュアンに、ハオリュウは自分が失言をしたのだと悟った。
ハオリュウが知っているのは捕虜の死だけであり、その経緯も事情も知らない。詳しいことは、午後になったら皆に招集をかけて説明されるらしいのだが、鷹刀一族ではない彼が、その場に居合わせてよいのかは定かではなかった。――そのくらい、捕虜と自白の件に関しては、ハオリュウは部外者だった。
シュアンは懐に手を入れ、黒光りする拳銃を取り出した。それをまっすぐに、ハオリュウに向ける。
「糞餓鬼」
シュアンの口元で、狂犬の牙が光る。
「今から俺は、お前の四肢を順に撃ち抜いていく。それが嫌なら、俺に従え。先輩は無実だと、貴族の権限を持って保証しろ」
血走った三白眼は気狂いじみていたが、同時に極めて冷静だった。
シュアンは『命が惜しければ』とは言わなかった。『四肢を順に撃ち抜いていく』と言った。殺したら役に立たないことを理解しているからだ。――それだけ、本気だった。
ハオリュウはごくりと唾を呑む。
「……分かりました。書状を作ります」
すぐにメイドに道具を用意させた。
その際、助けを求めるような真似はしなかった。鷹刀一族の手を借りれば、シュアンを捕まえることも可能だったかもしれないが、シュアンの言動が気になった。
したためた書状を封筒に入れ、シュアンに手渡す。すぐさま立ち去ろうとする彼を、ハオリュウは「待ってください」と呼び止めた。
「捕虜の件ですが、僕は彼らが死んだことはミンウェイさんから聞いていますが、あなたが殺したことは聞いていません。ご説明、願えますか?」
「え……?」
シュアンが口を半ば開いたまま、動きを止めた。間の抜けた顔は、悪相ながらも愛嬌がないわけでもない。
「〈影〉のことを知らないのか……?」
「〈影〉?」
「先輩は、〈七つの大罪〉という組織の〈蝿〉という奴に、別人にされたんだ。だから、あんな暴挙に……」
「……別人にされた?」
そのとき、ハオリュウの頭の中で符丁が合った。
別人のような父。食堂での会話の中で出てきた〈蝿〉という名前――。
「糞餓鬼、どうした?」
気づいたら、シュアンに支えられていた。椅子から落ちかけていたらしい。不覚とばかりにシュアンの腕を払いのけようとしたが、手が震えて上手く動かなかった。
「……詳しく、教えてください」
絞り出すようなハスキーボイスに、シュアンは顔色を変えた――。
「あんたみたいな餓鬼が……本気か?」
「ええ」
ハオリュウは頷き、薄く嗤った。
「あなたが自らの手を汚したように、これは僕がやるべきことなんですよ」
「……」
こんなとき、いつもなら皮肉混じりの軽口を叩くシュアンが、返す言葉を見つけられなかった。ぼさぼさ頭の下の三白眼が、ハオリュウの決然とした顔を捉え、やりきれなさに揺らぐ。
「異母姉より早く、この情報を手に入れられて本当によかった。あなたには感謝しますよ」
「……まぁ、やってみろ」
状況に反し、むしろ晴れやかに微笑むハオリュウに、シュアンは少しだけ制帽を下げて軽い礼を取った。
そのまま無言で退室しようとしたシュアンに、ハオリュウは「先ほどの書状を」と口にする。
「あれは、まだ家印が押されていないから無効ですよ」
「な、何ぃ!?」
驚くシュアンに、くすりと笑いながら、ハオリュウはメイドに用意してもらった道具を使って、蝋燭に火を灯した。
それから、スーツのポケットから、箱に入った金色の指輪を出した。父が目覚めたあと、正当な持ち主に返すべく箱に戻したのだが、ばたばたしているうちにそのままになっていたのだ。
封筒に蝋を垂らし、指輪を押し付けて家印を刻む。
「これで、正式な書状になりました」
にっこりと笑いながら、ハオリュウはシュアンに書状を返す。シュアンは、狐につままれたような顔で書状とハオリュウを見比べた。
「ええと、つまり……?」
「恐喝なんかで、僕が素直に従うはずがないでしょう?」
ハオリュウの無邪気な笑みの向こうに、シュアンは黒い影を見たのだった。
ふかふかでありながらも程よくスプリングの効いたベッドは心地よく、実家のベッドと比べても遜色はない。燦々と降り注ぐ陽光は厚地のカーテンによって遮られ、昼間ながらも室内はやや薄暗くなっていた。
しかし、眠気はちっともやってこなかった。昨晩は椅子での仮眠しか取っていないのだから、疲労は溜まっているはずなのに、だ。
原因は、父への疑念。
あの父が、凶賊を相手に上手く立ち回ることなど、はなから期待していなかった。だが、何かが根本的に違うのだ。この異質な感じは、言い表すのは難しい……。
彼が、もう何度目か分からぬくらいの寝返りを打ったとき、遠慮がちなノック音が聞こえた。――と思ったら、続けて力強く扉が叩かれる。
「警察隊の緋扇シュアンだ。藤咲ハオリュウ氏に、至急お目通り願いたい」
「お、おやめください! お客様は今、お休み中です!」
男の声に、メイドらしき女性の悲鳴がかぶさった。
突然の騒音に、ハオリュウは眉を寄せた。いくら寝つけずにいたからといって、凪いだ空間に波を立てられるのは気にいらない。
扉を開けて一喝してやろうと、ベッドを降りた。が、そこで彼は冷静になった。
緋扇シュアンは、警察隊員でありながら凶賊の鷹刀一族と手を組みたいと申し出た、組織の裏切り者である。しかし警察隊の腐敗は、指揮官が斑目一族や厳月家と共謀していたことからも明らかであり、警察隊に忠誠を尽くす価値があるかは疑わしい。
一方で、シュアンと手を組んだ鷹刀一族は、ハオリュウとも友好関係にある。ハオリュウと舌戦を繰り広げたエルファンも、シュアンのことを『使える駒だ』と言っていた。となると、感情に任せて無駄にシュアンと敵対するのは得策ではない。
――そもそも、彼は何故、ハオリュウを訪ねてきたのか。
一応、面識はある。しかし、警察隊が鷹刀一族の屋敷に押しかけた際、最後の局面で一緒になり、それぞれ警察隊と藤咲家の代表として事務的に後処理をこなしただけだ。個人的な言葉を交わしたことはない。
ならば、貴族の権力が目的か――。
ハオリュウは瞬時にそこまで考え、扉の外に声を掛けた。
「すみません。少しお待ち下さい。身支度を整えます」
素早く続き部屋のバスルームに駆け込み、部屋着を脱ぎ捨ててスーツを着込む。顔を洗い、髪をとかし、鏡に映る十二歳の子供の顔を確認した。
シュアンの知るハオリュウは、歳の割にしっかりした異母姉思いの少年、といったところだろう。彼は瞳に残る不機嫌の影を消し去るべく、鏡像の自分に、にっこりと笑ってみせる。
部屋に戻り、厚いカーテンを開けた。眩しい光が、一気に注ぎ込む。
異母姉が案内された最上級の客間より、やや格落ちのこの部屋は、寝室と応接室が別になっていない。見苦しくないようにベッドを整え、ハオリュウはひと息つく。
部屋の掃除など、普段はメイド任せの作業だ。どの程度にしておけばよいのか勝手が分からない。異母姉に向かって、家事ができないと言ったことが、自分に返ってきてしまったようだ。
ハオリュウは自嘲し、それから自分の頬を、ぱんと軽く叩いた。子供らしい笑顔に戻し、扉に向かう。
「おまたせいたしました。お入りください」
高めのハスキーボイスを響かせ、ハオリュウはにこやかにシュアンを招き入れた。
ハオリュウが勧めた椅子に、シュアンは足を広げてどっかりと腰掛けた。血走った目は相変わらずだが、昨日よりも肌に色味がない。青筋の立った不健康そのものの容貌は、余裕のなさを表しているように見えた。
シュアンを案内してきたメイドが、しきりに頭を下げている。貴族のハオリュウに恐縮しているらしい。
「すみませんが、お茶を用意してくれませんか?」
彼女の心をほぐすように、ハオリュウは柔らかく頼んだ。しかし、シュアンが即座に断りを入れる。
「茶は要らん。それより、早くハオリュウ氏とふたりきりにしてくれ」
睨みつけるような三白眼に、メイドは小さな悲鳴を上げ、一礼して退室した。
「……随分とお急ぎのようですね、何があったのですか?」
随分と横暴ですね、と言いかけた言葉を引っ込め、ハオリュウはシュアンの顔を覗き込んだ。上目遣いの仕草は、非力な子供が素直な疑問を投げかけているように感じることだろう。
そんなまっすぐな視線に居心地の悪さを感じたのか、シュアンは小さく咳払いをした。
「お休み中のところ、失礼しました。快く面会を許可していただき、感謝します」
「いえ。緋扇さんにはお世話になりましたから。――それで僕になんのご用ですか? 堅苦しいのはやめて、なんでも遠慮なくおっしゃってください」
無理やり部屋に押しかけておきながら何を言う、と思いながら、ハオリュウは頼りにされたことを喜んでいるかのように目を輝かせる。
シュアンとは敵対しないと決めた以上、たいていのことなら協力してやるつもりだった。問題は、その恩を如何に高く売りつけてやるかであり、その糸口を探るためには相手の口を軽くしてやる必要があった。
「そう言ってくださると助かりますね。――いえね、あなたの権限で捕虜にした警察隊員のことで、ちょっとお願いがありましてね」
気安い口調でシュアンが話し始めた。ハオリュウは内心で我が意を得たりと思いつつ、神妙な顔を作る。
「お願い?」
「ええ。……捕虜の自白に、俺も立ち会ったんですよ」
軽快に話していたはずのシュアンの瞳に、一瞬だけ、陰りが混じる。
「ふたりの捕虜のうち、片方は正規の警察隊員でしてね……。実は、あの指揮官に脅されて、従っていただけだと分かったんです」
シュアンが眉を寄せ、渋い顔をした。声の調子を落とし、ハオリュウに言い聞かせるように言葉を続ける。
「勿論、いくら命令でも、彼があなたの大切な姉君に銃を向けたことは、弁護のしようがない。けど、あれは罠だったんです」
「罠……」
ハオリュウは全身の皮膚が粟立つのを感じた。
あのとき、一歩、間違えていれば異母姉は死んでいた。あの警察隊員の暴挙を思い出すだけで恐怖と怒りが湧いてくる。
それが、この話の流れはなんだ? 罠だと言って、あの男を弁護する気か?
不愉快だ。
ハオリュウの目が、冷ややかな光を帯びる。シュアンはそれに気づかない。
「不正の限りを尽くしていた指揮官は、人一倍、正義漢の彼が邪魔だった。だから罪を犯させ、排除しようとしたわけです。ちょうど総帥のイーレオさんに、誘拐の罪や傷害の罪が用意されていたのと同じですね」
「……」
ハオリュウは口を結び、じっとシュアンの顔を見据えた。
イーレオの罪は明らかに冤罪であり、彼の手は汚れていなかった。しかし、あの警察隊員は自らの手で異母姉に向かって発砲した。断じて同じではない。
「このままなら、彼は処罰を――おそらく極刑をまぬがれないでしょう。けれど、もとはと言えば、彼はあなたの権限で身柄を確保しました。そのあなたが『彼の罪は不問に付す』というお口添えをしてくだされば、彼を救えます。――ただ騙されただけの、不幸な男です。広い心で、恩情を願えませんかね……?」
シュアンが、ぐっと身を乗り出した。ぎょろりとした三白眼が、ハオリュウに絡みつく。
「あなたが断れば、彼は殺される。――あなただって、自分のせいで人が死ぬなんて、嫌でしょう?」
それは情に訴えているようで、実のところ脅迫だった。
気の弱い子供なら、シュアンに協力することこそが善行であると信じて、即座に首を縦に振っただろう。
だが、あいにくハオリュウは、気の弱い子供ではなかった。異母姉の生命を狙った輩など、極刑こそがふさわしいと考える。
ハオリュウは爆発しそうな怒りを押さえつけ、深呼吸をした。冷静になる必要があった。
何故なら――。
「何を言っているんですか、緋扇さん」
笑顔の仮面を顔に載せ、ハオリュウは首を傾げた。
「その男は既に死んでいるでしょう? どうやって、死者を死から救うというのですか?」
ハオリュウは、ミンウェイと一緒に目覚めぬ父を見守っていた。そのとき、彼女がぽつりと漏らしたのだ。――捕虜を死なせてしまった、と。
自白の場に居合わせたのなら、シュアンは男の死を知っているはずだ。
彼の意図が、分からない。
「……『知っていた』のか」
「ええ」
「ならよぉ……」
不意に、シュアンが立ち上がった。
ふらつく足取りでハオリュウに近寄る。ハオリュウは何ごとかと身構えたが、彼の体が自由だったのはそこまでで、あっという間に襟首を掴み上げられた。
「……っ!?」
ハオリュウの子供の体は、いとも簡単にシュアンに宙吊りにされた。床から離れた足が、ばたばたと空を泳ぐ。
「あんた、先輩が無実だって知ってんだろ! 知っていて、何、澄ました顔をしてやがる!」
狂気に満ちた三白眼が、目の前にあった。そのまま喉元を噛みつかれそうなほど近くに口があり、濁った息が拭きつけられる。
ハオリュウは、初めてシュアンに恐怖を覚えた。取るに足らぬ小者だと、見下していたことを後悔する。
「そうさ、先輩は死んでいる。俺が殺した!」
シュアンが叫んだ。
と、同時に手を離し、ハオリュウの尻が椅子に叩き落とされる。
ハオリュウは咳き込んだ。目からは涙が滲んでいる。だが、それよりも、シュアンが叫んだ『俺が殺した』という言葉に混乱していた。
下を向いたシュアンの睫毛は、床に目を落としているように見えた。けれど、その目の焦点は合っていなかった。
「……死んだ人間の汚名を雪ぐことに意味はない。俺は名誉なんてものに、これっぽっちも価値を見出していない。馬鹿馬鹿しいとすら思っている」
シュアンの声が静かに響いた。
「けど、先輩が悪く言われるのは許せない。俺の信じる正義とは別物だが、先輩は『正義』なんだ。だから、先輩を綺麗なまま送り出すことは、先輩を殺した俺の義務だ」
尋常ではないシュアンに、ハオリュウは自分が失言をしたのだと悟った。
ハオリュウが知っているのは捕虜の死だけであり、その経緯も事情も知らない。詳しいことは、午後になったら皆に招集をかけて説明されるらしいのだが、鷹刀一族ではない彼が、その場に居合わせてよいのかは定かではなかった。――そのくらい、捕虜と自白の件に関しては、ハオリュウは部外者だった。
シュアンは懐に手を入れ、黒光りする拳銃を取り出した。それをまっすぐに、ハオリュウに向ける。
「糞餓鬼」
シュアンの口元で、狂犬の牙が光る。
「今から俺は、お前の四肢を順に撃ち抜いていく。それが嫌なら、俺に従え。先輩は無実だと、貴族の権限を持って保証しろ」
血走った三白眼は気狂いじみていたが、同時に極めて冷静だった。
シュアンは『命が惜しければ』とは言わなかった。『四肢を順に撃ち抜いていく』と言った。殺したら役に立たないことを理解しているからだ。――それだけ、本気だった。
ハオリュウはごくりと唾を呑む。
「……分かりました。書状を作ります」
すぐにメイドに道具を用意させた。
その際、助けを求めるような真似はしなかった。鷹刀一族の手を借りれば、シュアンを捕まえることも可能だったかもしれないが、シュアンの言動が気になった。
したためた書状を封筒に入れ、シュアンに手渡す。すぐさま立ち去ろうとする彼を、ハオリュウは「待ってください」と呼び止めた。
「捕虜の件ですが、僕は彼らが死んだことはミンウェイさんから聞いていますが、あなたが殺したことは聞いていません。ご説明、願えますか?」
「え……?」
シュアンが口を半ば開いたまま、動きを止めた。間の抜けた顔は、悪相ながらも愛嬌がないわけでもない。
「〈影〉のことを知らないのか……?」
「〈影〉?」
「先輩は、〈七つの大罪〉という組織の〈蝿〉という奴に、別人にされたんだ。だから、あんな暴挙に……」
「……別人にされた?」
そのとき、ハオリュウの頭の中で符丁が合った。
別人のような父。食堂での会話の中で出てきた〈蝿〉という名前――。
「糞餓鬼、どうした?」
気づいたら、シュアンに支えられていた。椅子から落ちかけていたらしい。不覚とばかりにシュアンの腕を払いのけようとしたが、手が震えて上手く動かなかった。
「……詳しく、教えてください」
絞り出すようなハスキーボイスに、シュアンは顔色を変えた――。
「あんたみたいな餓鬼が……本気か?」
「ええ」
ハオリュウは頷き、薄く嗤った。
「あなたが自らの手を汚したように、これは僕がやるべきことなんですよ」
「……」
こんなとき、いつもなら皮肉混じりの軽口を叩くシュアンが、返す言葉を見つけられなかった。ぼさぼさ頭の下の三白眼が、ハオリュウの決然とした顔を捉え、やりきれなさに揺らぐ。
「異母姉より早く、この情報を手に入れられて本当によかった。あなたには感謝しますよ」
「……まぁ、やってみろ」
状況に反し、むしろ晴れやかに微笑むハオリュウに、シュアンは少しだけ制帽を下げて軽い礼を取った。
そのまま無言で退室しようとしたシュアンに、ハオリュウは「先ほどの書状を」と口にする。
「あれは、まだ家印が押されていないから無効ですよ」
「な、何ぃ!?」
驚くシュアンに、くすりと笑いながら、ハオリュウはメイドに用意してもらった道具を使って、蝋燭に火を灯した。
それから、スーツのポケットから、箱に入った金色の指輪を出した。父が目覚めたあと、正当な持ち主に返すべく箱に戻したのだが、ばたばたしているうちにそのままになっていたのだ。
封筒に蝋を垂らし、指輪を押し付けて家印を刻む。
「これで、正式な書状になりました」
にっこりと笑いながら、ハオリュウはシュアンに書状を返す。シュアンは、狐につままれたような顔で書状とハオリュウを見比べた。
「ええと、つまり……?」
「恐喝なんかで、僕が素直に従うはずがないでしょう?」
ハオリュウの無邪気な笑みの向こうに、シュアンは黒い影を見たのだった。