残酷な描写あり
8.星霜のことづけ-1
キーボード上で忙しなく動かしていた手を止め、ルイフォンはOAグラスを外して深い溜め息をつく。癖のある前髪をぐしゃぐしゃと掻き上げ、考え込むようにしばらく頭を抑えると、いつもの猫背をさらに丸くしながらその手を力なく下ろした。
少し根を詰めすぎた。頭痛がする。
彼は、回転椅子をぎぃと鳴らして立ち上がった。
ふらつきながら仕事部屋から引き上げ、自室のベッドに体を投げ出す。乱暴なほどの勢いにスプリングが抗議して、彼を強く跳ね返した。
――ユイランから過去を受け取り、為すべき未来が見えてきた。
ルイフォンは、昼間の出来ごとを思い出す。
この先には、まだまだ遠い道のりがある。けれど、確実に前進した。
「糞親父め……」
悪態をつきながらも、口調は決して険しくない。
ルイフォンとリュイセンとメイシアが、ユイランに会う。――すべては、父イーレオの策略だったのだろう。
〈蝿〉に関しては、姉であるユイランから話を聞くのが一番よい。だが、複雑な間柄のルイフォンは勿論、実の息子のリュイセンですら、彼女とは仲が良いとは言い難い。
そんな彼らと、ユイランとの確執を解消するために、イーレオは一計を案じたのだ。
ルイフォンの口元が、にやりとだらしなく緩む。企みの最後を飾った、メイシアのドレス姿を思い出したのだ。
――綺麗だった。
それ以外の言葉は、要らない。
彼が呼び出され、それを出迎えるのが花嫁姿のメイシアである、という筋書きだけは、不確定要素が多かったはずだ。
だが、「大切な手紙は直接、ルイフォンに手渡してほしい」とメイシアが言い出すのは当然の流れ。そして、あのクーティエがいれば、採寸のついでにメイシアにドレスを着せるのも必然だったろう。
完璧に掌の上で踊らされた。
けれど、気分は悪くない。
レイウェンの家から戻ってすぐに、メイシアとリュイセンは、ユイランから聞いた話を教えてくれた。ふたりとも疲れていたであろうに、ルイフォンが早く知りたいだろうと、気遣ってくれたのだ。
そして、今――。
目の前のテーブルの上には、書類の束が載っている。それが、彼の母キリファからの『手紙』だった……。
「は……?」
ユイランから『手紙』を手渡され、ルイフォンは絶句した。
味気ない茶封筒であることは、この際、置いておく。よくよく考えれば、あの母が洒落た封筒など持っていたはずもない。〈七つの大罪〉に身請けされるまで、彼女は文盲だった。手紙をしたためたことなんて、ほとんどなかったはずだ。
だから、問題は封筒の大きさだ。
報告書がちょうど入るサイズである。厚みのほうも、ルイフォンがかなり厄介な案件をまとめたときのものに匹敵する。掌に掛かるずしりとした重みからしても、その封筒はどう考えても『手紙』などではなく『書類』だった。
つまりキリファは、私信というより、何かの事件の報告を息子に託そうとしたのだろう。
電子データで残せばもっとコンパクトであったろうが、記憶媒体に書き込まれた情報は、保存状態によっては、たった数年で自然に消えてしまう。それを危惧して、印刷して紙媒体の形にしておくことは別におかしなことではない。――ルイフォンは、そう解釈した。
手紙らしからぬ『手紙』に、一同が唖然とする中、彼は封を切った。
これをユイランに預けたあと、キリファは亡くなった。正体の知れない者たちに殺されたのだ。その事件の真相が今、解明されるに違いない。
そう考えて、彼の手が止まった。
――え? 俺……?
疑問が、不可思議なざわつきとなって、ルイフォンの心を占めていく。
――おかしいだろ……?
彼は、誰かが情報を与えてくれるのを、おとなしく待っているような人間ではない。
情報は、自分で取りに行く。
それができる能力があると自負しており、それをする人間であるという矜持がある。
それなら何故、四年もの間、母の死について、何も調べようとしなかったのだろう……?
ルイフォンが書類を取り出したとき、彼の意識は半ば以上、自分の内側に向けられていた。外側に割くべき注意力が欠落しており、心理的に無防備だったと言っていい。
だから彼は、不意を衝かれた。
その文字を見た瞬間、思考が止まり、彼の頭の中は真っ白になった。
「……え?」
それは、確かに『手紙』だった。
「――かぁ……さん? ……なん、で……!?」
間抜けな――素っ頓狂な声が漏れる。
書類の束は、印刷物ではなかった。一文字ずつ心を込めて手書きされた『手紙』だった。――ただし、みみずが這ったような、非常に個性あふれる筆跡で。
「これは……暗号か……?」
覗き込んできたリュイセンが、そう言ったのも無理はない。大きくなるまで文字を知らなかったキリファの字は、とても読めたものではないのだ。
いくら練習しても悪筆が改善しなかった彼女は、普段からごく短い文章を書くのにもキーボードを使っていた。そのため、かなり近しい人間でも、彼女の直筆はほとんど目にしたことがない。ルイフォンですら、かろうじて見たことがあるといった程度だ。
つまり彼女の文字は、どんな優秀なクラッカーでも簡単には解読できない強力な暗号――。
「母さんだ……」
衝撃は緩やかに収まり、懐かしさが込み上げてきた。胸が苦しくなり、思わず涙ぐむ。――が、メイシアの前で醜態を晒せるかと、ぐっとこらえる。
『こんなものを読めるのは、あんた以外いないでしょ? 完璧な暗号だわ。我ながら天才ね!』
母の高笑いが聞こえた。やたらと偉そうな、彼を小馬鹿にした口調。幾つになっても、子供のような無邪気で残忍な、いたずら心をなくさない、実力だけは一級の魔術師。
彼女にとって、文字を書くことは苦痛だ。キーボードで打てば一瞬なのに、一文字一文字を綴ることが如何に大変か。
ルイフォンは、母に畏敬の念を……。
「ちょっと、待て! これ、俺が解読するのか!?」
さぁっと音を立てて、血の気が引いていく。
紙の厚みから、その莫大な労力を考えて呆然とする。これではルイフォンにとってさえも、計算量的安全性を持つ暗号だ。たとえ、画像として処理して〈ベロ〉に解析させるとしても、母の手書き文字のサンプルが少なすぎる。正答率は高くないだろう。
「無謀だろ! 非効率だ。現実的でない……!」
『あたしがこれだけ苦労して文字を書いたんだから、あんたも苦労しなさい』
彼とそっくりな猫のような目を細め、彼女はにやりと口の端を上げる。そして、息子の前髪をくしゃりと撫でた。――そんな幻影が見えた。
決して、冗談や嫌がらせなどではあり得ない。常人なら阿呆だろ、と一笑に付すような手間を掛けて、彼女はこれを書き上げたのだから。
――まったく。母さんらしい。
あの常識はずれの破天荒。母親らしいことなんて、ひとつもできなかった彼女。
けれど、彼が敬愛していた孤高の〈猫〉……。
「で、それはいったい、何が書いてあるんだ?」
リュイセンがもっともな質問をしてきて、ルイフォンは現実に引き戻された。愛すべき悪筆に、げんなりしながらも、彼は書類の一枚目に視線を落とす。
『ルイフォンへ』という書き出しは、そこそこすんなりと読めた。だが、その先の文章の解析には、しばらくの時間を要した。
そして、この書類の目的を理解した刹那――。
彼は瞠目した。
「なっ……!」
全神経を研ぎ澄まし、書類の文字を食い入るように見つめる。
二枚目、三枚目とめくり、一枚目の内容が読み間違いではないことを確認していく。
「ルイフォン?」
メイシアの心配する声にも、彼は満足に答えを返すことができなかった。前後不覚に陥りそうな驚愕の中で、手の中の書類を取り落とさなかったのは、ただの幸運だ。
「嘘だろ……?」
「おい、何が書いてあるんだ!?」
焦れたリュイセンが、責め立てるように尋ねる。
「〈スー〉だと……」
ルイフォンが呟くように漏らした言葉に、聞き覚えのあったメイシアが顔色を変えた。それに気づいたリュイセンが「何か知っているのか?」と問いかける。
彼女は小さく頷く。尋常ではない様子のルイフォンを見つめ、気遣うように黒曜石の瞳を揺らめかせると、遠慮がちに口を開いた。
「ルイフォンのお母様は、鷹刀のために三台のコンピュータを作ったそうです。名前は、『地獄の番犬』から取って〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉。けれど、〈スー〉はまだ開発中だったはずです」
抑えられた声は、ルイフォンを差し置いての発言は気が引ける、とでも考えているからだろう。けれど凛とした響きは、動揺している彼を守るかのようだった。
随分と前に言ったことなのに、彼女はきちんと覚えていた。
メイシアにしてみれば、リュイセンの質問に答えただけなのかもしれない。だが、平静さを失っている彼に代わり、彼女は落ち着き払った態度を見せる。――そっと腕を広げて、彼を支えてくれる。
ルイフォンは、自分の額をぴしゃりと叩くようにしながら前髪を掻き上げた。そして、その手をメイシアの頭に伸ばし、艷やかな黒髪をくしゃりと撫でる。
彼は口の端を上げ、にっと笑った。
「メイシア、その件だけど、〈ベロ〉を調べていて進展があったんだ。――実はな、俺たちの知っていた〈ベロ〉は張りぼてだった」
いつもの調子を取り戻したルイフォンは、最新の調査結果を口にした。
きょとんとする一同に、唐突すぎたか、と彼は反省する。「なんて言えば分かりやすいかな」と頭を掻きながら言葉を探す。
「皆も知っての通り、〈ベロ〉は鷹刀の屋敷を管理しているコンピュータだ。で、母さん亡きあと、俺が最高権限を持っている――はずだったんだが、実は俺より上の権限を持つ奴がいた」
「執務室でいきなり話しかけてきた、あの人工知能か?」
リュイセンの問いに、ルイフォンは首肯した。
「あいつは、自分は〈ベロ〉だと名乗った。だから俺は、〈ベロ〉の中に人工知能のプログラムが入っているのだと思って探していた。でも、違ったんだ」
あの人工知能はあまりにも高度すぎて、現存のコンピュータ上で動かすのは不可能だ。
けれど、〈七つの大罪〉の技術なら?
既存の概念とはまったく異なる、画期的なコンピュータが存在するとしたら、あの人工知能を搭載できるのではないか。
そう考えたら、自ずと答えは導かれた。
「〈ベロ〉と呼ばれるコンピュータは、二台あったんだ。ひとつは、皆が知っている〈ベロ〉。もうひとつは〈七つの大罪〉の技術で作った機体に、母さんの作った人工知能を載せた、真の〈ベロ〉。おそらくは、とんでもない性能を持った真の〈ベロ〉の隠れ蓑として、皆が知る普通のコンピュータの〈ベロ〉は作られたんだ。だから『張りぼて』ってわけだ」
「なんだ、それ? 二台あるなら、『ある』って、見て分かるだろ?」
リュイセンが、わけが分からん、という顔をする。基礎知識がないのだから当然だろう。
「あのさ、お前、〈ベロ〉が何処にあると思っている?」
「お前の仕事部屋だろ?」
「――って、思っているよな」
「違うのか?」
むっとしたように瞳を尖らせるリュイセンに、悪いなと思いつつ、こちらの期待通りの答えを返してくれる兄貴分にルイフォンは感謝する。
「違う。〈ベロ〉は小さな家一軒分くらいの床面積を持っている。専用の冷却装置が必要で、騒音が凄い。そんなもの、俺の仕事部屋に置けるわけがない。――〈ベロ〉の本体は地下だ。仕事部屋から遠隔操作している」
排熱の一部をミンウェイの温室に利用しているものの、ひたすら無駄に放出される熱量。近くで会話ができないどころか、ずっとそばにいたら気分が悪くなるレベルの騒音と振動。とてもじゃないが、同居したいとは思わない。
「そうなんだ……?」
狐につままれたような顔は、何もリュイセンだけではない。成り行きで話を聞いているような、レイウェンの一家も同様である。
「真の〈ベロ〉が何処でどんな形で存在しているのか、俺は知らない。でも奴は、張りぼての〈ベロ〉の目や耳で情報を収集して、常に鷹刀を見守っているんだ」
「おい、お前も見たことがないなら、結局のところ、それは推測だろ?」
半信半疑のリュイセンが疑問を口にする。それもまた、ルイフォン望んだ通りの展開だった。
「いや――」
そう言いながら、ルイフォンは手の中にある書類を示した。
「確かに、ほんの数分前までは仮説だった。けど、この『手紙』が証明してくれた」
「え……?」
書類をめくり、文字と数字と記号の羅列を皆に見せる。母の書いた文字は読み取れなくても、普通の文章ではないことは分かるはずだ。
「これは、母さんの作ったコンピュータ〈ケルベロス〉の解説と、『人工知能〈スー〉のプログラム』だそうだ。ここに書いてあることを、一文字も間違わずに〈ベロ〉に打ち込めば、〈ベロ〉が〈スー〉を起動させるらしい」
皆に説明しても理解してもらえないだけだから言わないが、母が遺したのはルイフォンが見たこともないコンピュータ言語で書かれた命令列だった。
要するに、これを読んで〈七つの大罪〉の技術を学べということだろう。これだけの資料で随分と無茶を言ってくれるが、如何にも母のやりそうなことだ。
途方もない難題――けれど、未知の技術に心が躍る。純粋に興味深い。彼がそう思うことを、母は見越していた。
「で? 〈スー〉って奴が出てきたら、何が起こるんだ?」
この『手紙』に、知的好奇心がくすぐられるわけではないリュイセンが、自分に分かる結論を求めて尋ねる。
「さぁ? 〈ベロ〉はあの性格だから何も語らないし、〈ケル〉は一緒に住んでいたけど無口で喋ったことがない。けど、〈スー〉なら教えてくれる、ってことじゃないのか?」
母が無意味なことをするとは思えない。とんでもないものを三台も作ったからには、目的があるはずだ。それもきっと、〈スー〉が明らかにしてくれるのだろう。
ルイフォンは、猫のような目を不敵に光らせた。
これは母からの挑戦状。彼ならできると信じて贈った、最初で最後の『手紙』。
深刻な表情で、けれど黙って見守るように聞いていたメイシアを、ルイフォンは見やる。そして『俺を信じろ』と言うように、彼女と――それから母に、青空の笑顔を見せた。
レイウェンの家を辞去する際、ユイランがルイフォンに尋ねた。
「セレイエちゃんは、どうしているのかしら?」
「セレイエ?」
久しく聞いていなかった異父姉――彼女はルイフォンの異母兄エルファンの娘でもあるので、同時に『姪』でもある――の名に、ルイフォンは首を傾げた。
「キリファさんが亡くなるよりも前に、独立して家を出たと聞いているけど、今は何処にいるの?」
「ああ――」
ルイフォンは、ほんの少しだけ、ばつの悪い顔をする。目を泳がせながら、ぼそりと答えた。
「俺も詳しくは知らないけど、母さんがちらっと言っていたところによると、どこかの貴族と駆け落ちしたらしい。消息不明だ」
「はぁ!?」
声を張り上げたのは、ユイランではなくリュイセンだった。
「お前ら、姉弟して、同じことをしているんじゃないか!」
「お前にそう言われると思ったから、言いたくなかったんだ。それに俺は駆け落ちしてないだろ!」
そばでおろおろしながら顔を赤らめているメイシアを抱き寄せ、ルイフォンは言い返す。
そんな彼らのやり取りにユイランは目を細め、けれど急に口元を引き締めた。
「ルイフォン、セレイエちゃんを探しなさい。彼女なら何かを知っているかもしれないわ」
毅然としたユイランの口調に、何故かシャンリーが顔色を変えた。彼女が顔を歪ませながらうつむくと、夫であるレイウェンがそっと肩を抱く。その彼もまた、妻と同じ顔をしていた――。
少し根を詰めすぎた。頭痛がする。
彼は、回転椅子をぎぃと鳴らして立ち上がった。
ふらつきながら仕事部屋から引き上げ、自室のベッドに体を投げ出す。乱暴なほどの勢いにスプリングが抗議して、彼を強く跳ね返した。
――ユイランから過去を受け取り、為すべき未来が見えてきた。
ルイフォンは、昼間の出来ごとを思い出す。
この先には、まだまだ遠い道のりがある。けれど、確実に前進した。
「糞親父め……」
悪態をつきながらも、口調は決して険しくない。
ルイフォンとリュイセンとメイシアが、ユイランに会う。――すべては、父イーレオの策略だったのだろう。
〈蝿〉に関しては、姉であるユイランから話を聞くのが一番よい。だが、複雑な間柄のルイフォンは勿論、実の息子のリュイセンですら、彼女とは仲が良いとは言い難い。
そんな彼らと、ユイランとの確執を解消するために、イーレオは一計を案じたのだ。
ルイフォンの口元が、にやりとだらしなく緩む。企みの最後を飾った、メイシアのドレス姿を思い出したのだ。
――綺麗だった。
それ以外の言葉は、要らない。
彼が呼び出され、それを出迎えるのが花嫁姿のメイシアである、という筋書きだけは、不確定要素が多かったはずだ。
だが、「大切な手紙は直接、ルイフォンに手渡してほしい」とメイシアが言い出すのは当然の流れ。そして、あのクーティエがいれば、採寸のついでにメイシアにドレスを着せるのも必然だったろう。
完璧に掌の上で踊らされた。
けれど、気分は悪くない。
レイウェンの家から戻ってすぐに、メイシアとリュイセンは、ユイランから聞いた話を教えてくれた。ふたりとも疲れていたであろうに、ルイフォンが早く知りたいだろうと、気遣ってくれたのだ。
そして、今――。
目の前のテーブルの上には、書類の束が載っている。それが、彼の母キリファからの『手紙』だった……。
「は……?」
ユイランから『手紙』を手渡され、ルイフォンは絶句した。
味気ない茶封筒であることは、この際、置いておく。よくよく考えれば、あの母が洒落た封筒など持っていたはずもない。〈七つの大罪〉に身請けされるまで、彼女は文盲だった。手紙をしたためたことなんて、ほとんどなかったはずだ。
だから、問題は封筒の大きさだ。
報告書がちょうど入るサイズである。厚みのほうも、ルイフォンがかなり厄介な案件をまとめたときのものに匹敵する。掌に掛かるずしりとした重みからしても、その封筒はどう考えても『手紙』などではなく『書類』だった。
つまりキリファは、私信というより、何かの事件の報告を息子に託そうとしたのだろう。
電子データで残せばもっとコンパクトであったろうが、記憶媒体に書き込まれた情報は、保存状態によっては、たった数年で自然に消えてしまう。それを危惧して、印刷して紙媒体の形にしておくことは別におかしなことではない。――ルイフォンは、そう解釈した。
手紙らしからぬ『手紙』に、一同が唖然とする中、彼は封を切った。
これをユイランに預けたあと、キリファは亡くなった。正体の知れない者たちに殺されたのだ。その事件の真相が今、解明されるに違いない。
そう考えて、彼の手が止まった。
――え? 俺……?
疑問が、不可思議なざわつきとなって、ルイフォンの心を占めていく。
――おかしいだろ……?
彼は、誰かが情報を与えてくれるのを、おとなしく待っているような人間ではない。
情報は、自分で取りに行く。
それができる能力があると自負しており、それをする人間であるという矜持がある。
それなら何故、四年もの間、母の死について、何も調べようとしなかったのだろう……?
ルイフォンが書類を取り出したとき、彼の意識は半ば以上、自分の内側に向けられていた。外側に割くべき注意力が欠落しており、心理的に無防備だったと言っていい。
だから彼は、不意を衝かれた。
その文字を見た瞬間、思考が止まり、彼の頭の中は真っ白になった。
「……え?」
それは、確かに『手紙』だった。
「――かぁ……さん? ……なん、で……!?」
間抜けな――素っ頓狂な声が漏れる。
書類の束は、印刷物ではなかった。一文字ずつ心を込めて手書きされた『手紙』だった。――ただし、みみずが這ったような、非常に個性あふれる筆跡で。
「これは……暗号か……?」
覗き込んできたリュイセンが、そう言ったのも無理はない。大きくなるまで文字を知らなかったキリファの字は、とても読めたものではないのだ。
いくら練習しても悪筆が改善しなかった彼女は、普段からごく短い文章を書くのにもキーボードを使っていた。そのため、かなり近しい人間でも、彼女の直筆はほとんど目にしたことがない。ルイフォンですら、かろうじて見たことがあるといった程度だ。
つまり彼女の文字は、どんな優秀なクラッカーでも簡単には解読できない強力な暗号――。
「母さんだ……」
衝撃は緩やかに収まり、懐かしさが込み上げてきた。胸が苦しくなり、思わず涙ぐむ。――が、メイシアの前で醜態を晒せるかと、ぐっとこらえる。
『こんなものを読めるのは、あんた以外いないでしょ? 完璧な暗号だわ。我ながら天才ね!』
母の高笑いが聞こえた。やたらと偉そうな、彼を小馬鹿にした口調。幾つになっても、子供のような無邪気で残忍な、いたずら心をなくさない、実力だけは一級の魔術師。
彼女にとって、文字を書くことは苦痛だ。キーボードで打てば一瞬なのに、一文字一文字を綴ることが如何に大変か。
ルイフォンは、母に畏敬の念を……。
「ちょっと、待て! これ、俺が解読するのか!?」
さぁっと音を立てて、血の気が引いていく。
紙の厚みから、その莫大な労力を考えて呆然とする。これではルイフォンにとってさえも、計算量的安全性を持つ暗号だ。たとえ、画像として処理して〈ベロ〉に解析させるとしても、母の手書き文字のサンプルが少なすぎる。正答率は高くないだろう。
「無謀だろ! 非効率だ。現実的でない……!」
『あたしがこれだけ苦労して文字を書いたんだから、あんたも苦労しなさい』
彼とそっくりな猫のような目を細め、彼女はにやりと口の端を上げる。そして、息子の前髪をくしゃりと撫でた。――そんな幻影が見えた。
決して、冗談や嫌がらせなどではあり得ない。常人なら阿呆だろ、と一笑に付すような手間を掛けて、彼女はこれを書き上げたのだから。
――まったく。母さんらしい。
あの常識はずれの破天荒。母親らしいことなんて、ひとつもできなかった彼女。
けれど、彼が敬愛していた孤高の〈猫〉……。
「で、それはいったい、何が書いてあるんだ?」
リュイセンがもっともな質問をしてきて、ルイフォンは現実に引き戻された。愛すべき悪筆に、げんなりしながらも、彼は書類の一枚目に視線を落とす。
『ルイフォンへ』という書き出しは、そこそこすんなりと読めた。だが、その先の文章の解析には、しばらくの時間を要した。
そして、この書類の目的を理解した刹那――。
彼は瞠目した。
「なっ……!」
全神経を研ぎ澄まし、書類の文字を食い入るように見つめる。
二枚目、三枚目とめくり、一枚目の内容が読み間違いではないことを確認していく。
「ルイフォン?」
メイシアの心配する声にも、彼は満足に答えを返すことができなかった。前後不覚に陥りそうな驚愕の中で、手の中の書類を取り落とさなかったのは、ただの幸運だ。
「嘘だろ……?」
「おい、何が書いてあるんだ!?」
焦れたリュイセンが、責め立てるように尋ねる。
「〈スー〉だと……」
ルイフォンが呟くように漏らした言葉に、聞き覚えのあったメイシアが顔色を変えた。それに気づいたリュイセンが「何か知っているのか?」と問いかける。
彼女は小さく頷く。尋常ではない様子のルイフォンを見つめ、気遣うように黒曜石の瞳を揺らめかせると、遠慮がちに口を開いた。
「ルイフォンのお母様は、鷹刀のために三台のコンピュータを作ったそうです。名前は、『地獄の番犬』から取って〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉。けれど、〈スー〉はまだ開発中だったはずです」
抑えられた声は、ルイフォンを差し置いての発言は気が引ける、とでも考えているからだろう。けれど凛とした響きは、動揺している彼を守るかのようだった。
随分と前に言ったことなのに、彼女はきちんと覚えていた。
メイシアにしてみれば、リュイセンの質問に答えただけなのかもしれない。だが、平静さを失っている彼に代わり、彼女は落ち着き払った態度を見せる。――そっと腕を広げて、彼を支えてくれる。
ルイフォンは、自分の額をぴしゃりと叩くようにしながら前髪を掻き上げた。そして、その手をメイシアの頭に伸ばし、艷やかな黒髪をくしゃりと撫でる。
彼は口の端を上げ、にっと笑った。
「メイシア、その件だけど、〈ベロ〉を調べていて進展があったんだ。――実はな、俺たちの知っていた〈ベロ〉は張りぼてだった」
いつもの調子を取り戻したルイフォンは、最新の調査結果を口にした。
きょとんとする一同に、唐突すぎたか、と彼は反省する。「なんて言えば分かりやすいかな」と頭を掻きながら言葉を探す。
「皆も知っての通り、〈ベロ〉は鷹刀の屋敷を管理しているコンピュータだ。で、母さん亡きあと、俺が最高権限を持っている――はずだったんだが、実は俺より上の権限を持つ奴がいた」
「執務室でいきなり話しかけてきた、あの人工知能か?」
リュイセンの問いに、ルイフォンは首肯した。
「あいつは、自分は〈ベロ〉だと名乗った。だから俺は、〈ベロ〉の中に人工知能のプログラムが入っているのだと思って探していた。でも、違ったんだ」
あの人工知能はあまりにも高度すぎて、現存のコンピュータ上で動かすのは不可能だ。
けれど、〈七つの大罪〉の技術なら?
既存の概念とはまったく異なる、画期的なコンピュータが存在するとしたら、あの人工知能を搭載できるのではないか。
そう考えたら、自ずと答えは導かれた。
「〈ベロ〉と呼ばれるコンピュータは、二台あったんだ。ひとつは、皆が知っている〈ベロ〉。もうひとつは〈七つの大罪〉の技術で作った機体に、母さんの作った人工知能を載せた、真の〈ベロ〉。おそらくは、とんでもない性能を持った真の〈ベロ〉の隠れ蓑として、皆が知る普通のコンピュータの〈ベロ〉は作られたんだ。だから『張りぼて』ってわけだ」
「なんだ、それ? 二台あるなら、『ある』って、見て分かるだろ?」
リュイセンが、わけが分からん、という顔をする。基礎知識がないのだから当然だろう。
「あのさ、お前、〈ベロ〉が何処にあると思っている?」
「お前の仕事部屋だろ?」
「――って、思っているよな」
「違うのか?」
むっとしたように瞳を尖らせるリュイセンに、悪いなと思いつつ、こちらの期待通りの答えを返してくれる兄貴分にルイフォンは感謝する。
「違う。〈ベロ〉は小さな家一軒分くらいの床面積を持っている。専用の冷却装置が必要で、騒音が凄い。そんなもの、俺の仕事部屋に置けるわけがない。――〈ベロ〉の本体は地下だ。仕事部屋から遠隔操作している」
排熱の一部をミンウェイの温室に利用しているものの、ひたすら無駄に放出される熱量。近くで会話ができないどころか、ずっとそばにいたら気分が悪くなるレベルの騒音と振動。とてもじゃないが、同居したいとは思わない。
「そうなんだ……?」
狐につままれたような顔は、何もリュイセンだけではない。成り行きで話を聞いているような、レイウェンの一家も同様である。
「真の〈ベロ〉が何処でどんな形で存在しているのか、俺は知らない。でも奴は、張りぼての〈ベロ〉の目や耳で情報を収集して、常に鷹刀を見守っているんだ」
「おい、お前も見たことがないなら、結局のところ、それは推測だろ?」
半信半疑のリュイセンが疑問を口にする。それもまた、ルイフォン望んだ通りの展開だった。
「いや――」
そう言いながら、ルイフォンは手の中にある書類を示した。
「確かに、ほんの数分前までは仮説だった。けど、この『手紙』が証明してくれた」
「え……?」
書類をめくり、文字と数字と記号の羅列を皆に見せる。母の書いた文字は読み取れなくても、普通の文章ではないことは分かるはずだ。
「これは、母さんの作ったコンピュータ〈ケルベロス〉の解説と、『人工知能〈スー〉のプログラム』だそうだ。ここに書いてあることを、一文字も間違わずに〈ベロ〉に打ち込めば、〈ベロ〉が〈スー〉を起動させるらしい」
皆に説明しても理解してもらえないだけだから言わないが、母が遺したのはルイフォンが見たこともないコンピュータ言語で書かれた命令列だった。
要するに、これを読んで〈七つの大罪〉の技術を学べということだろう。これだけの資料で随分と無茶を言ってくれるが、如何にも母のやりそうなことだ。
途方もない難題――けれど、未知の技術に心が躍る。純粋に興味深い。彼がそう思うことを、母は見越していた。
「で? 〈スー〉って奴が出てきたら、何が起こるんだ?」
この『手紙』に、知的好奇心がくすぐられるわけではないリュイセンが、自分に分かる結論を求めて尋ねる。
「さぁ? 〈ベロ〉はあの性格だから何も語らないし、〈ケル〉は一緒に住んでいたけど無口で喋ったことがない。けど、〈スー〉なら教えてくれる、ってことじゃないのか?」
母が無意味なことをするとは思えない。とんでもないものを三台も作ったからには、目的があるはずだ。それもきっと、〈スー〉が明らかにしてくれるのだろう。
ルイフォンは、猫のような目を不敵に光らせた。
これは母からの挑戦状。彼ならできると信じて贈った、最初で最後の『手紙』。
深刻な表情で、けれど黙って見守るように聞いていたメイシアを、ルイフォンは見やる。そして『俺を信じろ』と言うように、彼女と――それから母に、青空の笑顔を見せた。
レイウェンの家を辞去する際、ユイランがルイフォンに尋ねた。
「セレイエちゃんは、どうしているのかしら?」
「セレイエ?」
久しく聞いていなかった異父姉――彼女はルイフォンの異母兄エルファンの娘でもあるので、同時に『姪』でもある――の名に、ルイフォンは首を傾げた。
「キリファさんが亡くなるよりも前に、独立して家を出たと聞いているけど、今は何処にいるの?」
「ああ――」
ルイフォンは、ほんの少しだけ、ばつの悪い顔をする。目を泳がせながら、ぼそりと答えた。
「俺も詳しくは知らないけど、母さんがちらっと言っていたところによると、どこかの貴族と駆け落ちしたらしい。消息不明だ」
「はぁ!?」
声を張り上げたのは、ユイランではなくリュイセンだった。
「お前ら、姉弟して、同じことをしているんじゃないか!」
「お前にそう言われると思ったから、言いたくなかったんだ。それに俺は駆け落ちしてないだろ!」
そばでおろおろしながら顔を赤らめているメイシアを抱き寄せ、ルイフォンは言い返す。
そんな彼らのやり取りにユイランは目を細め、けれど急に口元を引き締めた。
「ルイフォン、セレイエちゃんを探しなさい。彼女なら何かを知っているかもしれないわ」
毅然としたユイランの口調に、何故かシャンリーが顔色を変えた。彼女が顔を歪ませながらうつむくと、夫であるレイウェンがそっと肩を抱く。その彼もまた、妻と同じ顔をしていた――。