残酷な描写あり
5.薄雲を透かした紗のような-1
「リュイセン。お前の周りだけ局所的に地震を起こすのは、やめてくれないか」
義姉シャンリーの声に、リュイセンは、はっと我に返った。
ガタガタと苛立たしげに膝を揺らす彼に合わせ、飾り棚の硝子戸が震えていた。中に収められたトロフィーやら楯やらといった、この家の人間の功績を讃える品々までもが動き出しそうな具合である。
リュイセンは尻をもぞもぞとさせて座り直し、向かいのソファーの義姉に「すまん」と詫びた。
「だが……、いったい祖父上は何を考えているんだ!?」
祖父イーレオは、半ば命じるようにして、ひと月以上も前の土産を兄夫婦の家に持って行くように言った。けれど、それはどうやら、メイシアをこの家に向かわせるための方便だったらしい。
「この家は、メイシアにとっちゃ敵地みたいなものだろうが……!」
「おいおい、敵地とは穏やかじゃないねぇ」
巷では男装の麗人とも褒めそやされている剣舞の名手は、見た目通りに実に男らしく、豪快にからからと笑った。
「けど、義姉上。メイシアはルイフォンの……妻、――じゃないよな、女?」
「私に訊かれても困るよ」
義姉の答えは至極まっとうであったのだが、気の立っていたリュイセンは、むっと鼻に皺を寄せる。
「――ともかく、だ。父上を巡って、正妻の母上と、愛人のルイフォンの母親がいがみ合っていたわけだろ。だったら、どう考えてもメイシアは『ルイフォンの母親側』だ。母上とは敵対関係だ。そんな相手のいる家に、どうして祖父上はメイシアを差し向けるんだ? おかしいだろ!?」
どん、とテーブルを叩くと、飾り棚の硝子が再び音を立てた。更に、壁一面に飾られた賞状と感謝状の額までもが共振する。大きく引き伸ばされた写真の中で、剣舞の演技中のシャンリーが刀を向けてこちらを睨んでいた。
「……あ」
さすがに興奮し過ぎたと、リュイセンは体を縮こめる。
「まったく……。お前は本当に文句が多いな」
写真ではなく、実体のシャンリーが溜め息混じりに苦笑した。
「ユイラン様が、メイシアを呼んだんだよ」
「母上が……? なんだって!?」
リュイセンはソファーから腰を浮かせ、身を乗り出す。
「どういうことだ!?」
そのあまりの喰らいつきようにシャンリーは目を丸くし、次ににやりと目を細めた。
「面白そうだから黙っておこう」
「義姉上!」
リュイセンが勢いよく立ち上がる。肩で切りそろえられた黒髪が、前に向かってばさりと飛び出した。
と、そのとき――。
リュイセンは、耳朶に風を感じた。
艷やかな髪のひと房が彼から離れ、後ろに散った。
数センチほどの長さに斬られた毛髪が、ぱらぱらと絨毯に舞い落ちる。
「え……?」
リュイセンの頬をかすめるように、銀色の刀身が光っていた。目玉を巡らせば、義姉の握る直刀の刃紋が見える。
「何を……?」
「私はまっすぐに刀を差し出しただけだ。お前は自分から迫ってきて、勝手に斬られた」
シャンリーは口の端を上げるが、目は笑っていない。殺気も感じられないのに、リュイセンはぞくりとした。
「お前は、頭が戦闘態勢に切り替わっていれば機械並みに冷静だが、普段は隙が多すぎる。感情のコントロールができてない」
「……っ」
「取りあえず、座れ」
性別不詳の低い声が命じ、言われるままにリュイセンは腰を下ろした。額から頬にかけて、つうっと冷たい汗が流れる。
凶賊を抜けて十年も経つのに、いまだにこの義姉は『本物』だった。彼女と兄のふたりで、一族を盛りたててくれることを期待した皆の気持ちが、痛いほどよく分かる。そして、その裏にあるリュイセンへの落胆も……。
「ユイラン様には、メイシアに会わなければならない事情があるんだ」
「え?」
「確かにユイラン様とメイシアは、お前の言う『敵対関係』にある。だから、どうしたら身構えずに来てくれるだろうかと、ユイラン様はイーレオ様に相談した。――そしたら、お前がダシに使われた、というわけだ」
「はぁ?」
「普通にメイシアを招待すればいいだけの問題だったと思うんだが……。イーレオ様の手の込んだ悪ふざけ、ってとこだな」
リュイセンは頭を抱えた。
わけが分からない。何がなんだか、さっぱりだ。
『敵対関係』にある母が、メイシアになんの用があるというのだ? ――薄ぼんやりと紗が掛かったような不快感が絡みついてくる。
けれど、ひとつ。はっきりしたことがある。
「やっぱり、俺は巻き込まれただけじゃねぇかよ!」
「まぁ、そう言うな。……こうでもしなきゃ、お前はなかなか、この家に――ユイラン様に会いにこないだろう?」
「……っ」
「『イーレオ様の悪ふざけ』は、イーレオ様のお心遣いだよ。運転手に親父殿をつけてくれたというのもそうだ。私たちに会ってこい、ってことだ」
義姉は「まったく、イーレオ様は……」と言いながら、優しげな顔をする。その視線は窓の外に投げられていた。ここから実際に門が見えるわけではないが、出迎えに行ったクーティエたちと同様に、チャオラウに会えるのを楽しみにしているのだろう。
リュイセンは唇を噛んだ。
正直なところ、彼は母親のユイランが好きではない。幼少時から、愛人への当てつけとして生を享けたのだと、心の澱が溜まっていた。それを払拭してくれたのが、他でもない『敵対関係』のルイフォンだ。
「余計なお世話だ」
吐き捨てる彼に、シャンリーが眉を曇らせた。
「お前は、相変わらずユイラン様に冷たいな」
「母上は何を考えているのか、分からん」
刹那、普段の義姉からは想像できないほどに、シャンリーの顔が歪んだ。傷ついた、切なげな眼差しを彼に向ける。
「……子供だったお前を置いて、ユイラン様が私たちと一緒に、鷹刀の屋敷を去られたことを根に持っているのか?」
「別に。――それこそ、俺はもう餓鬼じゃない」
「リュイセン……」
どうにも、妙な流れになってしまった。リュイセンは、重い空気を振り落とすかのように立ち上がる。
「ま、礼儀として顔くらい見せてくるよ。母上は部屋にいるのか?」
「ああ。だが、今は取り込み中だ。メイシアを迎える準備でばたばたしている」
「は?」
歩きかけたリュイセンは、きょとんと義姉を振り返った。
互いに不干渉でよいと思っている母のことだが、メイシアに用件があるというのには興味を引かれる。しかし彼は、すぐに顔を引き締め、無関心を装った。
「――リュイセン、座ってくれ」
歯切れの悪いシャンリーの声が、彼をソファーへと引き戻す。
「ユイラン様は思慮深い方だ。どうしたら『一族にとって』一番良いかを考えておられる。そこにユイラン様の個人的な感情はないよ」
赤子のころから世話になっている彼女は、ことあるごとにユイランの肩を持つ。またか、と眉をひそめたリュイセンに、強い口調が続けられた。
「もう、時効だろう。……ユイラン様が鷹刀を出た、本当の理由を話してやる」
シャンリーはそう言って、愛用の直刀とそっくりな、まっすぐな視線を向けた。
「メイシアさん、こちらです」
レイウェンが振り返った。軽く首を傾け、メイシアの目線に合わせてふわりと微笑む。家の主自らの案内に恐縮しつつ、メイシアは勧められるままに部屋に入った。
その途端、彼女は足を止め、息を呑んだ。
「綺麗……」
部屋の奥の壁に、深い藍色の衣装が飾られていた。
きらびやかな金糸による大輪の牡丹の花が、左肩から右脇へと連なるように咲き誇っていた。その華やかさとは対照的に、藍の地には同色の糸でひっそりと無数の葉が織り刻まれ、絹の光沢によって浮き上がっている。
扉とはちょうど向き合う位置に、大きく両腕を広げた姿で掲げられたその衣装は、まるで来客を迎え入れようとしているかのようだった。
「びっくりした?」
続いて入ってきたクーティエが尋ねる。手にはメイシアから受け取ったよもぎあんパンの袋があり、彼女はとてもご機嫌だった。
「それ、『いらっしゃい!』って、言っているみたいでしょ? 私が考えたの。――この衣装ね、母上が女王陛下の即位式で舞ったときのものよ」
いたずらっぽい笑みの後ろには、自慢したくてうずうずしていた気持ちが見え隠れしている。
そこへ、半ば呆れたような声が割り込んだ。
「おい、クーティエ。これで客を驚かせたのは何回目だ? やはり、お前の趣味は悪い」
メイシアは、どきりとした。この部屋は無人だと思っていたのだ。扉を開けた瞬間から今まで、まるで人の気配を感じなかった。
けれどよく見ればリュイセンと、もうひとり――今の声の主が、向かい合ってソファーに座っている。状況から考えて、クーティエの母、レイウェンの妻のシャンリーだろう。
壁の衣装に気を取られ、挨拶もしていなかった。メイシアは焦りと羞恥を覚える。
「し、失礼いたしました。ご無礼、お許しください。――メイシアと申します。以後、お見知りおきを」
かっと頬を染めながら、彼女は深々と頭を下げた。長い黒絹の髪がさらさらと後を追い、赤い顔を覆う。しかし逆に、隠れていた耳の赤さが露呈してしまった。
「へ……?」
メイシアの緊張ぶりにシャンリーの目が点になる。続けて、ぷっと吹き出した。
「おっと、こちらこそ失礼。けど、そんなにかしこまらないでくれ」
彼女はすっと立ち上がり、メイシアに歩み寄る。チャオラウとの血縁を感じさせる女丈夫。ミンウェイの立ち姿もすらりと美しいが、シャンリーには圧倒的な存在感がある。女性にしてはやや低めの声質も、男性のような粗野な口調も、彼女の魅力を損なうどころか引き立てていた。
「草薙シャンリーだ。よろしく」
差し出された右手を握ると、優しく握り返された。刀を振るう硬い掌だが、どこか温かい。
「……なるほど、噂通り可愛らしいお嬢さんだ。それでいて、イーレオ様が一目置くというのだから興味深い」
シャンリーは朗らかに笑い、ソファーに座るようメイシアを促した。そして一番後ろから、のそりとついてきたチャオラウに「ようこそ、親父殿」と囁く。そこには照れくささと共に、喜びが漏れ出ていた。
ルイフォンとは仲の悪い親戚であると身構えていたメイシアは、この家の人々の好意的な態度に戸惑っていた。敵対しているのは、この場にいない『ユイラン様』だけなのだろうか……?
メイシアは落ち着きなく、あたりを見渡す。
ここは応接室であるらしい。きっと、レイウェンの仕事関係の者を通すのだろう。部屋中が賞状や感謝状、トロフィーや楯といった名誉ある品々で埋め尽くされ、これまでの実績を無言で訴えかけている。
大きく引き伸ばされた写真は、藍色の衣装を着て舞うシャンリー。即位式のものだ。あの華やかな舞台を彩ったのは、舞い手として最高の地位にあるといえる。四年前の式典には貴族だったメイシアも参列したので、その価値は身を持って知っている。
「あ……」
剣舞の名手シャンリーや若手のクーティエ、業績を上げるレイウェンの会社への賞賛の嵐ともいえる壁の中、メイシアは表彰される『ユイラン』の名を見つけた。
「ユイラン様はデザイナーだったんですね」
メイシアが呟くように言うと、「そうよ!」とクーティエが嬉しそうに答えた。
「見て! このスカートも祖母上のデザインなのよ。可愛いのに、どんな動きをしても平気なの」
座った姿勢で、膝よりかなり上に来ている短い裾を、クーティエは更につまんで持ち上げる。
「クーティエ! 少しは周りを気にしろ」
軽い拳骨を飛ばしたのは、意外なことにチャオラウだった。
彼は憮然とした顔で目をそらす。無精髭が苦々しげに揺れていた。総帥の護衛として常にイーレオの背後に控え、忠実――それでいて時に主人に、軽口と皮肉さえも言える、無敵の腹心の面影は消えていた。
「……っと、失礼」
チャオラウは、ごほんと咳払いをして、メイシアに目礼をする。
「親父殿は、いつからそんな口うるさい爺になったんだ?」
シャンリーが呆れたように言うと、チャオラウはぎろりと睨んで鼻を鳴らした。
「お前の育て方を間違えたから、せめてクーティエだけは、まともであってほしいだけだ」
「でも、じぃじ。この服、中が見えないようになっているのよ?」
すかさず、クーティエが口を挟むと、横からレイウェンの苦笑が漏れた。
「クーティエ、そういう問題じゃないよ」
娘をやんわりとたしなめ、それからレイウェンは、メイシアに申し訳なさそうに頭を下げる。
「騒がしい家ですみません。メイシアさん、驚かれたでしょう?」
「あっ……」
メイシアは、いつの間にかぽかんと開けていた口を手で抑える。
「い、いえ! ……素敵なご家族ですね」
気兼ねなく言葉が出るのは、仲が良い証拠だ。メイシアの実家は、使用人たちの目があったため、こうはいかなかった。
――けれど、それでも。ほんの少し前までは、彼女のすぐそばに家族がいた。
メイシアの顔に影が落ちる。知らず、胸元のペンダントを握りしめていた。
「……メイシアさん?」
レイウェンが不審の声を上げる。
そのとき、シャンリーの携帯端末が着信音を鳴らした。申し合わせたように、皆がぱっと口を閉ざす。
「はい。……ええ、来ていますよ。え? ……分かりました」
簡単なやり取りの末、シャンリーが端末を切った。そして、メイシアに顔を向ける。
その目線に、メイシアの心臓がどきりと音を立てた。
「メイシア、ユイラン様が部屋まで来てほしいと。――案内する」
「は、はい!」
思わず大きな声になってしまった返事が、飾り棚の硝子戸を震わせた。
「そんなに構えるな。悪い話じゃない」
シャンリーがにやりと笑い、軽い足取りで扉へと向かっていった。
義姉シャンリーの声に、リュイセンは、はっと我に返った。
ガタガタと苛立たしげに膝を揺らす彼に合わせ、飾り棚の硝子戸が震えていた。中に収められたトロフィーやら楯やらといった、この家の人間の功績を讃える品々までもが動き出しそうな具合である。
リュイセンは尻をもぞもぞとさせて座り直し、向かいのソファーの義姉に「すまん」と詫びた。
「だが……、いったい祖父上は何を考えているんだ!?」
祖父イーレオは、半ば命じるようにして、ひと月以上も前の土産を兄夫婦の家に持って行くように言った。けれど、それはどうやら、メイシアをこの家に向かわせるための方便だったらしい。
「この家は、メイシアにとっちゃ敵地みたいなものだろうが……!」
「おいおい、敵地とは穏やかじゃないねぇ」
巷では男装の麗人とも褒めそやされている剣舞の名手は、見た目通りに実に男らしく、豪快にからからと笑った。
「けど、義姉上。メイシアはルイフォンの……妻、――じゃないよな、女?」
「私に訊かれても困るよ」
義姉の答えは至極まっとうであったのだが、気の立っていたリュイセンは、むっと鼻に皺を寄せる。
「――ともかく、だ。父上を巡って、正妻の母上と、愛人のルイフォンの母親がいがみ合っていたわけだろ。だったら、どう考えてもメイシアは『ルイフォンの母親側』だ。母上とは敵対関係だ。そんな相手のいる家に、どうして祖父上はメイシアを差し向けるんだ? おかしいだろ!?」
どん、とテーブルを叩くと、飾り棚の硝子が再び音を立てた。更に、壁一面に飾られた賞状と感謝状の額までもが共振する。大きく引き伸ばされた写真の中で、剣舞の演技中のシャンリーが刀を向けてこちらを睨んでいた。
「……あ」
さすがに興奮し過ぎたと、リュイセンは体を縮こめる。
「まったく……。お前は本当に文句が多いな」
写真ではなく、実体のシャンリーが溜め息混じりに苦笑した。
「ユイラン様が、メイシアを呼んだんだよ」
「母上が……? なんだって!?」
リュイセンはソファーから腰を浮かせ、身を乗り出す。
「どういうことだ!?」
そのあまりの喰らいつきようにシャンリーは目を丸くし、次ににやりと目を細めた。
「面白そうだから黙っておこう」
「義姉上!」
リュイセンが勢いよく立ち上がる。肩で切りそろえられた黒髪が、前に向かってばさりと飛び出した。
と、そのとき――。
リュイセンは、耳朶に風を感じた。
艷やかな髪のひと房が彼から離れ、後ろに散った。
数センチほどの長さに斬られた毛髪が、ぱらぱらと絨毯に舞い落ちる。
「え……?」
リュイセンの頬をかすめるように、銀色の刀身が光っていた。目玉を巡らせば、義姉の握る直刀の刃紋が見える。
「何を……?」
「私はまっすぐに刀を差し出しただけだ。お前は自分から迫ってきて、勝手に斬られた」
シャンリーは口の端を上げるが、目は笑っていない。殺気も感じられないのに、リュイセンはぞくりとした。
「お前は、頭が戦闘態勢に切り替わっていれば機械並みに冷静だが、普段は隙が多すぎる。感情のコントロールができてない」
「……っ」
「取りあえず、座れ」
性別不詳の低い声が命じ、言われるままにリュイセンは腰を下ろした。額から頬にかけて、つうっと冷たい汗が流れる。
凶賊を抜けて十年も経つのに、いまだにこの義姉は『本物』だった。彼女と兄のふたりで、一族を盛りたててくれることを期待した皆の気持ちが、痛いほどよく分かる。そして、その裏にあるリュイセンへの落胆も……。
「ユイラン様には、メイシアに会わなければならない事情があるんだ」
「え?」
「確かにユイラン様とメイシアは、お前の言う『敵対関係』にある。だから、どうしたら身構えずに来てくれるだろうかと、ユイラン様はイーレオ様に相談した。――そしたら、お前がダシに使われた、というわけだ」
「はぁ?」
「普通にメイシアを招待すればいいだけの問題だったと思うんだが……。イーレオ様の手の込んだ悪ふざけ、ってとこだな」
リュイセンは頭を抱えた。
わけが分からない。何がなんだか、さっぱりだ。
『敵対関係』にある母が、メイシアになんの用があるというのだ? ――薄ぼんやりと紗が掛かったような不快感が絡みついてくる。
けれど、ひとつ。はっきりしたことがある。
「やっぱり、俺は巻き込まれただけじゃねぇかよ!」
「まぁ、そう言うな。……こうでもしなきゃ、お前はなかなか、この家に――ユイラン様に会いにこないだろう?」
「……っ」
「『イーレオ様の悪ふざけ』は、イーレオ様のお心遣いだよ。運転手に親父殿をつけてくれたというのもそうだ。私たちに会ってこい、ってことだ」
義姉は「まったく、イーレオ様は……」と言いながら、優しげな顔をする。その視線は窓の外に投げられていた。ここから実際に門が見えるわけではないが、出迎えに行ったクーティエたちと同様に、チャオラウに会えるのを楽しみにしているのだろう。
リュイセンは唇を噛んだ。
正直なところ、彼は母親のユイランが好きではない。幼少時から、愛人への当てつけとして生を享けたのだと、心の澱が溜まっていた。それを払拭してくれたのが、他でもない『敵対関係』のルイフォンだ。
「余計なお世話だ」
吐き捨てる彼に、シャンリーが眉を曇らせた。
「お前は、相変わらずユイラン様に冷たいな」
「母上は何を考えているのか、分からん」
刹那、普段の義姉からは想像できないほどに、シャンリーの顔が歪んだ。傷ついた、切なげな眼差しを彼に向ける。
「……子供だったお前を置いて、ユイラン様が私たちと一緒に、鷹刀の屋敷を去られたことを根に持っているのか?」
「別に。――それこそ、俺はもう餓鬼じゃない」
「リュイセン……」
どうにも、妙な流れになってしまった。リュイセンは、重い空気を振り落とすかのように立ち上がる。
「ま、礼儀として顔くらい見せてくるよ。母上は部屋にいるのか?」
「ああ。だが、今は取り込み中だ。メイシアを迎える準備でばたばたしている」
「は?」
歩きかけたリュイセンは、きょとんと義姉を振り返った。
互いに不干渉でよいと思っている母のことだが、メイシアに用件があるというのには興味を引かれる。しかし彼は、すぐに顔を引き締め、無関心を装った。
「――リュイセン、座ってくれ」
歯切れの悪いシャンリーの声が、彼をソファーへと引き戻す。
「ユイラン様は思慮深い方だ。どうしたら『一族にとって』一番良いかを考えておられる。そこにユイラン様の個人的な感情はないよ」
赤子のころから世話になっている彼女は、ことあるごとにユイランの肩を持つ。またか、と眉をひそめたリュイセンに、強い口調が続けられた。
「もう、時効だろう。……ユイラン様が鷹刀を出た、本当の理由を話してやる」
シャンリーはそう言って、愛用の直刀とそっくりな、まっすぐな視線を向けた。
「メイシアさん、こちらです」
レイウェンが振り返った。軽く首を傾け、メイシアの目線に合わせてふわりと微笑む。家の主自らの案内に恐縮しつつ、メイシアは勧められるままに部屋に入った。
その途端、彼女は足を止め、息を呑んだ。
「綺麗……」
部屋の奥の壁に、深い藍色の衣装が飾られていた。
きらびやかな金糸による大輪の牡丹の花が、左肩から右脇へと連なるように咲き誇っていた。その華やかさとは対照的に、藍の地には同色の糸でひっそりと無数の葉が織り刻まれ、絹の光沢によって浮き上がっている。
扉とはちょうど向き合う位置に、大きく両腕を広げた姿で掲げられたその衣装は、まるで来客を迎え入れようとしているかのようだった。
「びっくりした?」
続いて入ってきたクーティエが尋ねる。手にはメイシアから受け取ったよもぎあんパンの袋があり、彼女はとてもご機嫌だった。
「それ、『いらっしゃい!』って、言っているみたいでしょ? 私が考えたの。――この衣装ね、母上が女王陛下の即位式で舞ったときのものよ」
いたずらっぽい笑みの後ろには、自慢したくてうずうずしていた気持ちが見え隠れしている。
そこへ、半ば呆れたような声が割り込んだ。
「おい、クーティエ。これで客を驚かせたのは何回目だ? やはり、お前の趣味は悪い」
メイシアは、どきりとした。この部屋は無人だと思っていたのだ。扉を開けた瞬間から今まで、まるで人の気配を感じなかった。
けれどよく見ればリュイセンと、もうひとり――今の声の主が、向かい合ってソファーに座っている。状況から考えて、クーティエの母、レイウェンの妻のシャンリーだろう。
壁の衣装に気を取られ、挨拶もしていなかった。メイシアは焦りと羞恥を覚える。
「し、失礼いたしました。ご無礼、お許しください。――メイシアと申します。以後、お見知りおきを」
かっと頬を染めながら、彼女は深々と頭を下げた。長い黒絹の髪がさらさらと後を追い、赤い顔を覆う。しかし逆に、隠れていた耳の赤さが露呈してしまった。
「へ……?」
メイシアの緊張ぶりにシャンリーの目が点になる。続けて、ぷっと吹き出した。
「おっと、こちらこそ失礼。けど、そんなにかしこまらないでくれ」
彼女はすっと立ち上がり、メイシアに歩み寄る。チャオラウとの血縁を感じさせる女丈夫。ミンウェイの立ち姿もすらりと美しいが、シャンリーには圧倒的な存在感がある。女性にしてはやや低めの声質も、男性のような粗野な口調も、彼女の魅力を損なうどころか引き立てていた。
「草薙シャンリーだ。よろしく」
差し出された右手を握ると、優しく握り返された。刀を振るう硬い掌だが、どこか温かい。
「……なるほど、噂通り可愛らしいお嬢さんだ。それでいて、イーレオ様が一目置くというのだから興味深い」
シャンリーは朗らかに笑い、ソファーに座るようメイシアを促した。そして一番後ろから、のそりとついてきたチャオラウに「ようこそ、親父殿」と囁く。そこには照れくささと共に、喜びが漏れ出ていた。
ルイフォンとは仲の悪い親戚であると身構えていたメイシアは、この家の人々の好意的な態度に戸惑っていた。敵対しているのは、この場にいない『ユイラン様』だけなのだろうか……?
メイシアは落ち着きなく、あたりを見渡す。
ここは応接室であるらしい。きっと、レイウェンの仕事関係の者を通すのだろう。部屋中が賞状や感謝状、トロフィーや楯といった名誉ある品々で埋め尽くされ、これまでの実績を無言で訴えかけている。
大きく引き伸ばされた写真は、藍色の衣装を着て舞うシャンリー。即位式のものだ。あの華やかな舞台を彩ったのは、舞い手として最高の地位にあるといえる。四年前の式典には貴族だったメイシアも参列したので、その価値は身を持って知っている。
「あ……」
剣舞の名手シャンリーや若手のクーティエ、業績を上げるレイウェンの会社への賞賛の嵐ともいえる壁の中、メイシアは表彰される『ユイラン』の名を見つけた。
「ユイラン様はデザイナーだったんですね」
メイシアが呟くように言うと、「そうよ!」とクーティエが嬉しそうに答えた。
「見て! このスカートも祖母上のデザインなのよ。可愛いのに、どんな動きをしても平気なの」
座った姿勢で、膝よりかなり上に来ている短い裾を、クーティエは更につまんで持ち上げる。
「クーティエ! 少しは周りを気にしろ」
軽い拳骨を飛ばしたのは、意外なことにチャオラウだった。
彼は憮然とした顔で目をそらす。無精髭が苦々しげに揺れていた。総帥の護衛として常にイーレオの背後に控え、忠実――それでいて時に主人に、軽口と皮肉さえも言える、無敵の腹心の面影は消えていた。
「……っと、失礼」
チャオラウは、ごほんと咳払いをして、メイシアに目礼をする。
「親父殿は、いつからそんな口うるさい爺になったんだ?」
シャンリーが呆れたように言うと、チャオラウはぎろりと睨んで鼻を鳴らした。
「お前の育て方を間違えたから、せめてクーティエだけは、まともであってほしいだけだ」
「でも、じぃじ。この服、中が見えないようになっているのよ?」
すかさず、クーティエが口を挟むと、横からレイウェンの苦笑が漏れた。
「クーティエ、そういう問題じゃないよ」
娘をやんわりとたしなめ、それからレイウェンは、メイシアに申し訳なさそうに頭を下げる。
「騒がしい家ですみません。メイシアさん、驚かれたでしょう?」
「あっ……」
メイシアは、いつの間にかぽかんと開けていた口を手で抑える。
「い、いえ! ……素敵なご家族ですね」
気兼ねなく言葉が出るのは、仲が良い証拠だ。メイシアの実家は、使用人たちの目があったため、こうはいかなかった。
――けれど、それでも。ほんの少し前までは、彼女のすぐそばに家族がいた。
メイシアの顔に影が落ちる。知らず、胸元のペンダントを握りしめていた。
「……メイシアさん?」
レイウェンが不審の声を上げる。
そのとき、シャンリーの携帯端末が着信音を鳴らした。申し合わせたように、皆がぱっと口を閉ざす。
「はい。……ええ、来ていますよ。え? ……分かりました」
簡単なやり取りの末、シャンリーが端末を切った。そして、メイシアに顔を向ける。
その目線に、メイシアの心臓がどきりと音を立てた。
「メイシア、ユイラン様が部屋まで来てほしいと。――案内する」
「は、はい!」
思わず大きな声になってしまった返事が、飾り棚の硝子戸を震わせた。
「そんなに構えるな。悪い話じゃない」
シャンリーがにやりと笑い、軽い足取りで扉へと向かっていった。