残酷な描写あり
8.雨音の子守唄
雨音が、夜を飾る。
闇は深くとも、静かに雫の落ちるさまは瞼に浮かぶ。
けれど、触れねば分からない。
窓を打つのは、花流しの冷たい雨か。あるいは、芽吹きの温かな雨か……。
「……また、俺は助けられなかったんだな」
イーレオが溜め息をつき、執務机の椅子に背を預けた。
瞳を閉じれば、秀でた額に皺が寄る。いくら若作りをしたところで、肌の衰えは隠しきれない。過去の経験の積み重ねである老いが、彼の言葉を重くしていた。
「藤咲氏の死も、ハオリュウの怪我も、お前の責任じゃないわ」
ソファーでくつろいでいたシャオリエが、足を組み替え、イーレオに体を向けた。
今、この執務室には、イーレオとシャオリエのふたりきりしかいない。いつも控えているチャオラウやエルファン、ミンウェイといった面々は、既にそれぞれの自室へと引き上げたあとだった。
シャオリエは、ふわりとストールを揺らした。
「すべてを救おうとするのは、お前の悪い癖よ。無理なものは無理。割り切るべきなの。分かる?」
ぐいと顎を上げ、アーモンド型の瞳で睨みを利かせる。その視線が突き刺さったのか、イーレオは目を開けて、ばつが悪そうに肩をすくめた。
「あなたには、藤咲家のことは気に病むな、と言われていましたね」
「ええ、言ったわよ」
勿論、シャオリエは、そんな忠告に意味があるとは思っていなかった。無駄と思いつつ、一応は言っておいただけ、である。
「藤咲氏は〈影〉だったわ。そして〈影〉は、決して戻らない。――どうしようもなかったのよ」
責め立てるような声に、「俺だって、分かってますよ」と、イーレオはぼやく。
他に何もできないから、笑っている。そんな微笑を浮かべながら、彼は、うつむいた頬に落ちてきた髪を払いのけた。眼鏡の奥の瞳は、すっかり力を失っている。大きな図体をしているくせに、まるでしょげた子供だ、とシャオリエは思う。
「〈影〉を戻す手段があるのなら、私だってとっくに、この体を本来の持ち主に返していたわ」
嫋やかな肢体を誇示するように、シャオリエは手首を返し、両腕を広げた。何十年経っても見慣れることのない姿に、イーレオが哀しい目を向ける……。
――だからシャオリエは、鷹刀一族を抜け、遠くから見守ることにしたのだ。イーレオが、この姿を見ないですむように。そして、彼が気にしている、弱い立場に置かれた者たちのひとつ、娼婦にならざるを得なかった少女たちを保護した。彼女たちに教育を施し、いずれ自立できるよう、促すことにした。
「――それでも、ハオリュウの怪我は、俺の落ち度だ。この俺の屋敷内で、俺の知らない事態が起きていいはずがない……!」
イーレオが、やり場のない怒りに奥歯を噛む。不甲斐ない自分を責める彼を、シャオリエは幾度、見てきたことだろう。
「屋敷内のこととはいえ、部外者の起こした事件よ。それに最後は、身内のルイフォンがケジメをつけた。組織として間違っていないわ」
「それは、結果ですよ。……ルイフォンにも可哀想なことをした」
しかしシャオリエは、イーレオの憂い顔にぷっと吹き出した。
「ルイフォンに関してだけは、結果オーライでいいと思うわ。本来なら、近づくことも叶わないような、深窓の令嬢を手に入れたんだから」
そして、意味ありげに目を細め「メイシア、帰ってこないわねぇ」と愉快そうに笑う。
「その件もな、本当に良かったんだか悪かったんだか、俺には分からないよ……」
「いいのよ、そういうのは」
脳天気なシャオリエに、イーレオはやや渋い顔をする。かといって反論するわけではなく、代わりに溜め息をついた。
「ともかく、だ。ハオリュウは父親を亡くし、足の自由と異母姉も失ったんだ。さすがに何も感じないわけにはいかないさ」
「……まったく、お前って子は……」
シャオリエが、ふぅ、とわざとらしく溜め息をついた。長めの後れ毛が肩からこぼれ、くるりと揺れる。
「いつまで経っても、凶賊の総帥らしくなれないんだから……。私は、お前の育て方を間違えたのかしらね?」
「……すみません。あなたのせいじゃないですよ。俺が情けないだけです」
けれど、そんなイーレオだからこそ、皆がついてくるのだと、シャオリエは知っている。そして、彼が弱音を吐くのは、彼女の前でだけということも。
シャオリエは微笑を漏らすと、すっと立ち上がった。再び落ちてきた後れ毛を、半ば面倒くさそうに払うが、それはポーズにすぎない。腰を揺らす、しなやかな歩き方は、それだけで男を魅了する。そんな仕草を、彼女は自然に身に付けていた。
シャオリエが近づいてきても、イーレオはただ穏やかな顔をしていた。
「もう寝なさい」
ふわり、と。彼女は、椅子の背ごと彼を抱きしめた。
「私と違って、お前の体は、もう年寄りなんだから」
「言ってくれますね」
そう言いながらも、イーレオは口元をほころばせる。
「あなたは店に戻らなくていいんですか?」
「この雨の中を、濡れながら帰るのは嫌よ。スーリンには連絡したし、今日は泊まらせてもらうわ」
「あなたの部屋は、昔のまま、いつでも使えるようにしてありますよ」
シャオリエは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから「ありがとう」と微笑んだ。
そんな彼女に昔の面影を見出し、ふと思い出したようにイーレオが口を開く。
「そういえば、〈ベロ〉が喋ったことは言いましたよね」
「〈ベロ〉? ……キリファが作った有機コンピュータとでもいう、あれのことよね?」
「ええ。……〈ベロ〉の声と口調は、昔のあなたにそっくりでした。キリファは、昔のあなたを知らないのにな。……正直、動揺しましたよ。俺も、まだまだ未熟です」
シャオリエは口元をほころばせ、頷いた。緩く結い上げた髪がイーレオの頬を撫で、彼はくすぐったそうな顔をする。
「〈ベロ〉は私だと、あの子は言っていたわね。さすが天才、というところかしら?」
そして、何を思ったのか、彼女はくすくすと笑う。
「会ってみたいけど、でもきっと無理ね」
「どうしてですか?」
「だって、〈ベロ〉は私なんでしょう? だったらもう、二度と出てこないわ。あとは、ひよっ子たちだけで頑張ってもらいたいもの。私がいることを期待されても困るわ」
心底、迷惑そうに、シャオリエは言う。
声は違えど、ずっと変わらない『彼女』の言葉。『ひよっ子』と言い、突き放しながらも、決して見捨ることのない――。
「……俺も、いつまでも、あなたに甘えていたらいけませんね」
「あらあら、別にそんな意味で言ったんじゃないわよ」
シャオリエが困ったわね、と言わんばかりに眉を寄せる。
「そうじゃなくて――。ただ、俺が……もっと強くなりたいだけです」
老境ともいえる域に入ってなお、イーレオは真顔でそう言う……。
シャオリエは、何も言わずに、彼に回した腕の力を強めた。
――ぽたり、ぽたりと。雨音が聞こえる。
誰にも等しく降る雫は、誰をも等しく濡らすわけではない。
冷たい雨に打ちつけられ、凍れる手足で、もがきながら生きてきたイーレオは、それでもなお、この先も雨の中を駆けていくのだろう。
「イーレオ、もう休みなさいな」
沈黙を破るように、シャオリエが言った。そして、イーレオの耳元に口を寄せる。
「昔みたいに、子守唄を歌ってあげましょうか?」
アーモンド型の瞳を細め、楽しそうに彼女は口の端を上げた。
からかわれているのは承知で、イーレオは、くすりと笑う。昔の彼女も、今の彼女も、たいそうな美声の持ち主だが、惜しいことに音感には恵まれていない。
それでも子供のころは、よくそれで寝かしつけられた。調子っぱずれな歌でも、繋いだ手が温かかったから。
「なかなか魅力的な申し出ですが、遠慮します。さすがにもう、子供じゃありませんから」
「そう? 残念ね」
彼女は、やや不満顔だが、本当は分かっている。そばに居ることこそが、何よりも心地よい子守唄なのだと。
イーレオがそっと目を閉じ、シャオリエが寄り添う。
彼の肩を包む、彼女のぬくもり。彼を守り育ててくれた大切な人。
そして雨が、子守唄を歌う――。
闇は深くとも、静かに雫の落ちるさまは瞼に浮かぶ。
けれど、触れねば分からない。
窓を打つのは、花流しの冷たい雨か。あるいは、芽吹きの温かな雨か……。
「……また、俺は助けられなかったんだな」
イーレオが溜め息をつき、執務机の椅子に背を預けた。
瞳を閉じれば、秀でた額に皺が寄る。いくら若作りをしたところで、肌の衰えは隠しきれない。過去の経験の積み重ねである老いが、彼の言葉を重くしていた。
「藤咲氏の死も、ハオリュウの怪我も、お前の責任じゃないわ」
ソファーでくつろいでいたシャオリエが、足を組み替え、イーレオに体を向けた。
今、この執務室には、イーレオとシャオリエのふたりきりしかいない。いつも控えているチャオラウやエルファン、ミンウェイといった面々は、既にそれぞれの自室へと引き上げたあとだった。
シャオリエは、ふわりとストールを揺らした。
「すべてを救おうとするのは、お前の悪い癖よ。無理なものは無理。割り切るべきなの。分かる?」
ぐいと顎を上げ、アーモンド型の瞳で睨みを利かせる。その視線が突き刺さったのか、イーレオは目を開けて、ばつが悪そうに肩をすくめた。
「あなたには、藤咲家のことは気に病むな、と言われていましたね」
「ええ、言ったわよ」
勿論、シャオリエは、そんな忠告に意味があるとは思っていなかった。無駄と思いつつ、一応は言っておいただけ、である。
「藤咲氏は〈影〉だったわ。そして〈影〉は、決して戻らない。――どうしようもなかったのよ」
責め立てるような声に、「俺だって、分かってますよ」と、イーレオはぼやく。
他に何もできないから、笑っている。そんな微笑を浮かべながら、彼は、うつむいた頬に落ちてきた髪を払いのけた。眼鏡の奥の瞳は、すっかり力を失っている。大きな図体をしているくせに、まるでしょげた子供だ、とシャオリエは思う。
「〈影〉を戻す手段があるのなら、私だってとっくに、この体を本来の持ち主に返していたわ」
嫋やかな肢体を誇示するように、シャオリエは手首を返し、両腕を広げた。何十年経っても見慣れることのない姿に、イーレオが哀しい目を向ける……。
――だからシャオリエは、鷹刀一族を抜け、遠くから見守ることにしたのだ。イーレオが、この姿を見ないですむように。そして、彼が気にしている、弱い立場に置かれた者たちのひとつ、娼婦にならざるを得なかった少女たちを保護した。彼女たちに教育を施し、いずれ自立できるよう、促すことにした。
「――それでも、ハオリュウの怪我は、俺の落ち度だ。この俺の屋敷内で、俺の知らない事態が起きていいはずがない……!」
イーレオが、やり場のない怒りに奥歯を噛む。不甲斐ない自分を責める彼を、シャオリエは幾度、見てきたことだろう。
「屋敷内のこととはいえ、部外者の起こした事件よ。それに最後は、身内のルイフォンがケジメをつけた。組織として間違っていないわ」
「それは、結果ですよ。……ルイフォンにも可哀想なことをした」
しかしシャオリエは、イーレオの憂い顔にぷっと吹き出した。
「ルイフォンに関してだけは、結果オーライでいいと思うわ。本来なら、近づくことも叶わないような、深窓の令嬢を手に入れたんだから」
そして、意味ありげに目を細め「メイシア、帰ってこないわねぇ」と愉快そうに笑う。
「その件もな、本当に良かったんだか悪かったんだか、俺には分からないよ……」
「いいのよ、そういうのは」
脳天気なシャオリエに、イーレオはやや渋い顔をする。かといって反論するわけではなく、代わりに溜め息をついた。
「ともかく、だ。ハオリュウは父親を亡くし、足の自由と異母姉も失ったんだ。さすがに何も感じないわけにはいかないさ」
「……まったく、お前って子は……」
シャオリエが、ふぅ、とわざとらしく溜め息をついた。長めの後れ毛が肩からこぼれ、くるりと揺れる。
「いつまで経っても、凶賊の総帥らしくなれないんだから……。私は、お前の育て方を間違えたのかしらね?」
「……すみません。あなたのせいじゃないですよ。俺が情けないだけです」
けれど、そんなイーレオだからこそ、皆がついてくるのだと、シャオリエは知っている。そして、彼が弱音を吐くのは、彼女の前でだけということも。
シャオリエは微笑を漏らすと、すっと立ち上がった。再び落ちてきた後れ毛を、半ば面倒くさそうに払うが、それはポーズにすぎない。腰を揺らす、しなやかな歩き方は、それだけで男を魅了する。そんな仕草を、彼女は自然に身に付けていた。
シャオリエが近づいてきても、イーレオはただ穏やかな顔をしていた。
「もう寝なさい」
ふわり、と。彼女は、椅子の背ごと彼を抱きしめた。
「私と違って、お前の体は、もう年寄りなんだから」
「言ってくれますね」
そう言いながらも、イーレオは口元をほころばせる。
「あなたは店に戻らなくていいんですか?」
「この雨の中を、濡れながら帰るのは嫌よ。スーリンには連絡したし、今日は泊まらせてもらうわ」
「あなたの部屋は、昔のまま、いつでも使えるようにしてありますよ」
シャオリエは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから「ありがとう」と微笑んだ。
そんな彼女に昔の面影を見出し、ふと思い出したようにイーレオが口を開く。
「そういえば、〈ベロ〉が喋ったことは言いましたよね」
「〈ベロ〉? ……キリファが作った有機コンピュータとでもいう、あれのことよね?」
「ええ。……〈ベロ〉の声と口調は、昔のあなたにそっくりでした。キリファは、昔のあなたを知らないのにな。……正直、動揺しましたよ。俺も、まだまだ未熟です」
シャオリエは口元をほころばせ、頷いた。緩く結い上げた髪がイーレオの頬を撫で、彼はくすぐったそうな顔をする。
「〈ベロ〉は私だと、あの子は言っていたわね。さすが天才、というところかしら?」
そして、何を思ったのか、彼女はくすくすと笑う。
「会ってみたいけど、でもきっと無理ね」
「どうしてですか?」
「だって、〈ベロ〉は私なんでしょう? だったらもう、二度と出てこないわ。あとは、ひよっ子たちだけで頑張ってもらいたいもの。私がいることを期待されても困るわ」
心底、迷惑そうに、シャオリエは言う。
声は違えど、ずっと変わらない『彼女』の言葉。『ひよっ子』と言い、突き放しながらも、決して見捨ることのない――。
「……俺も、いつまでも、あなたに甘えていたらいけませんね」
「あらあら、別にそんな意味で言ったんじゃないわよ」
シャオリエが困ったわね、と言わんばかりに眉を寄せる。
「そうじゃなくて――。ただ、俺が……もっと強くなりたいだけです」
老境ともいえる域に入ってなお、イーレオは真顔でそう言う……。
シャオリエは、何も言わずに、彼に回した腕の力を強めた。
――ぽたり、ぽたりと。雨音が聞こえる。
誰にも等しく降る雫は、誰をも等しく濡らすわけではない。
冷たい雨に打ちつけられ、凍れる手足で、もがきながら生きてきたイーレオは、それでもなお、この先も雨の中を駆けていくのだろう。
「イーレオ、もう休みなさいな」
沈黙を破るように、シャオリエが言った。そして、イーレオの耳元に口を寄せる。
「昔みたいに、子守唄を歌ってあげましょうか?」
アーモンド型の瞳を細め、楽しそうに彼女は口の端を上げた。
からかわれているのは承知で、イーレオは、くすりと笑う。昔の彼女も、今の彼女も、たいそうな美声の持ち主だが、惜しいことに音感には恵まれていない。
それでも子供のころは、よくそれで寝かしつけられた。調子っぱずれな歌でも、繋いだ手が温かかったから。
「なかなか魅力的な申し出ですが、遠慮します。さすがにもう、子供じゃありませんから」
「そう? 残念ね」
彼女は、やや不満顔だが、本当は分かっている。そばに居ることこそが、何よりも心地よい子守唄なのだと。
イーレオがそっと目を閉じ、シャオリエが寄り添う。
彼の肩を包む、彼女のぬくもり。彼を守り育ててくれた大切な人。
そして雨が、子守唄を歌う――。