残酷な描写あり
9.蒼天への転調-3
屋敷をぐるりと囲む高い外壁が、重圧感を持ってそびえ立つ。硬い煉瓦の質感は天まで続き、その先には青く澄んだ空が広がっていた。
昨日とはまるで違う穏やかな陽射しの中で、門衛たちは今日も鉄格子の門を守る。
ここ数日、貴族の娘が現れてからというもの、近年に類を見ないほどの騒動が続いていた。しかし振り返ってみれば、鷹刀一族には、なんの被害もなく、仕掛けてきた斑目一族のほうが大きく力を削がれたという――。
下っ端である門衛たちには、にわかには信じられないが、上の者たちがそうだと言うのなら、きっとそうなのだろう。
しかし、この快挙に大きく貢献したルイフォンが、屋敷を出ていってしまった。
引き取られた当初は、傍系だと軽んじられたものだが、持ち前の性格と頭脳で、彼はすぐに皆に愛される存在となった。凶賊、使用人を問わず、彼を弟のように、あるいは我が子のように可愛がっていた。
この門衛たちも例外ではなく――だから彼らの心は、火が消えたようにどこか空虚なのである。
門衛たちは、誰からともなく溜め息をつく……。
――こうして彼らが、のどかで穏やかなだけの寂寥感を享受していたとき。
ふと。
遠くから、人影が近づいてきた。
門衛たちは、まさかと目を見張る。
決してひ弱ではないけれど、少年らしさの残る細身の体躯。やや前のめりの、猫背で特徴のある歩き方……。
「ルイフォン様……?」
傍らに、花のような美少女を連れている。いわずもがな、彼を追いかけていった貴族の娘、メイシアだ。
門衛たちは肩を叩き合い、叫び、喜び、慌てて執務室に連絡を入れる。
そうこうしているうちに、ルイフォンとメイシアが到着した。
そして――。
「ただいま」
抜けるような青空の笑顔で、ふたりが笑った。
ルイフォンがメイシアを伴い、屋敷へと続く長い石畳を歩いていると、玄関扉が勢いよく開かれた。
ひとりの男が、血相を変えて飛び出してくる。肩までの、さらさらとした黒髪は乱れ、黄金比の美貌には複雑な色合いが浮かんでいた。
「ルイフォン……!」
「よぅ、リュイセン」
ルイフォンが、軽く手を上げる。
年上の甥にして、兄貴分。次期総帥エルファンの次男であり、一族を抜けた長兄に代わり、いずれは総帥位に就く後継者――リュイセンだった。
「何故、戻ってきた?」
険もあらわに、リュイセンの静かな低音が響く。斬り裂くような眼光に、メイシアが、びくりと震えた。
ルイフォンは、彼女を庇うように一歩前に出て、リュイセンとまっすぐに向き合う。
「親父やエルファンは黙認してくれても、お前だけは怒っていると思っていたよ」
言葉の内容とは裏腹に、ルイフォンは臆することなく、堂々と胸を張る。
「俺は『責任を取る』という言葉で飾って、自分を正当化して屋敷を出た。けど、それは結局『逃げ』に過ぎなかった。――お前は、見抜いていたんだろう?」
軽く顎を上げてルイフォンが尋ねると、リュイセンは黒髪を肩で滑らせ「ああ」と頷いた。
予想通りの返答に、ルイフォンは小さく息を吐く。
「だから、卑怯者の俺を、お前は許さない。違うか?」
「お前をとっ捕まえて、『投げ出すな』と殴り倒して連れ戻そうかと思ったぞ」
長身から落とされる冷酷な声には、明らかな憤りを含まれていた。しかし、決して荒立つことはなく、祖父や父にそっくりの魅惑の艶を保っている。
――と。リュイセンの目線が、すっと動き、メイシアを示す。そこには敵意はなく、むしろ敬意に近いものがあった。
「けど俺よりも先に、そいつが、お前に逢いたいという一心だけで追いかけていった。そしたら、俺の出る幕ではないだろう。お前が出ていったことについては、俺は何も言わん」
「リュイセン……」
ルイフォンが兄貴分の名を呟く。
リュイセンは、再びルイフォンに視線を戻した。
「だが、何故、戻ってきた? 一度、一族を出た人間を簡単に受け入れるほど、鷹刀は軽い場所ではないはずだ」
厳しい顔でそう言ったものの、それは嘘だと、リュイセンにも分かっている。
一族の者たちの大半は、帰ってきたルイフォンを諸手を上げて歓迎するだろう。貴族ではあるが、ルイフォンを一途に想うメイシアも好意的に受け止められている。
リュイセンとて、弟分の帰還は嬉しい。
母親を亡くしたルイフォンを、この屋敷に連れてきたのは他でもない、リュイセンなのだ。
ルイフォンがいれば、心強い。そう思わせる何かがある。祖父のイーレオが、たびたび口にする『人を魅了する人間』という戯言も、あながち嘘でもないとさえ思える。
だからこそリュイセンは、この弟分には道理を通してほしいと思うのだ。
「お前は身勝手だ」
低い声が、深く轟いた。
ふたりの間を、微妙な空気が流れる。
決して、険悪というわけではない。いがみ合っているわけでも、そしり合っているわけでもない。
ルイフォンは、リュイセンの言葉に逆らわなかった。「ああ、俺は身勝手だ」と、言われたことを繰り返す。
「四年前、俺がこの屋敷に受け入れられたのは、俺が親父の血を引いた血族だからだ。そして、俺は一度出ていった。――だから今度は、一個人の俺として、改めて、この屋敷に居ることを認められたい」
どことなく癖のある、彼らしい特徴的な表情が抜け落ちる。鋭く無機質な顔が、ルイフォンの本気を物語っていた。
リュイセンの目が、冷徹な光を帯びた。
「なら他所者として、直系の俺と勝負しろ。お前に見どころがあると認められれば取り立て、後ろ盾になってやる」
だがそれは、認められなければ、金輪際、鷹刀一族の敷地に足踏み入れるな、ということだ。
「分かった。それで構わねぇぜ」
ルイフォンは、挑戦的に口角を上げた。
リュイセンが庭を指し、場を移そうと促す。そこでは、すっかり花を落とした桜の大樹が、芽吹き始めた若葉を枝いっぱいに抱えていた。
足首を慣らすように芝を踏むと、青い香りが漂う。
すぐ後ろでは、メイシアが胸元のペンダントを握りしめていた。不安げな面持ちでルイフォンを見つめているが、無駄な気休めは口にしない。ただ、すべてを見届けようと、黒曜石の瞳に瞬きひとつ、許さなかった。
ルイフォンは振り返り、メイシアの黒髪をくしゃりと撫でた。
それだけで、彼女の顔がぱっと花咲く。呼吸が緊張から解放され、柔らかく緩んだ。
『信じている』と、彼女は無言で彼を見上げた。だから彼は、『任せろ』と目を細めた。
ルイフォンは上着を脱ぎ、メイシアに手渡す。シャツ一枚の軽装でリュイセンと向き合い、手首を返して示した。
「この通り、暗器は持っていない。その代わり、お前も刀はなしだ」
「いいだろう」
細身の体躯ゆえ、腕力に限界のあるルイフォンは、長い刀を扱えない。だが、身の軽さなら、リュイセンを上回る。
彼は落ち着いた様子で、体をほぐす。軽く跳躍すると、背中で金色の鈴が跳ねた。
「行くぞ!」
ルイフォンが鋭い声を上げ、リュイセンに迫った。
後ろに大きく引いた右拳を、体のひねりを使いながら思い切り振るう。
狙いは顎か。身長差を逆手に、下方向から突き上げるか――。
だが、そんな大ぶりの一撃は、リュイセンも看破している。彼は体を屈め、腕を引いたことで、がら空きになった腹へと拳をのめり込ませようとした。
腕のリーチが長いリュイセンのほうが、圧倒的に有利。
しかし……。
リュイセンは本能的な危険を感じ、咄嗟に体を引いた。
目の前を、ルイフォンの膝蹴りがかすめる。獲物を捕らえそこねた体は、回転しながら、ふわりと舞った。一本に編まれた髪が宙を泳ぎ、金色の鈴が殿を務める。
「な……!?」
リュイセンは息を呑む。
握った拳はフェイント。
円を描く腕の動きによって回転の力を生み出し、非力なルイフォンを補うようなスピードと破壊力を膝に載せたのだ。
さすがは、同じチャオラウを師事する弟弟子と言わざるを得ない。
大技を外したルイフォンは、隙だらけだった。そこに軽く一撃を加えるだけで、リュイセンの勝ちは決まる。
けれど、彼は見逃した。
この勝負は、腹に一発食らわせて終わりにするつもりだったのだが、気が変わったのだ。そんな泥臭い戦い方では失礼というものだ。
深く息を吐く。鷹刀一族の直系らしい、冷酷にも見える整いすぎた顔で、リュイセンはルイフォンを見据える。
ルイフォンが体制を立て直すのを待って、リュイセンの手刀がルイフォンの首筋を狙った。
ルイフォンは素早く横に飛び退き、難を逃れる。猫のように軽やかに着地すると、間髪おかず、今度は彼から仕掛けた。
正面から受けて立とうとするリュイセンの間合いの外から、ルイフォンは回し蹴りを仕掛けた。ひねりをきかせ、力強く踏み切った足が、雨上がりの柔らかな土をえぐり、青芝生を散らす。
ルイフォンの爪先が、リュイセンのこめかみを狙う。普通に考えれば、隙の多い無謀な攻撃――だがルイフォンは、逆光を味方に引き入れていた。
背を輝かせながら、リュイセンの長駆に挑む。
瞳を刺す光の矢に気づいたリュイセンは、しかし動じることなく、気配だけでルイフォンの蹴り上げられた足の位置を察し、太腿に手刀を叩きつける。
重い一撃が、骨に響いた。
ルイフォンの足が、地面に払い落とされる。かろうじて倒れ込みはしなかったが、姿勢の安定していないところへリュイセンの手が伸びた。腕を取られ、関節を極められる。
「痛っ!」
肘から手首、指先までも、しっかりと捕らえられ、ルイフォンは身動き取れなくなった。
勝負あったなと、リュイセンの美貌が酷薄に嗤う。
ルイフォンの格闘センスは決して悪くはない。だが致命的に力が足りない。かといって、蹴りに頼れば動きに無駄が出る。チンピラ程度なら楽に翻弄できるだろうが、凶賊としては、まったく戦闘に向いていない。
勝てば認めてやる、という約束ではなかった。いずれは一族を背負うリュイセンに、勝てるわけがないのだ。逆に、もしルイフォンごときに負けるようなら、リュイセンのほうこそ出ていくべきだろう。
落としどころをどうするか。――リュイセンは眉を寄せた。
あちらこちらから、一族の者たちが固唾を呑んで見守る視線を感じる。この状況で、ルイフォンを追い出すことなどできるわけがない。
「リュイセン」
うなるようにルイフォンが呼んだ。痛みからか、額には脂汗が浮かんでいた。けれど、その瞳は好戦的で、ややもすると怒りすら見て取れた。
「俺の指を折るなよ? 腕もだ」
「ルイフォン?」
「勝負はお前の勝ちだ。そもそも、俺がお前に敵うはずがない。そんなことは分かっていて、俺はお前の話に乗った。――だから今度は、俺の話を聞け」
獣が威嚇するような形相で、リュイセンを睨む。こぼれ落ちた汗が、顎を伝った。
「お前の話……?」
「この勝負に意味はない。俺は別に、一族として――凶賊として認められたいとは思っていないからだ」
「な、に……?」
驚愕と共に、リュイセンの力が緩む。それに乗じて、ルイフォンは拘束を振りほどいた。
軽く体をゆすり、筋肉を解きほぐす。掌を閉じたり開いたりすることを繰り返し、指が滑らかに動くことを確かめると、ルイフォンは鋭く光る猫の目を向けた。
「俺は、何処にも属するつもりはない」
握りしめた形のままの拳を突き出し、リュイセンの目前で止める。
「俺は、自由な〈猫〉だ」
はっ、と気づく。――リュイセンは、その拳を知っていた。
ルイフォンと初めて出会った、あの日。緑の香る初夏の陽射しの中。
母親に馬鹿にされたルイフォンは、桜の大木に八つ当たりしようと拳を突き出した。
けれど、寸前で止めた。
そして、『俺が指を痛めたら、仕事になんねぇだろ』と、十にも満たない子供のくせに、一人前に言ってのけたのだ。
「ああ、そうだった……。お前は〈猫〉だ」
リュイセンは呟く。
それなのに彼は、ルイフォンを凶賊として迎えようとした。血族だから優遇されるのだ、と陰口を叩く一部の者を黙らせるため、後ろ盾になってやるとすら言った。
可愛い弟分に、意味のない戦闘を強いた。――愚かさに、嗤いがこみ上げてくる。
「だが、一族に加わるつもりがないなら、どうして『屋敷に居ることを認められたい』なんて言ったんだ?」
リュイセンの問いに、ルイフォンがふわりと笑う。優しく穏やかな、青い空のように。
「鷹刀が好きだから。――ここは俺の居場所なんだよ。俺にとっての一番はメイシアだけど、親父やエルファン、ミンウェイ。チャオラウや料理長……。勿論リュイセン、お前も必要だ」
照れることなく、まっすぐに向けられた純粋な眼差しに、リュイセンは惹き込まれる。
初めて会ったときと同じだ。
魂が、強い。
「俺は欲張りだから、全員、必要なんだ」
「ルイフォン……」
「それからメイシアにも、鷹刀の中に居場所を作ってやりたい。俺たちは『ふたりきり』じゃなくて、『皆に囲まれた、ふたり』でいたいんだ」
ルイフォンは後ろを振り返り、メイシアに向かって手を伸ばす。その手に引き寄せられるように、彼女が駆けてくる。長い黒髪をなびかせ、柔らかに顔をほころばせながら……。
「心配かけて、悪かった」
メイシアを抱き寄せ、ルイフォンはくしゃりと髪を撫でる。無言で何度も首を振る彼女の目には、涙が浮かんでいた。
弟分を想うメイシアの姿に、リュイセンの心がちくりと痛む。ひとり、空回りしていたようで、なんともいたたまれない。
「……ルイフォン。この勝負、どうして受けたんだ?」
黄金比の美貌が、情けなく歪んだからだろう。ルイフォンがくすりと笑った。
「俺に対するお前の怒りは、もっともだったからな。勝負に応じることで、お前の気が鎮まるなら安いものだと思った」
それからルイフォンは、少しだけ考えるような素振りを見せてから、にやりとする。
「実は俺、一族の誰よりも強いんだよ」
「なっ?」
「俺は〈ベロ〉を人質に取ることができる。鷹刀が表に出せない、あらゆる情報を意のままに操れるし、捏造することも可能だ」
さぁっと、リュイセンから血の気が引いた。そういえば、斑目一族を壊滅状態まで追い込んだのは、クラッカー〈猫〉だ。
「けど、俺が欲しいのは『居場所』だ。強硬手段を使って従わせるんじゃ意味がない。だから、お前に認めてもらう必要があった」
強い瞳が――強い魂が、まっすぐに向かってくる。
ルイフォンは、リュイセンの年下の叔父で、弟分で。それより何より『ルイフォン』なのだ。
胸が熱くなる。
「お前を認めるよ。鷹刀の一族ではなく、鷹刀と対等な〈猫〉として――」
リュイセンは右手を差し出した。四年前に迎えに行ったときと同じく。けれど今度は、一族としてではなく。
ルイフォンも覚えていたのだろう。握手をかわすのではなく、リュイセンの掌に拳を打ち付けてきた。
小気味よい音が響く。
「おかえり。よく帰ってきたな」
リュイセンは心から、ルイフォンとメイシアを迎え入れた。
昨日とはまるで違う穏やかな陽射しの中で、門衛たちは今日も鉄格子の門を守る。
ここ数日、貴族の娘が現れてからというもの、近年に類を見ないほどの騒動が続いていた。しかし振り返ってみれば、鷹刀一族には、なんの被害もなく、仕掛けてきた斑目一族のほうが大きく力を削がれたという――。
下っ端である門衛たちには、にわかには信じられないが、上の者たちがそうだと言うのなら、きっとそうなのだろう。
しかし、この快挙に大きく貢献したルイフォンが、屋敷を出ていってしまった。
引き取られた当初は、傍系だと軽んじられたものだが、持ち前の性格と頭脳で、彼はすぐに皆に愛される存在となった。凶賊、使用人を問わず、彼を弟のように、あるいは我が子のように可愛がっていた。
この門衛たちも例外ではなく――だから彼らの心は、火が消えたようにどこか空虚なのである。
門衛たちは、誰からともなく溜め息をつく……。
――こうして彼らが、のどかで穏やかなだけの寂寥感を享受していたとき。
ふと。
遠くから、人影が近づいてきた。
門衛たちは、まさかと目を見張る。
決してひ弱ではないけれど、少年らしさの残る細身の体躯。やや前のめりの、猫背で特徴のある歩き方……。
「ルイフォン様……?」
傍らに、花のような美少女を連れている。いわずもがな、彼を追いかけていった貴族の娘、メイシアだ。
門衛たちは肩を叩き合い、叫び、喜び、慌てて執務室に連絡を入れる。
そうこうしているうちに、ルイフォンとメイシアが到着した。
そして――。
「ただいま」
抜けるような青空の笑顔で、ふたりが笑った。
ルイフォンがメイシアを伴い、屋敷へと続く長い石畳を歩いていると、玄関扉が勢いよく開かれた。
ひとりの男が、血相を変えて飛び出してくる。肩までの、さらさらとした黒髪は乱れ、黄金比の美貌には複雑な色合いが浮かんでいた。
「ルイフォン……!」
「よぅ、リュイセン」
ルイフォンが、軽く手を上げる。
年上の甥にして、兄貴分。次期総帥エルファンの次男であり、一族を抜けた長兄に代わり、いずれは総帥位に就く後継者――リュイセンだった。
「何故、戻ってきた?」
険もあらわに、リュイセンの静かな低音が響く。斬り裂くような眼光に、メイシアが、びくりと震えた。
ルイフォンは、彼女を庇うように一歩前に出て、リュイセンとまっすぐに向き合う。
「親父やエルファンは黙認してくれても、お前だけは怒っていると思っていたよ」
言葉の内容とは裏腹に、ルイフォンは臆することなく、堂々と胸を張る。
「俺は『責任を取る』という言葉で飾って、自分を正当化して屋敷を出た。けど、それは結局『逃げ』に過ぎなかった。――お前は、見抜いていたんだろう?」
軽く顎を上げてルイフォンが尋ねると、リュイセンは黒髪を肩で滑らせ「ああ」と頷いた。
予想通りの返答に、ルイフォンは小さく息を吐く。
「だから、卑怯者の俺を、お前は許さない。違うか?」
「お前をとっ捕まえて、『投げ出すな』と殴り倒して連れ戻そうかと思ったぞ」
長身から落とされる冷酷な声には、明らかな憤りを含まれていた。しかし、決して荒立つことはなく、祖父や父にそっくりの魅惑の艶を保っている。
――と。リュイセンの目線が、すっと動き、メイシアを示す。そこには敵意はなく、むしろ敬意に近いものがあった。
「けど俺よりも先に、そいつが、お前に逢いたいという一心だけで追いかけていった。そしたら、俺の出る幕ではないだろう。お前が出ていったことについては、俺は何も言わん」
「リュイセン……」
ルイフォンが兄貴分の名を呟く。
リュイセンは、再びルイフォンに視線を戻した。
「だが、何故、戻ってきた? 一度、一族を出た人間を簡単に受け入れるほど、鷹刀は軽い場所ではないはずだ」
厳しい顔でそう言ったものの、それは嘘だと、リュイセンにも分かっている。
一族の者たちの大半は、帰ってきたルイフォンを諸手を上げて歓迎するだろう。貴族ではあるが、ルイフォンを一途に想うメイシアも好意的に受け止められている。
リュイセンとて、弟分の帰還は嬉しい。
母親を亡くしたルイフォンを、この屋敷に連れてきたのは他でもない、リュイセンなのだ。
ルイフォンがいれば、心強い。そう思わせる何かがある。祖父のイーレオが、たびたび口にする『人を魅了する人間』という戯言も、あながち嘘でもないとさえ思える。
だからこそリュイセンは、この弟分には道理を通してほしいと思うのだ。
「お前は身勝手だ」
低い声が、深く轟いた。
ふたりの間を、微妙な空気が流れる。
決して、険悪というわけではない。いがみ合っているわけでも、そしり合っているわけでもない。
ルイフォンは、リュイセンの言葉に逆らわなかった。「ああ、俺は身勝手だ」と、言われたことを繰り返す。
「四年前、俺がこの屋敷に受け入れられたのは、俺が親父の血を引いた血族だからだ。そして、俺は一度出ていった。――だから今度は、一個人の俺として、改めて、この屋敷に居ることを認められたい」
どことなく癖のある、彼らしい特徴的な表情が抜け落ちる。鋭く無機質な顔が、ルイフォンの本気を物語っていた。
リュイセンの目が、冷徹な光を帯びた。
「なら他所者として、直系の俺と勝負しろ。お前に見どころがあると認められれば取り立て、後ろ盾になってやる」
だがそれは、認められなければ、金輪際、鷹刀一族の敷地に足踏み入れるな、ということだ。
「分かった。それで構わねぇぜ」
ルイフォンは、挑戦的に口角を上げた。
リュイセンが庭を指し、場を移そうと促す。そこでは、すっかり花を落とした桜の大樹が、芽吹き始めた若葉を枝いっぱいに抱えていた。
足首を慣らすように芝を踏むと、青い香りが漂う。
すぐ後ろでは、メイシアが胸元のペンダントを握りしめていた。不安げな面持ちでルイフォンを見つめているが、無駄な気休めは口にしない。ただ、すべてを見届けようと、黒曜石の瞳に瞬きひとつ、許さなかった。
ルイフォンは振り返り、メイシアの黒髪をくしゃりと撫でた。
それだけで、彼女の顔がぱっと花咲く。呼吸が緊張から解放され、柔らかく緩んだ。
『信じている』と、彼女は無言で彼を見上げた。だから彼は、『任せろ』と目を細めた。
ルイフォンは上着を脱ぎ、メイシアに手渡す。シャツ一枚の軽装でリュイセンと向き合い、手首を返して示した。
「この通り、暗器は持っていない。その代わり、お前も刀はなしだ」
「いいだろう」
細身の体躯ゆえ、腕力に限界のあるルイフォンは、長い刀を扱えない。だが、身の軽さなら、リュイセンを上回る。
彼は落ち着いた様子で、体をほぐす。軽く跳躍すると、背中で金色の鈴が跳ねた。
「行くぞ!」
ルイフォンが鋭い声を上げ、リュイセンに迫った。
後ろに大きく引いた右拳を、体のひねりを使いながら思い切り振るう。
狙いは顎か。身長差を逆手に、下方向から突き上げるか――。
だが、そんな大ぶりの一撃は、リュイセンも看破している。彼は体を屈め、腕を引いたことで、がら空きになった腹へと拳をのめり込ませようとした。
腕のリーチが長いリュイセンのほうが、圧倒的に有利。
しかし……。
リュイセンは本能的な危険を感じ、咄嗟に体を引いた。
目の前を、ルイフォンの膝蹴りがかすめる。獲物を捕らえそこねた体は、回転しながら、ふわりと舞った。一本に編まれた髪が宙を泳ぎ、金色の鈴が殿を務める。
「な……!?」
リュイセンは息を呑む。
握った拳はフェイント。
円を描く腕の動きによって回転の力を生み出し、非力なルイフォンを補うようなスピードと破壊力を膝に載せたのだ。
さすがは、同じチャオラウを師事する弟弟子と言わざるを得ない。
大技を外したルイフォンは、隙だらけだった。そこに軽く一撃を加えるだけで、リュイセンの勝ちは決まる。
けれど、彼は見逃した。
この勝負は、腹に一発食らわせて終わりにするつもりだったのだが、気が変わったのだ。そんな泥臭い戦い方では失礼というものだ。
深く息を吐く。鷹刀一族の直系らしい、冷酷にも見える整いすぎた顔で、リュイセンはルイフォンを見据える。
ルイフォンが体制を立て直すのを待って、リュイセンの手刀がルイフォンの首筋を狙った。
ルイフォンは素早く横に飛び退き、難を逃れる。猫のように軽やかに着地すると、間髪おかず、今度は彼から仕掛けた。
正面から受けて立とうとするリュイセンの間合いの外から、ルイフォンは回し蹴りを仕掛けた。ひねりをきかせ、力強く踏み切った足が、雨上がりの柔らかな土をえぐり、青芝生を散らす。
ルイフォンの爪先が、リュイセンのこめかみを狙う。普通に考えれば、隙の多い無謀な攻撃――だがルイフォンは、逆光を味方に引き入れていた。
背を輝かせながら、リュイセンの長駆に挑む。
瞳を刺す光の矢に気づいたリュイセンは、しかし動じることなく、気配だけでルイフォンの蹴り上げられた足の位置を察し、太腿に手刀を叩きつける。
重い一撃が、骨に響いた。
ルイフォンの足が、地面に払い落とされる。かろうじて倒れ込みはしなかったが、姿勢の安定していないところへリュイセンの手が伸びた。腕を取られ、関節を極められる。
「痛っ!」
肘から手首、指先までも、しっかりと捕らえられ、ルイフォンは身動き取れなくなった。
勝負あったなと、リュイセンの美貌が酷薄に嗤う。
ルイフォンの格闘センスは決して悪くはない。だが致命的に力が足りない。かといって、蹴りに頼れば動きに無駄が出る。チンピラ程度なら楽に翻弄できるだろうが、凶賊としては、まったく戦闘に向いていない。
勝てば認めてやる、という約束ではなかった。いずれは一族を背負うリュイセンに、勝てるわけがないのだ。逆に、もしルイフォンごときに負けるようなら、リュイセンのほうこそ出ていくべきだろう。
落としどころをどうするか。――リュイセンは眉を寄せた。
あちらこちらから、一族の者たちが固唾を呑んで見守る視線を感じる。この状況で、ルイフォンを追い出すことなどできるわけがない。
「リュイセン」
うなるようにルイフォンが呼んだ。痛みからか、額には脂汗が浮かんでいた。けれど、その瞳は好戦的で、ややもすると怒りすら見て取れた。
「俺の指を折るなよ? 腕もだ」
「ルイフォン?」
「勝負はお前の勝ちだ。そもそも、俺がお前に敵うはずがない。そんなことは分かっていて、俺はお前の話に乗った。――だから今度は、俺の話を聞け」
獣が威嚇するような形相で、リュイセンを睨む。こぼれ落ちた汗が、顎を伝った。
「お前の話……?」
「この勝負に意味はない。俺は別に、一族として――凶賊として認められたいとは思っていないからだ」
「な、に……?」
驚愕と共に、リュイセンの力が緩む。それに乗じて、ルイフォンは拘束を振りほどいた。
軽く体をゆすり、筋肉を解きほぐす。掌を閉じたり開いたりすることを繰り返し、指が滑らかに動くことを確かめると、ルイフォンは鋭く光る猫の目を向けた。
「俺は、何処にも属するつもりはない」
握りしめた形のままの拳を突き出し、リュイセンの目前で止める。
「俺は、自由な〈猫〉だ」
はっ、と気づく。――リュイセンは、その拳を知っていた。
ルイフォンと初めて出会った、あの日。緑の香る初夏の陽射しの中。
母親に馬鹿にされたルイフォンは、桜の大木に八つ当たりしようと拳を突き出した。
けれど、寸前で止めた。
そして、『俺が指を痛めたら、仕事になんねぇだろ』と、十にも満たない子供のくせに、一人前に言ってのけたのだ。
「ああ、そうだった……。お前は〈猫〉だ」
リュイセンは呟く。
それなのに彼は、ルイフォンを凶賊として迎えようとした。血族だから優遇されるのだ、と陰口を叩く一部の者を黙らせるため、後ろ盾になってやるとすら言った。
可愛い弟分に、意味のない戦闘を強いた。――愚かさに、嗤いがこみ上げてくる。
「だが、一族に加わるつもりがないなら、どうして『屋敷に居ることを認められたい』なんて言ったんだ?」
リュイセンの問いに、ルイフォンがふわりと笑う。優しく穏やかな、青い空のように。
「鷹刀が好きだから。――ここは俺の居場所なんだよ。俺にとっての一番はメイシアだけど、親父やエルファン、ミンウェイ。チャオラウや料理長……。勿論リュイセン、お前も必要だ」
照れることなく、まっすぐに向けられた純粋な眼差しに、リュイセンは惹き込まれる。
初めて会ったときと同じだ。
魂が、強い。
「俺は欲張りだから、全員、必要なんだ」
「ルイフォン……」
「それからメイシアにも、鷹刀の中に居場所を作ってやりたい。俺たちは『ふたりきり』じゃなくて、『皆に囲まれた、ふたり』でいたいんだ」
ルイフォンは後ろを振り返り、メイシアに向かって手を伸ばす。その手に引き寄せられるように、彼女が駆けてくる。長い黒髪をなびかせ、柔らかに顔をほころばせながら……。
「心配かけて、悪かった」
メイシアを抱き寄せ、ルイフォンはくしゃりと髪を撫でる。無言で何度も首を振る彼女の目には、涙が浮かんでいた。
弟分を想うメイシアの姿に、リュイセンの心がちくりと痛む。ひとり、空回りしていたようで、なんともいたたまれない。
「……ルイフォン。この勝負、どうして受けたんだ?」
黄金比の美貌が、情けなく歪んだからだろう。ルイフォンがくすりと笑った。
「俺に対するお前の怒りは、もっともだったからな。勝負に応じることで、お前の気が鎮まるなら安いものだと思った」
それからルイフォンは、少しだけ考えるような素振りを見せてから、にやりとする。
「実は俺、一族の誰よりも強いんだよ」
「なっ?」
「俺は〈ベロ〉を人質に取ることができる。鷹刀が表に出せない、あらゆる情報を意のままに操れるし、捏造することも可能だ」
さぁっと、リュイセンから血の気が引いた。そういえば、斑目一族を壊滅状態まで追い込んだのは、クラッカー〈猫〉だ。
「けど、俺が欲しいのは『居場所』だ。強硬手段を使って従わせるんじゃ意味がない。だから、お前に認めてもらう必要があった」
強い瞳が――強い魂が、まっすぐに向かってくる。
ルイフォンは、リュイセンの年下の叔父で、弟分で。それより何より『ルイフォン』なのだ。
胸が熱くなる。
「お前を認めるよ。鷹刀の一族ではなく、鷹刀と対等な〈猫〉として――」
リュイセンは右手を差し出した。四年前に迎えに行ったときと同じく。けれど今度は、一族としてではなく。
ルイフォンも覚えていたのだろう。握手をかわすのではなく、リュイセンの掌に拳を打ち付けてきた。
小気味よい音が響く。
「おかえり。よく帰ってきたな」
リュイセンは心から、ルイフォンとメイシアを迎え入れた。