残酷な描写あり
6.かがり合わせの過去と未来-4
「さて――」
そう言ってユイランは、リュイセンの顔から机の上の書き付けへと目線を落とした。
白髪混じりの睫毛が、綺麗に弓形に並ぶ。その表情は柔らかく、そして清らかだった。しかし、彼女が再び顔を上げると、切れ長の瞳はすっかり鋭敏な輝きを取り戻している。
リュイセンは、ごくりと唾を呑んだ。隣ではメイシアが緊張の息遣いしている。ふたりは、そろって身を乗り出した。
「まず初めに、はっきりと言っておくわ。私の弟ヘイシャオと、現在、鷹刀の周りをうろついている〈蝿〉と名乗る者――このふたりは別人よ」
素朴で温かみのある生成りの部屋に、不釣り合いなほどに力強く涼やかな声が響いた。
あまりに単刀直入に言ってのけたユイランに、リュイセンは度肝を抜かれた。正体不明の焦りすら感じ、言葉が出ない。
ユイランの言葉に翻弄されているのはメイシアも同じようで、彼女もまた目を瞬かせ、おずおずと口を開いた。
「あの……、畏れながら、先ほどユイラン様は『〈蝿〉は弟』だとおっしゃいました。別人というのならば、それは、その……おかしくはないでしょうか?」
当然の疑問を、ユイランが否定することはなかった。ただ、「これから説明するわ」と微笑む。
「数日前、ミンウェイが訪ねてきて訊いたの。『〈七つの大罪〉の技術なら、死んだ人も生き返りますか?』って。私は〈悪魔〉ではないから技術的なことは分からないけど、これだけは断言できると思ったわ」
そこで一度ユイランは声を止め、諭すようにゆっくりと先ほどの言葉を繰り返す。
「ヘイシャオと、彼にそっくりな男は『別人』ってね」
今まで積み重なっていた数々の謎を一刀両断に斬り捨てて、ユイランは彼女の結論に至っていた。
リュイセンは、思わず声を張り上げた。
「何故、そうなるんですか? 俺は先ほど、兄上から〈蝿〉は『肉体の生成技術』を研究していたと聞きました。それを教えてくれたのは母上だそうじゃないですか! ならば、〈蝿〉はその技術を使って蘇り、今度こそ鷹刀を我が物にしようとしている、と考えるのが自然でしょう!?」
知らず知らずのうちに、言葉に力が入っていた。
斑目一族の別荘からメイシアの父親を救出するとき、リュイセンは〈蝿〉の素顔を見ている。ルイフォンが〈蝿〉のサングラスを弾き飛ばしたのだ。
その顔は、どう見ても鷹刀一族の血を引く者の顔だった。
「リュイセン、誤解があるわ」
「誤解!?」
〈蝿〉を庇うようにも聞こえる口ぶりに、リュイセンは眉を吊り上げる。しかし、ユイランは静かに言う。
「あなたは、ヘイシャオが鷹刀を手に入れようとしている、と思っているようだけど、それはないの」
「何故ですか? 〈蝿〉は祖父上を恨んでいたはずだ! 奴は自分こそが正当な後継者だと……」
「違うのよ」
息巻くリュイセンをユイランが途中で遮った。言い返そうとする彼の機先を制し、彼女は「大前提が違うの」と言い放つ。
「ヘイシャオは、総帥位なんてまったく興味がなかったの。だから、鷹刀を手に入れるために蘇るなんてことはあり得ないのよ」
ひと言ごとに否定され、リュイセンは憎しみすら含んだ視線をユイランに向ける。低い声で、唸るように言葉を紡ぐ。
「……けど、あれは本人でしょう!」
リュイセンは次の句をためらった。しかし、ぐっと腹に力を入れた。
「あれは、ミンウェイを虐待した男だ。そんなの……ミンウェイを見ていれば分かる!」
ミンウェイを脅かす存在が、野放しにされている。その現状が歯がゆくてならない……。
黄金比の美貌が、苦痛に歪んだ。うつむいて肩を震わせるリュイセンの耳に、ユイランの深い息が届く。
「ヘイシャオの虐待については、私には何を言う資格もないわ。ミンウェイを亡くしたヘイシャオがどうなるか、姉としてもっと心を配っておくべきだった。私は……、――あ、ごめんなさい。名前が混乱しているわね」
メイシアの戸惑いの顔に気づき、ユイランは言葉を止めた。わけの分からないことを言う母の助け舟は気乗りしないが、話を円滑に進めるためにリュイセンは口を添える。
「兄上から聞きましたよ。ミンウェイの母親の名前も『ミンウェイ』だったと。〈蝿〉は生まれた娘に名前を与えず、妻の代わりにした、とね」
メイシアが「そんな……」と小さく声を漏らした。リュイセンも同意するように、不快げに鼻を鳴らす。
「順を追って話しましょう」
一同を見渡し、ユイランは厳かに言った。
「ヘイシャオは、婚約者のミンウェイを何よりも大切にしていたの」
ユイランの第一声は、〈悪魔〉の過去には似つかわしくないような、優しいものだった。
「勿論、〈七つの大罪〉が勝手に決めた相手よ。だからヘイシャオは初め、彼女に無関心だった。けれど、純真なミンウェイは疑うことなく彼を慕ってきたのよ」
かつての悪虐な鷹刀一族の中で、どうしてそんな夢見る少女が育ったのだろう。リュイセンのそんな疑問に答えるように、ユイランの言葉が続く。
「ミンウェイは生まれつき病弱だったの。できることが限られていた彼女は、自分は役立たずな人間だと思っていた。だから、ヘイシャオに尽くすことに生きる価値を見出していたのよ」
濃い血を重ね合わせた一族で、成人できるのは半数以下。その運命の足枷は彼女をがっちりと捕らえていた。
「きっかけなんて、どうでもいいのよ。ミンウェイはまっすぐに彼を想った。鬱陶しがっていたヘイシャオも、いつの間にか本気で彼女に応えていた。見ているほうが恥ずかしいくらいに微笑ましくて、そして羨ましかったわ」
ユイランが目を伏せた。白髪混じりの睫毛の影が、静かに顔に落ちる。
「けれどミンウェイの体は、成長するにつれ確実に弱っていった。だから、ミンウェイを生きながらえさせる方法を求めて、ヘイシャオは〈悪魔〉となったのよ」
隣でメイシアが体を震わせた。
リュイセンは、胸の中に不快なざわつきを覚える。
〈七つの大罪〉は怪しげな組織だ。胡散臭い。リュイセンなら絶対に関わらない。
けれど、そのときの〈蝿〉の行動は理解できるのだ。――それが、病弱な婚約者のために、必要なことだから……。
自分の心の中に生まれた〈蝿〉への同情に気づき、リュイセンは己を叱咤する。
「……その後、イーレオ様が総帥位に就き、鷹刀は〈七つの大罪〉と縁を切ったわ。ヘイシャオは、ミンウェイの治療法を探すために〈悪魔〉として生きることを選び、彼女を連れて鷹刀を去った。彼にとってはミンウェイが第一で、総帥位なんて本当にどうでもよかったのよ」
ユイランは肩を落とし、呟くように言う。
「ヘイシャオたちが出ていくとき、私はそれでいいのだと信じていたわ。……病弱なミンウェイが長く生きられないことも、ひとり残されるヘイシャオがどうなってしまうのかも、考えてあげることができなかった」
その結果、娘への虐待へと繋がった。
ユイランの後悔が、こめかみに深い皺となって表れる。それを覆い隠そうとするかのように、うつむいたはずみに銀の前髪が掛かった。
リュイセンは、腹の中で渦巻く不可解な感情に押し流されないように、奥歯を噛んだ。
母は、過去を美化しているのだ。どんな事情があれ、〈蝿〉がミンウェイにしたことは変わらない。奴は、卑劣な外道である。奴は、非道な男でなくてはならないのだ――ミンウェイのために。
「ここまでが、私が直接知っている弟のヘイシャオよ。そして、彼が次に現れたのが十数年前……」
リュイセンは、はっとした。弾かれたように叫びだす。
「そのとき、〈蝿〉は祖父上を狙っているじゃないですか! 奴は総帥位なんてどうでもいいんじゃないんですか? これはどう説明するんですか!?」
リュイセンが顎をしゃくる。黒髪が肩をかすめ、後ろで鋭く怒りに舞った。
「あれはね……。死に場所を求めてきたのだと思うわ」
「わけが分かりません!」
言い返す彼に、ユイランは口調を変えることなく落ち着いた言葉を重ねる。
「ヘイシャオは、娘のミンウェイを連れて『エルファンのところに』来たのよ。『イーレオ様に復讐する』と口では言いながら、イーレオ様ではなく仲の良かったエルファンのところに現れたの」
「え……?」
「ヘイシャオは妻のミンウェイが亡くなったことを告げ、自分の亡骸を彼女のそばに埋めてほしいと、そして娘を頼むと……エルファンに託したのよ」
「……」
「もし娘のミンウェイがいなければ、ヘイシャオは妻のミンウェイが亡くなったときに、あとを追ったはずよ。それが何故、十数年前のタイミングで娘を鷹刀に託し、妻のあとを追うことにしたのかは分からない。――けど、自ら死を求めたのなら、彼がこの世に戻る理由はないわ」
メイシアが息を呑み、顔色を変えた。叫びを抑えるかのように口元に手をやる。敏い彼女は、ユイランの言葉の裏の意味に気づいたのだ。黒曜石の瞳が、不安に揺らめく。
けれど、リュイセンの昂ぶった気持ちは、収まりが効かなかった。
「ですが! あの〈蝿〉は、どう考えても本人で……!」
食って掛かる彼を、ユイランは冷静に遮る。
「勿論、ヘイシャオとは無関係だなんて言わないわよ。あなたの推測通り、〈七つの大罪〉には死者を生き返らせる技術があるのでしょう」
「母上、言っていることがちぐはぐです!」
「――気づかないの?」
「何に気づけと?」
謎掛けめいた言葉に苛つき、リュイセンは声を荒立てる。
察しの悪い息子に、ユイランは不満げに大げさな溜め息をついた。
「私は昔を懐かしむために、死んだ弟と義妹の話をしたわけじゃないわ。感傷に浸りたいだけなら、こんな後悔は息子なんかに話さないの」
見下した物言いに、かちんとくる。けれど、有無を言わせぬ強い口調に、リュイセンは言い返すことができなかった。――その裏側に、悲しみの色を見てしまったから。
唇を噛むリュイセンをユイランはじっと見つめ、ふっと表情を緩めた。
「さっき、あなたは自分で言ったでしょう? 過去を知ることで現在を読み解き、未来に繋げる、と」
「あ、ああ……」
「つまりね、過去のヘイシャオの行動を考えれば、『彼が、自分の意思で生き返ることはない』と断言できるの。すなわち――」
切れ長の目が、研ぎ澄まされたような鋭い輝きを放った。美麗な声が静かな怒りをはらみ、部屋中に響き渡る。
「ヘイシャオの最期の思いを無視して、彼を生き返らせた『第三者』がいる」
窓も開けていないのに、冷たい風がすっと通り抜けたようだった。
生成りの壁紙も、木目の床も、色あせたような薄ら寒さに染まっていく。手紡ぎ糸のカーテンだけが、その風が錯覚であることを証明するかのように、ぴくりとも動かずにいた。
「なんの目的で彼を生き返らせたのかは分からない。けれど必ず、なんらかの意図が――ヘイシャオにやらせようとしている『何か』があるはずよ」
そう言ってユイランは、リュイセンを見やった。
「分かったかしら? 今、〈蝿〉を名乗っている男は、第三者が自分の目的を果たすために作った、ただの駒よ。だから、ヘイシャオとは『別人』なの」
「……!」
リュイセンは拳を握りしめた。
あの憎々しい男は、ただの駒でしかない。けれど、もっと、とてつもない陰謀の予兆である――。
にわかには、信じがたかった。
だが、母の説明は筋が通っていた……。
「あ、あの、ユイラン様、お聞きしてもよろしいでしょうか」
メイシアが、遠慮がちな細い声を上げた。
「私とルイフォンは、貧民街で〈蝿〉に会いました。そのとき、逃げる隙を作るために、私は彼を挑発しました。『過去に、イーレオ様に負けたのでしょう』と」
そのときのことを思い出したのか、メイシアは顔を強張らせる。
「〈蝿〉は私の想像以上に、我を忘れて怒り狂いました。彼は、イーレオ様に恨みがあると考えて間違いないと思います。しかしユイラン様のお話だと、ヘイシャオさんはイーレオ様を憎んでいないはずです。――ならば、今の〈蝿〉は、その第三者にイーレオ様への憎しみまでも植え付けられてしまったのでしょうか」
「それは……難しい質問だわ」
ユイランは、彼女らしくもなく口ごもる。
「ヘイシャオは〈七つの大罪〉のやりようには反感を抱いていたけれど、技術そのものは称賛していたの。だって、ミンウェイの命が掛かっていたもの。――けど、イーレオ様は〈七つの大罪〉に関することは全面的に否定したわ。皆をまとめるためにも、それは必要なことだったから。だから、ヘイシャオとイーレオ様は対立していたと言えなくもないの」
「そう……ですか」
力なくメイシアが言う。
「イーレオ様にとって、ミンウェイは娘よ。可愛くないはずがない。ヘイシャオの意見も認めたかったはず。でも立場上、それはできない。……おそらくね、現在の〈蝿〉に対して、イーレオ様の態度が煮え切らないのは、過去のヘイシャオへの罪悪感があるからよ。〈蝿〉が狙っているのは一族ではなく、自分個人だと考えてらっしゃるから、万一のときはそれでもいいと思ってらっしゃるんだわ」
「そんな馬鹿な!」
リュイセンは反射的に叫んでから、そういえば、とイーレオの態度に納得する。
そんな息子を見ながら、ユイランは優しく微笑んだ。
「ええ、そんな馬鹿なことがあってたまるものですか。――あれは『別人』なの。ヘイシャオもミンウェイも、もういないの。だから、これ以上、悲しいことが起こらない『未来』を作らないとね」
ユイランは、切れ長の目に強気で涼やかな色を載せた。口元を引き締め、結い上げた銀髪を揺らして立ち上がる。
「ヘイシャオのことは、ここまで。それじゃあ、私がキリファさんから預かった手紙をメイシアさんに渡すわね」
これこそが、未来を切り拓く鍵となるに違いない――。
そのとき。
がたんと、椅子の音が鳴り響いた。
「待ってください!」
戸棚に向かうユイランを、メイシアの凛とした声が引き止めた。
そう言ってユイランは、リュイセンの顔から机の上の書き付けへと目線を落とした。
白髪混じりの睫毛が、綺麗に弓形に並ぶ。その表情は柔らかく、そして清らかだった。しかし、彼女が再び顔を上げると、切れ長の瞳はすっかり鋭敏な輝きを取り戻している。
リュイセンは、ごくりと唾を呑んだ。隣ではメイシアが緊張の息遣いしている。ふたりは、そろって身を乗り出した。
「まず初めに、はっきりと言っておくわ。私の弟ヘイシャオと、現在、鷹刀の周りをうろついている〈蝿〉と名乗る者――このふたりは別人よ」
素朴で温かみのある生成りの部屋に、不釣り合いなほどに力強く涼やかな声が響いた。
あまりに単刀直入に言ってのけたユイランに、リュイセンは度肝を抜かれた。正体不明の焦りすら感じ、言葉が出ない。
ユイランの言葉に翻弄されているのはメイシアも同じようで、彼女もまた目を瞬かせ、おずおずと口を開いた。
「あの……、畏れながら、先ほどユイラン様は『〈蝿〉は弟』だとおっしゃいました。別人というのならば、それは、その……おかしくはないでしょうか?」
当然の疑問を、ユイランが否定することはなかった。ただ、「これから説明するわ」と微笑む。
「数日前、ミンウェイが訪ねてきて訊いたの。『〈七つの大罪〉の技術なら、死んだ人も生き返りますか?』って。私は〈悪魔〉ではないから技術的なことは分からないけど、これだけは断言できると思ったわ」
そこで一度ユイランは声を止め、諭すようにゆっくりと先ほどの言葉を繰り返す。
「ヘイシャオと、彼にそっくりな男は『別人』ってね」
今まで積み重なっていた数々の謎を一刀両断に斬り捨てて、ユイランは彼女の結論に至っていた。
リュイセンは、思わず声を張り上げた。
「何故、そうなるんですか? 俺は先ほど、兄上から〈蝿〉は『肉体の生成技術』を研究していたと聞きました。それを教えてくれたのは母上だそうじゃないですか! ならば、〈蝿〉はその技術を使って蘇り、今度こそ鷹刀を我が物にしようとしている、と考えるのが自然でしょう!?」
知らず知らずのうちに、言葉に力が入っていた。
斑目一族の別荘からメイシアの父親を救出するとき、リュイセンは〈蝿〉の素顔を見ている。ルイフォンが〈蝿〉のサングラスを弾き飛ばしたのだ。
その顔は、どう見ても鷹刀一族の血を引く者の顔だった。
「リュイセン、誤解があるわ」
「誤解!?」
〈蝿〉を庇うようにも聞こえる口ぶりに、リュイセンは眉を吊り上げる。しかし、ユイランは静かに言う。
「あなたは、ヘイシャオが鷹刀を手に入れようとしている、と思っているようだけど、それはないの」
「何故ですか? 〈蝿〉は祖父上を恨んでいたはずだ! 奴は自分こそが正当な後継者だと……」
「違うのよ」
息巻くリュイセンをユイランが途中で遮った。言い返そうとする彼の機先を制し、彼女は「大前提が違うの」と言い放つ。
「ヘイシャオは、総帥位なんてまったく興味がなかったの。だから、鷹刀を手に入れるために蘇るなんてことはあり得ないのよ」
ひと言ごとに否定され、リュイセンは憎しみすら含んだ視線をユイランに向ける。低い声で、唸るように言葉を紡ぐ。
「……けど、あれは本人でしょう!」
リュイセンは次の句をためらった。しかし、ぐっと腹に力を入れた。
「あれは、ミンウェイを虐待した男だ。そんなの……ミンウェイを見ていれば分かる!」
ミンウェイを脅かす存在が、野放しにされている。その現状が歯がゆくてならない……。
黄金比の美貌が、苦痛に歪んだ。うつむいて肩を震わせるリュイセンの耳に、ユイランの深い息が届く。
「ヘイシャオの虐待については、私には何を言う資格もないわ。ミンウェイを亡くしたヘイシャオがどうなるか、姉としてもっと心を配っておくべきだった。私は……、――あ、ごめんなさい。名前が混乱しているわね」
メイシアの戸惑いの顔に気づき、ユイランは言葉を止めた。わけの分からないことを言う母の助け舟は気乗りしないが、話を円滑に進めるためにリュイセンは口を添える。
「兄上から聞きましたよ。ミンウェイの母親の名前も『ミンウェイ』だったと。〈蝿〉は生まれた娘に名前を与えず、妻の代わりにした、とね」
メイシアが「そんな……」と小さく声を漏らした。リュイセンも同意するように、不快げに鼻を鳴らす。
「順を追って話しましょう」
一同を見渡し、ユイランは厳かに言った。
「ヘイシャオは、婚約者のミンウェイを何よりも大切にしていたの」
ユイランの第一声は、〈悪魔〉の過去には似つかわしくないような、優しいものだった。
「勿論、〈七つの大罪〉が勝手に決めた相手よ。だからヘイシャオは初め、彼女に無関心だった。けれど、純真なミンウェイは疑うことなく彼を慕ってきたのよ」
かつての悪虐な鷹刀一族の中で、どうしてそんな夢見る少女が育ったのだろう。リュイセンのそんな疑問に答えるように、ユイランの言葉が続く。
「ミンウェイは生まれつき病弱だったの。できることが限られていた彼女は、自分は役立たずな人間だと思っていた。だから、ヘイシャオに尽くすことに生きる価値を見出していたのよ」
濃い血を重ね合わせた一族で、成人できるのは半数以下。その運命の足枷は彼女をがっちりと捕らえていた。
「きっかけなんて、どうでもいいのよ。ミンウェイはまっすぐに彼を想った。鬱陶しがっていたヘイシャオも、いつの間にか本気で彼女に応えていた。見ているほうが恥ずかしいくらいに微笑ましくて、そして羨ましかったわ」
ユイランが目を伏せた。白髪混じりの睫毛の影が、静かに顔に落ちる。
「けれどミンウェイの体は、成長するにつれ確実に弱っていった。だから、ミンウェイを生きながらえさせる方法を求めて、ヘイシャオは〈悪魔〉となったのよ」
隣でメイシアが体を震わせた。
リュイセンは、胸の中に不快なざわつきを覚える。
〈七つの大罪〉は怪しげな組織だ。胡散臭い。リュイセンなら絶対に関わらない。
けれど、そのときの〈蝿〉の行動は理解できるのだ。――それが、病弱な婚約者のために、必要なことだから……。
自分の心の中に生まれた〈蝿〉への同情に気づき、リュイセンは己を叱咤する。
「……その後、イーレオ様が総帥位に就き、鷹刀は〈七つの大罪〉と縁を切ったわ。ヘイシャオは、ミンウェイの治療法を探すために〈悪魔〉として生きることを選び、彼女を連れて鷹刀を去った。彼にとってはミンウェイが第一で、総帥位なんて本当にどうでもよかったのよ」
ユイランは肩を落とし、呟くように言う。
「ヘイシャオたちが出ていくとき、私はそれでいいのだと信じていたわ。……病弱なミンウェイが長く生きられないことも、ひとり残されるヘイシャオがどうなってしまうのかも、考えてあげることができなかった」
その結果、娘への虐待へと繋がった。
ユイランの後悔が、こめかみに深い皺となって表れる。それを覆い隠そうとするかのように、うつむいたはずみに銀の前髪が掛かった。
リュイセンは、腹の中で渦巻く不可解な感情に押し流されないように、奥歯を噛んだ。
母は、過去を美化しているのだ。どんな事情があれ、〈蝿〉がミンウェイにしたことは変わらない。奴は、卑劣な外道である。奴は、非道な男でなくてはならないのだ――ミンウェイのために。
「ここまでが、私が直接知っている弟のヘイシャオよ。そして、彼が次に現れたのが十数年前……」
リュイセンは、はっとした。弾かれたように叫びだす。
「そのとき、〈蝿〉は祖父上を狙っているじゃないですか! 奴は総帥位なんてどうでもいいんじゃないんですか? これはどう説明するんですか!?」
リュイセンが顎をしゃくる。黒髪が肩をかすめ、後ろで鋭く怒りに舞った。
「あれはね……。死に場所を求めてきたのだと思うわ」
「わけが分かりません!」
言い返す彼に、ユイランは口調を変えることなく落ち着いた言葉を重ねる。
「ヘイシャオは、娘のミンウェイを連れて『エルファンのところに』来たのよ。『イーレオ様に復讐する』と口では言いながら、イーレオ様ではなく仲の良かったエルファンのところに現れたの」
「え……?」
「ヘイシャオは妻のミンウェイが亡くなったことを告げ、自分の亡骸を彼女のそばに埋めてほしいと、そして娘を頼むと……エルファンに託したのよ」
「……」
「もし娘のミンウェイがいなければ、ヘイシャオは妻のミンウェイが亡くなったときに、あとを追ったはずよ。それが何故、十数年前のタイミングで娘を鷹刀に託し、妻のあとを追うことにしたのかは分からない。――けど、自ら死を求めたのなら、彼がこの世に戻る理由はないわ」
メイシアが息を呑み、顔色を変えた。叫びを抑えるかのように口元に手をやる。敏い彼女は、ユイランの言葉の裏の意味に気づいたのだ。黒曜石の瞳が、不安に揺らめく。
けれど、リュイセンの昂ぶった気持ちは、収まりが効かなかった。
「ですが! あの〈蝿〉は、どう考えても本人で……!」
食って掛かる彼を、ユイランは冷静に遮る。
「勿論、ヘイシャオとは無関係だなんて言わないわよ。あなたの推測通り、〈七つの大罪〉には死者を生き返らせる技術があるのでしょう」
「母上、言っていることがちぐはぐです!」
「――気づかないの?」
「何に気づけと?」
謎掛けめいた言葉に苛つき、リュイセンは声を荒立てる。
察しの悪い息子に、ユイランは不満げに大げさな溜め息をついた。
「私は昔を懐かしむために、死んだ弟と義妹の話をしたわけじゃないわ。感傷に浸りたいだけなら、こんな後悔は息子なんかに話さないの」
見下した物言いに、かちんとくる。けれど、有無を言わせぬ強い口調に、リュイセンは言い返すことができなかった。――その裏側に、悲しみの色を見てしまったから。
唇を噛むリュイセンをユイランはじっと見つめ、ふっと表情を緩めた。
「さっき、あなたは自分で言ったでしょう? 過去を知ることで現在を読み解き、未来に繋げる、と」
「あ、ああ……」
「つまりね、過去のヘイシャオの行動を考えれば、『彼が、自分の意思で生き返ることはない』と断言できるの。すなわち――」
切れ長の目が、研ぎ澄まされたような鋭い輝きを放った。美麗な声が静かな怒りをはらみ、部屋中に響き渡る。
「ヘイシャオの最期の思いを無視して、彼を生き返らせた『第三者』がいる」
窓も開けていないのに、冷たい風がすっと通り抜けたようだった。
生成りの壁紙も、木目の床も、色あせたような薄ら寒さに染まっていく。手紡ぎ糸のカーテンだけが、その風が錯覚であることを証明するかのように、ぴくりとも動かずにいた。
「なんの目的で彼を生き返らせたのかは分からない。けれど必ず、なんらかの意図が――ヘイシャオにやらせようとしている『何か』があるはずよ」
そう言ってユイランは、リュイセンを見やった。
「分かったかしら? 今、〈蝿〉を名乗っている男は、第三者が自分の目的を果たすために作った、ただの駒よ。だから、ヘイシャオとは『別人』なの」
「……!」
リュイセンは拳を握りしめた。
あの憎々しい男は、ただの駒でしかない。けれど、もっと、とてつもない陰謀の予兆である――。
にわかには、信じがたかった。
だが、母の説明は筋が通っていた……。
「あ、あの、ユイラン様、お聞きしてもよろしいでしょうか」
メイシアが、遠慮がちな細い声を上げた。
「私とルイフォンは、貧民街で〈蝿〉に会いました。そのとき、逃げる隙を作るために、私は彼を挑発しました。『過去に、イーレオ様に負けたのでしょう』と」
そのときのことを思い出したのか、メイシアは顔を強張らせる。
「〈蝿〉は私の想像以上に、我を忘れて怒り狂いました。彼は、イーレオ様に恨みがあると考えて間違いないと思います。しかしユイラン様のお話だと、ヘイシャオさんはイーレオ様を憎んでいないはずです。――ならば、今の〈蝿〉は、その第三者にイーレオ様への憎しみまでも植え付けられてしまったのでしょうか」
「それは……難しい質問だわ」
ユイランは、彼女らしくもなく口ごもる。
「ヘイシャオは〈七つの大罪〉のやりようには反感を抱いていたけれど、技術そのものは称賛していたの。だって、ミンウェイの命が掛かっていたもの。――けど、イーレオ様は〈七つの大罪〉に関することは全面的に否定したわ。皆をまとめるためにも、それは必要なことだったから。だから、ヘイシャオとイーレオ様は対立していたと言えなくもないの」
「そう……ですか」
力なくメイシアが言う。
「イーレオ様にとって、ミンウェイは娘よ。可愛くないはずがない。ヘイシャオの意見も認めたかったはず。でも立場上、それはできない。……おそらくね、現在の〈蝿〉に対して、イーレオ様の態度が煮え切らないのは、過去のヘイシャオへの罪悪感があるからよ。〈蝿〉が狙っているのは一族ではなく、自分個人だと考えてらっしゃるから、万一のときはそれでもいいと思ってらっしゃるんだわ」
「そんな馬鹿な!」
リュイセンは反射的に叫んでから、そういえば、とイーレオの態度に納得する。
そんな息子を見ながら、ユイランは優しく微笑んだ。
「ええ、そんな馬鹿なことがあってたまるものですか。――あれは『別人』なの。ヘイシャオもミンウェイも、もういないの。だから、これ以上、悲しいことが起こらない『未来』を作らないとね」
ユイランは、切れ長の目に強気で涼やかな色を載せた。口元を引き締め、結い上げた銀髪を揺らして立ち上がる。
「ヘイシャオのことは、ここまで。それじゃあ、私がキリファさんから預かった手紙をメイシアさんに渡すわね」
これこそが、未来を切り拓く鍵となるに違いない――。
そのとき。
がたんと、椅子の音が鳴り響いた。
「待ってください!」
戸棚に向かうユイランを、メイシアの凛とした声が引き止めた。